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第27話 懇願
「戻ってきてくれ」
ロイドがそう言った瞬間、食堂の空気がわずかに止まった。
大きな声ではなかった。
けれど近くにいた客には十分聞こえたのだろう。卓のひとつで話していた男たちの声が途切れ、入口の近くに立っていた客も視線だけをこちらへ向ける。
エレナはしばらく何も言わなかった。
予想していなかったわけではない。
ここまで来て、ただ謝るだけで終わるはずがないことは分かっていた。けれど、実際にその言葉を聞くと、胸の奥に何かが戻るわけではなかった。ただ静かに、ああやっぱりそう言うのだ、と思うだけだった。
ルークが一歩前に出る。
「何しに来たのかと思ったら、それ?」
声は低かったが、怒鳴ってはいない。
それでも、はっきりとした拒絶があった。
ロイドは息子を見る。
「話を――」
「話ならさっき聞いた」
ルークは言い切る。
「悪かったとか、分かったとか、そういうのを聞きたかったわけじゃないんだけど」
食堂の奥で、皿の触れ合う音が小さく鳴った。
エレナはそれを聞きながら、布巾を手の中でたたむ。指先は落ち着いていた。昔なら、この場を丸く収めようとしたかもしれない。ロイドを立てる言葉を探していたかもしれない。
でも、もうそんな気にはならなかった。
ロイドは視線をエレナへ戻す。
「宿が、もう限界なんだ」
その一言に、エレナは少しだけ目を細めた。
限界。
その言葉を、ようやく口にしたのかと思った。
「人も足りない。仕入れも回らない。客も減ってる。お前がいなくなってから、全部が少しずつ崩れて――」
「私がいなくなってから?」
エレナは静かに聞き返した。
責める声ではない。ただ、言葉の形を確かめるような声音だった。
ロイドはそこで一瞬だけ言葉を止める。
「そうだ」
「私は、自分で出ていくと言ったのではなかったと思うけれど」
その言葉に、ロイドの顔がわずかに強ばる。
ルークは何も言わない。けれど、口元はもう冷たく固まっていた。
エレナは続ける。
「あなたが、いなくても回ると言ったのよ」
食堂の空気は静かなままだった。
騒ぐ者はいない。なのに、その場にいる客たちまでが息を潜めているのが分かる。
ロイドは視線を逸らした。
「……あの時は、そう思っていた」
「今は違うのね」
「違う」
返事は早かった。
迷いがないというより、そこだけはもうごまかせないと分かっている声だった。
「違う。お前が必要だ。ルークもだ。二人がいないと宿が回らない」
ルークが小さく息を吐く。
呆れた時の癖だと、エレナは知っていた。
「それで、戻ってきてくれ?」
「そうだ」
ロイドはようやく正面からエレナを見る。
「戻ってきてくれ。今なら、ちゃんと――」
その先を聞く前に、エレナの中で何かが完全に切れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、もう本当に終わっていたのだと、きれいに分かった。
ちゃんと何なのか。
ちゃんと見る?
ちゃんと分かる?
ちゃんと大事にする?
どれを言われても、もう遅い。
必要だから戻れと言われているだけで、失ったものそのものに向き合っているわけではないことが、今のエレナにははっきり見えた。
ロイドが困っている。
宿が回らない。
だから戻ってほしい。
その順番の中に、自分の気持ちは最初から入っていない。
「……ロイド」
エレナが名前を呼ぶと、ロイドの肩がわずかに動いた。
昔は、その小さな反応を見ただけで、何を言うべきか考えたものだった。
今は違う。
「あなた、自分が何を言っているのか分かってる?」
ロイドは答えない。
答えられないのだろうと思った。
「私は、困っている宿を立て直すための道具じゃないわ」
声は静かだった。
けれど、その場にいる誰よりもはっきり届いたはずだ。
「あなたが欲しいのは、私ではなくて、私がしていた仕事でしょう」
その言葉に、ロイドの顔色が変わる。
否定したいのだろう。
けれど、すぐには言葉が出てこない。
それが答えだった。
ルークがそこで初めて口を開いた。
「母さん、もう十分だよ」
短い言葉だった。
だが、そこにはロイドに対する遠慮がもう何もなかった。
「父さんが必要なのは母さんじゃない。前みたいに、自分が何もしなくても回る状態だろ」
「ルーク」
ロイドが低く呼ぶ。
「違う」
「違わないよ」
ルークは間を置かなかった。
「母さんがどれだけやってたか、父さんは今まで見てなかった。見てなかったくせに、今さら必要だって言われても遅い」
エレナは息子を見る。
十五の子が言うには、あまりにもまっすぐな言葉だった。
けれど、そのまっすぐさに救われるところもあった。自分が言葉を選ばなくても、もうこの子はちゃんと見えている。
ロイドは何か言い返そうとして、結局口を閉じた。
食堂の奥で、客の一人が小さく椅子を引く音がした。それで我に返ったように、ロイドが視線を動かす。
ここはもう、自分の宿ではない。
自分の声で押し切れる場所でもない。
その現実を、今さらのように受け止めた顔だった。
エレナは布巾を静かに置いた。
「話は終わりよ」
それだけ言うと、ロイドの目が揺れる。
まだ何かを言いたげだった。謝罪なのか、言い訳なのか、それとも本当に別の言葉なのかは分からない。けれど、もう聞く必要はないと思った。
ロイドが遅すぎたように、エレナももう戻らないところまで来ていた。
そのとき、厨房の方から鍋の蓋が小さく鳴った。
エレナはそちらへ振り返る。
戻る場所は、もう決まっている。
前ではなく、今いるこの場所だ。
ロイドはまだ立ち尽くしていた。
その姿を見ても、胸は動かなかった。
ただ、終わったのだと分かるだけだった。
ロイドがそう言った瞬間、食堂の空気がわずかに止まった。
大きな声ではなかった。
けれど近くにいた客には十分聞こえたのだろう。卓のひとつで話していた男たちの声が途切れ、入口の近くに立っていた客も視線だけをこちらへ向ける。
エレナはしばらく何も言わなかった。
予想していなかったわけではない。
ここまで来て、ただ謝るだけで終わるはずがないことは分かっていた。けれど、実際にその言葉を聞くと、胸の奥に何かが戻るわけではなかった。ただ静かに、ああやっぱりそう言うのだ、と思うだけだった。
ルークが一歩前に出る。
「何しに来たのかと思ったら、それ?」
声は低かったが、怒鳴ってはいない。
それでも、はっきりとした拒絶があった。
ロイドは息子を見る。
「話を――」
「話ならさっき聞いた」
ルークは言い切る。
「悪かったとか、分かったとか、そういうのを聞きたかったわけじゃないんだけど」
食堂の奥で、皿の触れ合う音が小さく鳴った。
エレナはそれを聞きながら、布巾を手の中でたたむ。指先は落ち着いていた。昔なら、この場を丸く収めようとしたかもしれない。ロイドを立てる言葉を探していたかもしれない。
でも、もうそんな気にはならなかった。
ロイドは視線をエレナへ戻す。
「宿が、もう限界なんだ」
その一言に、エレナは少しだけ目を細めた。
限界。
その言葉を、ようやく口にしたのかと思った。
「人も足りない。仕入れも回らない。客も減ってる。お前がいなくなってから、全部が少しずつ崩れて――」
「私がいなくなってから?」
エレナは静かに聞き返した。
責める声ではない。ただ、言葉の形を確かめるような声音だった。
ロイドはそこで一瞬だけ言葉を止める。
「そうだ」
「私は、自分で出ていくと言ったのではなかったと思うけれど」
その言葉に、ロイドの顔がわずかに強ばる。
ルークは何も言わない。けれど、口元はもう冷たく固まっていた。
エレナは続ける。
「あなたが、いなくても回ると言ったのよ」
食堂の空気は静かなままだった。
騒ぐ者はいない。なのに、その場にいる客たちまでが息を潜めているのが分かる。
ロイドは視線を逸らした。
「……あの時は、そう思っていた」
「今は違うのね」
「違う」
返事は早かった。
迷いがないというより、そこだけはもうごまかせないと分かっている声だった。
「違う。お前が必要だ。ルークもだ。二人がいないと宿が回らない」
ルークが小さく息を吐く。
呆れた時の癖だと、エレナは知っていた。
「それで、戻ってきてくれ?」
「そうだ」
ロイドはようやく正面からエレナを見る。
「戻ってきてくれ。今なら、ちゃんと――」
その先を聞く前に、エレナの中で何かが完全に切れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、もう本当に終わっていたのだと、きれいに分かった。
ちゃんと何なのか。
ちゃんと見る?
ちゃんと分かる?
ちゃんと大事にする?
どれを言われても、もう遅い。
必要だから戻れと言われているだけで、失ったものそのものに向き合っているわけではないことが、今のエレナにははっきり見えた。
ロイドが困っている。
宿が回らない。
だから戻ってほしい。
その順番の中に、自分の気持ちは最初から入っていない。
「……ロイド」
エレナが名前を呼ぶと、ロイドの肩がわずかに動いた。
昔は、その小さな反応を見ただけで、何を言うべきか考えたものだった。
今は違う。
「あなた、自分が何を言っているのか分かってる?」
ロイドは答えない。
答えられないのだろうと思った。
「私は、困っている宿を立て直すための道具じゃないわ」
声は静かだった。
けれど、その場にいる誰よりもはっきり届いたはずだ。
「あなたが欲しいのは、私ではなくて、私がしていた仕事でしょう」
その言葉に、ロイドの顔色が変わる。
否定したいのだろう。
けれど、すぐには言葉が出てこない。
それが答えだった。
ルークがそこで初めて口を開いた。
「母さん、もう十分だよ」
短い言葉だった。
だが、そこにはロイドに対する遠慮がもう何もなかった。
「父さんが必要なのは母さんじゃない。前みたいに、自分が何もしなくても回る状態だろ」
「ルーク」
ロイドが低く呼ぶ。
「違う」
「違わないよ」
ルークは間を置かなかった。
「母さんがどれだけやってたか、父さんは今まで見てなかった。見てなかったくせに、今さら必要だって言われても遅い」
エレナは息子を見る。
十五の子が言うには、あまりにもまっすぐな言葉だった。
けれど、そのまっすぐさに救われるところもあった。自分が言葉を選ばなくても、もうこの子はちゃんと見えている。
ロイドは何か言い返そうとして、結局口を閉じた。
食堂の奥で、客の一人が小さく椅子を引く音がした。それで我に返ったように、ロイドが視線を動かす。
ここはもう、自分の宿ではない。
自分の声で押し切れる場所でもない。
その現実を、今さらのように受け止めた顔だった。
エレナは布巾を静かに置いた。
「話は終わりよ」
それだけ言うと、ロイドの目が揺れる。
まだ何かを言いたげだった。謝罪なのか、言い訳なのか、それとも本当に別の言葉なのかは分からない。けれど、もう聞く必要はないと思った。
ロイドが遅すぎたように、エレナももう戻らないところまで来ていた。
そのとき、厨房の方から鍋の蓋が小さく鳴った。
エレナはそちらへ振り返る。
戻る場所は、もう決まっている。
前ではなく、今いるこの場所だ。
ロイドはまだ立ち尽くしていた。
その姿を見ても、胸は動かなかった。
ただ、終わったのだと分かるだけだった。
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