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第一部 幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります
第18話 戻る場所
伯爵家へ戻る馬車の中で、リシェルは膝の上に重ねた手を見つめていた。
手袋の指先には、侯爵家で何度も書類をめくった時についた薄い皺が残っている。社交の席で笑みを保つ時も、手紙の宛名を書く時も、いつもこの手袋をしていた。
屋敷に着くと、玄関前には侍女長のマリナが待っていた。
「お帰りなさいませ、リシェル様」
「ただいま」
いつも通りの挨拶を返したつもりだった。
けれどマリナは、外套を受け取る手を一瞬止めた。
「お疲れでございますね。すぐにお茶をお持ちします」
「ありがとう」
部屋へ入ると、伯爵家の侍女たちが静かに動き始めた。
ひとりは暖炉へ火を入れ、ひとりは窓辺の薄布を下ろす。別の侍女は、リシェルが身につけていた髪飾りをそっと外し、鏡台の上へ置いた。
侯爵家で使うために選んだ、控えめな真珠の飾りだった。
「こちらは、お片づけしますか」
侍女が尋ねる。
リシェルは鏡越しにそれを見て、少しだけ間を置いた。
「ええ。しばらくは使わないと思うから」
侍女は何も言わず、柔らかな布で髪飾りを包んだ。
その沈黙がありがたかった。
ほどなくして、母が部屋を訪ねてきた。
「リシェル」
穏やかな声だった。
母はリシェルの顔を見ると、無理に事情を聞かず、隣の椅子へ腰を下ろした。
「お父様から聞きました」
「はい」
「よく決めましたね」
責める言葉でも、慰める言葉でもなかった。
リシェルは、そこで初めて少しだけ肩の力を抜く。
「私、きちんとできていたでしょうか」
「何を?」
「侯爵家の婚約者として」
母はすぐには答えなかった。
侍女が淹れた紅茶をリシェルの前へ置く。白い湯気がまっすぐ立ちのぼり、部屋に柔らかな香りが広がった。
「きちんとしすぎていたのだと思います」
母は静かに言った。
「あなたは昔から、相手が困る前に先回りしてしまう子でした。頼まれなくても予定を整えて、足りないものを補って、誰かが困れば自分が引き受けてしまう。けれど、それを続けていれば疲れてしまいます」
リシェルはカップへ手を伸ばした。
侯爵家で出される紅茶より、少し甘い香りがする。幼い頃から飲み慣れた味だった。
「ヴィオレッタ様には、申し訳ないことをしました」
「侯爵夫人なら、あなたがどれほど考えて決めたか分かってくださるでしょう」
母の言葉に、リシェルは小さく頷く。
そうであってほしいと思った。
夕方になると、侯爵家から持ち帰っていた書類や控えが整理されることになった。
本来なら次の夜会のために使うはずだった招待客の名簿、贈答品の候補、茶会の席順案。リシェルの机には、侯爵家へ嫁いだあとに備えて書き留めていた覚書が何冊も積まれていた。
侍女が一冊を手に取る。
「こちらは、いかがいたしましょう」
「侯爵家へお返しするものと、私個人の覚書に分けてください」
「かしこまりました」
紙を分ける音が続く。
リシェルはその横で、まだ使っていない便箋を箱へ戻した。ブライトン侯爵家の紋を押す予定だったものだが、もう必要ない。
けれど不思議と、涙は出なかった。
悲しくないわけではない。
ただ、泣くにはあまりにも長く我慢しすぎていたのかもしれなかった。
夜になり、父が正式な書面を整えた。
「明朝、使者を出す」
「お願いいたします」
「侯爵夫人には、私からも礼を尽くす。あの方は、お前を粗末に扱ったわけではないからな」
「はい」
その一点だけは、リシェルも間違えたくなかった。
侯爵家そのものを憎んでいるわけではない。
ヴィオレッタ侯爵夫人にも、使用人たちにも、たくさん支えられてきた。
それでも、エドワードの隣に立つことだけは、もう選べなかった。
自室へ戻ると、マリナが寝支度を整えていた。
「リシェル様。今夜は早めにお休みくださいませ」
「そうね」
「それから……」
珍しく、マリナが言葉を迷った。
リシェルが顔を向けると、彼女は深く頭を下げた。
「お戻りになってくださって、安心いたしました」
その一言に、リシェルは返事を忘れた。
侯爵家へ向かうたび、きちんと役目を果たせていると思っていた。だが伯爵家の者たちは、そのたびに自分の疲れを見ていたのだろう。
「心配をかけていたのね」
「少しだけでございます」
マリナは穏やかに答えた。
「ですが、今夜はお顔の色が戻っていらっしゃいます」
リシェルは鏡の中の自分を見る。
髪飾りを外し、ドレスも着替えた今の姿は、侯爵家の婚約者ではなく、ただ伯爵家の娘だった。
窓の外では、夜風が庭木を揺らしている。
リシェルはしばらく鏡を見つめ、それから静かに頷いた。
「明日から、少しずつ片づけましょう」
マリナは柔らかく微笑んだ。
「はい。リシェル様のお部屋ですから、リシェル様の過ごしやすいように」
手袋の指先には、侯爵家で何度も書類をめくった時についた薄い皺が残っている。社交の席で笑みを保つ時も、手紙の宛名を書く時も、いつもこの手袋をしていた。
屋敷に着くと、玄関前には侍女長のマリナが待っていた。
「お帰りなさいませ、リシェル様」
「ただいま」
いつも通りの挨拶を返したつもりだった。
けれどマリナは、外套を受け取る手を一瞬止めた。
「お疲れでございますね。すぐにお茶をお持ちします」
「ありがとう」
部屋へ入ると、伯爵家の侍女たちが静かに動き始めた。
ひとりは暖炉へ火を入れ、ひとりは窓辺の薄布を下ろす。別の侍女は、リシェルが身につけていた髪飾りをそっと外し、鏡台の上へ置いた。
侯爵家で使うために選んだ、控えめな真珠の飾りだった。
「こちらは、お片づけしますか」
侍女が尋ねる。
リシェルは鏡越しにそれを見て、少しだけ間を置いた。
「ええ。しばらくは使わないと思うから」
侍女は何も言わず、柔らかな布で髪飾りを包んだ。
その沈黙がありがたかった。
ほどなくして、母が部屋を訪ねてきた。
「リシェル」
穏やかな声だった。
母はリシェルの顔を見ると、無理に事情を聞かず、隣の椅子へ腰を下ろした。
「お父様から聞きました」
「はい」
「よく決めましたね」
責める言葉でも、慰める言葉でもなかった。
リシェルは、そこで初めて少しだけ肩の力を抜く。
「私、きちんとできていたでしょうか」
「何を?」
「侯爵家の婚約者として」
母はすぐには答えなかった。
侍女が淹れた紅茶をリシェルの前へ置く。白い湯気がまっすぐ立ちのぼり、部屋に柔らかな香りが広がった。
「きちんとしすぎていたのだと思います」
母は静かに言った。
「あなたは昔から、相手が困る前に先回りしてしまう子でした。頼まれなくても予定を整えて、足りないものを補って、誰かが困れば自分が引き受けてしまう。けれど、それを続けていれば疲れてしまいます」
リシェルはカップへ手を伸ばした。
侯爵家で出される紅茶より、少し甘い香りがする。幼い頃から飲み慣れた味だった。
「ヴィオレッタ様には、申し訳ないことをしました」
「侯爵夫人なら、あなたがどれほど考えて決めたか分かってくださるでしょう」
母の言葉に、リシェルは小さく頷く。
そうであってほしいと思った。
夕方になると、侯爵家から持ち帰っていた書類や控えが整理されることになった。
本来なら次の夜会のために使うはずだった招待客の名簿、贈答品の候補、茶会の席順案。リシェルの机には、侯爵家へ嫁いだあとに備えて書き留めていた覚書が何冊も積まれていた。
侍女が一冊を手に取る。
「こちらは、いかがいたしましょう」
「侯爵家へお返しするものと、私個人の覚書に分けてください」
「かしこまりました」
紙を分ける音が続く。
リシェルはその横で、まだ使っていない便箋を箱へ戻した。ブライトン侯爵家の紋を押す予定だったものだが、もう必要ない。
けれど不思議と、涙は出なかった。
悲しくないわけではない。
ただ、泣くにはあまりにも長く我慢しすぎていたのかもしれなかった。
夜になり、父が正式な書面を整えた。
「明朝、使者を出す」
「お願いいたします」
「侯爵夫人には、私からも礼を尽くす。あの方は、お前を粗末に扱ったわけではないからな」
「はい」
その一点だけは、リシェルも間違えたくなかった。
侯爵家そのものを憎んでいるわけではない。
ヴィオレッタ侯爵夫人にも、使用人たちにも、たくさん支えられてきた。
それでも、エドワードの隣に立つことだけは、もう選べなかった。
自室へ戻ると、マリナが寝支度を整えていた。
「リシェル様。今夜は早めにお休みくださいませ」
「そうね」
「それから……」
珍しく、マリナが言葉を迷った。
リシェルが顔を向けると、彼女は深く頭を下げた。
「お戻りになってくださって、安心いたしました」
その一言に、リシェルは返事を忘れた。
侯爵家へ向かうたび、きちんと役目を果たせていると思っていた。だが伯爵家の者たちは、そのたびに自分の疲れを見ていたのだろう。
「心配をかけていたのね」
「少しだけでございます」
マリナは穏やかに答えた。
「ですが、今夜はお顔の色が戻っていらっしゃいます」
リシェルは鏡の中の自分を見る。
髪飾りを外し、ドレスも着替えた今の姿は、侯爵家の婚約者ではなく、ただ伯爵家の娘だった。
窓の外では、夜風が庭木を揺らしている。
リシェルはしばらく鏡を見つめ、それから静かに頷いた。
「明日から、少しずつ片づけましょう」
マリナは柔らかく微笑んだ。
「はい。リシェル様のお部屋ですから、リシェル様の過ごしやすいように」
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