ナタ=デ=ココ

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第二話

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 朝はどこかで鳴いている小鳥の声とパンの焼ける匂いで目が覚める。
 鉄の床を踏む音が聞こえ、エリオットはもう目が覚めていることを理解した。
 最初のうちは、その音を聞くだけで体が跳ねた。けれど今は違う。あの足音がすぐ近くにあると、少しだけ安心する。
 窓から光が差し込み、白い息が見えるほど寒い朝でも、その光はやさしい。
 僕はゆっくりと階段を降りて行き、冷たいテーブルに向かった。「起きたか」と、低い声がして、テーブルの上に温かいスープが置かれる。
 うまく笑えないけれど、うなずいて椅子に座る。それだけで十分だと思えた。
 昼になると、エリオットに頼まれて市場まで行く。人の声が多すぎて、最初は息が詰まりそうだったけれど、パン屋の娘が「こんにちは」と笑って手を振ってくれるようになってからは、この町のあたたかい人々に触れてからは、少しずつ怖くなくなった。
 色とりどりの果物、焼きたてのパン、濡れた天幕。どれも、この町に来て初めて見たものばかりだった。
 ただ、漂う油と鉄の匂いを嗅ぐたびに、胸の奥が強く痛み、あの頃の景色が、音が、匂いが体の奥から甦る。
 そんなとき、エリオットは何も言わない。ただ隣にいて、歩く速度を合わせてくれる。
 それだけで、救われることがあると知った。
 夕暮れの川辺で、風が頬を撫でる。
 空の色が変わっていくのを眺めながら、ふと、この穏やかな時間を、怖いと思わなくなっていたことに気が付く。
 それが何だか嬉しくて、僕は少しだけ微笑んだ。

 その夜、夢を見た。
 その夢には光が満ちていた。けれど、あの日のような柔らかな光ではなく、肌を焼くような熱と、鉄の匂いを孕んだ鋭い光だった。
 胸の奥がぎゅっと縮こまり、息をするたび肺の内側が焦げつくように痛い。目を開けると、そこはどこまでも赤く、空気そのものが溶けてしまったような戦場だった。
 すべてが燃えていた。建物が崩れ、煙がうねり、人の形をした影が倒れては溶けていく。
 その中に、姉が立っていた。
 炎を背負い、ぼろぼろになった鎧の下で、それでも背筋を伸ばして剣を構えている。頬に流れた血の筋が乾いて、皮膚と一体化していた。
 僕は思わず、その名を呼ぼうとした。けれど、喉は凍りついたように動かない。まるでガラスの向こうから、誰かの人生を覗き見ているだけの透明な存在みたいだった。
 灰が渦を巻いて、空に昇っていく。その一つ一つが、まるで焼け落ちた記憶のかけらのようで、目を逸らそうとしても瞼の裏に焼きついて離れない。
 その灰の向こうから、ひとりの男が歩いてきた。
 その男は剣を携え、無言のまま、ただ一直線に姉のもとへ向かう。その姿を見た瞬間、心臓がドクンと脈打ち、世界が軋んだ。
 夢なのに、痛いほど現実だった。認めたくないのに、わかってしまう。その兵士が、誰なのかを。
 姉が叫んでいるが、言葉は聞こえない。音のない世界で、ただ唇の動きだけが残像のように繰り返される。
 彼女の声を知らないわけじゃない。幼い頃、夜に光が暴走して泣いていた僕の耳元で、何度も「大丈夫」と囁いてくれたあの声だ。
 それなのに、今は何も届かない。まるでこの世界が、僕のために音を奪い去ってしまったかのようだった。
 剣が閃いた。
 光の筋が空気を裂き、次の瞬間、赤い飛沫が弧を描いた。姉の体がわずかに震え、口が何かを言いかける。
 けれど、その瞳が見つめていたのは、僕ではなく、一人の――兵士だった。
 エリオット。
 名を呼ぶことすらできず、ただ息を呑む。信じられないというよりも、信じるしかない現実が目の前に突きつけられて、心の奥で何かが音を立てた。
 光が暴れ、炎が世界を呑み込む。熱いのに寒く、遠いのに近い。耳の奥で誰かの叫びが響く。それが姉なのか、僕自身なのか、もうわからない。
 血の匂いが濃くなり、視界がぐらぐらと歪む。地面が沈んでいく。空が裏返る。
 そして最後に、姉の目が僕を見たような気がした。痛みも、怒りも、悲しみも超えて、ただ何かを託すように。
 瞬間、世界が砕けた。
 音も、光も、呼吸も、全部まとめて粉々に。

 夜が明けても、光はどこか薄暗く感じた。
 窓から射し込む朝日が、灰色の霧を割るように部屋を照らしている。鳥の声も、パンの焼ける匂いも、今日はどこか遠い世界の出来事のようだった。
 眠ったはずなのに、体が重い。夢の残骸がまだ体の奥にこびりついていて、指先ひとつ動かすたびに、あの赤い光景が蘇る。
 階段を降りると、エリオットがいた。
 いつものように椅子に座り、無言でコーヒーを飲んでいる。その背中を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと音を立てて潰れた。
 声に出すつもりはなかったのに、気づいたら言葉が零れていた。
「……あなたが、姉を殺した」
 エリオットの手が止まった。
 カップの中の液面がわずかに揺れ、湯気が静かにほどけていく。
 彼はしばらく動かなかった。まるでその一言が、世界を止めてしまったかのように。
「夢を見ました」
 自分の声がひどく遠く聞こえる。
 エリオットは俯いたまま、低く息を吐いた。
「……命令だった。戦場だった。けれど、殺したのは、私だ」
 言葉が刃のように胸に突き刺さる。
 わかっていたはずなのに、現実の音を持つその言葉は、夢の中のどんな炎よりも痛かった。
 指先が震える。
 力を込めようとしても、手のひらが勝手に逃げる。震えが、恐怖なのか怒りなのか、自分でもわからなかった。
 彼は立ち上がろうとして、口を開く。
「すまない。謝って許されることじゃないが、それでも――」
「謝らないで!」
 思ったよりも強い声が出た。
 自分の声じゃないみたいだった。
 喉の奥が焼けるように痛くて、でも、言葉は止まらなかった。
「今、謝られたら……僕は、あなたを、憎めなくなる」
 静寂が落ちた。風の音も、家のきしみも、全部消え、ただ二人の呼吸だけが、狭い部屋の中に残っていた。
 エリオットは動かない。何も言わない。その沈黙が、どんな言葉よりも重たかった。
 ふと、カーテンの隙間から差し込んだ光が、彼の頬を照らす。
 その顔が、痛みではなく、ただ深い後悔の影を宿しているのを見て、胸の奥で、どうしようもないほどの悲しみが広がっていった。
 憎みたいのに、憎めない。
 失いたいのに、失いたくない。
 そんな矛盾が、静かに体の中を締めつけていくのを、僕は、感じた。

 その夜、僕は工房を出て行った。
 夜の雨は、まるで世界を洗い流すように降っていた。雲の底が裂け、風が軋み、冷たい水が肌を叩く。
 どこまでも濡れた街を、僕はただ歩いていた。いや、歩いているというより、何かに押し出されていたの方が近いのかもしれない。胸の奥で、何かが暴れ出している。熱くて、重くて、どうしようもなく痛い。
 気が付けば、指先が光を帯びていた。いや、光なんてものではない。呼吸と一緒に漏れ出して、雨を焦がし、空気を震わせる。
 心臓が一度強く跳ねた。
 瞬間、僕の周りが激しく煌めき、街を縁取るように並ぶ灯が、息を合わせるように悲鳴のような音を立てて弾けた。ガラスが砕け、光が散り、雨粒がそれを反射して、世界中が眩しくなる。
 目を閉じても、まぶたの裏で閃光が焼きつく。胸の奥で暴れる何かが、止まらない。
 姉の顔が、あの戦場の炎が、エリオットの沈黙が、全部一気に押し寄せて、形を失って、叫びたくなる。
「っ――」
 喉の奥が裂けるように痛かった。声は雨に飲まれ、世界に溶けて消えていく。
 それでも、止まらなかった。
 光が暴れ、街灯が次々と弾け飛ぶ。火花が雨に溶け、煙が渦を巻き、夜の街はまるで巨大な心臓みたいに、明滅しながら脈打っていた。
 僕の感情が、街そのものを震わせているようで、悲しみも怒りも、憎しみも愛しさも、ぜんぶ混ざって形を失い、どこへ向かうのかもわからない。
 頭の奥で白い光が爆ぜ、体が勝手に軋み、大粒の雫が瞳からとめどなく溢れていく。喉が枯れて、雨と涙が混ざって、どこまでが自分の声かわからない。
 けれども、その声もやがて、遠くの轟音にかき消された。
 街の奥で、機械が唸っていた。歯車が軋み、蒸気が吹き上がり、鉄がうねる。その音が、まるで世界の心臓の代わりのように、無慈悲に、淡々と、鳴り続けていた。
 僕の声なんて、最初から存在していなかったみたいに。
 雨は止まなかった。壊れた灯の破片が路地に散らばり、光の名残が水たまりに沈んでいた。
 僕はそこに膝をつき、うつむいたまま動けなかった。全身が痛くて、寒くて、それでも、心のどこかで、まだ、帰りたいと思っていた。

 雨も止み、朝日が世界を照らし始めた頃、僕は工房の扉を叩いた。服は泥にまみれ、指先には小さな切り傷がいくつも走っていた僕を見て、エリオットは言葉もなくタオルを差し出す。
 僕はかすれた声で、一言だけ告げた。
「帰る場所が、ないんです」
 彼は、ほんのわずかに目を伏せた。
 その沈黙の奥に、昨夜砕けた街灯の光よりも儚い、けれど確かな温もりが揺れていた。

 それからの日々、言葉は少なくなった。
 食卓の上には湯気の立つスープがあり、パンの焼ける匂いが広がる。以前と変わらぬ光景なのに、そこに流れる空気は、どこか透明すぎて、触れた指先が透けてしまいそうだった。
 エリオットはあれからほとんど話さなくなった。口を開いても、短い言葉がぽつりと落ちるだけで、それ以上は続かない。
 けれど、不思議とそれが苦ではなかった。
 彼の沈黙は、僕を拒むための壁ではなく、きっと、自分を赦せないまま守ろうとしている、細い糸のような静けさなのだと感じていた。
 僕もまた、微笑むことを覚えた。
 笑う理由なんて、もうどこにもなかったけれど、それでも微笑むことで、少しだけ呼吸が楽になった。
 それは誰かを安心させるための表情ではなく、崩れそうな自分を支えるための、ひとつの儀式のようなものだった。
 市場に行けば、人々が声をかけてくれる。パン屋の娘が「ごきげんよう」と挨拶をして微笑んでくれる。僕は軽く会釈して、小さく「こんにちは」と返す。
 その言葉の奥に、昨夜の雨も、光も、痛みも全部沈めて。
 帰り道はエリオットと並んで歩く。肩が触れるほどの距離にいるのに、互いに言葉を探すことはなかった。
 ただ、風の音と靴音が重なっていく。それが、十分すぎるほどの会話だった。
 夕暮れ、工房の灯を落としたあと、ふとエリオットの背中が目に入る。僕は彼が、もう二度と血に染まらないようにと、無意識に祈っていた。
 自分でも驚くほど、静かな心だった。
 あの夜、あんなに壊れて泣き叫んだはずなのに、今はもう、涙ひとつ出ない。
「あなたが、生きているなら……」
 自分の声が、思ったよりも穏やかに響いた。
 風に溶けるように消えていくその言葉を、エリオットが聞いたかどうかはわからないけれど、彼の指はわずかに止まっていた。
 それだけで、十分だった。
 赦しというものは、与えるものでも、受け取るものでもなく、ただ、気づかないうちに、胸の奥に灯る小さな光のようなものなのかもしれない。
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