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第1話 合理的な離縁
夫がそう言い出したのは、夕食のあとだった。
いつもと同じように食器を下げ、茶を淹れ直そうとしていたとき、背後から声をかけられる。振り返ると、ロイドは外套を脱がないまま、まっすぐこちらを見ていた。
「話がある」
その声音には、迷いがなかった。
私はポットを卓上へ戻し、向き直る。
「ええ」
ロイドは一拍だけ間を置き、それから淡々と告げた。
「離縁したい」
予想外ではなかった。
ただ、やはり言葉として聞くと、胸の奥に冷たいものが落ちる。痛みというより、ようやく形になった、という感覚に近い。
「理由を、伺っても?」
責める響きにならないよう、声を整える。
ロイドは少しだけ視線を外し、それから戻した。
「仕事に集中したい。余計なことに気を取られたくない」
「……余計なこと、ですか」
「お前との生活を軽んじているわけではない。ただ、俺の立場は分かっているだろう。王妃付き護衛騎士だ。些細な気の緩みが、そのまま失態につながる」
言い方は抑えられているが、結論ははっきりしている。
「結婚してから十分な時間は経った。義理は果たしたと思っている」
義理。
その言葉に、少しだけ息が詰まった。
けれど顔には出さない。
「……そうですか」
「お前も、不満がなかったわけではないだろう」
ロイドは淡々と続ける。
「互いに無理をして続ける必要はない。円満に終わらせたほうがいい」
ずいぶんと整った言い分だと思った。
責める余地を残さず、角も立てない。理屈としては正しい。だからこそ、余計に隙がない。
私は一度だけ、視線を落とした。
この数年のことを、ほんのわずかに思い返す。
王城での彼の立ち振る舞い。
評価されていく様子。
誇らしげに語る横顔。
それを支えることが、私にとっての役割だと、疑いもしなかった。
けれど、今こうして並べられた言葉の中に、私はどこにもいない。
「分かりました」
顔を上げると、ロイドがわずかに目を細めた。
「理解が早いな」
「お互いのため、なのでしょう」
自分で口にしてみると、不思議と違和感はなかった。
情がなかったわけではない。
ただ、それだけで続けられるほど、この関係は温かくなかった。むしろ、どこかでずっと冷えていたものに、ようやく名前がついただけのような気がする。
「では、離縁いたしましょう」
ロイドは小さくうなずいた。
「話が早くて助かる」
その言葉に、ほんのわずかだけ、何かが抜け落ちる。
助かる。
そうか、と心の中で繰り返す。
私はそのまま続けた。
「手続きは私が整えます。王城への影響も最小限にしますから、ご安心ください」
「……そこまで考える必要はない」
「いえ、必要です」
自然にそう言っていた。
王妃殿下の周囲は、思っている以上に繊細だ。侍女たちとの関係、ちょっとした贈り物の行き違い、言葉の選び方一つで空気は簡単に変わる。
ロイドはそれを、すべて自分の采配で回していると思っている。
けれど実際には。
「お前が気にすることではない」
遮るように言われ、私は口を閉じた。
そうだった。
もう、私が気にすることではない。
「失礼しました」
それだけ答えて、話を終える。
その夜、私は客間に寝具を移した。
同じ寝室に戻る気にはなれなかったし、ロイドも何も言わなかった。もともと、夜に言葉を交わすことは少ない。こうして距離ができても、生活の形は大して変わらないのだと思い知らされる。
天井を見つめながら、ぼんやりと考える。
私は、どこで間違えたのだろう。
いや、間違えたわけではないのかもしれない。
ただ、役割を果たしていただけだ。
王妃殿下の好みを覚え、機嫌を損ねない言葉を選び、侍女たちが動きやすいように小さな配慮を重ねる。季節ごとの贈り物も、相手の立場に合わせて選んできた。
「次の茶会では、甘味は軽いものがよろしいかと。王妃様はこの時期、あまり重たいものを召し上がりません」
「そうか」
「侍女長のエルマ様には、先に一言お伝えしたほうがよろしいかと」
「分かった」
そんなやり取りを、何度繰り返しただろう。
ロイドはそれを自分の裁量で判断しているつもりだったし、私はそれで構わないと思っていた。
夫婦とは、そういうものだと。
けれど今になって思う。
あれは共有ではなかった。
ただ、私が差し出したものを、彼が受け取っていただけだった。
翌朝。
いつも通りに朝食を用意し、卓に並べる。
ロイドは席につき、何も変わらない調子で食事を始めた。その様子を見ながら、私は自然に口を開く。
「本日は王妃様の護衛ですか」
「ああ」
「でしたら、侍女長のエルマ様には、昨日届いた南方の果実を——」
言いかけて、止めた。
ロイドがこちらを見る。
「どうした」
「……いえ、何でもありません」
一瞬の間のあと、彼は軽く肩をすくめた。
「そうか」
そのまま食事は続く。
私は静かに茶を飲みながら、思った。
これでいいのだと。
もう、何をどう整えようと、意味はない。
そしてそれは、思っていたよりもずっと、楽なことだった。
ロイドが家を出ると、私はすぐに書類の準備に取りかかった。
手は迷わない。
むしろ、これまでで一番、無駄なく動いている気がした。
必要なことだけを、順に片付けていく。
その途中で、ふと気づく。
冷えていたのは、きっとずっと前からだったのだと。
ただ、それを見ないようにしていただけで。
だから今、こうして言葉にされても、驚くほど静かに受け入れられる。
それだけのことだった。
いつもと同じように食器を下げ、茶を淹れ直そうとしていたとき、背後から声をかけられる。振り返ると、ロイドは外套を脱がないまま、まっすぐこちらを見ていた。
「話がある」
その声音には、迷いがなかった。
私はポットを卓上へ戻し、向き直る。
「ええ」
ロイドは一拍だけ間を置き、それから淡々と告げた。
「離縁したい」
予想外ではなかった。
ただ、やはり言葉として聞くと、胸の奥に冷たいものが落ちる。痛みというより、ようやく形になった、という感覚に近い。
「理由を、伺っても?」
責める響きにならないよう、声を整える。
ロイドは少しだけ視線を外し、それから戻した。
「仕事に集中したい。余計なことに気を取られたくない」
「……余計なこと、ですか」
「お前との生活を軽んじているわけではない。ただ、俺の立場は分かっているだろう。王妃付き護衛騎士だ。些細な気の緩みが、そのまま失態につながる」
言い方は抑えられているが、結論ははっきりしている。
「結婚してから十分な時間は経った。義理は果たしたと思っている」
義理。
その言葉に、少しだけ息が詰まった。
けれど顔には出さない。
「……そうですか」
「お前も、不満がなかったわけではないだろう」
ロイドは淡々と続ける。
「互いに無理をして続ける必要はない。円満に終わらせたほうがいい」
ずいぶんと整った言い分だと思った。
責める余地を残さず、角も立てない。理屈としては正しい。だからこそ、余計に隙がない。
私は一度だけ、視線を落とした。
この数年のことを、ほんのわずかに思い返す。
王城での彼の立ち振る舞い。
評価されていく様子。
誇らしげに語る横顔。
それを支えることが、私にとっての役割だと、疑いもしなかった。
けれど、今こうして並べられた言葉の中に、私はどこにもいない。
「分かりました」
顔を上げると、ロイドがわずかに目を細めた。
「理解が早いな」
「お互いのため、なのでしょう」
自分で口にしてみると、不思議と違和感はなかった。
情がなかったわけではない。
ただ、それだけで続けられるほど、この関係は温かくなかった。むしろ、どこかでずっと冷えていたものに、ようやく名前がついただけのような気がする。
「では、離縁いたしましょう」
ロイドは小さくうなずいた。
「話が早くて助かる」
その言葉に、ほんのわずかだけ、何かが抜け落ちる。
助かる。
そうか、と心の中で繰り返す。
私はそのまま続けた。
「手続きは私が整えます。王城への影響も最小限にしますから、ご安心ください」
「……そこまで考える必要はない」
「いえ、必要です」
自然にそう言っていた。
王妃殿下の周囲は、思っている以上に繊細だ。侍女たちとの関係、ちょっとした贈り物の行き違い、言葉の選び方一つで空気は簡単に変わる。
ロイドはそれを、すべて自分の采配で回していると思っている。
けれど実際には。
「お前が気にすることではない」
遮るように言われ、私は口を閉じた。
そうだった。
もう、私が気にすることではない。
「失礼しました」
それだけ答えて、話を終える。
その夜、私は客間に寝具を移した。
同じ寝室に戻る気にはなれなかったし、ロイドも何も言わなかった。もともと、夜に言葉を交わすことは少ない。こうして距離ができても、生活の形は大して変わらないのだと思い知らされる。
天井を見つめながら、ぼんやりと考える。
私は、どこで間違えたのだろう。
いや、間違えたわけではないのかもしれない。
ただ、役割を果たしていただけだ。
王妃殿下の好みを覚え、機嫌を損ねない言葉を選び、侍女たちが動きやすいように小さな配慮を重ねる。季節ごとの贈り物も、相手の立場に合わせて選んできた。
「次の茶会では、甘味は軽いものがよろしいかと。王妃様はこの時期、あまり重たいものを召し上がりません」
「そうか」
「侍女長のエルマ様には、先に一言お伝えしたほうがよろしいかと」
「分かった」
そんなやり取りを、何度繰り返しただろう。
ロイドはそれを自分の裁量で判断しているつもりだったし、私はそれで構わないと思っていた。
夫婦とは、そういうものだと。
けれど今になって思う。
あれは共有ではなかった。
ただ、私が差し出したものを、彼が受け取っていただけだった。
翌朝。
いつも通りに朝食を用意し、卓に並べる。
ロイドは席につき、何も変わらない調子で食事を始めた。その様子を見ながら、私は自然に口を開く。
「本日は王妃様の護衛ですか」
「ああ」
「でしたら、侍女長のエルマ様には、昨日届いた南方の果実を——」
言いかけて、止めた。
ロイドがこちらを見る。
「どうした」
「……いえ、何でもありません」
一瞬の間のあと、彼は軽く肩をすくめた。
「そうか」
そのまま食事は続く。
私は静かに茶を飲みながら、思った。
これでいいのだと。
もう、何をどう整えようと、意味はない。
そしてそれは、思っていたよりもずっと、楽なことだった。
ロイドが家を出ると、私はすぐに書類の準備に取りかかった。
手は迷わない。
むしろ、これまでで一番、無駄なく動いている気がした。
必要なことだけを、順に片付けていく。
その途中で、ふと気づく。
冷えていたのは、きっとずっと前からだったのだと。
ただ、それを見ないようにしていただけで。
だから今、こうして言葉にされても、驚くほど静かに受け入れられる。
それだけのことだった。
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