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第五章 選択と未来
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深夜の宰相府は、音が吸い込まれたかのように静まり返っていた。
広い執務室には私とクリストファー様しかおらず、机上に置かれたランプの炎が橙色の光を揺らめかせている。
窓の外では風が石壁を撫で、遠くの時計の針が規則正しく刻む音だけが響いていた。
積み上げられた文書と羽根ペンからは、乾いた紙とインクの匂いがかすかに漂っている。
私は黙して隣に座る彼を見守った。
先ほどの吐露の後も、クリストファー様は変わらぬ穏やかな笑みを口元に宿していた。
だが、その唇は強張り、瞳の奥には微かな揺らぎが宿っている。
完璧な仮面を保ちながらも、崩壊寸前のような緊張が感じ取れた。
彼は机に置いた両手を組み、強く握りしめた。
指が白くなるほどに力がこもり、しばらくして解かれる。
再び指を組み、またほどく。
その無駄な繰り返しに、内心の葛藤が透けて見えた。
やがて視線を窓の外へ移す。
月明かりがガラス越しに反射し、彼の横顔を淡く照らした。
口元が小さく動きかけるが、言葉にはならない。
ひとつ、ふたつ、押し殺した吐息が落ちる。
その沈黙の間に、彼の胸の内で無数の思いがせめぎ合っているのを、私は痛いほど感じた。
待つしかなかった。
軽々しく問いかけることも、慰めることもできない。
ただ、彼が言葉を見つけ出すまで、息を潜めて見守るしかなかった。
長い時間の後――。
「……君を守りたい」
低く、掠れるような声が落ちた。
堰を切ったように、それは重く響いた。
甘い告白ではなく、誓いに似た響き。
言葉そのものよりも、そこに込められた想いが胸を打つ。
私は瞬きを忘れ、彼を凝視した。
仮面ははっきりと綻んでいた。
橙の灯火に照らされた横顔は、これまで見たことのないほど脆く、美しい。
冷徹であるはずの副官ではなく、一人の人間としての彼がそこにいた。
「……クリストファー様」
名を呼ぶだけで、声が震えた。
言葉を継げば、この瞬間が壊れてしまいそうで、口を閉ざしたまま視線を重ねる。
炎の光がまた揺れる。
その明かりに映し出された彼の瞳は、迷いと決意を併せ持ち、私をまっすぐに映していた。
「どれほどの陰謀に呑まれようとも……私は、守りたい」
再び落ちた声は、深く胸に刻み込まれる。
宰相府の静寂の中、彼の誓いだけが鮮やかに響き続けていた。
広い執務室には私とクリストファー様しかおらず、机上に置かれたランプの炎が橙色の光を揺らめかせている。
窓の外では風が石壁を撫で、遠くの時計の針が規則正しく刻む音だけが響いていた。
積み上げられた文書と羽根ペンからは、乾いた紙とインクの匂いがかすかに漂っている。
私は黙して隣に座る彼を見守った。
先ほどの吐露の後も、クリストファー様は変わらぬ穏やかな笑みを口元に宿していた。
だが、その唇は強張り、瞳の奥には微かな揺らぎが宿っている。
完璧な仮面を保ちながらも、崩壊寸前のような緊張が感じ取れた。
彼は机に置いた両手を組み、強く握りしめた。
指が白くなるほどに力がこもり、しばらくして解かれる。
再び指を組み、またほどく。
その無駄な繰り返しに、内心の葛藤が透けて見えた。
やがて視線を窓の外へ移す。
月明かりがガラス越しに反射し、彼の横顔を淡く照らした。
口元が小さく動きかけるが、言葉にはならない。
ひとつ、ふたつ、押し殺した吐息が落ちる。
その沈黙の間に、彼の胸の内で無数の思いがせめぎ合っているのを、私は痛いほど感じた。
待つしかなかった。
軽々しく問いかけることも、慰めることもできない。
ただ、彼が言葉を見つけ出すまで、息を潜めて見守るしかなかった。
長い時間の後――。
「……君を守りたい」
低く、掠れるような声が落ちた。
堰を切ったように、それは重く響いた。
甘い告白ではなく、誓いに似た響き。
言葉そのものよりも、そこに込められた想いが胸を打つ。
私は瞬きを忘れ、彼を凝視した。
仮面ははっきりと綻んでいた。
橙の灯火に照らされた横顔は、これまで見たことのないほど脆く、美しい。
冷徹であるはずの副官ではなく、一人の人間としての彼がそこにいた。
「……クリストファー様」
名を呼ぶだけで、声が震えた。
言葉を継げば、この瞬間が壊れてしまいそうで、口を閉ざしたまま視線を重ねる。
炎の光がまた揺れる。
その明かりに映し出された彼の瞳は、迷いと決意を併せ持ち、私をまっすぐに映していた。
「どれほどの陰謀に呑まれようとも……私は、守りたい」
再び落ちた声は、深く胸に刻み込まれる。
宰相府の静寂の中、彼の誓いだけが鮮やかに響き続けていた。
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