ほとりのカフェ

藤原遊

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青森県三沢市は、冬の寒さが厳しい。冷たい風が吹く朝、東京から戻ったばかりの田中真希は、小川原湖を見下ろす「ほとりのカフェ」の扉をゆっくりと開けた。

「いらっしゃいませ。」
店主の康平が静かな声で迎える。真希は少し躊躇いながらも、カフェの奥の席を選んだ。カウンターで飲む勇気も、窓際に座る自信もない。ただ、誰にも気づかれずに、少しだけ自分を取り戻せる場所が欲しかった。

真希が東京を出たのは、恋人に別れを告げられたからだった。三年付き合った相手に「将来を考えられなくなった」と言われたとき、彼女は心の中がぽっかりと空いたような気がした。それまで彼と築いてきた日々が自分のすべてだったことに気づき、自分という存在が消えてしまったように感じた。

「コーヒー、どうぞ。」
康平が運んできたカップからは、ほのかに苦味を含んだ香りが漂っている。

「ありがとうございます。」
真希は小さな声で礼を言い、一口飲んだ。口の中に広がるコーヒーの深い味わいに、少しだけ心が和らぐのを感じた。東京では忙しさにかまけて、まともに一杯のコーヒーを味わうこともなかった。ここでは時間がゆっくり流れている。

「アップルパイもいかがですか?焼きたてです。」
康平が提案すると、真希は頷いた。目の前に置かれたパイは、サクサクの生地と、しっとりと煮詰められたリンゴが絶妙にマッチしていて、見るだけで気持ちが少し軽くなる気がした。

しばらくして、カフェの扉が開き、幼い子どもを連れた親子が入ってきた。子どもの笑い声が店内に響き、それを聞いた真希はふと顔を上げた。その無邪気な姿に、自分の失ったものがあまりに小さいものに思える瞬間があった。

その後も、常連客が入れ替わり立ち替わり訪れ、康平との親しげな会話が聞こえてくる。その光景は、真希にとって懐かしくも温かいものだった。ここは、東京の忙しさとは全く違う、穏やかな空気が流れる場所だった。

帰り際、真希はふと「湖のノート」に目を留めた。そこには訪れた人々が書き残した言葉が並んでいる。「また来ます」「コーヒーが美味しかった」「心が軽くなりました」――どれも短い言葉だが、そこには一人一人の思いが詰まっていた。

ペンを手に取った真希は、ノートの一番下にこう書き込んだ。

「まだ傷ついているけど、ここで一歩踏み出せそうです。」

その言葉を見つけた康平は、ノートを閉じると、静かに微笑んだ。新しい一歩を踏み出すための場所――それが「ほとりのカフェ」だった。
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