愛を選んだ夫と離縁しましたが、私はもう振り返りません

藤原遊

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第8話 再出発

古びた看板のかかった二階建ての建物は、思っていたよりずっとましだった。

壁の塗りはところどころ剥げているし、窓枠にも傷みはある。けれど建物そのものはしっかりしていて、屋根も大きく傾いてはいない。表には荷馬車を寄せやすい空きもあり、裏手には確かに物置らしい小屋が見えた。

荷馬車が止まると、ルークが先に飛び降りる。

「気をつけて」

差し出された手を借りて下りると、足元の土はよく踏み固められていた。使われなくなって長いという感じはしない。きちんと管理されていた建物なのだと分かる。

「思っていたより悪くないわね」

エレナがそう言うと、ルークは少しだけ安心したように笑った。

「だろ」

正面の扉を開けると、少し冷えた空気が流れてきた。

中は静かだったが、埃っぽさはない。閉めていた期間が短いのかもしれない。食堂は前の宿よりひと回り小さいものの、卓の配置次第ではかなり動きやすそうだった。厨房も無駄に広くないぶん、手が届きやすい。

エレナは視線を巡らせる。

入口から食堂、食堂から厨房、そして階段までの位置関係を確かめるように見ているうちに、頭の中で少しずつ動線が組み上がっていく。

「悪くないどころじゃないわ」

思わずそう口にすると、ルークが目を丸くした。

「本当?」

「ええ。少なくとも、夜遅くまで開ける宿にするなら、今の宿より回しやすいわ」

その言葉に、ルークの表情がぱっと明るくなる。

エレナはそれを見て、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

荷物を運び入れようとしたところで、表から声がした。

「お、着いたのか」

振り向くと、革鎧姿の男が二人、扉の外に立っていた。年の頃は三十前後だろうか。片方は背が高く、もう片方は片目の上に古い傷がある。どちらも見るからに冒険者だった。

ルークがすぐに顔を上げる。

「ギードさん、ハルトさん」

呼び方にためらいがない。顔見知りなのだとすぐ分かった。

「荷馬車見えたから、もしかしてと思ってな」

背の高い方――ギードと呼ばれた男が中をのぞきこむ。

「今日から入るのか?」

「うん。まだ全部は整ってないけど」

ルークがそう返すと、もう一人のハルトが笑った。

「相変わらず早ぇな。普通はもう少し準備してからだろ」

「準備してたから」

その返しがあまりに自然で、エレナは思わず息子を見る。

ルークは気負った様子もなく、当たり前みたいにそこに立っていた。

ギードが視線をエレナへ向ける。

「そちらが母上か」

「エレナです」

そう名乗ると、二人は軽く頭を下げた。

「前にルークから聞いてます。飯がうまい宿になるって」

ハルトの言い方に、ルークが少しだけ嫌そうな顔をする。

「そこまで言ってない」

「似たようなことは言ってただろ」

二人は気安く笑う。

そのやりとりを見ているうちに、エレナは少しずつ分かってきた。

ルークはただ宿をやりたいと夢を語っていただけではない。もうこの町で話を通し、人と繋がりを作っている。

ギードが食堂の中を見回しながら言う。

「この辺り、夜遅くまでちゃんと食えるとこ少ないからな。前の爺さんが店閉めてから、正直かなり困ってた」

「寝るだけなら他にもあるんだけど、荷物置き場が狭いんだよ」

ハルトが続ける。

「それに、帰りが深夜になると面倒でな。あんたが本当にやるなら助かる」

あんた、というのはルークに向けた言葉だった。

十五の子ども相手に向ける声ではない。ちゃんと相手として見ている声だった。

ルークは頷く。

「今日中に開けるのは無理でも、明日の夜には何とかしたい。部屋は半分だけ先に使えるようにするつもり」

「なら、最初の客は俺たちだな」

ギードが笑うと、ハルトも「決まりだ」と続けた。

ルークは少しだけ肩の力を抜く。

その横顔が、昨夜までとは違って見えた。宿の中にいる時の顔だ。もう客と話す側の顔になっている。

エレナはその様子を黙って見ていた。

ついさっきまで、ルークは自分の息子だった。

もちろん今もそうなのだけれど、それだけではないのだと分かる。もう外で役割を持っていて、信頼も得ている。

それは少し寂しくて、同時に嬉しかった。

「母さん」

呼ばれて顔を上げると、ルークがこちらを見ていた。

「この二人、前に物件見に来た時にも付き合ってくれたんだ。裏の物置の広さとか、冒険者目線で見てくれて」

「そうだったの」

「まあ、こいつ一人じゃ不安だったからな」

ギードが冗談めかして言う。

けれど、その声音は軽いだけではなかった。

ハルトも肩をすくめる。

「でも、見た感じ悪くねえ。ルークは細かいところちゃんと見てたし」

ルークがわずかに視線を逸らす。

照れているのだろう。

その反応がまだ十五らしくて、エレナは少しだけ可笑しくなった。

「じゃあ、俺たちは夕方また来る」

ギードがそう言って扉の方へ向かう。

「手伝えることあったら呼べよ」

ハルトも片手を上げて出ていった。

扉が閉まると、食堂はまた静かになった。

けれど、さっきまでの静けさとは違う。

これから人が入ってくる場所の静けさだった。

エレナはゆっくりと息を吐く。

「ずいぶん信頼されてるのね」

そう言うと、ルークは少し困ったように笑った。

「何回か来てるうちに、そうなっただけ」

「それが簡単じゃないのよ」

エレナがそう返すと、ルークは一瞬だけ黙る。

それから、少し照れたみたいに荷物へ手を伸ばした。

「……だから、ちゃんとやれると思ったんだ」

その声は大きくなかった。

けれど、エレナにははっきり聞こえた。

ルークは荷物を持ち上げて、二階へ向かう。

その背中を見送りながら、エレナはもう一度食堂を見回した。

小さい。けれど悪くない。

いや、むしろこのくらいの方がいいのかもしれない。顔も目も届く範囲で、ちゃんと回せる。

そのとき、裏口の方でがたんと音がした。

ルークが振り返る。

「……誰か来た?」

エレナもそちらを見る。

次の瞬間、聞き慣れない若い男の声がした。

「すみません! ここ、もう泊まれますか?」
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