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第五章 選択と未来
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外交会議を前に、宰相府の事務室は慌ただしく熱を帯びていた。
書記官たちが紙束を抱えて行き来し、羽根ペンの走る音とインクの匂いが空気に満ちている。
私も机の端に置かれた一式を受け取り、席順案に目を通した。
――そこに、私の名はなかった。
代わりに、見覚えのない若い補佐書記の名が記されている。
ただの書き間違いだろうか。
だが外交儀礼に関わる文書で、そのような「誤り」が生じることは滅多にない。
胸の奥が冷たくなる。これは偶然ではなく、意図的なものかもしれない。
「おや」
耳慣れた穏やかな声が背後から落ち、私の手元を覗き込む影が差した。
振り向けば、宰相副官クリストファー様が立っていた。
いつもと変わらぬ柔らかな笑みを浮かべているが、その瞳は紙面を射抜くように鋭い。
「この席順案……少々、不自然ですね」
静かにそう告げると、彼は羽根ペンを取り、ためらいなく私の名を正しい位置に書き加えた。
動作は軽やかで、まるで些細な修正に過ぎぬかのよう。
だが私は、机上の書記官たちの息が詰まるのを感じ取っていた。
「この案を作成したのは、誰ですか」
問いは柔らかかった。
けれど、その場の空気は一瞬で凍りついた。
若い書記官が青ざめ、声を震わせて答える。
「……下級補佐の一人が、案をまとめたはずで……」
「そうですか」
クリストファー様の笑みが、ほんのわずかに深まった。
柔和なはずなのに、なぜか背筋が粟立つ。
「未熟者に重要な案を任せたのは、判断の誤りでしたね。――彼には、しばらく地方で実地を学んでいただきましょう。経験を積めば、いつか再び役に立つかもしれません」
声音はあくまで穏やかで、叱責の色さえなかった。
だが、それが実質的に「左遷」を意味しているのは、誰の耳にも明らかだった。
室内の空気がひりつき、誰もが視線を落とす。
「……承知いたしました、副官殿」
ようやく絞り出された返答に、クリストファー様はにこやかに頷き、訂正済みの文書を私の前に置いた。
「これでよろしいですね、セラフィーナ様」
「……はい」
言葉を返しながら、胸の奥に複雑な感情が渦巻いた。
確かに、私は守られた。
けれど彼は、笑顔のままで、容赦なく人を排除してみせた。
その姿に、守られているという安堵と同時に、背筋が寒くなるような畏れを覚える。
――彼はここまでして私を支えようとしている。
だが、なぜそこまで冷徹になれるのか。その仮面の奥に、どれほどの苦しみを隠しているのか。
私は知らず、彼を見つめる視線を逸らせなかった。
書記官たちが紙束を抱えて行き来し、羽根ペンの走る音とインクの匂いが空気に満ちている。
私も机の端に置かれた一式を受け取り、席順案に目を通した。
――そこに、私の名はなかった。
代わりに、見覚えのない若い補佐書記の名が記されている。
ただの書き間違いだろうか。
だが外交儀礼に関わる文書で、そのような「誤り」が生じることは滅多にない。
胸の奥が冷たくなる。これは偶然ではなく、意図的なものかもしれない。
「おや」
耳慣れた穏やかな声が背後から落ち、私の手元を覗き込む影が差した。
振り向けば、宰相副官クリストファー様が立っていた。
いつもと変わらぬ柔らかな笑みを浮かべているが、その瞳は紙面を射抜くように鋭い。
「この席順案……少々、不自然ですね」
静かにそう告げると、彼は羽根ペンを取り、ためらいなく私の名を正しい位置に書き加えた。
動作は軽やかで、まるで些細な修正に過ぎぬかのよう。
だが私は、机上の書記官たちの息が詰まるのを感じ取っていた。
「この案を作成したのは、誰ですか」
問いは柔らかかった。
けれど、その場の空気は一瞬で凍りついた。
若い書記官が青ざめ、声を震わせて答える。
「……下級補佐の一人が、案をまとめたはずで……」
「そうですか」
クリストファー様の笑みが、ほんのわずかに深まった。
柔和なはずなのに、なぜか背筋が粟立つ。
「未熟者に重要な案を任せたのは、判断の誤りでしたね。――彼には、しばらく地方で実地を学んでいただきましょう。経験を積めば、いつか再び役に立つかもしれません」
声音はあくまで穏やかで、叱責の色さえなかった。
だが、それが実質的に「左遷」を意味しているのは、誰の耳にも明らかだった。
室内の空気がひりつき、誰もが視線を落とす。
「……承知いたしました、副官殿」
ようやく絞り出された返答に、クリストファー様はにこやかに頷き、訂正済みの文書を私の前に置いた。
「これでよろしいですね、セラフィーナ様」
「……はい」
言葉を返しながら、胸の奥に複雑な感情が渦巻いた。
確かに、私は守られた。
けれど彼は、笑顔のままで、容赦なく人を排除してみせた。
その姿に、守られているという安堵と同時に、背筋が寒くなるような畏れを覚える。
――彼はここまでして私を支えようとしている。
だが、なぜそこまで冷徹になれるのか。その仮面の奥に、どれほどの苦しみを隠しているのか。
私は知らず、彼を見つめる視線を逸らせなかった。
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