愛を選んだ夫と離縁しましたが、私はもう振り返りません

藤原遊

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第12話 不和

違和感は、その日の昼にはもうはっきり形になっていた。

食堂の客足が落ち着いたあと、ロイドは厨房の棚を開けたり閉めたりしながら、ようやく在庫表を見つけた。引き出しの奥に挟まっていた古い控えだ。だがそれを見ても、今夜の仕込みに何が足りないのか、ひと目では分からなかった。

前なら、そこまで考えなくても食事は出ていた。

鍋に何を入れるか、昨日どこまで使ったか、次の仕入れまで何を優先して減らすべきか。気づけば全部整っていたからだ。

「ねえ、これでいいんじゃない?」

リリナが覗きこんでくる。

手には干し肉を持っていた。

「これ、細かく切って豆と一緒に煮れば食べられるでしょう。あとはパンでも出せば十分よ」

ロイドは眉をひそめる。

「昨日もそれを出しただろ」

「でも、まだあるじゃない」

「あるからって、そればかりで済むか」

言い返しながらも、他にすぐ使える材料が頭に浮かばない。

野菜は少ない。塩漬け肉も、このまま使えば二日もたない。魚は昨日のうちに使い切っていた。補充の手配をするべきだったのに、朝から予約のことで頭がいっぱいで、そこまで手が回らなかった。

厨房の隅で、下働きの少女が遠慮がちに口を開く。

「……奥様は、こういう時は卵料理にしてました」

ロイドはそちらを見た。

「卵?」

「はい。野菜が少ない時は、刻んだ干し肉を少しだけ混ぜて、焼いて……それでスープを薄めないようにして」

少女の声は小さいが、言っていることは具体的だった。

ロイドは一瞬だけ黙る。

そんなやり方があったのかと思ったが、それを口にするのも癪だった。

「分かった。ならそうしろ」

すると少女は困った顔をした。

「その、味つけが……」

ロイドは舌打ちしそうになるのをこらえた。

結局、自分では分からない。

どこまで塩を入れるのか、どのくらい火を通すのか、卵を何個使えば足りるのか、その加減が頭に入っていなかった。

リリナが腕を組む。

「別に、少しくらい味が違っても大丈夫でしょ」

その言い方に、ロイドはとうとう声を荒げた。

「大丈夫じゃないから言ってるんだ」

厨房の空気が止まる。

下働きの少女が肩をすくめ、リリナは露骨に不満そうな顔をした。

「そんなに怒らなくてもいいじゃない。たかがご飯でしょ」

たかが。

その一言が、妙に耳に残った。

ロイドは何も言い返さなかった。ただ、そのまま鍋の前に立ち、棚の中身をもう一度見直す。

前は、客が多い日でもここまで厨房が荒れたことはない。

忙しいことはあった。足りない日だってあった。だが足りないなら足りないなりに、出すものはきちんと整っていた。客の機嫌を損ねないように、量や順番を変えていたのだろう。ロイドはそこで初めて、そんなことをぼんやり思う。

思うだけで、やり方は分からないのだが。

夜になり、食堂に客が集まり始める。

ロイドはできあがった料理を見て、ひとまずこれで押し切るしかないと腹をくくった。豆の煮込みに、干し肉入りの卵焼き、それに少し硬くなりかけたパン。

見た目は悪くない。

だが最初の一皿を出した時点で、嫌な予感はあった。

二番卓の男が、ひと口食べてすぐに顔をしかめたのだ。

「しょっぱいな、これ」

声は大きくなかったが、近くの卓には十分聞こえた。

「そうか?」

向かいの連れが同じように口に運び、それから水を飲む。

「……いや、たしかにしょっぱい」

ロイドは聞こえないふりをして、次の皿を出そうとした。

けれど今度は別の卓で声が上がる。

「こっちは味が薄いぞ」

ロイドは足を止めた。

薄いのか、しょっぱいのか、どっちだ。

頭の中でそんなことを考えているうちに、別の客がパンを指で押して言う。

「固くないか? 昨日のやつか、これ」

ざわつきは、小さいまま広がった。

大声で怒鳴る客はいない。

それでも、卓ごとに不満が残るのが分かる。

リリナが配膳をしながら小声で言う。

「少しぐらい、気にしすぎよ」

「客は気にしてる」

ロイドが低く返すと、リリナは口を尖らせた。

「みんな文句ばっかり」

その言い方がさらにまずいと思ったが、もう注意している余裕もなかった。

そのとき、奥の卓で聞き覚えのある声がした。

「前は、もう少しまともだったよな」

ロイドはそちらを見た。

古くから来ている常連客だった。月に何度か泊まり、食堂でもよく酒を飲む男だ。普段は細かいことを言わない。その男が皿を見下ろしながら、連れに向かってぼそりと続ける。

「……奥さんがいなくなったって、本当か」

その言葉に、ロイドは何も言えなかった。

聞こえないふりをするには、近すぎた。

連れの男が曖昧に笑う。

「さあな」

「さっきから、宿の回り方がおかしい」

そう言われて、ロイドの手が止まる。

気づかれている。

自分が思っていたより、ずっと早く。

客は料理だけを見ているわけではない。皿の出る順番も、給仕の間も、食堂の空気も見ている。前はまともだった、というたった一言で、それが全部伝わってしまう。

リリナがその卓に近づこうとしたが、ロイドは低く言った。

「行くな」

「なんで?」

「今は余計なことを言うな」

リリナはむっとしたまま立ち止まる。

だがその間にも、厨房の奥では鍋が吹きこぼれ、別の卓では水差しが空になっていた。

ロイドは皿を持ったまま、少しの間その場に立ち尽くす。

前は、こんなふうに全部が同時に崩れることはなかった。

そしてその夜の終わり、流しの脇に置かれた食べ残しの皿が、いつもよりはっきり多いことに、ロイドは気づいてしまった。
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