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夜風がほんのりと冷たくなってきた。
開け放った窓から差し込むのは、涼やかな虫の音と、乾いた草の匂い。
晩夏と初秋の境界線を知らせるその空気に、リリーナは静かに指先を止めた。
卓上には、三つの国の地図。
その上に置かれた、羊皮紙の封筒。
南の隣国ファルデア、北の山岳国家パールバ、そしてこのアリステリア王国。
今、彼女が睨んでいるのは、国の未来ではない。
――弟の未来を守るための、遠回しな一手だった。
「……パールバが西林道に鉄鉱と弾薬を。補給線が通ったと見て、ファルデアは軍備を強めるでしょうね」
誰に言うでもなく呟いたその声は、ろうそくの灯に吸い込まれて消えた。
手元の文には、明確な嘘も、露骨な陰謀もない。
ただ、限られた者だけが知る“未来の断片”と、今の情勢を繋ぎ合わせた、精巧な虚実。
――前世の物語で、リリーナが涙を呑んで読んだ、弟ユリアンの死と、戦争の引き金。
(今度は回避してみせるわ。あなたの未来を、もう二度と誰にも奪わせない)
差出人の印もなければ、紙の産地も偽装した。
筆跡は北の交易都市で使われる崩し字を模したもの。
この密書が商人の手でファルデア上層部に届けば、やがて向こうは疑心暗鬼に陥り、
――自国の仮想敵を“アリステリア”ではなく“パールバ”と見るだろう。
これが成れば、アリステリアは当面、戦火を免れる。
そして、ユリアンが戴冠するまでの時間が稼げる。
「エドガー」
影のように扉の傍に立っていた男が、一歩進み出た。
「これを北行きの商隊に忍ばせて。出処は絶対に追えないよう、注意を。……道筋も、渡す手も、全てぼやかして」
「承知しました。……正体が割れれば、姫さまご自身が火の粉を被ることに」
「知ってるわ。でも、それでもやらなきゃ。あの子の命に比べたら、私の立場なんて安いもの」
言いながら、リリーナは胸元のアクアマリンをそっと指でなぞった。
青い宝石は小さく、けれど確かに温もりを宿していた。
それは、ユリアンが贈ってくれた“世界でひとつだけの守り”。
魔法が込められた小さな願いであり、彼女の心をつなぎとめる唯一の希望。
「火種はもう起きてる。ならせめて、燃えるのは他所であってもらわないと」
静かな語気に、エドガーは深く頷いた。
しばし後、書斎に再び静寂が戻った。
蝋燭の灯が揺れ、リリーナの影が壁に長く伸びている。
窓の外からは、桂の葉が風に舞い、ひらりと窓辺に落ちた。
その金色の葉を手に取り、彼女はゆっくりと微笑んだ。
(さあ、戦ってごらんなさい。私はここで、弟のために“冬支度”を進めるだけ)
――すべては、彼の王冠のために。
そして、彼の「ずっと傍にいてね」の願いを叶えるために。
秋のはじまり。
その冷たさに、ひとりの王女は何の迷いもなく身を委ねていた。
開け放った窓から差し込むのは、涼やかな虫の音と、乾いた草の匂い。
晩夏と初秋の境界線を知らせるその空気に、リリーナは静かに指先を止めた。
卓上には、三つの国の地図。
その上に置かれた、羊皮紙の封筒。
南の隣国ファルデア、北の山岳国家パールバ、そしてこのアリステリア王国。
今、彼女が睨んでいるのは、国の未来ではない。
――弟の未来を守るための、遠回しな一手だった。
「……パールバが西林道に鉄鉱と弾薬を。補給線が通ったと見て、ファルデアは軍備を強めるでしょうね」
誰に言うでもなく呟いたその声は、ろうそくの灯に吸い込まれて消えた。
手元の文には、明確な嘘も、露骨な陰謀もない。
ただ、限られた者だけが知る“未来の断片”と、今の情勢を繋ぎ合わせた、精巧な虚実。
――前世の物語で、リリーナが涙を呑んで読んだ、弟ユリアンの死と、戦争の引き金。
(今度は回避してみせるわ。あなたの未来を、もう二度と誰にも奪わせない)
差出人の印もなければ、紙の産地も偽装した。
筆跡は北の交易都市で使われる崩し字を模したもの。
この密書が商人の手でファルデア上層部に届けば、やがて向こうは疑心暗鬼に陥り、
――自国の仮想敵を“アリステリア”ではなく“パールバ”と見るだろう。
これが成れば、アリステリアは当面、戦火を免れる。
そして、ユリアンが戴冠するまでの時間が稼げる。
「エドガー」
影のように扉の傍に立っていた男が、一歩進み出た。
「これを北行きの商隊に忍ばせて。出処は絶対に追えないよう、注意を。……道筋も、渡す手も、全てぼやかして」
「承知しました。……正体が割れれば、姫さまご自身が火の粉を被ることに」
「知ってるわ。でも、それでもやらなきゃ。あの子の命に比べたら、私の立場なんて安いもの」
言いながら、リリーナは胸元のアクアマリンをそっと指でなぞった。
青い宝石は小さく、けれど確かに温もりを宿していた。
それは、ユリアンが贈ってくれた“世界でひとつだけの守り”。
魔法が込められた小さな願いであり、彼女の心をつなぎとめる唯一の希望。
「火種はもう起きてる。ならせめて、燃えるのは他所であってもらわないと」
静かな語気に、エドガーは深く頷いた。
しばし後、書斎に再び静寂が戻った。
蝋燭の灯が揺れ、リリーナの影が壁に長く伸びている。
窓の外からは、桂の葉が風に舞い、ひらりと窓辺に落ちた。
その金色の葉を手に取り、彼女はゆっくりと微笑んだ。
(さあ、戦ってごらんなさい。私はここで、弟のために“冬支度”を進めるだけ)
――すべては、彼の王冠のために。
そして、彼の「ずっと傍にいてね」の願いを叶えるために。
秋のはじまり。
その冷たさに、ひとりの王女は何の迷いもなく身を委ねていた。
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