愛を選んだ夫と離縁しましたが、私はもう振り返りません

藤原遊

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第6話 宣言

翌朝、エレナはいつもより早く目を覚ました。

眠れなかったわけではない。ただ、目を閉じている時間がもう終わったのだと、体の方が先に理解していた。

部屋を出ると、廊下はまだ静かだった。食堂からは、昨夜の片づけのあとに残った匂いがかすかに漂ってくる。見慣れたはずの宿の朝なのに、今日は少しだけ遠く感じた。

それでもやることはある。

エレナはいつものように厨房へ入り、湯を沸かし、朝の仕込みに取りかかった。手を動かしている間は余計なことを考えずに済む。そう思ったのに、戸棚を開けるたび、鍋を持つたび、ここで過ごした年月が指先にまとわりついた。

しばらくして、ルークが下りてきた。

「手伝う」

「ありがとう」

それだけのやり取りだったが、昨夜の続きがちゃんとそこにあることは、お互い分かっていた。

ルークは慣れた手つきでパンを切り分け、鍋の火加減を見て、必要な皿を並べていく。十五とは思えない落ち着きだと、エレナは前から思っていた。小さい頃から宿の中を見て育った子だ。客の流れも、忙しくなる時間も、自然と体に入っている。

食堂の扉が開いたのは、ちょうど朝食の準備がひと段落した頃だった。

ロイドだった。

いつもと変わらない顔をしている。昨夜のことなど何もなかったような顔で、欠伸を噛み殺しながら入ってくる。

その後ろに、リリナはいなかった。

それだけで少しだけ空気がましになる気がして、エレナは自分でも驚いた。

ロイドは厨房の入口に立つと、エレナとルークを見た。

「昨夜のことだけど」

ルークの手が止まる。

エレナは鍋の蓋を閉じてから振り向いた。

「ちゃんと話そうと思ってる」

その言い方が、少しだけ遅いと思った。

けれど、今さらそこを責める気にもなれない。

エレナは手を拭き、静かに言う。

「そうね。私も話があるわ」

ロイドがわずかに眉を上げた。

「何だ」

エレナは一度だけルークを見る。息子は何も言わず、ただそこに立っていた。

それで十分だった。

「私は、この宿を出るわ」

ロイドの顔から、わずかに気の抜けたような表情が消える。

「……何だって?」

「昨夜、あなたは言ったでしょう。私がいなくても回ると」

ロイドはすぐに顔をしかめた。

「言葉の綾だ。ああいう場でいちいち――」

「私は本気で受け取ったわ」

自分でも驚くほど、声は静かだった。

怒っているわけではない。ただ、もう引き返すつもりがない声だった。

ロイドは何か言い返そうとして、それからルークを見た。

「お前が変なことを言ったのか」

「俺は何も変なこと言ってない」

ルークの返事は短かった。

エレナは続ける。

「ルークのところへ行く」

「は?」

「前に話していたでしょう。宿を始めたいと」

ロイドは露骨に顔をしかめた。

ああ、やはり覚えていなかったのだと、その表情だけで分かった。

「そんな子どもの話を本気にしてるのか」

その言葉に、ルークが口を開きかける。

けれどエレナは先に言った。

「本気よ。もう準備も進めているわ」

ロイドは一瞬、言葉を失ったように黙った。

そのあとで、鼻で笑うように息を吐く。

「無茶だろ。宿ってのはそんな簡単なもんじゃない」

その言葉を聞いて、エレナはかえって落ち着いた。

昨夜までなら、まだ胸のどこかが痛んでいたかもしれない。昔を知っているぶん、言い返せない気持ちも残っていたかもしれない。

けれど今は違う。

ロイドは本当に何も見ていなかったのだと、確かめるだけになっていた。

「簡単じゃないことは知っているわ」

エレナはそう言って、目の前の厨房を見回した。

古い棚。少し傷んだ作業台。長く使ってきた鍋。

「知っているから、行くのよ」

ロイドは黙る。

そこへ、食堂の方から物音がした。早起きの客が下りてきたらしい。

ルークがそちらを振り返り、エレナを見る。

「母さん、ここは俺が出る」

「お願い」

ルークは頷いて食堂へ向かった。

ロイドはその背中を見送り、それから小さく舌打ちした。

「どうせ、すぐ戻ることになる」

その言い方に、エレナは何も返さなかった。

もう、言い争うところではないと思ったからだ。

必要なことは言った。

あとは動くだけだった。

朝食を終えたあと、エレナは自分の部屋へ戻り、小箱の中身を整理し始めた。

持っていくものは多くない。服と帳簿の控え、それから最低限の私物だけでいい。

鍵束の横に置いてあった古い布袋をたたんでいると、廊下の向こうからルークの声が聞こえた。

「荷馬車、昼には来るって」

エレナは手を止める。

昼には来る。

それはつまり、本当に今日ここを出るのだということだった。

窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっている。

エレナは布袋を持ったまま、しばらく黙っていた。

寂しさがないわけではない。

けれど、もう迷いはしなかった。

そしてそのとき、階下からリリナの明るい声が響いた。

「えっ、荷馬車って何のことですか?」

エレナはゆっくりと顔を上げた。
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