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第一話
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汽笛が遠くで鳴っている。
けたたましい音は湿った風に乗り、蒸気の熱気が、ホームの床にまだ滲んでいた。
誰もが黙って歩いている。誰もが、何かを忘れようとするように。
この国は、夜になっても眠らない。歯車は軋み、蒸気は灯りを濁らせ、鉄の息づかいが街の隅々にまで染みこんでいる。
その喧騒の下で、私の時間だけが止まったままだった。
戦争は終わったと、人は言うけれど、私の耳の奥ではいまも炎の音がしている。あの夜、焦げた布と血の臭いが、肺の奥に焼きついて離れない。
そんなことを思いながら、何のあてもなく歩いていたそのときだった。
視界の端に、崩れ落ちる影が見えた。煤けた柱の根元で、薄い布をまとい、骨ばった腕を投げ出して、青年が倒れている。
行き交う人々は、誰も気に留めなかった。視線を逸らし、機械仕掛けの足取りで去っていく。
私はただ、立ち尽くしていた。
胸の奥に、何かが微かに疼いたと同時に、名も知らぬ誰かを抱き上げる。その感触が、戦場で失われた温度と重なった。
青年の体は、驚くほど軽く、血の気が失われ、掌に触れた肌は氷のようだった。唇は乾き、瞼の下には長い影が落ちている。
それでも、確かに呼吸があり、息をするたび、喉がかすかに震えていた。
「……生きてる」
呟いた声が、自分のものではないように響いた。
私はそのまま、青年を抱き上げる。腕の中で、青年の髪がかすかに揺れ、灰色の光が、夜の明かりを受けて淡くきらめく。
駅を離れ、路地裏を抜けた頃には、雨が降り出していた。金属の屋根を叩く音が、どこまでも続いていて、足元には溜まった水があり、そこに灯りが滲んで揺れていた。
自分の工房に戻る頃には、夜は深く沈んでいて、古びた扉を開けると、油と鉄の匂いが迎えてくる。無数の歯車、壊れた機械の山、錆びた工具。
私は青年を寝台に横たえ、古い毛布を掛ける。ランプに火を灯すと、炎の輪がゆっくりと彼の顔を照らした。
まだ幼いその表情は、まるで誰かを探す子供のように見える。
私は湯を沸かしながら、静かな寝息を聞いていた。火が小さくはぜ、湯気が天井に溶けていく。
窓の外では、煙突が黒い息を吐き続けていた。
この国は、戦争をやめても走り続けている。
まるで、止まることが死であるかのように。しかし、私もまた、その歯車のひとつでしかなかった。
湯気が昇ってきた頃、彼はわずかに身じろぎした。
「ここは……」
掠れた声が、闇の底から零れる。
「私の家だ。今夜は、ここで休むと良い」
青年はしばらく何かを探るような目で私を見ていたが、すぐに疲れに負けるように瞼を閉じた。
その肩が小さく上下するたびに、私はなぜか胸の奥が締めつけられるような気がした。青年の頬を照らし続けている暖かな光の中に、かつて自らの手で奪った命の面影を、私は確かに見ていた。
時が進むにつれて、工房の中の空気は、少しずつ冷えていった。ランプの光が弱まり、炎の輪郭が揺れるたび、歯車の影が壁を這うように動いている。
その中で、寝台の上の青年がかすかに息を詰め、身を起こした。毛布が滑り落ち、床に落ちる小さな音がした瞬間、部屋の空気がわずかに張りつめる。
青年の目が光を捉え、動いた。警戒と恐怖が混じり合った、獣のような目だった。彼は寝台から立ち上がり、壁際まで後退る。裸足の足音が、金属の床に沈んで響いた。
窓の向こうの街では、夜更けの蒸気が低く唸っている。
私は動かず、ただその気配を見守った。
青年は壁に背をつけ、出口を探すように視線を彷徨わせていた。その肩がわずかに上下し、呼吸が乱れている。
長い時間、戦場や避難の夜を越えてきた者の、身体に刻みついた癖のようなものだった。
私は息をついた。
青年が振り返り、視線が交わる。光の中に浮かぶ瞳は、灰色の霧のように深く濁っていて、恐怖ではなく、確かめようとするような色がそこにあった。
手を上げるでもなく、近づくでもなく、私はただそこに立っていた。戦場で人を殺すときよりも、ずっと慎重に、静かに。
この一瞬の揺らぎでさえ、壊れてしまいそうなほど脆かった。
「戦争は終わった」
その一言が、煙のように空気へ溶けていく。
青年はしばらく動かず、やがてゆっくりと緊張を解く。膝から力が抜け、背を壁に預け、静かに座り込む。毛布の端が足元に残り、それを無意識に握りしめていた。
私はランプに火を灯し、カップに湯を注ぐ。蒸気が立ちのぼり、湿った空気の中で細く漂った。
それを青年のそばに置くと、彼はしばらく見つめたまま、手を伸ばそうとはしなかった。
指先がわずかに震えていて、それが罠でないか確かめるように、息を殺して見ていた。
私は背を向け、ストーブの煤を払う。
背後で小さな音がして、青年が湯を口にしたことを知る。
火に当たった金属のように、長く冷えていたものが、少しずつ温まり始めるのを感じた。
言葉はなかった。
沈黙の中で、ただ呼吸だけがふたつ、確かに存在していた。
やがて、青年は毛布に身を戻し、背を丸め、光の届かない方を向いた。私はそのまま椅子に腰をかけ、ゆっくりと目を閉じる。
あの頃、戦場では、夜が明けるたび誰かの息が途絶えていた。だがこの夜だけは、ひとつの呼吸が続いている。
そのことが、理由もなく、胸の奥を痛くした。
朝の光は、煤を透かして工房の奥まで届いている。壁に掛けた時計の針がかすかに音を立て、遠くで汽笛が鳴っていた。
私は目を覚ますと同時に、あたりの静けさに違和感を覚えた。寝台に目をやると、毛布が乱れ、そこにあるはずの体が消えている。
夜のうちに出ていったのだろう。床には裸足の足跡が残り、鉄粉と油にまみれて黒く汚れている。
湯の冷えたカップが、静かにその場を見つめていた。
こうなることを、どこかで予感していたのかもしれない。戦争が終わったと言っても、彼にとっては終わりではなかったのだろうか。奪われ、残された者たちの時間は、誰も止めてはくれない。
外へ出ると、朝の空気は冷たく、僅かに雨が降っている。工場の煙突から吐き出された蒸気が低く漂い、街路を白く染めていた。
その中に、裸足で歩いた跡が続いている。
私はそれを辿りながら、心の奥で鈍い痛みを覚えていた。
兵として生きてきた年月の中で、いくつの命を奪ってきただろう。敵も、味方も、若い者たちも。彼らの息が途絶えるたびに、私の中の何かが少しずつ鈍くなっていった。
それでも、倒れていたあの青年だけは、なぜか、放っておけなかった。それが、贖いなのか、ただの逃避なのか、自分でも分からない。
やがて街を抜け、線路に出た。錆びついた鉄の道が、朝靄の中をまっすぐ伸びている。
その上を、ひとつの影が歩いていた。
裸足の足裏が枕木に触れるたび、痛みを堪えるように肩が震えている。腕や足には擦り傷がいくつもあり、乾ききらない血がこびりついていた。薄いシャツが風に貼りつき、肌の下で痩せた骨が動くのが見える。
私は呼吸を整え、声をかけた。
「どこへ行く」
青年が振り返る。その瞳には夜の残滓のような影があり、まっすぐに私を見返した。
「姉のもとへ」
声は弱く、しかし確かに焦燥を含んでいた。私は線路の上に足を乗せ、静かに近づき尋ねる。
「姉はどこに――」
私が言葉を紡ぎ終わる前に、青年の唇がわずかに動く。
「分からない。分からないけど、会いたいんです」
雨が強まり、青年の髪を濡らしていく。
私は言葉を失ったまま、その姿を見つめていた。
裸足のまま、血の滲む足を気にも留めずに歩こうとするその姿が、痛ましかった。戦場で倒れていった多くの者たちの顔が、ふいに脳裏を過る。
どうして、自分は彼らに手を差し伸べられなかったのだろう。
そんな問いが、今さら胸の奥で疼いた。
「一人で、どうするつもりだ」
ようやく言葉を絞り出すと、青年は顔を上げる。灰色の瞳が、雨に濡れた鉄のように冷たく光った。
「あなたには、関係ない」
その言葉の刃は、過去の自分に向けられたように感じた。
私は小さく息を吐き、傘を差し出す。青年の肩に傘の影が落ち、雨粒が傘の表面を叩き、一定のリズムを刻んでいた。
青年はしばらく動かず、そのまま雨の音を聞いていた。
ふと、膝が崩れた。彼の足元には血の混じった泥が広がっている。
私は無言でその腕を支えた。体温は驚くほど冷たく、指先は震えていた。
「戻ろう」
青年は拒もうとしたが、声が出なかった。ただ、濡れたまま俯いて、唇を噛んでいた。
その肩に力が入らなくなった瞬間、私は彼を抱きかかえた。
雨の音の中で、青年の息が途切れ途切れに聞こえる。小さな声で何かを呟いたが、風に消えた。
工房に戻ると、炉の残り火がまだ赤く揺れていた。
濡れた服を脱がせ、毛布に包む。
湯を沸かしながら、その横顔を見つめると、長い睫毛の下で、瞼が微かに震えていた。
夢を見ているのだろうか。だがその表情は苦しかった。
私は静かに目を伏せる。
あの戦争で多くを奪い、そして今、ひとりの命を守ろうとしている。それが赦しになるとは思わない。けれど、せめてこの手の中で、誰かを失わずに済むのなら。
雨の音が少しずつ遠のいていく。
青年の呼吸が穏やかになり、部屋の空気に微かな温もりが戻る。私はその様子を確かめながら、深く息をついた。
――この日以降、彼が出て行こうとすることはなかった。
あの日から、青年は工房の片隅に居ついた。
最初はただ、空腹をしのぐために、置かれているような存在だった。炉の火が消えぬようにと薪をくべ、埃を払う。そうして静かな手つきで動く姿を見ていると、彼が本来はどんな暮らしをしていたのか、少しずつ想像がつくような気がした。
街の音はいつも遠い。軋む歯車と、湯気のように立ち上る人々の息づかい。
戦争の爪痕はこの街のいたるところに残っていて、鉄の匂いと油の気配が、未だに戦場を思い出させた。
私は作業台に腰を下ろし、手の中の古い機構を見つめていた。
長い間、使われていた懐中時計だ。時おり内部でわずかに軋む音がする。
それを聞きつけたように、背後から青年がそっと近づいてきた。
「直せそうですか」
低い声。昨日よりいくぶん穏やかだった。
私は振り返らずに答える。
「どうだろうな。ここまで古くなっていれば、もはや鉄屑かもしれん」
沈黙の後、ふと、金属の擦れる音がした。彼が手を伸ばし、時計の表面を撫でている。
その指先から、微かに光が溢れた。青白く、息のように揺らいで、機械の奥に吸い込まれていく。
途端、止まっていた歯車が一度だけ、かすかな音を立てた。
私は思わず息を呑んだ。それは魔法だった。この国はすべて機械仕掛けで、隣国の様な魔道具も魔法士も存在しない。
柔らかく、しかしどこか不安定な光の脈動は、かつて争っていた隣国の術だった。
青年は私の視線に気づき、わずかに肩を竦めた。
「すみません。つい……」
言葉を探すような口調だった。
私はただ首を振る。問い詰めることはしなかった。問いが必要だとも思えなかった。彼はしばらく、止まった歯車を見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「この国の機械は、悲しい音がします」
その言葉は、鉄の冷たさの奥に届くようだった。
彼にはいったい何が聞こえているのか、その音も魔法によって感じたものであるのかは分からない。しかし、何となく言いたいことは分かった。
午後になると、外では風が強くなった。煙突から吐かれた白い煙が低くたなびき、灰色の空を這っていく。
私は作業台を片づけ、湯を沸かした。青年はそのあいだ、古い時計の歯車を磨いていた。黙々と、まるで祈るように。
やがて湯気が立ち上る。カップを二つ並べ、一つを彼の前に置く。
「名前を、聞いていなかったな」
青年は手を止め、少しのあいだ迷うように黙ったあと、口を開いた。
「ルカ」
その名を確かめるように繰り返すと、彼は少しだけ眉を下げた。
私は微笑のようなものを浮かべて、湯を口に含んだ。温かさが喉を落ちていく。
「俺はエリオット。好きに呼んでくれて、構わない」
ルカは何も答えなかった。けれど、手の中の時計を見つめる目に、わずかな光が戻っていた。
あの日、駅で出会った時とは違う。まだ脆く、どこか怯えた影を残しながらも、彼の中で何かが少しずつ形を取り戻しているように思えた。
日が傾き始めるころ、ルカは窓辺で外を見ていた。
街を走る汽車の音が遠くで響く。かつて弾薬を運んでいたそれは、いまは瓦礫と穀物を積んでいる。
戦争は終わったと人々は言う。
だが、ルカの視線の先には、まだ終わらない何かがあった。彼は沈黙のまま、曇ったガラスに指で小さな円を描いたが、それは風ですぐに消えていった。
私は火のそばに座りながら、その横顔を見つめていた。この静けさが、永遠には続かないことを知っていた。それでも、いまだけはこの息づかいを、手の中に留めておきたかった。
炉の火が小さくはぜ、鉄くずの影が壁に揺れた。ルカが手にした古い時計は、まだ音を刻んでいない。
だが、その沈黙の奥で、確かに何かが動き出しているように思えた。
朝の工房の空気は金属の冷たさを含んでいる。窓の外では煙突がゆるやかに白い息を吐き、薄い靄が街を包む。
私は炉に火を入れ、前夜の作業で外しておいた時計の歯車を並べ直した。錆びを拭いながら、手が自然に動く。音のない日課。そこへ彼が、ゆっくりと足を運んでくる。
ルカはまだ夢の名残をまとっているようだった。髪の端が寝癖で少し跳ねていて、それを気にするでもなく、静かに椅子に腰を下ろした。
この工房に来て数日。彼の言葉は少ないが、けれど確かに生きようとしていた。
初めて触れた工具の扱いも、ぎこちないながら徐々に馴染んでいく。銅線を巻く指先はまだ震えていたが、時折ふと見せる集中の眼差しには、かすかな光があった。
それはまるで、夜明け前の街灯のように心細く、それでも確かに闇を退けていた。
昼を過ぎる頃、工房の奥で雨が降りだした。薄い屋根を打つ水の音が、一定のリズムを生み出している。
私は作業をやめ、棚から古い油紙を取り出して、濡れそうな部品を覆った。ふと背後を振り向くと、ルカが窓辺で外を見ていた。
雨の筋を追うその目は、どこか遠くを見ているようで、彼の頬に落ちたひとしずくが、雨なのか涙なのか、見分けがつかなかった。
そのとき、不意にカランと小さな音がした。
机の上に置いていた小さな歯車が転がり落ちたのだ。ルカは慌てて拾おうとしたが、その瞬間、指先から微かな光が滲んだ。
淡く、けれど確かに、空気が震え、私は息を止めた。
だが、ルカは何も気づいていないように、そっと歯車を拾い上げ、申し訳なさそうに目を伏せた。
その光はすぐに消え、何事もなかったかのように工房は再び静まり返る。
私はただ、胸の奥に残る微かな「音」に耳を澄ませた。金属の軋みでも、雨音でもない。
――悲しい音がする。
外では雨がやみ、街の灯りがひとつ、またひとつ、灯り始めていた。
ルカはすでに部屋に戻っている。
私は工具を片づけながら、耳の奥でかすかに響く記憶の残響に気づく。
それは遠い戦場で見た、あの光と同じ色をしていた。
夜更け、工房の奥から、かすかな光が滲んでいることに、私はまだ気づいていなかった。
灯を落とした工房には、火の残り香と油の匂いが漂っている。
夜の静けさの中で、私は椅子に腰を下ろし、手の中の歯車を転がしていた。
歯の欠けた音が小さく響き、それがなぜか、心の奥に触れる。
――悲しい音がする。
あの日から、ずっと。
ふと、天井の方でかすかな光が揺れた。
最初は錯覚かと思った。だが、二階にあるルカの部屋の隙間から、淡い明かりが漏れているのが見えた。
夜更けに灯りをともすような子ではない。
私は立ち上がり、階段を上る。足音を忍ばせながら、扉の前で一瞬だけ息を整えた。
光は揺れながら、ゆっくりと脈打っているようだった。
そっと扉を押した瞬間、柔らかな光が私を包み込み、視界を奪われた。奪われた視界を取り戻すように、眩しさに慣れたであろう瞳をゆっくりと開ける。
ルカは寝台の上に身を丸めていて、その胸元から、柔らかな光がこぼれていた。呼吸とともに膨らみ、また小さく縮む。まるで心臓の鼓動がそのまま光になったように。
「お姉ちゃん……行かないで……」
その声が、かすかに夜を震わせた。
ルカの頬には、静かに涙が伝っていて、光に照らされて、透明な滴が一つ、また一つと枕を濡らしていく。
私はその姿に息を呑んだと同時に、胸の奥がきつく締めつけられる。
光が部屋を満たし、金属の壁を淡い金色に染めていた。
あの色を忘れたことはない。戦場の空を裂いた閃光。崩れゆく塔の上、敵も味方も分け隔てなく包み込んだ、あの温かく、そして痛い光。あのとき、この光に焼かれた命の数を、私は今も数えきれないでいる。
私はそっとルカの傍に膝をつき、揺らめく光に手を伸ばした。触れた指先が、ぬくもりとともに震える。
この光は彼のものであり――彼女のものでもある。
胸の奥に、かつての叫びが蘇る。銃声、火薬の匂い、倒れゆく影。その中で、一瞬だけ見えた、彼女の背中。
私はルカの肩をそっと抱き寄せた。
「大丈夫。……大丈夫だ」
自分でも理由がわからないまま、そう囁いた。
彼の体は小刻みに震えていたが、やがて呼吸がゆるみ、光は少しずつ穏やかに沈んでいった。
残光を見つめながら確信する。
――私は、この光を知っている。
夜が明ける前の工房は、冷たい。
炉の中には火の名残がかすかに残り、鉄の匂いと油の蒸気が静かに沈んでいる。
私は作業台に腰を下ろし、昨夜の記憶を押しやるように、工具をひとつひとつ整えた。
あの光。そして、ルカの涙。
まるで夢のような出来事だった。けれど、夢ではない。指先に残るぬくもりが、今も消えない。
階段の方から、かすかな足音がした。振り向くと、ルカが眠たげな目で降りてきた。寝癖のついた髪を無造作に撫でつけながら、欠伸をひとつ。
「おはようございます、エリオット」
「ああ。おはよう」
軽い挨拶を交わすと、彼は机の上を覗き込み、まだ眠気の残る声で笑った。
「昨日の歯車、動くようになりましたか」
「どうだろうな。もう少し、手をかける必要がありそうだ」
そのやり取りの穏やかさに、私はほんの少し戸惑った。まるで、昨夜の光も涙も、何もなかったかのようで。
午前の作業は、いつもよりゆっくり進んだ。ルカは炉の前で小さな部品を磨いていて、手つきはまだぎこちないが、動きには確かさが宿り始めていた。
磨かれた金属が光を反射し、その一瞬の輝きが、どこか彼自身のように思えた。私はその背中を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
壊れかけたものが、少しずつ形を取り戻していく。それは、機械だけではなく、彼自身もそうなのかもしれない。
昼を過ぎる頃、私たちは市場へ出かけた。
通りには蒸気の白い息が立ちのぼり、露店の鉄鍋からは甘い匂いと香辛料の刺激が混ざって漂ってくる。
ルカは初めて見るように周囲を見回し、どの店でも立ち止まっては質問を投げかけた。
「この果物は?」
「あら、知らないのかしら。これは林檎よ。この国は寒いから、よく育つの」
彼は目を輝かせて頷き、まるで子どものように笑った。
その笑顔を見るたび、私の中の何かが静かに揺れた。
「この国は不思議ですね」
「不思議?」
「冷たいのに、あたたかい」
吐息が白くほどけ、すぐに空に消える。
「冷たい機械だらけなのに、あたたかい人の声がする。どの店の人も、笑ってる」
その言葉に、私は言葉を失った。冷たい国、冷たい街。何もかもが急くように過ぎていく機械仕掛けの町。だが、確かにこの場所には、人の温度があった。そのあたたかさを忘れていたのは私の方だったのかもしれないと、そう感じた。
夕暮れ前、帰り道でルカが手にしていた果物を落とし、コトンと音が響く。拾い上げた彼の指先に、ほんの一瞬、微かな光が宿ったのを私は見た。
けれど彼は気づかず、傷がついていないかを確かめて小さく息を吐いた。
「すみません」
「……ああ、問題ない」
そう答えながら、私はその手を見つめた。
夜、作業を終える頃には、ルカは机に突っ伏して眠っていた。静かな寝息。薄い唇がわずかに開き、灯の明滅に合わせて胸が上下している。
私は工具を片づけながら、そっと彼の肩に布を掛けた。その肩は思っていたよりも細く、小さい。
あの夜、泣いていた彼は、まだ子どもだった。守らなければ。そんな言葉が、無意識に胸を掠める。
失ってはいけない。
もう、あの光を戦場のような形で見たくはない。
炉の火がゆるやかに揺れ、鉄の影が壁に踊る。その光の中で眠るルカの横顔は、どこまでも穏やかで、儚かった。
私は静かに息を吐き、目を閉じて、祈りをささげる。
どうか、この微睡の日々が、もうしばらく続きますようにと。
けたたましい音は湿った風に乗り、蒸気の熱気が、ホームの床にまだ滲んでいた。
誰もが黙って歩いている。誰もが、何かを忘れようとするように。
この国は、夜になっても眠らない。歯車は軋み、蒸気は灯りを濁らせ、鉄の息づかいが街の隅々にまで染みこんでいる。
その喧騒の下で、私の時間だけが止まったままだった。
戦争は終わったと、人は言うけれど、私の耳の奥ではいまも炎の音がしている。あの夜、焦げた布と血の臭いが、肺の奥に焼きついて離れない。
そんなことを思いながら、何のあてもなく歩いていたそのときだった。
視界の端に、崩れ落ちる影が見えた。煤けた柱の根元で、薄い布をまとい、骨ばった腕を投げ出して、青年が倒れている。
行き交う人々は、誰も気に留めなかった。視線を逸らし、機械仕掛けの足取りで去っていく。
私はただ、立ち尽くしていた。
胸の奥に、何かが微かに疼いたと同時に、名も知らぬ誰かを抱き上げる。その感触が、戦場で失われた温度と重なった。
青年の体は、驚くほど軽く、血の気が失われ、掌に触れた肌は氷のようだった。唇は乾き、瞼の下には長い影が落ちている。
それでも、確かに呼吸があり、息をするたび、喉がかすかに震えていた。
「……生きてる」
呟いた声が、自分のものではないように響いた。
私はそのまま、青年を抱き上げる。腕の中で、青年の髪がかすかに揺れ、灰色の光が、夜の明かりを受けて淡くきらめく。
駅を離れ、路地裏を抜けた頃には、雨が降り出していた。金属の屋根を叩く音が、どこまでも続いていて、足元には溜まった水があり、そこに灯りが滲んで揺れていた。
自分の工房に戻る頃には、夜は深く沈んでいて、古びた扉を開けると、油と鉄の匂いが迎えてくる。無数の歯車、壊れた機械の山、錆びた工具。
私は青年を寝台に横たえ、古い毛布を掛ける。ランプに火を灯すと、炎の輪がゆっくりと彼の顔を照らした。
まだ幼いその表情は、まるで誰かを探す子供のように見える。
私は湯を沸かしながら、静かな寝息を聞いていた。火が小さくはぜ、湯気が天井に溶けていく。
窓の外では、煙突が黒い息を吐き続けていた。
この国は、戦争をやめても走り続けている。
まるで、止まることが死であるかのように。しかし、私もまた、その歯車のひとつでしかなかった。
湯気が昇ってきた頃、彼はわずかに身じろぎした。
「ここは……」
掠れた声が、闇の底から零れる。
「私の家だ。今夜は、ここで休むと良い」
青年はしばらく何かを探るような目で私を見ていたが、すぐに疲れに負けるように瞼を閉じた。
その肩が小さく上下するたびに、私はなぜか胸の奥が締めつけられるような気がした。青年の頬を照らし続けている暖かな光の中に、かつて自らの手で奪った命の面影を、私は確かに見ていた。
時が進むにつれて、工房の中の空気は、少しずつ冷えていった。ランプの光が弱まり、炎の輪郭が揺れるたび、歯車の影が壁を這うように動いている。
その中で、寝台の上の青年がかすかに息を詰め、身を起こした。毛布が滑り落ち、床に落ちる小さな音がした瞬間、部屋の空気がわずかに張りつめる。
青年の目が光を捉え、動いた。警戒と恐怖が混じり合った、獣のような目だった。彼は寝台から立ち上がり、壁際まで後退る。裸足の足音が、金属の床に沈んで響いた。
窓の向こうの街では、夜更けの蒸気が低く唸っている。
私は動かず、ただその気配を見守った。
青年は壁に背をつけ、出口を探すように視線を彷徨わせていた。その肩がわずかに上下し、呼吸が乱れている。
長い時間、戦場や避難の夜を越えてきた者の、身体に刻みついた癖のようなものだった。
私は息をついた。
青年が振り返り、視線が交わる。光の中に浮かぶ瞳は、灰色の霧のように深く濁っていて、恐怖ではなく、確かめようとするような色がそこにあった。
手を上げるでもなく、近づくでもなく、私はただそこに立っていた。戦場で人を殺すときよりも、ずっと慎重に、静かに。
この一瞬の揺らぎでさえ、壊れてしまいそうなほど脆かった。
「戦争は終わった」
その一言が、煙のように空気へ溶けていく。
青年はしばらく動かず、やがてゆっくりと緊張を解く。膝から力が抜け、背を壁に預け、静かに座り込む。毛布の端が足元に残り、それを無意識に握りしめていた。
私はランプに火を灯し、カップに湯を注ぐ。蒸気が立ちのぼり、湿った空気の中で細く漂った。
それを青年のそばに置くと、彼はしばらく見つめたまま、手を伸ばそうとはしなかった。
指先がわずかに震えていて、それが罠でないか確かめるように、息を殺して見ていた。
私は背を向け、ストーブの煤を払う。
背後で小さな音がして、青年が湯を口にしたことを知る。
火に当たった金属のように、長く冷えていたものが、少しずつ温まり始めるのを感じた。
言葉はなかった。
沈黙の中で、ただ呼吸だけがふたつ、確かに存在していた。
やがて、青年は毛布に身を戻し、背を丸め、光の届かない方を向いた。私はそのまま椅子に腰をかけ、ゆっくりと目を閉じる。
あの頃、戦場では、夜が明けるたび誰かの息が途絶えていた。だがこの夜だけは、ひとつの呼吸が続いている。
そのことが、理由もなく、胸の奥を痛くした。
朝の光は、煤を透かして工房の奥まで届いている。壁に掛けた時計の針がかすかに音を立て、遠くで汽笛が鳴っていた。
私は目を覚ますと同時に、あたりの静けさに違和感を覚えた。寝台に目をやると、毛布が乱れ、そこにあるはずの体が消えている。
夜のうちに出ていったのだろう。床には裸足の足跡が残り、鉄粉と油にまみれて黒く汚れている。
湯の冷えたカップが、静かにその場を見つめていた。
こうなることを、どこかで予感していたのかもしれない。戦争が終わったと言っても、彼にとっては終わりではなかったのだろうか。奪われ、残された者たちの時間は、誰も止めてはくれない。
外へ出ると、朝の空気は冷たく、僅かに雨が降っている。工場の煙突から吐き出された蒸気が低く漂い、街路を白く染めていた。
その中に、裸足で歩いた跡が続いている。
私はそれを辿りながら、心の奥で鈍い痛みを覚えていた。
兵として生きてきた年月の中で、いくつの命を奪ってきただろう。敵も、味方も、若い者たちも。彼らの息が途絶えるたびに、私の中の何かが少しずつ鈍くなっていった。
それでも、倒れていたあの青年だけは、なぜか、放っておけなかった。それが、贖いなのか、ただの逃避なのか、自分でも分からない。
やがて街を抜け、線路に出た。錆びついた鉄の道が、朝靄の中をまっすぐ伸びている。
その上を、ひとつの影が歩いていた。
裸足の足裏が枕木に触れるたび、痛みを堪えるように肩が震えている。腕や足には擦り傷がいくつもあり、乾ききらない血がこびりついていた。薄いシャツが風に貼りつき、肌の下で痩せた骨が動くのが見える。
私は呼吸を整え、声をかけた。
「どこへ行く」
青年が振り返る。その瞳には夜の残滓のような影があり、まっすぐに私を見返した。
「姉のもとへ」
声は弱く、しかし確かに焦燥を含んでいた。私は線路の上に足を乗せ、静かに近づき尋ねる。
「姉はどこに――」
私が言葉を紡ぎ終わる前に、青年の唇がわずかに動く。
「分からない。分からないけど、会いたいんです」
雨が強まり、青年の髪を濡らしていく。
私は言葉を失ったまま、その姿を見つめていた。
裸足のまま、血の滲む足を気にも留めずに歩こうとするその姿が、痛ましかった。戦場で倒れていった多くの者たちの顔が、ふいに脳裏を過る。
どうして、自分は彼らに手を差し伸べられなかったのだろう。
そんな問いが、今さら胸の奥で疼いた。
「一人で、どうするつもりだ」
ようやく言葉を絞り出すと、青年は顔を上げる。灰色の瞳が、雨に濡れた鉄のように冷たく光った。
「あなたには、関係ない」
その言葉の刃は、過去の自分に向けられたように感じた。
私は小さく息を吐き、傘を差し出す。青年の肩に傘の影が落ち、雨粒が傘の表面を叩き、一定のリズムを刻んでいた。
青年はしばらく動かず、そのまま雨の音を聞いていた。
ふと、膝が崩れた。彼の足元には血の混じった泥が広がっている。
私は無言でその腕を支えた。体温は驚くほど冷たく、指先は震えていた。
「戻ろう」
青年は拒もうとしたが、声が出なかった。ただ、濡れたまま俯いて、唇を噛んでいた。
その肩に力が入らなくなった瞬間、私は彼を抱きかかえた。
雨の音の中で、青年の息が途切れ途切れに聞こえる。小さな声で何かを呟いたが、風に消えた。
工房に戻ると、炉の残り火がまだ赤く揺れていた。
濡れた服を脱がせ、毛布に包む。
湯を沸かしながら、その横顔を見つめると、長い睫毛の下で、瞼が微かに震えていた。
夢を見ているのだろうか。だがその表情は苦しかった。
私は静かに目を伏せる。
あの戦争で多くを奪い、そして今、ひとりの命を守ろうとしている。それが赦しになるとは思わない。けれど、せめてこの手の中で、誰かを失わずに済むのなら。
雨の音が少しずつ遠のいていく。
青年の呼吸が穏やかになり、部屋の空気に微かな温もりが戻る。私はその様子を確かめながら、深く息をついた。
――この日以降、彼が出て行こうとすることはなかった。
あの日から、青年は工房の片隅に居ついた。
最初はただ、空腹をしのぐために、置かれているような存在だった。炉の火が消えぬようにと薪をくべ、埃を払う。そうして静かな手つきで動く姿を見ていると、彼が本来はどんな暮らしをしていたのか、少しずつ想像がつくような気がした。
街の音はいつも遠い。軋む歯車と、湯気のように立ち上る人々の息づかい。
戦争の爪痕はこの街のいたるところに残っていて、鉄の匂いと油の気配が、未だに戦場を思い出させた。
私は作業台に腰を下ろし、手の中の古い機構を見つめていた。
長い間、使われていた懐中時計だ。時おり内部でわずかに軋む音がする。
それを聞きつけたように、背後から青年がそっと近づいてきた。
「直せそうですか」
低い声。昨日よりいくぶん穏やかだった。
私は振り返らずに答える。
「どうだろうな。ここまで古くなっていれば、もはや鉄屑かもしれん」
沈黙の後、ふと、金属の擦れる音がした。彼が手を伸ばし、時計の表面を撫でている。
その指先から、微かに光が溢れた。青白く、息のように揺らいで、機械の奥に吸い込まれていく。
途端、止まっていた歯車が一度だけ、かすかな音を立てた。
私は思わず息を呑んだ。それは魔法だった。この国はすべて機械仕掛けで、隣国の様な魔道具も魔法士も存在しない。
柔らかく、しかしどこか不安定な光の脈動は、かつて争っていた隣国の術だった。
青年は私の視線に気づき、わずかに肩を竦めた。
「すみません。つい……」
言葉を探すような口調だった。
私はただ首を振る。問い詰めることはしなかった。問いが必要だとも思えなかった。彼はしばらく、止まった歯車を見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「この国の機械は、悲しい音がします」
その言葉は、鉄の冷たさの奥に届くようだった。
彼にはいったい何が聞こえているのか、その音も魔法によって感じたものであるのかは分からない。しかし、何となく言いたいことは分かった。
午後になると、外では風が強くなった。煙突から吐かれた白い煙が低くたなびき、灰色の空を這っていく。
私は作業台を片づけ、湯を沸かした。青年はそのあいだ、古い時計の歯車を磨いていた。黙々と、まるで祈るように。
やがて湯気が立ち上る。カップを二つ並べ、一つを彼の前に置く。
「名前を、聞いていなかったな」
青年は手を止め、少しのあいだ迷うように黙ったあと、口を開いた。
「ルカ」
その名を確かめるように繰り返すと、彼は少しだけ眉を下げた。
私は微笑のようなものを浮かべて、湯を口に含んだ。温かさが喉を落ちていく。
「俺はエリオット。好きに呼んでくれて、構わない」
ルカは何も答えなかった。けれど、手の中の時計を見つめる目に、わずかな光が戻っていた。
あの日、駅で出会った時とは違う。まだ脆く、どこか怯えた影を残しながらも、彼の中で何かが少しずつ形を取り戻しているように思えた。
日が傾き始めるころ、ルカは窓辺で外を見ていた。
街を走る汽車の音が遠くで響く。かつて弾薬を運んでいたそれは、いまは瓦礫と穀物を積んでいる。
戦争は終わったと人々は言う。
だが、ルカの視線の先には、まだ終わらない何かがあった。彼は沈黙のまま、曇ったガラスに指で小さな円を描いたが、それは風ですぐに消えていった。
私は火のそばに座りながら、その横顔を見つめていた。この静けさが、永遠には続かないことを知っていた。それでも、いまだけはこの息づかいを、手の中に留めておきたかった。
炉の火が小さくはぜ、鉄くずの影が壁に揺れた。ルカが手にした古い時計は、まだ音を刻んでいない。
だが、その沈黙の奥で、確かに何かが動き出しているように思えた。
朝の工房の空気は金属の冷たさを含んでいる。窓の外では煙突がゆるやかに白い息を吐き、薄い靄が街を包む。
私は炉に火を入れ、前夜の作業で外しておいた時計の歯車を並べ直した。錆びを拭いながら、手が自然に動く。音のない日課。そこへ彼が、ゆっくりと足を運んでくる。
ルカはまだ夢の名残をまとっているようだった。髪の端が寝癖で少し跳ねていて、それを気にするでもなく、静かに椅子に腰を下ろした。
この工房に来て数日。彼の言葉は少ないが、けれど確かに生きようとしていた。
初めて触れた工具の扱いも、ぎこちないながら徐々に馴染んでいく。銅線を巻く指先はまだ震えていたが、時折ふと見せる集中の眼差しには、かすかな光があった。
それはまるで、夜明け前の街灯のように心細く、それでも確かに闇を退けていた。
昼を過ぎる頃、工房の奥で雨が降りだした。薄い屋根を打つ水の音が、一定のリズムを生み出している。
私は作業をやめ、棚から古い油紙を取り出して、濡れそうな部品を覆った。ふと背後を振り向くと、ルカが窓辺で外を見ていた。
雨の筋を追うその目は、どこか遠くを見ているようで、彼の頬に落ちたひとしずくが、雨なのか涙なのか、見分けがつかなかった。
そのとき、不意にカランと小さな音がした。
机の上に置いていた小さな歯車が転がり落ちたのだ。ルカは慌てて拾おうとしたが、その瞬間、指先から微かな光が滲んだ。
淡く、けれど確かに、空気が震え、私は息を止めた。
だが、ルカは何も気づいていないように、そっと歯車を拾い上げ、申し訳なさそうに目を伏せた。
その光はすぐに消え、何事もなかったかのように工房は再び静まり返る。
私はただ、胸の奥に残る微かな「音」に耳を澄ませた。金属の軋みでも、雨音でもない。
――悲しい音がする。
外では雨がやみ、街の灯りがひとつ、またひとつ、灯り始めていた。
ルカはすでに部屋に戻っている。
私は工具を片づけながら、耳の奥でかすかに響く記憶の残響に気づく。
それは遠い戦場で見た、あの光と同じ色をしていた。
夜更け、工房の奥から、かすかな光が滲んでいることに、私はまだ気づいていなかった。
灯を落とした工房には、火の残り香と油の匂いが漂っている。
夜の静けさの中で、私は椅子に腰を下ろし、手の中の歯車を転がしていた。
歯の欠けた音が小さく響き、それがなぜか、心の奥に触れる。
――悲しい音がする。
あの日から、ずっと。
ふと、天井の方でかすかな光が揺れた。
最初は錯覚かと思った。だが、二階にあるルカの部屋の隙間から、淡い明かりが漏れているのが見えた。
夜更けに灯りをともすような子ではない。
私は立ち上がり、階段を上る。足音を忍ばせながら、扉の前で一瞬だけ息を整えた。
光は揺れながら、ゆっくりと脈打っているようだった。
そっと扉を押した瞬間、柔らかな光が私を包み込み、視界を奪われた。奪われた視界を取り戻すように、眩しさに慣れたであろう瞳をゆっくりと開ける。
ルカは寝台の上に身を丸めていて、その胸元から、柔らかな光がこぼれていた。呼吸とともに膨らみ、また小さく縮む。まるで心臓の鼓動がそのまま光になったように。
「お姉ちゃん……行かないで……」
その声が、かすかに夜を震わせた。
ルカの頬には、静かに涙が伝っていて、光に照らされて、透明な滴が一つ、また一つと枕を濡らしていく。
私はその姿に息を呑んだと同時に、胸の奥がきつく締めつけられる。
光が部屋を満たし、金属の壁を淡い金色に染めていた。
あの色を忘れたことはない。戦場の空を裂いた閃光。崩れゆく塔の上、敵も味方も分け隔てなく包み込んだ、あの温かく、そして痛い光。あのとき、この光に焼かれた命の数を、私は今も数えきれないでいる。
私はそっとルカの傍に膝をつき、揺らめく光に手を伸ばした。触れた指先が、ぬくもりとともに震える。
この光は彼のものであり――彼女のものでもある。
胸の奥に、かつての叫びが蘇る。銃声、火薬の匂い、倒れゆく影。その中で、一瞬だけ見えた、彼女の背中。
私はルカの肩をそっと抱き寄せた。
「大丈夫。……大丈夫だ」
自分でも理由がわからないまま、そう囁いた。
彼の体は小刻みに震えていたが、やがて呼吸がゆるみ、光は少しずつ穏やかに沈んでいった。
残光を見つめながら確信する。
――私は、この光を知っている。
夜が明ける前の工房は、冷たい。
炉の中には火の名残がかすかに残り、鉄の匂いと油の蒸気が静かに沈んでいる。
私は作業台に腰を下ろし、昨夜の記憶を押しやるように、工具をひとつひとつ整えた。
あの光。そして、ルカの涙。
まるで夢のような出来事だった。けれど、夢ではない。指先に残るぬくもりが、今も消えない。
階段の方から、かすかな足音がした。振り向くと、ルカが眠たげな目で降りてきた。寝癖のついた髪を無造作に撫でつけながら、欠伸をひとつ。
「おはようございます、エリオット」
「ああ。おはよう」
軽い挨拶を交わすと、彼は机の上を覗き込み、まだ眠気の残る声で笑った。
「昨日の歯車、動くようになりましたか」
「どうだろうな。もう少し、手をかける必要がありそうだ」
そのやり取りの穏やかさに、私はほんの少し戸惑った。まるで、昨夜の光も涙も、何もなかったかのようで。
午前の作業は、いつもよりゆっくり進んだ。ルカは炉の前で小さな部品を磨いていて、手つきはまだぎこちないが、動きには確かさが宿り始めていた。
磨かれた金属が光を反射し、その一瞬の輝きが、どこか彼自身のように思えた。私はその背中を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
壊れかけたものが、少しずつ形を取り戻していく。それは、機械だけではなく、彼自身もそうなのかもしれない。
昼を過ぎる頃、私たちは市場へ出かけた。
通りには蒸気の白い息が立ちのぼり、露店の鉄鍋からは甘い匂いと香辛料の刺激が混ざって漂ってくる。
ルカは初めて見るように周囲を見回し、どの店でも立ち止まっては質問を投げかけた。
「この果物は?」
「あら、知らないのかしら。これは林檎よ。この国は寒いから、よく育つの」
彼は目を輝かせて頷き、まるで子どものように笑った。
その笑顔を見るたび、私の中の何かが静かに揺れた。
「この国は不思議ですね」
「不思議?」
「冷たいのに、あたたかい」
吐息が白くほどけ、すぐに空に消える。
「冷たい機械だらけなのに、あたたかい人の声がする。どの店の人も、笑ってる」
その言葉に、私は言葉を失った。冷たい国、冷たい街。何もかもが急くように過ぎていく機械仕掛けの町。だが、確かにこの場所には、人の温度があった。そのあたたかさを忘れていたのは私の方だったのかもしれないと、そう感じた。
夕暮れ前、帰り道でルカが手にしていた果物を落とし、コトンと音が響く。拾い上げた彼の指先に、ほんの一瞬、微かな光が宿ったのを私は見た。
けれど彼は気づかず、傷がついていないかを確かめて小さく息を吐いた。
「すみません」
「……ああ、問題ない」
そう答えながら、私はその手を見つめた。
夜、作業を終える頃には、ルカは机に突っ伏して眠っていた。静かな寝息。薄い唇がわずかに開き、灯の明滅に合わせて胸が上下している。
私は工具を片づけながら、そっと彼の肩に布を掛けた。その肩は思っていたよりも細く、小さい。
あの夜、泣いていた彼は、まだ子どもだった。守らなければ。そんな言葉が、無意識に胸を掠める。
失ってはいけない。
もう、あの光を戦場のような形で見たくはない。
炉の火がゆるやかに揺れ、鉄の影が壁に踊る。その光の中で眠るルカの横顔は、どこまでも穏やかで、儚かった。
私は静かに息を吐き、目を閉じて、祈りをささげる。
どうか、この微睡の日々が、もうしばらく続きますようにと。
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