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プロローグ
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美しいと思った。
その瞬間、息をすることさえ忘れていた。
秋の午後、陽の傾きが少し早くなりはじめた頃だった。三年生になって半年が過ぎ、高校受験という言葉が少しずつ現実味を帯びてきていた時期。その日の空気にはどこか、夏の名残と冬の気配が同時に漂っていた。
そんな季節の狭間に、俺は友人に誘われるまま、美術館へと足を運んだ。
美術館の展示室は淡い照明に包まれ、空気そのものが静かに沈殿しているようだった。
磨かれた床に靴音が吸い込まれていく。知らない誰かの世界が、額縁の中で息をしている。そんな無数の色と形の中に、それは、ひとつだけ異質な輝きを放っていた。
描かれていたのは、何の変哲もない『教室の午後』。
木製の机、白いチョークの粉、窓辺のカーテンの端に指先ほどの光。それだけの風景なのに、そこに流れている空気は、まるで生きているかのように揺れていた。
壁から差す陽の粒が画布の奥へと吸い込まれ、またこちらへと返ってくる。そんな錯覚を覚えた。近づけば近づくほど、その光が胸に響いた。
ただの絵のはずなのに、温度があった。
誰かが、確かに、そこにいた。息をし、見つめ、筆を置いた、その瞬間の鼓動がまだ残っているように思えた。
――なんて、美しいのだろう。
気づけば、無意識にその言葉を口の中で転がしていた。「美しい」という言葉が、これほどまでに現実感を伴って胸を打ったのは、生まれて初めてだった。
作者の名前に目をやると、黒々とした文字で、一行。
『一色葉』と書かれていた。
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに動く。
理由は分からない。ただ、この人のように描いてみたいと思った。こんな風に光を描ける人になりたいと、心のどこかが、確かに囁いた。
――有栖川蒼は、絵筆を握ったことすらなかった。けれど、彼の中にはもう、絵を描くための最初の光が灯っていた。
春の光が少しだけ柔らかくなり、入学式から数日が過ぎた頃の放課後、俺は美術室の扉の前にいた。
ゆっくりとノックをし、扉を開けた瞬間、古い木の匂いと、絵の具の甘い香りが同時に押し寄せてくる。棚には乾きかけのキャンバスが立てかけられ、窓際では夕陽がガラス瓶の中の水を透かしてきらめいていて、やわらかい空気は、静かな色をしていた。
「新入生?」
ブラウスにカラフルな絵の具が付いたエプロンを付けた女性が俺に声をかけてきた。顧問の先生だろうか。眼鏡の奥の瞳は、光を見慣れている人のように澄んでいる。
「入部希望かしら」
「あ、はい」
「そう。こちらへどうぞ」
少し笑ってから、先生は棚の上の鉛筆を手に取った。
「とりあえずデッサン、してみようか」
「デッサン?」
「あら、何にも知らないのね。このモチーフを見たままに描くのよ」
「見たまま」という言葉が耳に残る。俺は、その意味がよく分からなかった。美しいものは、目で見るものなのか。それとも、感じるものなのか。
その日から、俺の美術は、動き始めた。
筆を握るたび、胸の奥がざわめき、形が崩れ、線が歪んでも、それさえも嬉しくて仕方がなかった。描くことは、失敗や成功とは違う場所にある何かのように思えて。それは、知らない旋律に耳を傾けるような行為で、紙の上で色が混ざる音を、俺の心が聞いていた。
鉛筆の黒はどうしても息苦しく感じた。俺の見ている世界は、もっと柔らかく、もっと滲んでいる気がしたから。
ある放課後、水彩絵の具を取り出してみた。
紙の上に水を流し、筆先に青を含ませる。その瞬間、胸の奥にかかっていた膜のようなものがふっと消えて、息をするたびに世界が軽くなっていくのを感じた。
色が紙の上でほどけ、滲み、重なり、淡く混ざり合っていく。水の流れが、思考よりも早く形を生み出す。その不確かさが、たまらなく楽しかった。何かを描いているというより、色と一緒に呼吸をしているようだった。
空の青と、午後の光の黄色。その二つが溶けあって、見たことのない緑を生んだ。その緑は、風の匂いがして、風が、キャンバスの上を吹き抜けていくようだった。
筆を止めるたびに、色が生き物のように動き、その命を追いかけるように、俺の手がまた動く。
止まることが怖いほど、描くことが楽しくて、音のない世界で、光だけが動き続ける。時間の感覚が消え、窓の外の茜色が、絵の中にも滲み込み、その色さえも俺の呼吸の一部になっていた。
最後に、画用紙の真ん中に白を落とす。光の粒がそこに降りたように見えて、俺の顔には笑みが浮かんでいた。
こんなに楽しいことが、この世にあったなんて。心が、絵の中に全部吸い込まれていくようだった。
数日後、完成した絵を顧問の先生に見せた。
瞬間、彼女の瞳からはとめどなく涙が溢れ、静かに、泣いていた。
「……なんて、美しいの」
その声はとても小さく、絵の中の色を壊さないようにと震えていた。
俺は何も言えず、ただ、絵の中に流れる光を見つめた。それは俺が感じた幸福そのもので、その幸福が、誰かの心に触れていた。
顧問は涙を拭って、笑う。
「この絵、県展に出してみない?」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが静かに灯った。絵の中の光が、ゆっくりと俺の中に戻ってくる。
世界が少しだけ色づいて見えた。
俺は、その時初めて、描くということの意味を知った気がした。それは、祈ることよりも静かで、生きることよりも確かな喜びだった。
その瞬間、息をすることさえ忘れていた。
秋の午後、陽の傾きが少し早くなりはじめた頃だった。三年生になって半年が過ぎ、高校受験という言葉が少しずつ現実味を帯びてきていた時期。その日の空気にはどこか、夏の名残と冬の気配が同時に漂っていた。
そんな季節の狭間に、俺は友人に誘われるまま、美術館へと足を運んだ。
美術館の展示室は淡い照明に包まれ、空気そのものが静かに沈殿しているようだった。
磨かれた床に靴音が吸い込まれていく。知らない誰かの世界が、額縁の中で息をしている。そんな無数の色と形の中に、それは、ひとつだけ異質な輝きを放っていた。
描かれていたのは、何の変哲もない『教室の午後』。
木製の机、白いチョークの粉、窓辺のカーテンの端に指先ほどの光。それだけの風景なのに、そこに流れている空気は、まるで生きているかのように揺れていた。
壁から差す陽の粒が画布の奥へと吸い込まれ、またこちらへと返ってくる。そんな錯覚を覚えた。近づけば近づくほど、その光が胸に響いた。
ただの絵のはずなのに、温度があった。
誰かが、確かに、そこにいた。息をし、見つめ、筆を置いた、その瞬間の鼓動がまだ残っているように思えた。
――なんて、美しいのだろう。
気づけば、無意識にその言葉を口の中で転がしていた。「美しい」という言葉が、これほどまでに現実感を伴って胸を打ったのは、生まれて初めてだった。
作者の名前に目をやると、黒々とした文字で、一行。
『一色葉』と書かれていた。
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに動く。
理由は分からない。ただ、この人のように描いてみたいと思った。こんな風に光を描ける人になりたいと、心のどこかが、確かに囁いた。
――有栖川蒼は、絵筆を握ったことすらなかった。けれど、彼の中にはもう、絵を描くための最初の光が灯っていた。
春の光が少しだけ柔らかくなり、入学式から数日が過ぎた頃の放課後、俺は美術室の扉の前にいた。
ゆっくりとノックをし、扉を開けた瞬間、古い木の匂いと、絵の具の甘い香りが同時に押し寄せてくる。棚には乾きかけのキャンバスが立てかけられ、窓際では夕陽がガラス瓶の中の水を透かしてきらめいていて、やわらかい空気は、静かな色をしていた。
「新入生?」
ブラウスにカラフルな絵の具が付いたエプロンを付けた女性が俺に声をかけてきた。顧問の先生だろうか。眼鏡の奥の瞳は、光を見慣れている人のように澄んでいる。
「入部希望かしら」
「あ、はい」
「そう。こちらへどうぞ」
少し笑ってから、先生は棚の上の鉛筆を手に取った。
「とりあえずデッサン、してみようか」
「デッサン?」
「あら、何にも知らないのね。このモチーフを見たままに描くのよ」
「見たまま」という言葉が耳に残る。俺は、その意味がよく分からなかった。美しいものは、目で見るものなのか。それとも、感じるものなのか。
その日から、俺の美術は、動き始めた。
筆を握るたび、胸の奥がざわめき、形が崩れ、線が歪んでも、それさえも嬉しくて仕方がなかった。描くことは、失敗や成功とは違う場所にある何かのように思えて。それは、知らない旋律に耳を傾けるような行為で、紙の上で色が混ざる音を、俺の心が聞いていた。
鉛筆の黒はどうしても息苦しく感じた。俺の見ている世界は、もっと柔らかく、もっと滲んでいる気がしたから。
ある放課後、水彩絵の具を取り出してみた。
紙の上に水を流し、筆先に青を含ませる。その瞬間、胸の奥にかかっていた膜のようなものがふっと消えて、息をするたびに世界が軽くなっていくのを感じた。
色が紙の上でほどけ、滲み、重なり、淡く混ざり合っていく。水の流れが、思考よりも早く形を生み出す。その不確かさが、たまらなく楽しかった。何かを描いているというより、色と一緒に呼吸をしているようだった。
空の青と、午後の光の黄色。その二つが溶けあって、見たことのない緑を生んだ。その緑は、風の匂いがして、風が、キャンバスの上を吹き抜けていくようだった。
筆を止めるたびに、色が生き物のように動き、その命を追いかけるように、俺の手がまた動く。
止まることが怖いほど、描くことが楽しくて、音のない世界で、光だけが動き続ける。時間の感覚が消え、窓の外の茜色が、絵の中にも滲み込み、その色さえも俺の呼吸の一部になっていた。
最後に、画用紙の真ん中に白を落とす。光の粒がそこに降りたように見えて、俺の顔には笑みが浮かんでいた。
こんなに楽しいことが、この世にあったなんて。心が、絵の中に全部吸い込まれていくようだった。
数日後、完成した絵を顧問の先生に見せた。
瞬間、彼女の瞳からはとめどなく涙が溢れ、静かに、泣いていた。
「……なんて、美しいの」
その声はとても小さく、絵の中の色を壊さないようにと震えていた。
俺は何も言えず、ただ、絵の中に流れる光を見つめた。それは俺が感じた幸福そのもので、その幸福が、誰かの心に触れていた。
顧問は涙を拭って、笑う。
「この絵、県展に出してみない?」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが静かに灯った。絵の中の光が、ゆっくりと俺の中に戻ってくる。
世界が少しだけ色づいて見えた。
俺は、その時初めて、描くということの意味を知った気がした。それは、祈ることよりも静かで、生きることよりも確かな喜びだった。
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