愛を選んだ夫と離縁しましたが、私はもう振り返りません

藤原遊

文字の大きさ
10 / 17

第10話 安定への兆し

その日の夜、食堂に明かりを入れたのは、日が落ちてすぐだった。

まだ客が来るかどうかも分からないまま、ルークが灯りをつけ、エレナは鍋に火を入れて様子を見ていた。

最初に降りてきたのは、昼に泊まった若い冒険者だった。

入口のところで少しだけ足を止めてから、中へ入ってくる。

「食事、まだ大丈夫ですか」

「ええ、簡単なものだけになるけれど」

そう言うと、男はほっとしたように席に着いた。

ルークが水を出し、エレナが鍋の蓋を開ける。その流れは止まらず、そのまま自然に続いていく。

しばらくして扉が開き、ギードとハルトが入ってきた。

「やってるな」

「ちゃんと開いてる」

二人は中の様子を一目見て、そのまま空いている卓に腰を下ろす。

ルークが顔を上げる。

「席、そこ使って」

「分かってる」

短いやり取りだけで済む。

無理に言葉を重ねる必要はなく、空気はそのまま続いていく。

エレナは鍋をかき混ぜながら食堂を見た。

卓は三つ埋まっているだけだが、誰が何をしているか、どこに気を配るべきかがすぐに分かる。

前の宿よりずっと小さいのに、その分だけ目が届く。

「お待たせしました」

皿を運ぶ。

スープとパン、それに簡単な塩漬け肉だけ。

それでも湯気の立つ皿を前にすると、客の肩の力が少し抜けるのが分かった。

「助かる」

ハルトが短く言い、ギードはすぐにパンへ手を伸ばす。

若い冒険者も同じようにスプーンを持つ。

食堂は静かだったが、止まってはいなかった。

ルークがカウンターの向こうで帳簿をつけながら客の様子を見て、水差しを持つタイミングを外さない。

エレナは厨房と食堂を行き来しながら、必要なものをその都度整えていく。

声を張る必要はなかった。

呼ばれなくても分かる距離だった。

「母さん」

ルークが小さく声をかける。

「あそこの卓、水」

「分かってる」

それだけで足りる。

動きも間も、噛み合っていた。

前の宿では、もっと広くて、客も多くて、その分だけ見えないところもあった。

ここでは違う。

全部が手の中に収まる。

食事がひと段落した頃、若い冒険者が小さく息を吐いた。

「……いいですね、ここ」

その声は控えめだったが、はっきり聞こえた。

エレナは顔を上げる。

「そう?」

「はい。静かで、落ち着きます」

言いながら、少しだけ視線を下げる。

ギードが横から笑う。

「分かる。広すぎないのがいいんだ」

「ちゃんと見てもらえてる感じがあるな」

ハルトも続ける。

ルークはそれを聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。

エレナは何も言わずに、その様子を見ていた。

まだ始まったばかりの宿だが、きちんと回っている。

その感覚だけは、はっきりしていた。

若い冒険者が立ち上がる。

「明日、仲間にも教えます」

「助かる」

ルークがそう返す。

その言い方には迷いがなかった。

客はそれぞれ部屋へ戻っていき、食堂に静けさが戻る。

エレナは皿をまとめながら、ふと手を止めた。

この感じは知っている。

宿が、ちゃんと宿として動き始めた時の空気だった。

「母さん」

ルークが呼ぶ。

振り向くと、少しだけ笑っている。

「やれそうだ」

エレナは頷く。

「ええ」

短く返す。

それで十分だった。

そのとき、扉の向こうで足音が止まり、少し間を置いてから控えめな声がした。

「……まだ、部屋はありますか?」
感想 1

あなたにおすすめの小説

実兄の婚約者に恋した貴方を、私はもう愛さない。その椅子、行方不明のお兄様のものですよね?

恋せよ恋
恋愛
「ヘンリエッタ侯爵令嬢が可哀想だと思わないのか!」 海難事故で行方不明の兄の婚約者にうつつを抜かし、 私を放置した上に、怒鳴りつける婚約者シモン。 14歳から積み上げた3年間の信頼は、 ヘンリエッタ様の「嘘泣き」でゴミ箱に捨てられた。 いいですよ、どうぞお二人でお幸せに。 でも忘れないで。あなたが今守っているその席は、 「生きて帰ってきた」お兄様のものなんですよ。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

愛していました苦しくて切なくてもう限界です

ララ愛
恋愛
アリサは騎士の婚約者がいる。彼が護衛している時に弟が飛び出してしまいそれをかばうのにアリサが怪我をしてしまいその償いに婚約が決まった経過があり愛されているわけではない。わかっていたのに彼が優しい眼で女騎士の同期と一緒にいる時苦しくてたまらない・・・切ないのは私だけが愛しているから切なくてもう限界・・・

家出を決行した結果

恋愛
フィービーの婚約者ミゲルには大切な幼馴染がいる。病弱な幼馴染をいつも優先するミゲルや母が亡くなって以降溝が出来てしまった父と兄との関係にフィービーは疲れていた。 デートの約束をしてもいつも直前になって幼馴染を理由にキャンセルされ、幼馴染にしか感情を見せないミゲルを、フィービーを見ようとしない父や兄を捨てる決心をしたフィービーは侍女や執事の手を借りて家出を決行した。 自分を誰も知らない遠い場所へ行ったフィービーは、新しい人生の幕開けに期待に胸を躍らせた。 ※なろうさんにも公開しています。

真面目で裏切らない夫を信じていた私

クロユキ
恋愛
親族で決めた結婚をしたクレアは、騎士の夫アルフォートと擦れ違う日が続いていた。 真面目で女性の話しが無い夫を信じていた。 誤字脱字があります。 更新が不定期ですがよろしくお願いします。

初夜に放置された花嫁は、不誠実な男を許さない~不誠実な方とはお別れして、誠実な方と幸せになります~

明衣令央
恋愛
初夜に新郎は元婚約者の元へと走り、放置された侯爵令嬢セシリア。 悲しみよりも屈辱と怒りを覚えた彼女は、その日のうちに父に連絡して実家に帰り、結婚相手に婚姻無効叩きつけた。 セシリアを軽んじた新郎と元婚約者は、社交界の制裁を受けることになる。 追い詰められた元婚約者の男爵家が放った刺客に襲われそうになったセシリアを救ったのは、誠実で不器用な第三騎士団副隊長レオン。 「放置どころか、一晩中、離すつもりはないよ」 初夜から始まったセシリアの物語は、やがて前回とは違う初夜へと辿り着く――。

【完結】愛したあなたは本当に愛する人と幸せになって下さい

高瀬船
恋愛
伯爵家のティアーリア・クランディアは公爵家嫡男、クライヴ・ディー・アウサンドラと婚約秒読みの段階であった。 だが、ティアーリアはある日クライヴと彼の従者二人が話している所に出くわし、聞いてしまう。 クライヴが本当に婚約したかったのはティアーリアの妹のラティリナであったと。 ショックを受けるティアーリアだったが、愛する彼の為自分は身を引く事を決意した。 【誤字脱字のご報告ありがとうございます!小っ恥ずかしい誤字のご報告ありがとうございます!個別にご返信出来ておらず申し訳ございません( •́ •̀ )】

6年前の私へ~その6年は無駄になる~

夏見颯一
恋愛
モルディス侯爵家に嫁いだウィニアは帰ってこない夫・フォレートを待っていた。6年も経ってからようやく帰ってきたフォレートは、妻と子供を連れていた。 テンプレものです。テンプレから脱却はしておりません。

悔しいでしょう?

藍田ひびき
恋愛
「済まないが、君を愛することはできない」 結婚式の夜、セリーヌは夫であるシルヴァン・ロージェル伯爵令息からそう告げられた。 メロディ・ダルトワ元男爵令嬢――王太子を篭絡し、婚約破棄騒動を引き起こした美貌の令嬢を、シルヴァンは未だに想っていたのだ。 セリーヌは夫の身勝手な言い分を認める代わりに、とある願い事をするが…? 婚約破棄騒動に巻き込まれた女性が、ちょっとした仕返しをする話。 ※ なろうにも投稿しています。