幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります

藤原遊

文字の大きさ
18 / 20
第一部 幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります

第18話 戻る場所

伯爵家へ戻る馬車の中で、リシェルは膝の上に重ねた手を見つめていた。

手袋の指先には、侯爵家で何度も書類をめくった時についた薄い皺が残っている。社交の席で笑みを保つ時も、手紙の宛名を書く時も、いつもこの手袋をしていた。

屋敷に着くと、玄関前には侍女長のマリナが待っていた。

「お帰りなさいませ、リシェル様」

「ただいま」

いつも通りの挨拶を返したつもりだった。

けれどマリナは、外套を受け取る手を一瞬止めた。

「お疲れでございますね。すぐにお茶をお持ちします」

「ありがとう」

部屋へ入ると、伯爵家の侍女たちが静かに動き始めた。

ひとりは暖炉へ火を入れ、ひとりは窓辺の薄布を下ろす。別の侍女は、リシェルが身につけていた髪飾りをそっと外し、鏡台の上へ置いた。

侯爵家で使うために選んだ、控えめな真珠の飾りだった。

「こちらは、お片づけしますか」

侍女が尋ねる。

リシェルは鏡越しにそれを見て、少しだけ間を置いた。

「ええ。しばらくは使わないと思うから」

侍女は何も言わず、柔らかな布で髪飾りを包んだ。

その沈黙がありがたかった。

ほどなくして、母が部屋を訪ねてきた。

「リシェル」

穏やかな声だった。

母はリシェルの顔を見ると、無理に事情を聞かず、隣の椅子へ腰を下ろした。

「お父様から聞きました」

「はい」

「よく決めましたね」

責める言葉でも、慰める言葉でもなかった。

リシェルは、そこで初めて少しだけ肩の力を抜く。

「私、きちんとできていたでしょうか」

「何を?」

「侯爵家の婚約者として」

母はすぐには答えなかった。

侍女が淹れた紅茶をリシェルの前へ置く。白い湯気がまっすぐ立ちのぼり、部屋に柔らかな香りが広がった。

「きちんとしすぎていたのだと思います」

母は静かに言った。

「あなたは昔から、相手が困る前に先回りしてしまう子でした。頼まれなくても予定を整えて、足りないものを補って、誰かが困れば自分が引き受けてしまう。けれど、それを続けていれば疲れてしまいます」

リシェルはカップへ手を伸ばした。

侯爵家で出される紅茶より、少し甘い香りがする。幼い頃から飲み慣れた味だった。

「ヴィオレッタ様には、申し訳ないことをしました」

「侯爵夫人なら、あなたがどれほど考えて決めたか分かってくださるでしょう」

母の言葉に、リシェルは小さく頷く。

そうであってほしいと思った。

夕方になると、侯爵家から持ち帰っていた書類や控えが整理されることになった。

本来なら次の夜会のために使うはずだった招待客の名簿、贈答品の候補、茶会の席順案。リシェルの机には、侯爵家へ嫁いだあとに備えて書き留めていた覚書が何冊も積まれていた。

侍女が一冊を手に取る。

「こちらは、いかがいたしましょう」

「侯爵家へお返しするものと、私個人の覚書に分けてください」

「かしこまりました」

紙を分ける音が続く。

リシェルはその横で、まだ使っていない便箋を箱へ戻した。ブライトン侯爵家の紋を押す予定だったものだが、もう必要ない。

けれど不思議と、涙は出なかった。

悲しくないわけではない。

ただ、泣くにはあまりにも長く我慢しすぎていたのかもしれなかった。

夜になり、父が正式な書面を整えた。

「明朝、使者を出す」

「お願いいたします」

「侯爵夫人には、私からも礼を尽くす。あの方は、お前を粗末に扱ったわけではないからな」

「はい」

その一点だけは、リシェルも間違えたくなかった。

侯爵家そのものを憎んでいるわけではない。

ヴィオレッタ侯爵夫人にも、使用人たちにも、たくさん支えられてきた。

それでも、エドワードの隣に立つことだけは、もう選べなかった。

自室へ戻ると、マリナが寝支度を整えていた。

「リシェル様。今夜は早めにお休みくださいませ」

「そうね」

「それから……」

珍しく、マリナが言葉を迷った。

リシェルが顔を向けると、彼女は深く頭を下げた。

「お戻りになってくださって、安心いたしました」

その一言に、リシェルは返事を忘れた。

侯爵家へ向かうたび、きちんと役目を果たせていると思っていた。だが伯爵家の者たちは、そのたびに自分の疲れを見ていたのだろう。

「心配をかけていたのね」

「少しだけでございます」

マリナは穏やかに答えた。

「ですが、今夜はお顔の色が戻っていらっしゃいます」

リシェルは鏡の中の自分を見る。

髪飾りを外し、ドレスも着替えた今の姿は、侯爵家の婚約者ではなく、ただ伯爵家の娘だった。

窓の外では、夜風が庭木を揺らしている。

リシェルはしばらく鏡を見つめ、それから静かに頷いた。

「明日から、少しずつ片づけましょう」

マリナは柔らかく微笑んだ。

「はい。リシェル様のお部屋ですから、リシェル様の過ごしやすいように」
感想 89

あなたにおすすめの小説

見切りをつけたのは、私

ねこまんまときみどりのことり
恋愛
婚約者の私マイナリーより、義妹が好きだと言う婚約者ハーディー。陰で私の悪口さえ言う彼には、もう幻滅だ。  婚約者の生家、アルベローニ侯爵家は子爵位と男爵位も保有しているが、伯爵位が継げるならと、ハーディーが家に婿入りする話が進んでいた。 侯爵家は息子の爵位の為に、家(うち)は侯爵家の事業に絡む為にと互いに利がある政略だった。 二転三転しますが、最後はわりと幸せになっています。 (小説家になろうさんとカクヨムさんにも載せています)

「君は健康だから我慢できるだろう」と言われ続けたので離縁しました。――義妹の嘘が社交界で暴かれます

暖夢 由
恋愛
誕生日。久しぶりに夫と過ごせるはずだったその日も、また約束は消えた。 理由はいつも同じ――「病弱で可哀想な義妹」が倒れたから。 「君は健康なんだから我慢できるだろう?」 そう言われ続け、優しい妻を演じてきたマリア。 だがある日、ついに気づく。 いつまで我慢を続ける必要があるのかと。 静かに離縁を決意し家を出た彼女の前に現れたのは、冷静沈着な侯爵。 彼は告げる――義妹の過去と、隠された違和感を。 やがて明らかになるのは、“可哀想な少女”の裏の顔。 そして社交界という舞台で暴かれる、歪んだ関係と嘘の構図。 これは、我慢をやめた一人の女性が、真実を取り戻す物語。 その時、“守られる側”だったはずの少女は――何を選ぶのか。

知らない結婚

鈴木葵
恋愛
親が決めた相手と11歳の時に結婚した伯爵令嬢、エマ。しかし16歳になっても、いまだに一度も夫に会った事がない。よほど妻に興味がないのか、例えそうだとしても社交界へデビューする日にはエスコートしてくれるはずだと思った。けれど他の女性をエスコートするからと断られてしまう。それに耐えかねて夫の領地まで会いに行けば、宿屋の軒先で女の人と揉めている夫とばったり出会ってしまい……。

【完結】最後に微笑むのは…。

山葵
恋愛
義妹から、結婚式の招待状が届く。 結婚相手は、私の元婚約者。 結婚式は、私の18歳の誕生日の次の日。 家族を断罪する為に私は久し振りに王都へと向かう♪

幼馴染最優先の婚約者に愛想が尽きたので、笑って家出しました ― 笑顔で去っただけなのに、なぜ泣いているのですか

ラムネ
恋愛
侯爵令嬢リオナは、婚約者アルベルトが「幼馴染が可哀想だから」と約束を破り続ける日々に耐えていた。領地再建の帳簿も契約も、実はリオナが陰で支えていたのに、彼は「君は強いから」と当然のように扱う。決定的な侮辱の夜、リオナは怒らず泣かず、完璧な笑顔で婚約指輪だけを返して屋敷を去った――引継ぎは、何一つ残さずに。 翌日から止まる交易、崩れる資金繰り、露出する不正。追いすがるアルベルトを置き去りに、リオナは王立監査院の臨時任官で辺境へ。冷徹と噂される監察騎士レオンハルトと共に、数字と契約で不正を断ち、交易路を再生していく。 笑顔で去っただけなのに、泣くのは捨てた側だった。

平手打ちされたので、婚約破棄宣言に拳でお答えしました

Megumi
恋愛
婚約破棄を告げられ、婚約者に平手打ちされた——その瞬間。 伯爵令嬢イヴの拳が炸裂した。 理不尽に耐える淑女の時代は、もう終わり。 これは“我慢しない令嬢”が、これまでの常識を覆す話。

夏の眼差し

通木遼平
恋愛
 伯爵令嬢であるティナの婚約者とティナの妹が恋仲になり、ティナは婚約を解消することになる。婚約者に対して特に思い入れはなかったが、姉妹の婚約のすげ替えについての噂と勝手なことばかり言う妹に気疲れしたティナは、昔から彼女を気にかけてくれていたイライザ夫人の紹介で夫人の孫娘リネットの話し相手として雇われることになった。  家から離れ、リネット共に穏やかな日々を過ごすティナは、リネットの従兄であるセオドアと出会う。 ※他サイトにも掲載しています

【短編】復讐すればいいのに〜婚約破棄のその後のお話〜

真辺わ人
恋愛
平民の女性との間に真実の愛を見つけた王太子は、公爵令嬢に婚約破棄を告げる。 しかし、公爵家と国王の不興を買い、彼は廃太子とされてしまった。 これはその後の彼(元王太子)と彼女(平民少女)のお話です。 数年後に彼女が語る真実とは……? 前中後編の三部構成です。 ❇︎ざまぁはありません。 ❇︎設定は緩いですので、頭のネジを緩めながらお読みください。