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第1話 真実の愛
婚約者が妹をかばうたび、胸の奥に小さな棘が増えていった。
痛いほどではない。けれど、確実にそこに残って、ふとした拍子に心を引っかく。
「妹は、少し不安定なんだ。君も分かるだろう?」
彼はそう言って、当然のように私の同意を求めた。
分かる、と言えば彼は安心する。
分からない、と言えば「冷たい」と言われる。
そのどちらの結末も見えていたから、私は曖昧に頷くことを覚えた。
妹は、私より少しだけ愛想がいい。
人の懐へ入るのがうまく、声の調子ひとつで場の空気をやわらげる。
逆に私は、いつも「しっかりしている」と言われる。責任感が強い、我慢強い、頼りになる――便利な言葉でまとめられる。
頼りにされることは、嫌いじゃない。
ただ、頼られるほどに、誰も私の痛みに気づかなくなる。
「お姉さま、怒ってる……?」
いつからか、妹はそう言って私の顔色をうかがうようになった。
怒っていない、と答えると、彼女はほっとした顔で微笑む。まるで私が怒ること自体が罪であるかのように。
「ほら、言った通りだ。君は優しい」
婚約者がそれを褒める。
優しい、という言葉が、いつの間にか「黙って受け入れる」の言い換えになっていることに、彼は気づかない。
きっかけは些細だった。
婚約者が外出の支度をしながら、手袋を片方だけ探していた。
私が「いつもの棚にありますよ」と言う前に、妹がさっと動き、寝室の隅からその手袋を拾い上げたのだ。
「ここに落ちてました。……私、片づけたのに」
最後の一言が、妙に引っかかった。
まるで彼女が、この部屋のことを「自分の領域」と認識しているみたいだったから。
「助かった。君は本当に気が利くな」
婚約者は妹の頭をくしゃりと撫でた。
親しい人に向ける、無防備な仕草。
私に向けられたことのない、柔らかな笑顔。
私の胸の棘が、少しだけ深く刺さった。
その日の午後、侍女がこっそり言った。
「奥さ――……失礼。お嬢さま。最近、ご令嬢のほうが屋敷に長くおられるようで……」
言葉を濁すのは、遠慮ではなく怯えだ。
噂はすでに、屋敷の中を歩いている。私だけが、まだ追いついていないふりをしている。
夜、婚約者は食卓につかなかった。
理由を尋ねると、執事が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご令息は……お嬢さまのお部屋で、お話を」
私は笑ってしまいそうになった。
妹の部屋で、話。
何の話を、どれほど長く。
扉を叩く気にはなれなかった。
代わりに私は、冷めていく紅茶を見つめながら、呼吸だけを整える。
――誤解だ。
――気のせいだ。
――私は、嫉妬深い女になりたくない。
言い訳がいくつも頭に浮かぶ。
そのどれもが、私を守るためではなく、彼らを守るための言葉だと気づいて、喉の奥が少しだけ苦くなった。
ふと、廊下を歩く足音がした。
軽い足取り。妹のものだ。
扉の向こうから、彼の声が聞こえる。
低く、優しい声。――それは、私の前ではほとんど使わない声だった。
「……君は悪くない」
妹が、かすかに鼻をすする。
「でも……お姉さまに、悪いよ。私、あの人に嫌われるの、怖い」
「嫌われるわけがない。彼女は――」
そこで声が途切れた。
言葉を選んだのだろう。
彼が「彼女」をどう定義するのか。
婚約者としての私なのか、姉としての彼女に都合のいい存在なのか。
私はその続きを、聞く勇気がなかった。
翌朝、妹は目を赤くして食堂に現れた。
「昨日、眠れなくて……ごめんなさい」
彼女は謝る。謝ることで許される立場にいる人の謝り方だ。
そして婚約者は、当然のように言う。
「責める必要はない。君は、弱いんだから」
弱い。
その一言が、どれほど強い免罪符になるのか。
彼は知らない。あるいは、知ろうとしない。
「……私も、弱いですよ」
思わず口をついた。
冗談めかして、軽く。空気を壊さないように。
けれど婚約者は、まるで聞かなかったかのように笑った。
「君は大丈夫だろう。君はしっかりしている」
ああ、やっぱり。
私の中で何かが、静かにほどけた。
その日の昼、妹は私の部屋を訪ねてきた。
手に、小さな箱を持って。
「これ、お姉さまに。……ほら、好きだったでしょう?甘い香りのするお菓子」
気遣いの形をした、確認。
「私は優しいです」と示すための贈り物。
「ありがとう」
受け取ると、妹はほっとしたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は確信した。
彼女は、怖がっていない。
私に嫌われることを恐れているのではない。
自分が悪者になることを恐れているだけだ。
「お姉さま……最近、元気ない?」
妹が身を乗り出す。
私の答えを待つ眼差しは、柔らかい。
でもその奥に、私の言葉を誘導しようとする力がある。
ここで私が「大丈夫」と言えば、彼女は安心する。
「苦しい」と言えば、彼女は被害者の顔をする。
どちらに転んでも、私だけが損をする。
私は微笑み、静かに言った。
「大丈夫よ。……少し、考えごとをしていただけ」
「そう……よかった」
よかった、という言葉が、私のためではないことが分かる。
彼女のための、よかった。
妹が帰ったあと、私は箱を開けた。
甘い香りが広がる。
その底に、一枚の紙が落ちていた。
手紙――ではない。
誰かが走り書きした、短いメモ。
『今日の夕方、あの場所で。ふたりで話したい』
文字は、婚約者の筆跡だった。
ふたりで。
誰と誰が、ふたりなのか。
答えは分かっているのに、心が勝手に否定しようとする。
私は紙を指で挟み、しばらく動けなかった。
そして、その夜。
婚約者は、少しだけ緊張した顔で私の前に座った。
彼は、真っ直ぐ私を見ない。
視線を外し、息を整え、覚悟を固めた人の仕草をする。
「正直に話したい」
その言葉を聞いた瞬間、私は不思議なほど落ち着いていた。
怒りも、悲しみも、まだ形にならない。
ただ、長く続いた違和感が、やっと名前を得ようとしている。
「……真実の愛を、見つけたんだ」
私は、ゆっくり瞬きをした。
ああ。
やっぱり。
だから私は、静かに答えた。
「そうですか。なら、私は身を引きます」
痛いほどではない。けれど、確実にそこに残って、ふとした拍子に心を引っかく。
「妹は、少し不安定なんだ。君も分かるだろう?」
彼はそう言って、当然のように私の同意を求めた。
分かる、と言えば彼は安心する。
分からない、と言えば「冷たい」と言われる。
そのどちらの結末も見えていたから、私は曖昧に頷くことを覚えた。
妹は、私より少しだけ愛想がいい。
人の懐へ入るのがうまく、声の調子ひとつで場の空気をやわらげる。
逆に私は、いつも「しっかりしている」と言われる。責任感が強い、我慢強い、頼りになる――便利な言葉でまとめられる。
頼りにされることは、嫌いじゃない。
ただ、頼られるほどに、誰も私の痛みに気づかなくなる。
「お姉さま、怒ってる……?」
いつからか、妹はそう言って私の顔色をうかがうようになった。
怒っていない、と答えると、彼女はほっとした顔で微笑む。まるで私が怒ること自体が罪であるかのように。
「ほら、言った通りだ。君は優しい」
婚約者がそれを褒める。
優しい、という言葉が、いつの間にか「黙って受け入れる」の言い換えになっていることに、彼は気づかない。
きっかけは些細だった。
婚約者が外出の支度をしながら、手袋を片方だけ探していた。
私が「いつもの棚にありますよ」と言う前に、妹がさっと動き、寝室の隅からその手袋を拾い上げたのだ。
「ここに落ちてました。……私、片づけたのに」
最後の一言が、妙に引っかかった。
まるで彼女が、この部屋のことを「自分の領域」と認識しているみたいだったから。
「助かった。君は本当に気が利くな」
婚約者は妹の頭をくしゃりと撫でた。
親しい人に向ける、無防備な仕草。
私に向けられたことのない、柔らかな笑顔。
私の胸の棘が、少しだけ深く刺さった。
その日の午後、侍女がこっそり言った。
「奥さ――……失礼。お嬢さま。最近、ご令嬢のほうが屋敷に長くおられるようで……」
言葉を濁すのは、遠慮ではなく怯えだ。
噂はすでに、屋敷の中を歩いている。私だけが、まだ追いついていないふりをしている。
夜、婚約者は食卓につかなかった。
理由を尋ねると、執事が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご令息は……お嬢さまのお部屋で、お話を」
私は笑ってしまいそうになった。
妹の部屋で、話。
何の話を、どれほど長く。
扉を叩く気にはなれなかった。
代わりに私は、冷めていく紅茶を見つめながら、呼吸だけを整える。
――誤解だ。
――気のせいだ。
――私は、嫉妬深い女になりたくない。
言い訳がいくつも頭に浮かぶ。
そのどれもが、私を守るためではなく、彼らを守るための言葉だと気づいて、喉の奥が少しだけ苦くなった。
ふと、廊下を歩く足音がした。
軽い足取り。妹のものだ。
扉の向こうから、彼の声が聞こえる。
低く、優しい声。――それは、私の前ではほとんど使わない声だった。
「……君は悪くない」
妹が、かすかに鼻をすする。
「でも……お姉さまに、悪いよ。私、あの人に嫌われるの、怖い」
「嫌われるわけがない。彼女は――」
そこで声が途切れた。
言葉を選んだのだろう。
彼が「彼女」をどう定義するのか。
婚約者としての私なのか、姉としての彼女に都合のいい存在なのか。
私はその続きを、聞く勇気がなかった。
翌朝、妹は目を赤くして食堂に現れた。
「昨日、眠れなくて……ごめんなさい」
彼女は謝る。謝ることで許される立場にいる人の謝り方だ。
そして婚約者は、当然のように言う。
「責める必要はない。君は、弱いんだから」
弱い。
その一言が、どれほど強い免罪符になるのか。
彼は知らない。あるいは、知ろうとしない。
「……私も、弱いですよ」
思わず口をついた。
冗談めかして、軽く。空気を壊さないように。
けれど婚約者は、まるで聞かなかったかのように笑った。
「君は大丈夫だろう。君はしっかりしている」
ああ、やっぱり。
私の中で何かが、静かにほどけた。
その日の昼、妹は私の部屋を訪ねてきた。
手に、小さな箱を持って。
「これ、お姉さまに。……ほら、好きだったでしょう?甘い香りのするお菓子」
気遣いの形をした、確認。
「私は優しいです」と示すための贈り物。
「ありがとう」
受け取ると、妹はほっとしたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は確信した。
彼女は、怖がっていない。
私に嫌われることを恐れているのではない。
自分が悪者になることを恐れているだけだ。
「お姉さま……最近、元気ない?」
妹が身を乗り出す。
私の答えを待つ眼差しは、柔らかい。
でもその奥に、私の言葉を誘導しようとする力がある。
ここで私が「大丈夫」と言えば、彼女は安心する。
「苦しい」と言えば、彼女は被害者の顔をする。
どちらに転んでも、私だけが損をする。
私は微笑み、静かに言った。
「大丈夫よ。……少し、考えごとをしていただけ」
「そう……よかった」
よかった、という言葉が、私のためではないことが分かる。
彼女のための、よかった。
妹が帰ったあと、私は箱を開けた。
甘い香りが広がる。
その底に、一枚の紙が落ちていた。
手紙――ではない。
誰かが走り書きした、短いメモ。
『今日の夕方、あの場所で。ふたりで話したい』
文字は、婚約者の筆跡だった。
ふたりで。
誰と誰が、ふたりなのか。
答えは分かっているのに、心が勝手に否定しようとする。
私は紙を指で挟み、しばらく動けなかった。
そして、その夜。
婚約者は、少しだけ緊張した顔で私の前に座った。
彼は、真っ直ぐ私を見ない。
視線を外し、息を整え、覚悟を固めた人の仕草をする。
「正直に話したい」
その言葉を聞いた瞬間、私は不思議なほど落ち着いていた。
怒りも、悲しみも、まだ形にならない。
ただ、長く続いた違和感が、やっと名前を得ようとしている。
「……真実の愛を、見つけたんだ」
私は、ゆっくり瞬きをした。
ああ。
やっぱり。
だから私は、静かに答えた。
「そうですか。なら、私は身を引きます」
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