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第19話 流れ
翌朝、エレナは宿の裏口から外へ出た。
空気はまだ少し冷たく、朝のうちは人通りも多くない。けれど、仕入れの荷車が通るにはちょうどいい時間だった。
ルークはすでに帳場の確認を始めている。食堂の方は任せて問題ないと分かっていたから、エレナは一人で町の市場へ向かった。
今の宿は、まだ軌道に乗ったばかりだ。
客は増えている。評判も悪くない。けれど、こういう時ほど仕入れが大事になる。足りなければ客を逃すし、多すぎれば余る。前の宿で何度もそういう日を見てきたから、エレナにはそれがよく分かっていた。
市場の端にある八百屋へ行くと、店主の女が顔を上げた。
「あら、最近あの新しい宿に入った人じゃない」
もう覚えられているらしい。
エレナは少し笑って頭を下げた。
「エレナです。少し相談したいことがあって」
「相談?」
女は手を止める。
エレナは店先に並んだ野菜を見ながら言った。
「今のところ、客の入りが日によって読みにくいんです。だから毎日まとめて多く取るより、少しずつでも質のいいものを安定して入れたい」
女は目を細める。
「贅沢言うね」
「そうね。でも、今の宿は大きくないから、量より回り方の方が大事なの」
そう言いながら、エレナは並んだ葉物を手に取る。傷みかけているものと、まだ持つものの差を見て、次に根菜へ視線を移す。
「このあたりなら日持ちもするし、使い回しもしやすいわね。あとは卵が切れないようにしたい」
女は腕を組む。
「毎日寄るつもり?」
「必要なら」
「面倒だよ」
そう言いながらも、追い返す顔ではなかった。
エレナは少し間を置いてから続ける。
「その代わり、こっちも無駄にしない。余らせない量で回すし、忙しい日が読めたら前日に伝える。町外れの宿だから、荷車を寄こしてもらう手間があるのも分かってる」
女はしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「細かいね、あんた」
「よく言われるわ」
「嫌いじゃないよ、そういうの」
そこでようやく、少しだけ口元が緩む。
「じゃあ、最初は三日見よう。その間に、どのくらい動くか見せてごらん」
エレナは頷いた。
「助かるわ」
「その代わり、量が読めなかった時は早めに言いな。こっちだって遊びじゃないんだから」
「ええ、もちろん」
話がまとまる。
それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ軽くなった。
次に肉屋へ向かう。こちらは前の宿でも何度か顔を合わせたことのある男で、エレナを見るなり「あんた、移ったって聞いたぞ」と言った。
噂は早い。
「ええ。今はルークの宿を手伝っているの」
「息子のとこか。で、今日は何だ」
「毎日じゃなくていいの。けれど、切らしたくない」
男は眉をひそめる。
「また面倒な頼み方だな」
「そうかしら」
「そうだよ。まとめて買ってくれた方が楽に決まってる」
その言い方はぶっきらぼうだが、完全に断る気ではない。エレナはすぐに続けた。
「まとめて買って余らせるより、質を落とさずに出したいの。今の宿は、それで客がついているから」
男はエレナをしばらく見ていた。
その視線に覚えがあった。値段だけの話をしに来た客ではないかどうか、見ている目だ。
「前の宿でも、そうやって回してたのか」
「ええ」
「ロイドのところか」
その名前が出ても、エレナの顔は動かなかった。
「今は違うけれど」
男はそこで何かを察したようだった。
それ以上は聞かず、代わりに店の奥から肉の塊をいくつか持ってくる。
「日持ちする分と、すぐ使う分を分けてやる。だが、毎日都合よくってわけにはいかねえぞ」
「それで十分よ」
「あと、内臓はいるか」
エレナは少し考えた。
「処理済みなら」
男が笑う。
「分かってるじゃねえか」
八百屋と肉屋を回り終えた頃には、日が少し高くなっていた。
宿へ戻る道すがら、エレナは頭の中で今夜の献立を組み立てていた。客の顔ぶれ、連泊の有無、帰りの遅さ。今の仕入れなら、無理なく回せる。
宿に戻ると、ルークが食堂の卓を拭いていた。
「どうだった」
「話はついたわ」
そう言って荷を見せると、ルークが少し目を見開く。
「もう?」
「三日だけ様子見だけどね」
ルークはすぐに荷を受け取った。
「助かる」
その言葉が自然に出る。
エレナは厨房へ入り、仕入れたばかりの野菜を並べる。前より狭い厨房なのに、今はその方が動きやすい。何をどこへ置くかが、すぐに決まる。
ルークが後ろから覗き込む。
「肉屋も?」
「ええ。毎日少しずつになるけど、その方がいいでしょう」
「うん。その方が回しやすい」
返事が早い。
感覚が揃っているのだと分かる。
そのとき、表からまた客の声がした。
「すみませーん、今夜の空きってありますか?」
ルークが顔を上げる。
エレナは思わず口元を緩めた。
仕入れを整えたその日に、もう次の客が来る。
悪くない流れだった。
空気はまだ少し冷たく、朝のうちは人通りも多くない。けれど、仕入れの荷車が通るにはちょうどいい時間だった。
ルークはすでに帳場の確認を始めている。食堂の方は任せて問題ないと分かっていたから、エレナは一人で町の市場へ向かった。
今の宿は、まだ軌道に乗ったばかりだ。
客は増えている。評判も悪くない。けれど、こういう時ほど仕入れが大事になる。足りなければ客を逃すし、多すぎれば余る。前の宿で何度もそういう日を見てきたから、エレナにはそれがよく分かっていた。
市場の端にある八百屋へ行くと、店主の女が顔を上げた。
「あら、最近あの新しい宿に入った人じゃない」
もう覚えられているらしい。
エレナは少し笑って頭を下げた。
「エレナです。少し相談したいことがあって」
「相談?」
女は手を止める。
エレナは店先に並んだ野菜を見ながら言った。
「今のところ、客の入りが日によって読みにくいんです。だから毎日まとめて多く取るより、少しずつでも質のいいものを安定して入れたい」
女は目を細める。
「贅沢言うね」
「そうね。でも、今の宿は大きくないから、量より回り方の方が大事なの」
そう言いながら、エレナは並んだ葉物を手に取る。傷みかけているものと、まだ持つものの差を見て、次に根菜へ視線を移す。
「このあたりなら日持ちもするし、使い回しもしやすいわね。あとは卵が切れないようにしたい」
女は腕を組む。
「毎日寄るつもり?」
「必要なら」
「面倒だよ」
そう言いながらも、追い返す顔ではなかった。
エレナは少し間を置いてから続ける。
「その代わり、こっちも無駄にしない。余らせない量で回すし、忙しい日が読めたら前日に伝える。町外れの宿だから、荷車を寄こしてもらう手間があるのも分かってる」
女はしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「細かいね、あんた」
「よく言われるわ」
「嫌いじゃないよ、そういうの」
そこでようやく、少しだけ口元が緩む。
「じゃあ、最初は三日見よう。その間に、どのくらい動くか見せてごらん」
エレナは頷いた。
「助かるわ」
「その代わり、量が読めなかった時は早めに言いな。こっちだって遊びじゃないんだから」
「ええ、もちろん」
話がまとまる。
それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ軽くなった。
次に肉屋へ向かう。こちらは前の宿でも何度か顔を合わせたことのある男で、エレナを見るなり「あんた、移ったって聞いたぞ」と言った。
噂は早い。
「ええ。今はルークの宿を手伝っているの」
「息子のとこか。で、今日は何だ」
「毎日じゃなくていいの。けれど、切らしたくない」
男は眉をひそめる。
「また面倒な頼み方だな」
「そうかしら」
「そうだよ。まとめて買ってくれた方が楽に決まってる」
その言い方はぶっきらぼうだが、完全に断る気ではない。エレナはすぐに続けた。
「まとめて買って余らせるより、質を落とさずに出したいの。今の宿は、それで客がついているから」
男はエレナをしばらく見ていた。
その視線に覚えがあった。値段だけの話をしに来た客ではないかどうか、見ている目だ。
「前の宿でも、そうやって回してたのか」
「ええ」
「ロイドのところか」
その名前が出ても、エレナの顔は動かなかった。
「今は違うけれど」
男はそこで何かを察したようだった。
それ以上は聞かず、代わりに店の奥から肉の塊をいくつか持ってくる。
「日持ちする分と、すぐ使う分を分けてやる。だが、毎日都合よくってわけにはいかねえぞ」
「それで十分よ」
「あと、内臓はいるか」
エレナは少し考えた。
「処理済みなら」
男が笑う。
「分かってるじゃねえか」
八百屋と肉屋を回り終えた頃には、日が少し高くなっていた。
宿へ戻る道すがら、エレナは頭の中で今夜の献立を組み立てていた。客の顔ぶれ、連泊の有無、帰りの遅さ。今の仕入れなら、無理なく回せる。
宿に戻ると、ルークが食堂の卓を拭いていた。
「どうだった」
「話はついたわ」
そう言って荷を見せると、ルークが少し目を見開く。
「もう?」
「三日だけ様子見だけどね」
ルークはすぐに荷を受け取った。
「助かる」
その言葉が自然に出る。
エレナは厨房へ入り、仕入れたばかりの野菜を並べる。前より狭い厨房なのに、今はその方が動きやすい。何をどこへ置くかが、すぐに決まる。
ルークが後ろから覗き込む。
「肉屋も?」
「ええ。毎日少しずつになるけど、その方がいいでしょう」
「うん。その方が回しやすい」
返事が早い。
感覚が揃っているのだと分かる。
そのとき、表からまた客の声がした。
「すみませーん、今夜の空きってありますか?」
ルークが顔を上げる。
エレナは思わず口元を緩めた。
仕入れを整えたその日に、もう次の客が来る。
悪くない流れだった。
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