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8話 甘やかな朝
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温かい。
ほわほわとした柔らかい空気がまどろむ頭に気持ちいい。
まるで繭の中に守られているようだ。
少し窮屈な気がするけれど、それすら何だか居心地よく感じる。
こんなのんびりした空気のなか目覚めるのはどれくらいぶりだろうと思いながら、烈はうとうとと小さくまばたきを繰り返しながら、目を覚ました。
目の前がいつもの白いシーツではなく、深い青色に埋め尽くされている。
ぼんやりとそれを視界に入れて、霧が晴れるように徐々に頭がクリアになっていく。
「あれ?」
パチリと大きく一度まばたけば、すっかり目が覚めた。
本来寝起きは悪くない。
目が覚めたそのままに起き上がれるくらいには、寝覚めはいい方だ。
けれど今日は起き上がることが出来なかった。
なんだかしっかりと何かが体に巻き付いていて、身動きがとれない。
何でだろうと疑問に思いながら顔を上げて、烈は大きく悲鳴を上げそうになった。
なんとか喉の奥に悲鳴を堪えられたのを褒めたい。
思わずぎゅっとつむってしまった目をおそるおそる開くと、すぐ近くに綺麗に整った寝顔がある。
もう一度悲鳴を上げかけて、何とかうぐうとうめき声で落ち着かせる。
(そうだった。知臣さんの家に泊ったんだった)
昨夜のことを思い出して、同じベッドに入ったのだったと腑に落ちる。
けれど何故こんなことになっているのか。
広めのベッドだったから並んでそれなりに距離をあけて寝たはずなのに、今現在烈は知臣にすっぽりと抱き込まれている。
知臣はぐっすりと眠っていて、長い睫毛が寝息に合わせてかすかに揺れていた。
目を閉じているせいか、普段より少し幼く感じるのは新鮮だ。
結ばれていない髪が頬にかかっているのが、朝なのに色気を感じてしまいいたたまれなかった。
しかも知臣は夜着のボタンを第二まで開けているから、綺麗にラインを描く鎖骨はもちろん、昨日意外としっかりしていると感じた胸板までチラ見えしている。
色気の暴力だ。
ひええっと内心で悲鳴を上げながらも、烈は何度か深呼吸を繰り返した。
朝から心臓に悪い。
烈の息が当たってくすぐったかったのか、知臣がわずかに身じろいだ。
なんとか知臣越しに見える時計は七時を指している。
ちょうどいい時間に起きれたらしい。
とりあえず先に起きてしまおうと知臣の腕の中から抜け出そうとするけれど、思いのほかガッチリと抱きしめられていて抜け出せない。
寝てるはずなのにと思いながらも、抜け出すことは諦めて知臣を起こすことにした。
どのみち知臣を起こさなければ勝手には帰れない。
「知臣さん」
「んん……」
ぺちぺちと自分を抱き込んでいる腕を叩くと、知臣が小さく身じろいだ。
離れようと烈が体を動かしたところで、それを阻止するように腰をぐっと引き寄せられる。
その時、太ももにゴリと固いものが押し付けられた。
一瞬頭のなかが真っ白になって、それが朝の生理現象だと気づき顔に一気に火がつく。
(た、大変だー!)
ひええと内心悲鳴を上げながら腰をひけるけれど、離れたらそのぶんだけ逃げるなと言わんばかりに引き寄せられる。
これは早々に起きてもらわなければいけない事案だ。
「知臣さん起きて!」
先ほど腕を叩いたときより強く、胸を叩く。
知臣が何度か呻くと、うっすらと瞼がもち上がった。
青い瞳がとろんとまどろんだ柔らかさで、烈を視界に入れる。
「ん……おはよう烈君」
「お、おはようございます」
何だか気だるげで色っぽさが全開だ。
昨夜の風呂上りも困ったけれど、寝起きもこんなに目に毒だとは思わなかった。
少しでも距離をとりたくて、烈はなんとか胸に手をついて離れようとした。
「あ、の、離してください」
「……もう少し」
寝起きの掠れた声が甘やかに囁いて、もう一度胸に抱き込まれた。
途端、知臣の匂いがふわりと香りいたたまれない。
「待って、待ってください。今日は鍵を探しに行かなきゃだし、朝ごはんも買いに行かなきゃだし!」
一人焦って早口にまくしたてると、密着している体が小さく揺れた。
「……ふっ」
吐息で笑ったかと思うと、そのまま肩が揺れている。
くつくつと笑っているのが、すぐ近くにある喉仏の動きでわかった。
「仕方ない、起きよう」
笑いながら抱きしめられていた腕をとかれて、何とか烈はよろよろと起き上がる。
(やっと解放された)
朝から刺激が強すぎて、何だかぐったりしてしまう。
知臣も隣でゆっくりと起き上がり、腕を上げて伸びをした。
はだけている胸元から肌が見えて、思わず視線を外してしまう。
朝のさわやかな空気のはずなのに、何だか知臣だけ色気過多だ。
「烈君抱きしめて寝たせいか、ぐっすり眠れたな」
「いや俺は関係ないんじゃないかと」
何を言っているんだ。
ついでに言えば、何故抱きしめていたんだと突っ込みどころが満載にも程がある。
知臣は寝乱れた髪を指先で耳にかけて、微笑んだ。
「関係あるよ。抱き心地よかったから」
「だきっ!」
とんでもない剛速球に、烈は声を詰まらせた。
頬がじわじわと知臣の言葉を反芻して赤くなっていく。
赤くなった頬に右手を当てて、烈はジトリと知臣を見やった。
「知臣さん抱き着いて寝る癖でもあるんですか」
言ったあとで、あっと思った。
抱き着いて寝る相手なんて、恋人しかいないだろう。
そう思い至ると、苦いものがこみ上げてくる。
なんでそんな気持ちになるんだと思いながらも、体に隠れて見えていない手を握りしめた。
烈が一人で気まずい気分に陥っていると、知臣はカラリと何でもないことのように笑った。
寝起きはいいらしく、先ほどまであった気だるげな空気はすでに霧散している。
「まさか、そんな癖ないよ。何かを抱きしめて寝るなんて、烈君がはじめて」
「う、嘘だあ。恋人の代わりとかでしょ」
自分で口から出した言葉に、自分で落ち込んだ。
なにも自分の気分を落ち込ませるようなことをわざわざ言わなくても、と思いつつ何故落ち込むんだとまた堂々巡りだ。
思わず目線を伏せると、きゅっと突然男にしては優美な指先に鼻をつままれた。
「ふが」
「残念ながら恋人はいないし、過去にもそんな事をした覚えはないよ」
「え……じゃあ何で?」
知臣のあっさりした答えに、烈はぽかんと口を小さく開けた。
こういった抱きしめたりするのは、恋人にするものではないのだろうか。
「烈君だからかな」
にっこりと微笑まれる。
青い瞳がしんなりと細められた。
何だ何だと頭のなかで混乱と焦りが出てくる。
今知臣は何を言った。
(これは……どう反応したらいいんだ)
何が正解かわからない。
けれど、さっきまであった苦い気持ちはすっかり晴れていた。
あまりにもころころ変わる自分の機嫌の機微がわからなくて、思わず左胸に手を当てて首を傾げてしまう。
そんなことをしても自分にもわからない自分の謎を理解できるわけがない。
「着替えてコンビニ行こうか。すぐ近くにあるから」
烈のよくわからない心情など知るはずもない知臣が、ベッドから出て窓際のカーテンを開ける。
窓辺から差し込んでくる日の光りに、昨日の雨がなんだったんだというくらい晴れているのがわかった。
振り返った知臣の黒く長い髪が艶々と光をはじき、青い瞳が鮮やかに朝日を浴びる。
一瞬それに見惚れたあと、ハッと我に返って烈は慌てて頷いた。
家主が立っているのに、いつまでもベッドにいるわけにはいかない。
ベッドから出てそれぞれ着替えると、二人は連れだって知臣の言うとおり近くにあったコンビニへと入った。
「好きなものカゴに入れて。お金は僕が払うから」
カゴを手に取った知臣が太っ腹な事を言う。
けれどそんなわけにはいかない。
「いえ!ちゃんと自分の分は払います。というか、むしろ泊めてもらったお礼に俺が全部出しますよ」
「夕食質素になっちゃったからね。お客さんをもてなさせて」
「えぇ……」
そんな言われ方をされたら断りにくい。
眉を下げて知臣を見上げると、機嫌よさげに口角を上げて店内のサンドイッチのコーナーに行ってしまった。
なんとか代金を自分持ちにできないかなと思いながら追いかけると、サンドイッチコーナーの前に立った知臣が生クリームとフルーツの挟まれたサンドイッチを手に取っている。
ここでも甘味に興味が行くらしい。
「知臣さん、それはデザートでご飯じゃないですからね」
「残念」
知臣が悪戯の見つかった子供のような顔をしてサンドイッチを棚に戻す。
知臣の甘味好きは理解しているけれど、血糖値が心配になるのだ。
まさか家では甘味しか食べてないなんてことになっていなければいいけれど。
さて自分はどうしようかなと近くの棚をぐるりと見回して、卵があることに気づいた。
これは泊まらせてもらったお礼が出来るのではないだろうか。
「あの、卵とパン買って帰りませんか?焼くだけですけど、俺作りますよ」
「いいの?烈君の手料理食べられるのは嬉しいけど」
棚を物色していた知臣が、烈の手に取った卵を見やる。
嬉しいと思ってくれるのなら、その方がいい。
「卵焼くだけだから手料理というほどじゃないですよ。よかったら」
「じゃあ甘えようかな」
嬉しそうに笑ってくれるものだから、こちらまで笑顔になってしまう。
卵と食パンとミニサラダ。
ついでに話を聞いてみると調味料も根こそぎないというから、バターの小分けがあったのでそれも買った。
今までの食生活が本当に心配になってくる。
マンションに帰ると、烈は張り切るほどの料理ではないけれどと思いながらも、祖母以外に食べさせたことなど店以外ではほとんどないので、心なし緊張しながら朝食を準備した。
「出来ましたよ」
「ありがとう」
ダイニングテーブルに知臣がやってきたので、席へうながして自分も座る。
テーブルには半熟の目玉焼きと買ったサラダ。
トースターなんてないので買ったままの食パンとバターのみというシンプルすぎるメニューだ。
「目玉焼き、味付けしてないですけど大丈夫ですか?」
調味料がないので味のつけようがなかったのだ。
「僕は特に何もかけなくてもいいよ。烈君は?」
「俺も特にこだわりないんで」
「じゃあ食べよう」
知臣の言葉に頷いて、烈は手を合わせた。
いただきますと言えば、知臣も同じようにする。
その仕草や言い方がぎこちなくて、慣れない様子がなんだか可愛かった。
「朝から豪華だな」
烈的にはシンプルすぎる朝食なのに、知臣は感心した様子だった。
出来ればみそ汁も欲しかったくらいなのに。
「もしかして朝食は普段食べませんか?」
「自炊まったくしないからね。準備するのが面倒でいつも適当にすませてるよ。とりあえず空腹がしのげればいいかなって」
なんというアバウトさだ。
烈が思わず柳眉を寄せる。
「体に悪いですよ」
ただでさえ甘味を大量に摂取しているのだから、普段の食事は気にかけてほしい。
「朝は長い睡眠のあとだから、何かが欠けている状態なんですよ。それを埋めるのが朝食です。あと水分も不足してるからレモン水とかしっかり飲むのが理想ですね」
「朝食はわかるけど、レモン水?」
「味が少しはあった方が飲みやすいでしょ?俺はレモン水とかオレンジ水を作り置きしてますよ。冬ならゆず白湯とか」
「一人暮らしなのにちゃんとした生活してて凄いな」
烈の朝支度の話に知臣は目玉焼きを食べながら、感心したように目を丸くした。
まあそうだろう。
同年代で烈と同じようなことをしている人間は学生時代にはいなかった。
そのときに多分珍しい部類の人間なのだろうと自覚したのだ。
けれどそれは祖母の受け売りだ。
烈は自慢するように胸を張った。
「婆ちゃんの教育の賜物です」
「なるほど」
知臣がくすくすと笑う。
綺麗な顔が笑うと、朝から縁起のいいものを見た気になる。
「烈君が作るおやつ以外のものも、美味しいんだろうな」
「それは……どうでしょう?前も言ったけどお洒落なのは作れないから、簡単なものばかりですよ」
「それでも烈君の手が作った物なら、きっとおいしい」
とろりと知臣が蜂蜜のような表情で笑う。
その顔を直視してしまって、烈は頬が熱くなった。
思わず手に持っていた食パンを意味もなく見つめてしまう。
座っている体がぎこちなく、もじりと揺れた。
「……そう、ですか」
小さく答えるのが精一杯だった。
嬉しいと思う。
それと同時に、いつか知臣に食事を作る機会があればいいのにと口元をむず痒くさせる。
(こんなふうに一緒にご飯をまた食べられたらいいな)
そんなことを誰かに思うなんて、はじめてだ。
でも、向かい合って食事をするのが今日だけではなく、また機会が巡ってきてほしい。
出来たらその時は烈の作った料理を沢山並べたい。
ほわほわとした柔らかい空気がまどろむ頭に気持ちいい。
まるで繭の中に守られているようだ。
少し窮屈な気がするけれど、それすら何だか居心地よく感じる。
こんなのんびりした空気のなか目覚めるのはどれくらいぶりだろうと思いながら、烈はうとうとと小さくまばたきを繰り返しながら、目を覚ました。
目の前がいつもの白いシーツではなく、深い青色に埋め尽くされている。
ぼんやりとそれを視界に入れて、霧が晴れるように徐々に頭がクリアになっていく。
「あれ?」
パチリと大きく一度まばたけば、すっかり目が覚めた。
本来寝起きは悪くない。
目が覚めたそのままに起き上がれるくらいには、寝覚めはいい方だ。
けれど今日は起き上がることが出来なかった。
なんだかしっかりと何かが体に巻き付いていて、身動きがとれない。
何でだろうと疑問に思いながら顔を上げて、烈は大きく悲鳴を上げそうになった。
なんとか喉の奥に悲鳴を堪えられたのを褒めたい。
思わずぎゅっとつむってしまった目をおそるおそる開くと、すぐ近くに綺麗に整った寝顔がある。
もう一度悲鳴を上げかけて、何とかうぐうとうめき声で落ち着かせる。
(そうだった。知臣さんの家に泊ったんだった)
昨夜のことを思い出して、同じベッドに入ったのだったと腑に落ちる。
けれど何故こんなことになっているのか。
広めのベッドだったから並んでそれなりに距離をあけて寝たはずなのに、今現在烈は知臣にすっぽりと抱き込まれている。
知臣はぐっすりと眠っていて、長い睫毛が寝息に合わせてかすかに揺れていた。
目を閉じているせいか、普段より少し幼く感じるのは新鮮だ。
結ばれていない髪が頬にかかっているのが、朝なのに色気を感じてしまいいたたまれなかった。
しかも知臣は夜着のボタンを第二まで開けているから、綺麗にラインを描く鎖骨はもちろん、昨日意外としっかりしていると感じた胸板までチラ見えしている。
色気の暴力だ。
ひええっと内心で悲鳴を上げながらも、烈は何度か深呼吸を繰り返した。
朝から心臓に悪い。
烈の息が当たってくすぐったかったのか、知臣がわずかに身じろいだ。
なんとか知臣越しに見える時計は七時を指している。
ちょうどいい時間に起きれたらしい。
とりあえず先に起きてしまおうと知臣の腕の中から抜け出そうとするけれど、思いのほかガッチリと抱きしめられていて抜け出せない。
寝てるはずなのにと思いながらも、抜け出すことは諦めて知臣を起こすことにした。
どのみち知臣を起こさなければ勝手には帰れない。
「知臣さん」
「んん……」
ぺちぺちと自分を抱き込んでいる腕を叩くと、知臣が小さく身じろいだ。
離れようと烈が体を動かしたところで、それを阻止するように腰をぐっと引き寄せられる。
その時、太ももにゴリと固いものが押し付けられた。
一瞬頭のなかが真っ白になって、それが朝の生理現象だと気づき顔に一気に火がつく。
(た、大変だー!)
ひええと内心悲鳴を上げながら腰をひけるけれど、離れたらそのぶんだけ逃げるなと言わんばかりに引き寄せられる。
これは早々に起きてもらわなければいけない事案だ。
「知臣さん起きて!」
先ほど腕を叩いたときより強く、胸を叩く。
知臣が何度か呻くと、うっすらと瞼がもち上がった。
青い瞳がとろんとまどろんだ柔らかさで、烈を視界に入れる。
「ん……おはよう烈君」
「お、おはようございます」
何だか気だるげで色っぽさが全開だ。
昨夜の風呂上りも困ったけれど、寝起きもこんなに目に毒だとは思わなかった。
少しでも距離をとりたくて、烈はなんとか胸に手をついて離れようとした。
「あ、の、離してください」
「……もう少し」
寝起きの掠れた声が甘やかに囁いて、もう一度胸に抱き込まれた。
途端、知臣の匂いがふわりと香りいたたまれない。
「待って、待ってください。今日は鍵を探しに行かなきゃだし、朝ごはんも買いに行かなきゃだし!」
一人焦って早口にまくしたてると、密着している体が小さく揺れた。
「……ふっ」
吐息で笑ったかと思うと、そのまま肩が揺れている。
くつくつと笑っているのが、すぐ近くにある喉仏の動きでわかった。
「仕方ない、起きよう」
笑いながら抱きしめられていた腕をとかれて、何とか烈はよろよろと起き上がる。
(やっと解放された)
朝から刺激が強すぎて、何だかぐったりしてしまう。
知臣も隣でゆっくりと起き上がり、腕を上げて伸びをした。
はだけている胸元から肌が見えて、思わず視線を外してしまう。
朝のさわやかな空気のはずなのに、何だか知臣だけ色気過多だ。
「烈君抱きしめて寝たせいか、ぐっすり眠れたな」
「いや俺は関係ないんじゃないかと」
何を言っているんだ。
ついでに言えば、何故抱きしめていたんだと突っ込みどころが満載にも程がある。
知臣は寝乱れた髪を指先で耳にかけて、微笑んだ。
「関係あるよ。抱き心地よかったから」
「だきっ!」
とんでもない剛速球に、烈は声を詰まらせた。
頬がじわじわと知臣の言葉を反芻して赤くなっていく。
赤くなった頬に右手を当てて、烈はジトリと知臣を見やった。
「知臣さん抱き着いて寝る癖でもあるんですか」
言ったあとで、あっと思った。
抱き着いて寝る相手なんて、恋人しかいないだろう。
そう思い至ると、苦いものがこみ上げてくる。
なんでそんな気持ちになるんだと思いながらも、体に隠れて見えていない手を握りしめた。
烈が一人で気まずい気分に陥っていると、知臣はカラリと何でもないことのように笑った。
寝起きはいいらしく、先ほどまであった気だるげな空気はすでに霧散している。
「まさか、そんな癖ないよ。何かを抱きしめて寝るなんて、烈君がはじめて」
「う、嘘だあ。恋人の代わりとかでしょ」
自分で口から出した言葉に、自分で落ち込んだ。
なにも自分の気分を落ち込ませるようなことをわざわざ言わなくても、と思いつつ何故落ち込むんだとまた堂々巡りだ。
思わず目線を伏せると、きゅっと突然男にしては優美な指先に鼻をつままれた。
「ふが」
「残念ながら恋人はいないし、過去にもそんな事をした覚えはないよ」
「え……じゃあ何で?」
知臣のあっさりした答えに、烈はぽかんと口を小さく開けた。
こういった抱きしめたりするのは、恋人にするものではないのだろうか。
「烈君だからかな」
にっこりと微笑まれる。
青い瞳がしんなりと細められた。
何だ何だと頭のなかで混乱と焦りが出てくる。
今知臣は何を言った。
(これは……どう反応したらいいんだ)
何が正解かわからない。
けれど、さっきまであった苦い気持ちはすっかり晴れていた。
あまりにもころころ変わる自分の機嫌の機微がわからなくて、思わず左胸に手を当てて首を傾げてしまう。
そんなことをしても自分にもわからない自分の謎を理解できるわけがない。
「着替えてコンビニ行こうか。すぐ近くにあるから」
烈のよくわからない心情など知るはずもない知臣が、ベッドから出て窓際のカーテンを開ける。
窓辺から差し込んでくる日の光りに、昨日の雨がなんだったんだというくらい晴れているのがわかった。
振り返った知臣の黒く長い髪が艶々と光をはじき、青い瞳が鮮やかに朝日を浴びる。
一瞬それに見惚れたあと、ハッと我に返って烈は慌てて頷いた。
家主が立っているのに、いつまでもベッドにいるわけにはいかない。
ベッドから出てそれぞれ着替えると、二人は連れだって知臣の言うとおり近くにあったコンビニへと入った。
「好きなものカゴに入れて。お金は僕が払うから」
カゴを手に取った知臣が太っ腹な事を言う。
けれどそんなわけにはいかない。
「いえ!ちゃんと自分の分は払います。というか、むしろ泊めてもらったお礼に俺が全部出しますよ」
「夕食質素になっちゃったからね。お客さんをもてなさせて」
「えぇ……」
そんな言われ方をされたら断りにくい。
眉を下げて知臣を見上げると、機嫌よさげに口角を上げて店内のサンドイッチのコーナーに行ってしまった。
なんとか代金を自分持ちにできないかなと思いながら追いかけると、サンドイッチコーナーの前に立った知臣が生クリームとフルーツの挟まれたサンドイッチを手に取っている。
ここでも甘味に興味が行くらしい。
「知臣さん、それはデザートでご飯じゃないですからね」
「残念」
知臣が悪戯の見つかった子供のような顔をしてサンドイッチを棚に戻す。
知臣の甘味好きは理解しているけれど、血糖値が心配になるのだ。
まさか家では甘味しか食べてないなんてことになっていなければいいけれど。
さて自分はどうしようかなと近くの棚をぐるりと見回して、卵があることに気づいた。
これは泊まらせてもらったお礼が出来るのではないだろうか。
「あの、卵とパン買って帰りませんか?焼くだけですけど、俺作りますよ」
「いいの?烈君の手料理食べられるのは嬉しいけど」
棚を物色していた知臣が、烈の手に取った卵を見やる。
嬉しいと思ってくれるのなら、その方がいい。
「卵焼くだけだから手料理というほどじゃないですよ。よかったら」
「じゃあ甘えようかな」
嬉しそうに笑ってくれるものだから、こちらまで笑顔になってしまう。
卵と食パンとミニサラダ。
ついでに話を聞いてみると調味料も根こそぎないというから、バターの小分けがあったのでそれも買った。
今までの食生活が本当に心配になってくる。
マンションに帰ると、烈は張り切るほどの料理ではないけれどと思いながらも、祖母以外に食べさせたことなど店以外ではほとんどないので、心なし緊張しながら朝食を準備した。
「出来ましたよ」
「ありがとう」
ダイニングテーブルに知臣がやってきたので、席へうながして自分も座る。
テーブルには半熟の目玉焼きと買ったサラダ。
トースターなんてないので買ったままの食パンとバターのみというシンプルすぎるメニューだ。
「目玉焼き、味付けしてないですけど大丈夫ですか?」
調味料がないので味のつけようがなかったのだ。
「僕は特に何もかけなくてもいいよ。烈君は?」
「俺も特にこだわりないんで」
「じゃあ食べよう」
知臣の言葉に頷いて、烈は手を合わせた。
いただきますと言えば、知臣も同じようにする。
その仕草や言い方がぎこちなくて、慣れない様子がなんだか可愛かった。
「朝から豪華だな」
烈的にはシンプルすぎる朝食なのに、知臣は感心した様子だった。
出来ればみそ汁も欲しかったくらいなのに。
「もしかして朝食は普段食べませんか?」
「自炊まったくしないからね。準備するのが面倒でいつも適当にすませてるよ。とりあえず空腹がしのげればいいかなって」
なんというアバウトさだ。
烈が思わず柳眉を寄せる。
「体に悪いですよ」
ただでさえ甘味を大量に摂取しているのだから、普段の食事は気にかけてほしい。
「朝は長い睡眠のあとだから、何かが欠けている状態なんですよ。それを埋めるのが朝食です。あと水分も不足してるからレモン水とかしっかり飲むのが理想ですね」
「朝食はわかるけど、レモン水?」
「味が少しはあった方が飲みやすいでしょ?俺はレモン水とかオレンジ水を作り置きしてますよ。冬ならゆず白湯とか」
「一人暮らしなのにちゃんとした生活してて凄いな」
烈の朝支度の話に知臣は目玉焼きを食べながら、感心したように目を丸くした。
まあそうだろう。
同年代で烈と同じようなことをしている人間は学生時代にはいなかった。
そのときに多分珍しい部類の人間なのだろうと自覚したのだ。
けれどそれは祖母の受け売りだ。
烈は自慢するように胸を張った。
「婆ちゃんの教育の賜物です」
「なるほど」
知臣がくすくすと笑う。
綺麗な顔が笑うと、朝から縁起のいいものを見た気になる。
「烈君が作るおやつ以外のものも、美味しいんだろうな」
「それは……どうでしょう?前も言ったけどお洒落なのは作れないから、簡単なものばかりですよ」
「それでも烈君の手が作った物なら、きっとおいしい」
とろりと知臣が蜂蜜のような表情で笑う。
その顔を直視してしまって、烈は頬が熱くなった。
思わず手に持っていた食パンを意味もなく見つめてしまう。
座っている体がぎこちなく、もじりと揺れた。
「……そう、ですか」
小さく答えるのが精一杯だった。
嬉しいと思う。
それと同時に、いつか知臣に食事を作る機会があればいいのにと口元をむず痒くさせる。
(こんなふうに一緒にご飯をまた食べられたらいいな)
そんなことを誰かに思うなんて、はじめてだ。
でも、向かい合って食事をするのが今日だけではなく、また機会が巡ってきてほしい。
出来たらその時は烈の作った料理を沢山並べたい。
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