幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります

藤原遊

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第一部 幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります

第2話 遅れてきた婚約者

夜会の広間は、薄い金色の灯りに包まれていた。

高い天井から下がる硝子の燭台が壁際の花飾りを照らし、淡い香水と磨かれた床の匂いが混ざっている。弦楽の音が控えめに流れる中、招待客たちは互いの家名と近況を確かめ合いながら、穏やかな笑みを交わしていた。

リシェルは入口に近い柱のそばで、招待客の流れを見ていた。

昨夜遅くまで確認した席順は、今のところ大きな乱れなく収まっている。アシュベリー伯爵夫人はヴィオレッタ侯爵夫人の近くで楽しげに話しており、気難しいことで知られる老伯爵も、用意した葡萄酒を気に入ったらしく機嫌がいい。

「リシェル様、本日はエドワード様とご一緒ではありませんの?」

声をかけてきたのは、先月婚約したばかりの令嬢だった。問いかけは柔らかい。けれど、視線はリシェルの隣にある空白へ向いている。

「エドワード様は、少し遅れておいでになります」

リシェルは微笑んで答えた。

「そうでしたの。では、後ほどご挨拶させていただきますわ」

令嬢はすぐに礼をして離れていった。無作法ではない。必要以上に踏み込んでもいない。ただ、婚約者同士で出席する夜会に一人で立っている令嬢は、どうしても目につく。

リシェルは手袋の指先を整え、近づいてきた子爵夫人へ席の案内をした。

「夫人、お席はこちらです。今夜は南方産の茶葉も用意されているそうですから、お食事のあとにぜひ」

「まあ、楽しみですわ。あなたはいつも気が利くのね」

「恐れ入ります」

そうして何人かを案内しているうちに、広間の入口が少しざわついた。

扉の方へ視線が集まる。

エドワードが来たのだと、リシェルにも分かった。

侯爵令息らしい濃紺の礼装に身を包んだエドワードは、いつものように穏やかな顔をしていた。けれど、その腕には淡い水色のドレスを着たフィオナが添えられている。昨日倒れたと聞いていた割に、頬には薄く紅が差し、髪には小粒の真珠が飾られていた。

「大丈夫か、フィオナ。人が多いから、無理はしなくていい」

「はい。エドワード様がついていてくださるなら平気です」

二人の声は大きくなかったが、入口近くにいた者たちには届いていた。

リシェルは歩み寄ろうとして、足を止める。

本来なら、エドワードはまず婚約者であるリシェルのもとへ来るべきだった。遅れたことを詫び、二人で主催側へ挨拶を済ませる。それが今夜の流れとしては自然だ。

けれどエドワードは、フィオナの歩幅に合わせてゆっくり広間へ入った。彼女の肩にかけた薄布がずれないよう、何度も気遣っている。

「あら……」

誰かが小さく声を漏らした。

すぐそばにいた夫人が、扇の陰で別の令嬢に目配せをする。驚きというより、またかと言いたげな顔だった。

リシェルは笑みを保ったまま、二人の前へ進んだ。

「エドワード様。フィオナ様も、いらしてくださったのですね」

「ああ、遅くなってすまない。フィオナの具合が心配で、出るのに少し手間取った」

「ご無理はなさらない方がよろしかったのでは」

「大丈夫です、リシェル様。少し熱があっただけですから」

フィオナは明るく答えた。細い指が、エドワードの袖を軽くつかんでいる。

「それに、今夜はエドワード様がどうしても出席しなければならない夜会だと伺いましたので。私もご一緒した方が安心かと思って」

リシェルは、その言葉をすぐには直さなかった。

安心するのは誰なのか。そう尋ねるには、周囲の耳が多すぎる。

「それでは、まずヴィオレッタ様へご挨拶を」

「ああ。フィオナ、こちらへ」

エドワードはフィオナを伴ったまま歩き出した。

リシェルは半歩遅れて、その後ろにつく。婚約者として隣に立つはずの場所には、フィオナの水色の裾が揺れていた。

広間の奥では、ヴィオレッタ侯爵夫人が客人と話していた。銀灰色の髪を美しく結い上げた夫人は、息子の姿を見ると穏やかに微笑んだが、フィオナが腕に添っているのを見た瞬間、その目元だけがわずかに変わった。

「母上、遅くなりました」

「ええ。リシェルさんは先ほどから皆様を案内してくださっていましたよ」

柔らかい声だった。責める響きはない。だからこそ、エドワードは少しだけ姿勢を正した。

「リシェルには助けられています」

「その言葉は、本人にきちんと伝えなさい」

ヴィオレッタの視線がリシェルへ向く。

「リシェルさん、今夜もありがとう。あなたのおかげで、皆様が気持ちよく過ごしてくださっているわ」

「お役に立てたなら幸いです」

リシェルは礼をした。

その隣で、フィオナが小さく首を傾げる。

「リシェル様は、本当にしっかりしていらっしゃいますね。私なら、こんなにたくさんの方のお名前を覚えられません」

「慣れれば難しいことではありません」

「でも、私には無理です。エドワード様も、そう思われますよね?」

フィオナが見上げると、エドワードは困ったように笑った。

「フィオナは無理をしなくていい。そういうことはリシェルが得意だから」

会話の間が、少しだけ空いた。

楽団の音が広間の奥から流れてくる。近くにいた伯爵夫人が扇を閉じ、何事もなかったように別の客人へ話しかけた。

ヴィオレッタ侯爵夫人は、持っていた扇を静かに下ろした。

「エドワード」

「はい」

「後ほど、少し話があります」

その声は穏やかだったが、リシェルには、夫人の言葉がいつもより低く聞こえた。

エドワードはまだ、その意味を深く受け取っていないようだった。フィオナの手を支えながら、空いている席へ案内しようとしている。

「リシェル、君もあとで来てくれ。フィオナを座らせたら、すぐ戻る」

「承知いたしました」

リシェルはそう答え、二人の背中を見送った。

広間の灯りの下で、水色のドレスと濃紺の礼装が並んで遠ざかっていく。リシェルの隣には、今夜のために選んだ淡い藤色のドレスの裾だけが静かに揺れていた。
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