婚約破棄された令嬢、気づけば宰相副官の最愛でした

藤原遊

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第五章 選択と未来

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外交会議の喧騒が去った宰相府は、深夜の静けさに沈んでいた。
高窓から射し込む月光が石床に淡く流れ、机上に揺れるランプの明かりと交じり合って、長机の上の文書に影を落とす。
羽根ペンの先に乾いたインクの匂いが漂い、外の風が遠くの格子窓をかすかに鳴らしていた。

官吏たちはすでに引き上げ、広い執務室に残るのは私とクリストファー様だけだった。
机に積まれた草稿を片付けようとしたとき、彼の手がそっと重なり、柔らかな声が落ちる。

「……それは、私がやります」

穏やかで、よく通る声。
けれど、紙を押さえる指先がかすかに震えている。
いつも通りの微笑を浮かべていたが、張り詰めすぎた気配に、私は胸がざわついた。

「クリストファー様……本当に、大丈夫ですか?」

問いかけると、彼は口元に笑みを留めたまま、すぐには答えなかった。
代わりに羽根ペンを机に置き、積まれた草稿を一枚ずつ整える。
すでに揃っているはずの紙を、何度も何度も端を合わせ、整える動作に逃げる。
やがて小さく吐息をつき、窓の外へと目をやった。

月明かりを映したガラス越しに、彼はしばし黙したまま立ち尽くす。
喉の奥で言葉を飲み込み、再び息を吐く。
沈黙が重くのしかかり、私の鼓動が大きく響いていた。
けれど私は視線を逸らさなかった。彼が言葉を探していることを悟っていたから。

長い逡巡の末、ようやく彼は低く声を落とした。

「……私は、かつて家族を失いました」

抑えた言葉が、深夜の静寂を裂いた。

「外交の失敗は、商家にとっても致命です。交易が途絶え、我が家もその余波に呑まれました。父も母も、兄たちも……皆、散り散りになり、それきり会えてはいない」

淡々と語られる声の奥に、深い痛みが刻まれていた。
微笑を崩さずに語るその姿が、かえって胸を締め付ける。

「それ以来、私は喪失を知りすぎたのです。だから副官として、冷徹であろうと努めてきた。外交の失策は国を傷つけ、人々の生活を奪う。二度と繰り返すわけにはいかない」

彼の声は静かで、理路整然としていた。
けれど最後の一節に差しかかると、ほんのわずかに揺れを帯びる。

「……それでも、今は違う。職務や国のためだけではない。……守りたいものが、できてしまったのです」

苦しげに笑みを浮かべ、彼は目を伏せた。
名を告げることはなかった。
だが、彼の言葉に込められた重みは、痛いほどに伝わってくる。

私は深く息を吸い、静かに告げた。

「……その重さを、一人で背負わなくてもいいのです」

その言葉に、彼の瞳がかすかに揺れた。

「無理に強くあろうとしなくても……私は、あなたの隣にいます。笑顔の奥に隠した痛みを、せめて私だけは知っていたい」

その瞬間、彼の仮面が崩れた。
苦しげで、悲しげで、それでも人を惹きつける美しい表情。
ランプの灯火が揺らめき、彼の横顔を柔らかく照らす。

「……セラフィーナ嬢」

名を呼ぶ声は震え、夜の静けさが二人を包み込む。
言葉はそれ以上紡がれなかったが、互いの心を映す視線だけが、長く交わされていた。
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