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光
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琥珀学院のアトリエは、いつも、静かだ。窓の外は春の陽射しで満ちているのに、部屋の中は油絵具の乾く匂いと、鉄のような冷たさで満たされていた。
僕は、その空気が嫌いではなかった。規則的に並ぶキャンバス、一定の距離を保つ作業台。何も乱れていない空間で、筆だけが音を立てる。それはまるで、呼吸のリズムのようだった。
描いているのは、教室の光景。窓、机、椅子、床。
構図は三分割法、視点は斜め上から。光源を一点に固定し、反射光を意識して配置する。空間を制するには、光を設計しなければならない。
僕の絵は、絶対だ。情緒ではない。偶然でもない。形と構成、比率と余白。それらを制御することでのみ、「美」は成立する。
筆を動かしながら、僕は自分の作品を観察する。悪くない。いや、完璧だ。遠近の歪みはなく、線は正確で、陰影も破綻していない。
だが、何かが、足りなかった。描けば描くほど、心臓の音が遠のいていく。
――美しい。
そう思うことはできても、感じることができなかった。
完成した絵を提出したとき、講師が淡々と告げた。
「構成も技術も申し分ない。だが、情熱を感じない」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
情熱――最も愚かで、最も扱いづらい言葉だ。技術を積み上げるほどに、そうした感情は削ぎ落とされていくものだと思っていた。だが、彼らは言う。
「君の絵には、心がない」と。
その夜、描きかけのキャンバスを見つめていた僕は、ふと、机の上へと視線を移した。ぽつんと残された県展のチケットが、淡い色を放っている。
「本物の美を見つけなさい」
講師の言葉が頭をよぎる。意味が分からなかった。僕はすでに本物の中にいる。
琥珀学院は、国内最高峰の美術教育を誇り、僕自身、これまで幾度も賞を取り、その都度、美の正しさを証明してきた。
だが、胸の奥で、どこか薄い空洞が広がっていく感覚があるのも事実だった。
県展会場は、春の終わりの陽射しに包まれていた。
広いホールには、油絵、水彩、彫刻、工芸、さまざまな表現が並んでいる。そのどれもが、誰かの努力の結晶であり、同時に、僕にとっては通り過ぎる風景にすぎなかった。
歩きながら、無意識に構図を分析していた。「遠近の収束点が甘い」「筆触が浅い」「陰影の連動が欠けている」。技術的欠陥ばかりが目につく。
自分以外の絵は、すべて間違いに見えた。
そのときだった。
一枚の絵の前で、足が止まった。
題は『自然』。
小さなキャンバスに描かれた水彩画。拙い筆致に、歪んだ遠近、線の乱れ。だが、その中で、確かに、色が――生きていた。
青が、呼吸していた。黄が、温度を持っていた。緑が、風を運んでいた。
何も完璧ではない。だが、その不完全さのすべてが、光を持っていた。
僕は胸が熱く高鳴り、受付で手渡されたチラシを持つ手は震えている。
僕の知っている、信じている美が、音を立てて崩れ落ちていくのが分かる。
なぜだ。なぜ、こんなにも。
気が付けば、頬を伝う涙が、顎先から落ちていた。自分でも理解できなかった。完璧とはとても言い難い拙い絵がこの世の何よりも美しく見えて仕方がないことが。
視線を落とし、作者名の札を見る。
『有栖川蒼』
聞いたことのない名前だったが、その名を見た瞬間、胸の奥で、何かが焼ける音がした。
その夏、僕は、高校美術の最高峰ともいわれる高校生国際美術展で、初めて、賞を逃した。技術も構図も、これまでのどの作品よりも精緻に仕上げたはずだったのに、僕の美は、否定された。
展示会場でひときわ輝いている美の下に添えられた『有栖川蒼』という文字が、美しくも、憎くて仕方がなかった。
あの日以来、彼のことが頭から離れなかった。目を閉じれば、彼のあの色彩が浮かぶ。瞼の裏で呼吸し、波のように寄せては返す。時間が経つほどに、あの光は鮮やかになり、他のすべてを押し流していった。
――有栖川蒼。
その名前を見た瞬間から、胸の奥に焼け跡が残っている。知らないはずなのに、何かを奪われたような気がしていた。
彼が何者なのかを、彼の感覚を知りたくて、彼にとらわれ続けた僕は、彼の出身校から現在通っている高校、その高校の場所、美術部、顧問名など、すべてを調べた。
琥珀学院の力を借り、県展の名簿を漁り、新聞の片隅に載った入賞者一覧を探し、ついには審査委員の講評まで手に入れた。
『色彩に異常な生命感がある』
その一行を見たとき、手が震えた。
異常――そう書かれていた。まるで、僕と同じ言葉のように。それでも、どこか違う。
彼の絵は、壊れ方が美しかった。無秩序なのに調和していた。まるで、理性が光に溶かされる直前のように。
気が付けば、僕は電車に乗っていて、その足は彼のいる――蒼南高校へと向かっていた。
潮風にさらされた無名の町にある、普通の公立校。琥珀学院の整然とした校舎とは正反対の世界だ。
それでも、行かなくてはならなかった。あの光の正体を知らなければ、僕はもう二度と筆を持てない気がした。
駅に降り立つと、潮の匂いが強く鼻を刺す。街は小さく、人通りも少ない。風が吹くたびに看板が軋み、遠くで犬が吠えていた。
ここに、彼の世界があるのだと思うと、胸の奥がざわめいた。
坂を上った先に、見えたのは息を吐くような白い校舎。窓辺にカーテンが揺れ、午後の光が波のように差し込んでいた。
――見つけた。
彼は、古い校舎の窓辺で、絵を描いていた。彼がいるのは、美術室だろうか。この学校に美術科はなかったはずだから、部活動の一環だろうか。調べたことと、自らの憶測とが混ざり合い、僕の思考を埋めていく。
下校途中の生徒に聞いてまわり、辿り着いた扉の前に立つと、心臓の鼓動が速くなった。呼吸を整えようとしても、胸の奥が熱を帯びる。
何を言えばいいのか分からない。ただ、確かめなければならなかった。あの絵を描いた光が、どのような瞳をしているのかを。
コンコンッと扉を叩く。
「どうぞー」
中から少し間の抜けた声が返ってくる。
扉を開けた瞬間、馴染み深い油絵具の匂いと潮風の鼻を衝く香りが混じり、流れ込んできた。夕陽が斜めに差し込み、ガラス瓶の中の水が金色に輝いている。
部屋の奥では、ひとりの少年が筆を動かしていた。
乱雑に切られた髪は窓の光が反射してブロンドに輝いていて、制服の袖には絵の具が染みている。
その筆の動きはぎこちなかったが、迷いはなかった。
「……君が、有栖川蒼か」
少年がこちらを振り向く。驚いたように目を瞬かせ、あからさまに不審そうな顔をした。
「え、誰? 先生の知り合い?」
その態度に、一瞬、言葉を失うが、すぐに息を吸って言葉を絞り出す。
「君の、絵を見た」
「……ああ、美術展のやつ? 見てくれたんだ。どうだった?」
「どうだった、だと」
「うん。俺、結構うまくいったと思うんだよね。賞ももらったし――」
「ふざけるなっ! 君の絵は、構図も、技術も、何もかもが足りていない! あんな絵が受賞するなんて……」
彼の言葉が何故だか頭にきて、僕の口からは思っていたよりも大きな声が転び出ていた。彼の頭には疑問符が浮かんでいる様子だ。
「な、なんで、急に来てそんなこと言うんだよ」
「僕は――」
声が震えていた。何に怒っているのか、自分でも分からない。
「僕は、ずっと考えていた。どうして、あんなにも破綻した絵が美しく見えたのかを。あんな構図で、ありえない筆致で、遠近も滅茶苦茶なのに。なぜ僕は、あの光を美しいと思ってしまったのか」
自らの言葉を紡ぎながら、僕の中の何かが壊れていくのが分かった。理屈ではなく、感情で動いている。こんな自分は初めてだった。
彼は少し黙り、筆を机に置いた。
「そんなこと言われてもなあ。俺は難しいことはよく分からないし。……でも、絵を描く事ってきっと、もっと楽しい事だと思うぜ」
そう言って、太陽のように眩しい笑顔を僕に向けた。
――絵を描く事は楽しい事。
その言葉が胸の奥で幾度も反響する。彼の声は軽やかで、無防備で、それなのに、なぜか世界の仕組みを言い当てているように聞こえた。
理屈ではなく、ただの感覚。だが、その曖昧なものが、僕の中の美の定義をぐらりと傾かせた。
光が差していた。窓の外から射し込む夕陽が、彼の頬のあたりで柔らかく揺れている。その光が、絵の具の粒子を照らして、机の上のパレットがかすかにきらめいた。
赤、金、緑、橙。どの色も完璧な調和を欠いている。それなのに、なぜか呼吸をしているように見えた。
彼は何も語らず、ただ筆を動かしていた。その動きはぎこちないのに、どこか正しい。線が曲がり、色が滲み、輪郭が曖昧になっていくたびに、僕の中の何かがざわめいた。
何も言えなかった。喉が乾いて、言葉が出ない。ただ、彼だけを見ていた。彼の筆先が空気を裂くように進み、その軌跡のあとに、無数の色が息を吹き返していく。
あれが、生きているということなのだろうか。
いつの間にか、足が一歩、前に出ていた。その距離を詰めた瞬間、光が僕の目に刺さる。色の渦が眩しく、視界が揺らいだ。まるで、別の世界に引きずり込まれるような感覚だった。
息が詰まる。心臓が早鐘を打つ。どうして、ただの色にここまで圧倒されるのか。なぜ、これほどまでに、彼の無意識が美しいのか。
彼は筆を止め、窓の方を見た。外の光が弱まり、波の音が微かに届く。カーテンの隙間を風が通り抜け、油絵具の匂いと海の塩気が混じり合っていた。
彼が少しだけ振り返り、笑う。その笑みには意味がないように思えたが、存在していることそのものが、世界の理のようにも思えた。
その瞬間、理解した。この男は、僕の知らない美を生きていることを。
言葉も、技術も、構図も、何もかもを超えた場所で。
僕は、彼を見ていた。まるで、自分の描いた絵が突然動き出したかのような錯覚の中で。
しばらくして、彼は絵筆を置いた。
「よし、今日はここまでかな」
その一言に、現実が戻る。
彼は僕に軽く挨拶を交わした後、鞄を肩にかけて教室を出て行った。窓から差す光が彼の背に当たり、その姿がしばらく白く滲んでいた。
彼が出て行き、扉が閉まると、静寂が訪れる。風の音と、乾きかけた絵の具の匂いだけが残った。
僕は、ただ立ち尽くしていた。足元には、まだ陽の残り香が落ちていて、机の上のパレットに残る色が、淡く煌めいている。
なぜ、あの色は生きていたのか。どうして、僕の絵は呼吸をしないのか。
答えの出ない問いが、心の奥に沈んでいく中で、確かに世界の何かが、音を立てて崩れ始めていた。
外では、風が冷たくなっていて、海辺の街に、冬の匂いが近づいている。
僕の指先には、まだ彼の色が残っている気がした。
霜降の夜は、冷たいというよりも痛い。空気の粒がすべて鋭く尖っていて、息を吸うたびに胸の奥まで切られていくようだった。窓の外では、街灯が白く滲んでいる。その光の中に、誰かの色がまだ潜んでいるようで、目を閉じても消えなかった。
有栖川蒼。あの名を思い出すたび、胸の奥が微かに疼く。彼の絵に触れてから、僕の中の何かが、ゆっくりと形を失っていった。
描きかけのキャンバスの前に立つ。筆を取っても、手が動かない。構図も配色も完璧に設計したはずだったが、線を置くたびに、そこにあるはずの呼吸が、どこかへ逃げていく。
かつては、この冷たさの中に安らぎがあった。理性の秩序が僕を守っていた。だが今は違う。完璧に組み立てられた世界の中に、心臓の音だけが浮いている。
あの色が、頭から離れない。生きて、滲んで、壊れていくあの色が、僕の世界を侵食していく。
筆を握る手が震え、何を描いても嘘のように思えた。画布の上で乾いていく絵の具が、まるで自分の中の何かを蝕んでいるようだった。
――どうして、描けないんだ。
父のアトリエを訪れたのは、偶然だった。ちょうど使いかけの麻布の処理をしようと、家の奥へ向かったとき、障子の隙間から、微かな灯りと硯を擦る音が漏れていた。
部屋の中は、墨と木の匂いが混じり合っていて、まるで時間が止まっているようだった。父は座したまま、筆を動かしていた。その筆の運びは、まるで呼吸だった。音を立てずに生きている。そんな風に見えた。
「お父さん」
僕は、そっと声をかけた。父は振り返らずに「どうした」と短く返す。
「キャンバスの下地に、新しい麻布を張りたいと思いまして」
「ああ。裏の倉に二反ほど残っていたはずだ」
それだけで会話は終わる。
だが、何かが胸の奥で疼いて、思わず、言葉が零れた。
「お父さんにとって、美とは何ですか」
父の筆がわずかに止まった。硯の水面が、灯りを映して微かに揺れている。
「形に宿るものだ」
低い声が、闇の中で響いた。
「構成、線、余白。それらを制する者が本物の美を掴む」
淡々とした口調だった。だがその一言一言が、刃のように鋭かった。まるで美の本質を定義づけることが、彼にとって呼吸なのだと思えた。
僕は、唇を噛む。
「でも、形が整っていなくても、心が動かされることがあります」
父の背筋がわずかに動く。だが、筆は止まらない。
「それは、本物の美ではない」
その声は冷たく、静かだった。まるで、僕の胸の内を見透かしているように。
「美は感情ではなく構築だ。魂を燃やして描くなどというのは凡人の言い訳にすぎない」
その瞬間、息が詰まった。言葉が出なかった。僕が今まで信じてきた正しさのすべてを肯定してくれるその言葉が、何故だか崩れていくような感覚があった。
あの絵を見たとき、確かに心が動いた。それを偽物と切り捨ててもいいのだろうか。
けれど、父の静謐な世界の前では、どんな感情も無力に思えた。僕はただ、黙って立ち尽くすことしかできなかった。
そのとき、勢いよく扉が開かれた。
「できたぞ! これは建築界を驚嘆させる最高傑作だ!」
勢いよく開かれた扉の先に立っていたのは母だった。金糸のような髪は乱れ、白いシャツはインクの染みで黒くまだらに汚れていた。顔には疲労の影があったが、それでも、どこか異様に美しかった。まるで、生きるという行為そのものがその人の中で燃えているように。
「……君か」
父が眉をひそめる。
「ん? 葉もいるのか。その様子だと――」
母は手に持っていた設計図を持ち上げて笑った。
「君が、相変わらず、構築だの余白だの言ってるんじゃないか」
父は黙って筆を置いた。母は部屋に入ると、机上の水墨画を手に取り、光にかざして見た。
「線はきれいだな。でも、色がない」
「水墨画なのだから同然だろう」
「そういうことじゃないさ! 水墨画だろうが色はある。黒も白も美しい色彩の一つだよ」
母の声は疲労からか荒れていたが、それでも一本の線が通っているような、まっすぐとした声だった。
「君の言う構築だけで美が作れるなら、誰も苦しみなんて抱えやしないさ。でも、葉は今、苦しんでるんだろう。壊れるくらいに、何かを感じてる」
父は筆を持ったまま、静かに目を細める。
「感じるだけでは芸術は残らない」
母が一歩、近づく。
「でも、感じなければ、芸術は始まらない」
その瞬間、空気が震えた。硯の水が波紋を描き、灯りが小さく揺れた。
二人の世界のあいだで、僕は立ち尽くしていた。父の言葉も、母の言葉も、どちらも真実だった。それでも、どちらも、僕を救ってはくれなかった。
沈黙が落ち、父の部屋の隅で、灯りがじりじりと小さく鳴る音がする。母が、ふとこちらを見た。
「君は最近、誰かに影響を受けたのだろう」
「……はい」
「その人に、もう一度会ってみるといいさ」
「え?」
「君が何を感じたのか。それを確かめることができるのは、その人の前だけだよ」
父は目を閉じる。
「……感情に流されるな。だが確かめることは否定しない」
僕は二人を見つめ、深く頷いた。
「分かりました。もう一度、彼に会いに行きます」
***
夜は更け、光の落ちた家の外には、少し早い雪が舞っていた。音のない世界に、白だけが降り積もる。女は窓際に腰を下ろし、グラスを傾けた。
金髪にはまだインクの粉が付いている。白いシャツの袖口にも、建築用の青いペンキが乾いて固まっていた。けれど、その汚れが、彼女をいっそう美しく見せていた。光を知らない天使が、現世に触れたような危うい美しさだった。
グラスの中で、ワインが揺れる。液面に映る光が、まるで血潮のように紅い。
「美しい瞳だった」
独り言のように漏れた声は、雪の音に溶けて消えた。
墨の香りがふわりと漂い、背筋を伸ばしたまま、筆を滑らせている男が女の瞳に映る。
二人の間には、会話よりも長い沈黙が流れた。暖炉の火もなく、音もなく、ただ雪だけが降り続いている。
「君の言葉は、いつも遠くから響く」
「君の声は近すぎて眩しい」
二人の言葉は、重ならないまま空気の中に散っていく。
硯の上の水が、静かに波打つ。男はその筆先で、いつになく柔らかな線を描いた。墨の黒が、光を孕んで青く見える。
「あいつは変わるだろう」
小さく呟いた声は、雪の白に吸い込まれていった。
女はグラスを見つめたまま、微笑んだ。
「変わるのは、あの子だけじゃない」
男は答えなかった。けれど筆の動きが、一瞬だけ止まった。灯りがわずかに揺れ、二人の影が重なる。
外では、雪が静かに降り続いていた。世界から音が失われ、ただ、白と黒のあいだで、夜が呼吸していた。
***
冬の海は、音を失っていた。波は確かに打ち寄せているのに、その響きが胸の奥まで届かない。灰色の空の下、僕の体にまとわりつく油絵具の匂いが、潮の香りと混じり合っている。
坂を登るたび、冷たい風が頬を切った。遠くに見える校舎は、白く、淡く、まるで夢の残骸のように静かだった。
蒼南高校――彼がいる場所。
門の脇に立つと、ちょうど放課後のチャイムが鳴った。金属的な音が冬の空気を震わせる。風に乗って、生徒たちの笑い声が遠くから流れてきた。その音が、現実の輪郭をかろうじて保っているように感じられる。
美術室へ向かう途中、ガラス窓の向こうに見えた。夕陽を背に、キャンバスに向かう一人の少年。制服の袖は絵の具で汚れ、光の粒が髪に散っていた。
筆の動きは、まるで呼吸そのもののようだった。
生きている。
そのことだけが、痛いほど伝わってきた。
足が止まる。声をかけようとするたびに、喉が閉じる。何を言えばいいのか分からない。あのときの言葉は、怒りで、嫉妬で、感情の逃げ場だった。いま、もう一度彼に向き合ったとして、僕は、何を伝えられるだろうか。
そのとき、背後から声がした。
「あなた……もしかして、琥珀学院の生徒さんかしら」
振り返ると、優しげな女性が立っていた。肩にストールをかけ、手には図面の束を抱えている。その雰囲気と仄かに香る油絵具のにおいから、この学校の美術部顧問だろう。
「はい。一色葉と言います」
彼女の目がわずかに見開かれる。
「ああ、やっぱり。あなたが有栖川君の話していた方ね」
「……僕?」
「ええ。彼、あなたの絵を見て、絵を描き始めたのよ。中学の時にあなたの作品を見て、こんな絵が描きたいって思ったんだって言っていたわ」
言葉が喉の奥で止まった。鼓動が耳の奥で鳴っている。
――僕が、彼をこの世界に連れてきた。
その事実を飲み込めずにいると、顧問は柔らかく微笑んだ。
「あなたが、彼の最初の光だったのね」
光。
その言葉が胸の奥で、静かに崩れた。
あの頃、僕は確かに描けていた。正しい美を追い求めることが、自分の存在証明だった。
誰かの心を動かすためではなく、完璧を積み上げるために筆を持っていた。それなのに、僕の絵が、誰かの光になっていたというのか。
嬉しいとも、誇らしいとも思えなかった。ただ、胸の奥に疼くような痛みが広がっていく。
今の僕は、もうあの光を描けない。あの頃の自分を思い出そうとすると、手の中が空っぽになる。筆を握っても、もう温度がない。
「有栖川君は美術室にいると思うわ」
顧問の声が遠くで響いた。
「せっかく来たんだから、会いに行ってあげてね」
「……はい」
かすれた声が喉の奥で震えた。
顧問と別れて廊下を進む。靴音が静かな校舎に響く。夕陽が斜めに差し込み、床に長い影を落としていた。
美術室の前に差しかかったとき、扉が開いた。油絵具の匂いと、海の匂いが混ざり合って流れてくる。その中から、有栖川が現れた。
夕陽の光が彼の肩を照らす。一瞬、目が合い、世界が止まったように感じた。
彼は少し驚いたように目を見開き、それから何かを言いかけたけれど、その言葉は唇の端で止まる。
僕が、静かに会釈をすると、彼もわずかに頷く。それだけだった。
光が差し込む廊下の中で、二人の影が重なり、すぐに離れていった。
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。息が浅くなる。足が震える。
――彼の中で、僕はいまも生きている。だが、僕の中で、僕はもう死んでいる。
校門を出るころには、空が茜に染まっていた。冷たい風が頬を刺す。駅へ向かう道で、橙色の光がガラスに映り込み、揺れていた。電車の窓に映る自分の顔が、誰なのか分からなくなる。あの頃の僕の光が、彼の中でまだ生きている。
それなのに、僕は――。
胸の奥で、何かが焦げるように痛んだ。それは怒りでも悲しみでもなかった。もっと原始的な、名前のない衝動。心の奥底に沈んでいた何かが、微かに息を吹き返す。
僕は、窓の外を見つめたまま、ゆっくりと目を閉じる。沈んでいく夕陽が、まるで血のように赤く滲んでいた。
夜のアトリエは、まるで呼吸を忘れたように静まり返っていた。外では雪が降り、はらはらと落ちていく白が、ゆっくりと世界を覆い尽くしていくのを感じた。
ランプの灯が薄く揺れ、壁にかかった『教室の午後』が、まるで溶けかけた影のように震えていた。
僕は、その前に立っていた。指先が冷たく、息をするたびに肺が軋む。
あの日、彼の顧問が言った言葉が、脳裏のどこかで何度も反響している。
「あなたが、彼の最初の光だったのね」
その一言が、静かな水面に落ちた石のように、ゆっくりと、しかし確実に、僕の中の何かを壊していった。彼の光の源に、僕がいた。僕が描いたあの理性の光が、誰かの魂を揺らしていた。その事実が、嬉しくて、恐ろしくて、吐き気がするほどに美しかった。
構築された美の中に、命があった。僕が排除してきた感情が、確かにそこにあった。有栖川の瞳が、その光を見つけたのだ。そして今、僕は、あの瞳の奥に取り込まれている。
机の上には乾いたパレット。ひび割れた絵の具の層が、かつての自分の時間を閉じ込めている。僕は、それを握りつぶすように掴み、新しい絵の具を絞り出した。
青、黄、白、赤。どの色も、息をしているように見えた。こんなにも色が熱を持っていたことを、どうして僕は忘れていたのだろうか。
キャンバスを張り、釘を打つ音が夜に響く。
いつもであれば、線を引き、空間を制御するためにも、まず構図を決める。
だが今夜は、頭の中が空っぽだった。思考が溶けて、ただ、描きたいという衝動だけが全身を満たしていく。
筆を取る。呼吸が速くなる。白いキャンバスが、獣のようにこちらを睨んでいる気がしたが、その恐怖と快楽が、ひとつのものになっていく。
最初の一筆を落とすと、音がした。絵の具が、空気を裂くように音を立てた。瞬間、世界が色で満たされる。青が滲み、赤が侵食し、黄が光を孕む。すべての色が互いを壊しながら生きている。それは、破壊であり、再生だった。
僕は筆を止めなかった。止めることができなかった。止めたら、世界が止まる気がして。腕が震え、指先が冷えきって感覚がない。それでも、筆はなめらかに踊り続ける。
何を描いているのか、もう分からない。教室の窓か、光か、それとも彼の瞳か。そんなことはどうでも良くて、ただ、描き続ける。描くたびに、世界が生まれ変わるようだった。
絵具の匂いが、空気を満たしていく。鼻の奥が焼け、肺が甘く痺れ、頭の中が白く濁る。時間の感覚が溶けていき、外の雪はいつの間にか止んでいた。
筆の軌跡が光になり、色が音になる。視界の端で、誰かが笑っている気がした。有栖川の声か、それとも僕の声か。もう区別がつかない。色が、血のように流れていき、指先が、絵と同化していく。手が、痛い。けれど、その痛みさえも美しかった。
筆が、いつの間にか落ちていた。それでも、僕の手は空を掴むように動き続けていた。腕の中で、空気が形を持ち、見えない絵が生まれては消える。世界が、画布の外へと広がっていく。僕の中に、何かがあふれ出すのを止められない。止めようとすれば壊れてしまう。描くことが、呼吸よりも自然になっていた。
気づけば、体が傾いていて、視界がゆらゆらと揺れ、絵の具の光が滲む。床の冷たさが頬に伝わると同時に、黒く染まった指先が視界に映る。青と赤と黄が混ざり、まるで焦げたような、深い闇の色になっていた。
いつの間にか、喉の奥から静かな笑いが漏れていた。涙が滲む。それが悲しみなのか歓喜なのか、自分でも分からなかった。
視界の端で、再び息を吹き返した雪が白く光る。夜が呼吸していた。僕は、その光の中で、静かに息を忘れていた。
時間の感覚は、もう、すでになくなっていた。朝も夜も分からないなかで、光だけは確かに存在している。それは窓から射すものではなく、僕の中から滲み出ている光だった。
筆を握ると、手が勝手に動く。何を描こうとしているのか、自分でも分からない。ただ、描かなくてはいけないという確信だけが、体を動かしていた。
光は、確かに、生きている。
父の声がどこか遠くで響く。
「葉、お前は何を描こうとしている」
音は波のように遠ざかっていく。
「光です」
自分の声が空気に混じって消えていくのを感じた。
「光など現象にすぎない」
違う。僕には分かる。あれは、光は、生きている。呼吸をしている。彼の中で、僕の中で、確かに脈を打っている。
油の匂いが空気を満たしていた。指先から冷たさが抜け、腕は軽く、心臓はここではない、どこか遠くで鳴っているように思えた。
描くたびに、胸の奥で何かが燃える。描けば描くほど、世界が近づいてきて、その向こうにある何かに、手が届きそうになるのを感じる。彼は、ずっと、僕を見つめている。誰なのか分からないけれど、その視線が、僕を生かしていた。
壁には白が、青が、金が散っている。それぞれの粒が脈動しているように見えた。絵が、僕の代わりに、息をしている。呼吸している。
気がつけば、雪の白は消えていて、微かな緑の気配が混じっている。外では、もう春が始まろうとしているのだろうか。しかし、僕の中にはまだ冬があった。凍った光を、ゆっくりと溶かしていけば、絵の中に春が差す。色が膨張し、世界が広がり、僕の呼吸が、色に変わる。
筆を持つ手は震え、視界が滲み、光は焼けるように痛い。それでも、止まることはできない。
描くたびに、生まれ変わる世界は、恐ろしく、そして唯一の救いだった。
僕は描きながら、自分という輪郭を失っていった。描くたびに、僕が削れていき、その欠片の代わりに、光が生まれる。
それでいい。僕が消えても、この絵が残るなら、それでいい。
いつの間にか、雪はすべて溶けていて、窓の外からは、かすかに鶯の鳴く声が聞こえる。
アトリエの空気は、まだ冷たいのに、どこか柔らかい匂いがした。
絵の中で、光が芽吹いていた。雪解けの水の音が聞こえる。風の中に、花の匂いが混じる。
春はもう来ていたんだなと、この時始めて気がついた。
筆が手から離れ、音もなく、床に落ちる。そのなかで、僕は、絵を見ていた。
光があった。
燃えるように、穏やかに、確かに生きていた。
――なんて、美しいのだろう。
その言葉が唇の奥で零れる。声なのか、祈りなのか、自分でも分からなかったが、胸の奥に広がっていく光の熱に、心が静かに溶けていくのを感じた。
とめどなく溢れ続ける涙が頬を伝い、光の粒になって消えていく。体は軽く、視界が、白い。何も見えないのに、すべてが見える。この世界の始まりも終わりも、光の中にあった。
ただ、光だけが、優しく、深く、どこまでも存在していた。
光が僕を包み、世界が溶ける。輪郭が消え、肌も血も骨も、そのすべてが光へと還っていく。
その瞬間、僕は確かに――生きていた。
僕は、その空気が嫌いではなかった。規則的に並ぶキャンバス、一定の距離を保つ作業台。何も乱れていない空間で、筆だけが音を立てる。それはまるで、呼吸のリズムのようだった。
描いているのは、教室の光景。窓、机、椅子、床。
構図は三分割法、視点は斜め上から。光源を一点に固定し、反射光を意識して配置する。空間を制するには、光を設計しなければならない。
僕の絵は、絶対だ。情緒ではない。偶然でもない。形と構成、比率と余白。それらを制御することでのみ、「美」は成立する。
筆を動かしながら、僕は自分の作品を観察する。悪くない。いや、完璧だ。遠近の歪みはなく、線は正確で、陰影も破綻していない。
だが、何かが、足りなかった。描けば描くほど、心臓の音が遠のいていく。
――美しい。
そう思うことはできても、感じることができなかった。
完成した絵を提出したとき、講師が淡々と告げた。
「構成も技術も申し分ない。だが、情熱を感じない」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
情熱――最も愚かで、最も扱いづらい言葉だ。技術を積み上げるほどに、そうした感情は削ぎ落とされていくものだと思っていた。だが、彼らは言う。
「君の絵には、心がない」と。
その夜、描きかけのキャンバスを見つめていた僕は、ふと、机の上へと視線を移した。ぽつんと残された県展のチケットが、淡い色を放っている。
「本物の美を見つけなさい」
講師の言葉が頭をよぎる。意味が分からなかった。僕はすでに本物の中にいる。
琥珀学院は、国内最高峰の美術教育を誇り、僕自身、これまで幾度も賞を取り、その都度、美の正しさを証明してきた。
だが、胸の奥で、どこか薄い空洞が広がっていく感覚があるのも事実だった。
県展会場は、春の終わりの陽射しに包まれていた。
広いホールには、油絵、水彩、彫刻、工芸、さまざまな表現が並んでいる。そのどれもが、誰かの努力の結晶であり、同時に、僕にとっては通り過ぎる風景にすぎなかった。
歩きながら、無意識に構図を分析していた。「遠近の収束点が甘い」「筆触が浅い」「陰影の連動が欠けている」。技術的欠陥ばかりが目につく。
自分以外の絵は、すべて間違いに見えた。
そのときだった。
一枚の絵の前で、足が止まった。
題は『自然』。
小さなキャンバスに描かれた水彩画。拙い筆致に、歪んだ遠近、線の乱れ。だが、その中で、確かに、色が――生きていた。
青が、呼吸していた。黄が、温度を持っていた。緑が、風を運んでいた。
何も完璧ではない。だが、その不完全さのすべてが、光を持っていた。
僕は胸が熱く高鳴り、受付で手渡されたチラシを持つ手は震えている。
僕の知っている、信じている美が、音を立てて崩れ落ちていくのが分かる。
なぜだ。なぜ、こんなにも。
気が付けば、頬を伝う涙が、顎先から落ちていた。自分でも理解できなかった。完璧とはとても言い難い拙い絵がこの世の何よりも美しく見えて仕方がないことが。
視線を落とし、作者名の札を見る。
『有栖川蒼』
聞いたことのない名前だったが、その名を見た瞬間、胸の奥で、何かが焼ける音がした。
その夏、僕は、高校美術の最高峰ともいわれる高校生国際美術展で、初めて、賞を逃した。技術も構図も、これまでのどの作品よりも精緻に仕上げたはずだったのに、僕の美は、否定された。
展示会場でひときわ輝いている美の下に添えられた『有栖川蒼』という文字が、美しくも、憎くて仕方がなかった。
あの日以来、彼のことが頭から離れなかった。目を閉じれば、彼のあの色彩が浮かぶ。瞼の裏で呼吸し、波のように寄せては返す。時間が経つほどに、あの光は鮮やかになり、他のすべてを押し流していった。
――有栖川蒼。
その名前を見た瞬間から、胸の奥に焼け跡が残っている。知らないはずなのに、何かを奪われたような気がしていた。
彼が何者なのかを、彼の感覚を知りたくて、彼にとらわれ続けた僕は、彼の出身校から現在通っている高校、その高校の場所、美術部、顧問名など、すべてを調べた。
琥珀学院の力を借り、県展の名簿を漁り、新聞の片隅に載った入賞者一覧を探し、ついには審査委員の講評まで手に入れた。
『色彩に異常な生命感がある』
その一行を見たとき、手が震えた。
異常――そう書かれていた。まるで、僕と同じ言葉のように。それでも、どこか違う。
彼の絵は、壊れ方が美しかった。無秩序なのに調和していた。まるで、理性が光に溶かされる直前のように。
気が付けば、僕は電車に乗っていて、その足は彼のいる――蒼南高校へと向かっていた。
潮風にさらされた無名の町にある、普通の公立校。琥珀学院の整然とした校舎とは正反対の世界だ。
それでも、行かなくてはならなかった。あの光の正体を知らなければ、僕はもう二度と筆を持てない気がした。
駅に降り立つと、潮の匂いが強く鼻を刺す。街は小さく、人通りも少ない。風が吹くたびに看板が軋み、遠くで犬が吠えていた。
ここに、彼の世界があるのだと思うと、胸の奥がざわめいた。
坂を上った先に、見えたのは息を吐くような白い校舎。窓辺にカーテンが揺れ、午後の光が波のように差し込んでいた。
――見つけた。
彼は、古い校舎の窓辺で、絵を描いていた。彼がいるのは、美術室だろうか。この学校に美術科はなかったはずだから、部活動の一環だろうか。調べたことと、自らの憶測とが混ざり合い、僕の思考を埋めていく。
下校途中の生徒に聞いてまわり、辿り着いた扉の前に立つと、心臓の鼓動が速くなった。呼吸を整えようとしても、胸の奥が熱を帯びる。
何を言えばいいのか分からない。ただ、確かめなければならなかった。あの絵を描いた光が、どのような瞳をしているのかを。
コンコンッと扉を叩く。
「どうぞー」
中から少し間の抜けた声が返ってくる。
扉を開けた瞬間、馴染み深い油絵具の匂いと潮風の鼻を衝く香りが混じり、流れ込んできた。夕陽が斜めに差し込み、ガラス瓶の中の水が金色に輝いている。
部屋の奥では、ひとりの少年が筆を動かしていた。
乱雑に切られた髪は窓の光が反射してブロンドに輝いていて、制服の袖には絵の具が染みている。
その筆の動きはぎこちなかったが、迷いはなかった。
「……君が、有栖川蒼か」
少年がこちらを振り向く。驚いたように目を瞬かせ、あからさまに不審そうな顔をした。
「え、誰? 先生の知り合い?」
その態度に、一瞬、言葉を失うが、すぐに息を吸って言葉を絞り出す。
「君の、絵を見た」
「……ああ、美術展のやつ? 見てくれたんだ。どうだった?」
「どうだった、だと」
「うん。俺、結構うまくいったと思うんだよね。賞ももらったし――」
「ふざけるなっ! 君の絵は、構図も、技術も、何もかもが足りていない! あんな絵が受賞するなんて……」
彼の言葉が何故だか頭にきて、僕の口からは思っていたよりも大きな声が転び出ていた。彼の頭には疑問符が浮かんでいる様子だ。
「な、なんで、急に来てそんなこと言うんだよ」
「僕は――」
声が震えていた。何に怒っているのか、自分でも分からない。
「僕は、ずっと考えていた。どうして、あんなにも破綻した絵が美しく見えたのかを。あんな構図で、ありえない筆致で、遠近も滅茶苦茶なのに。なぜ僕は、あの光を美しいと思ってしまったのか」
自らの言葉を紡ぎながら、僕の中の何かが壊れていくのが分かった。理屈ではなく、感情で動いている。こんな自分は初めてだった。
彼は少し黙り、筆を机に置いた。
「そんなこと言われてもなあ。俺は難しいことはよく分からないし。……でも、絵を描く事ってきっと、もっと楽しい事だと思うぜ」
そう言って、太陽のように眩しい笑顔を僕に向けた。
――絵を描く事は楽しい事。
その言葉が胸の奥で幾度も反響する。彼の声は軽やかで、無防備で、それなのに、なぜか世界の仕組みを言い当てているように聞こえた。
理屈ではなく、ただの感覚。だが、その曖昧なものが、僕の中の美の定義をぐらりと傾かせた。
光が差していた。窓の外から射し込む夕陽が、彼の頬のあたりで柔らかく揺れている。その光が、絵の具の粒子を照らして、机の上のパレットがかすかにきらめいた。
赤、金、緑、橙。どの色も完璧な調和を欠いている。それなのに、なぜか呼吸をしているように見えた。
彼は何も語らず、ただ筆を動かしていた。その動きはぎこちないのに、どこか正しい。線が曲がり、色が滲み、輪郭が曖昧になっていくたびに、僕の中の何かがざわめいた。
何も言えなかった。喉が乾いて、言葉が出ない。ただ、彼だけを見ていた。彼の筆先が空気を裂くように進み、その軌跡のあとに、無数の色が息を吹き返していく。
あれが、生きているということなのだろうか。
いつの間にか、足が一歩、前に出ていた。その距離を詰めた瞬間、光が僕の目に刺さる。色の渦が眩しく、視界が揺らいだ。まるで、別の世界に引きずり込まれるような感覚だった。
息が詰まる。心臓が早鐘を打つ。どうして、ただの色にここまで圧倒されるのか。なぜ、これほどまでに、彼の無意識が美しいのか。
彼は筆を止め、窓の方を見た。外の光が弱まり、波の音が微かに届く。カーテンの隙間を風が通り抜け、油絵具の匂いと海の塩気が混じり合っていた。
彼が少しだけ振り返り、笑う。その笑みには意味がないように思えたが、存在していることそのものが、世界の理のようにも思えた。
その瞬間、理解した。この男は、僕の知らない美を生きていることを。
言葉も、技術も、構図も、何もかもを超えた場所で。
僕は、彼を見ていた。まるで、自分の描いた絵が突然動き出したかのような錯覚の中で。
しばらくして、彼は絵筆を置いた。
「よし、今日はここまでかな」
その一言に、現実が戻る。
彼は僕に軽く挨拶を交わした後、鞄を肩にかけて教室を出て行った。窓から差す光が彼の背に当たり、その姿がしばらく白く滲んでいた。
彼が出て行き、扉が閉まると、静寂が訪れる。風の音と、乾きかけた絵の具の匂いだけが残った。
僕は、ただ立ち尽くしていた。足元には、まだ陽の残り香が落ちていて、机の上のパレットに残る色が、淡く煌めいている。
なぜ、あの色は生きていたのか。どうして、僕の絵は呼吸をしないのか。
答えの出ない問いが、心の奥に沈んでいく中で、確かに世界の何かが、音を立てて崩れ始めていた。
外では、風が冷たくなっていて、海辺の街に、冬の匂いが近づいている。
僕の指先には、まだ彼の色が残っている気がした。
霜降の夜は、冷たいというよりも痛い。空気の粒がすべて鋭く尖っていて、息を吸うたびに胸の奥まで切られていくようだった。窓の外では、街灯が白く滲んでいる。その光の中に、誰かの色がまだ潜んでいるようで、目を閉じても消えなかった。
有栖川蒼。あの名を思い出すたび、胸の奥が微かに疼く。彼の絵に触れてから、僕の中の何かが、ゆっくりと形を失っていった。
描きかけのキャンバスの前に立つ。筆を取っても、手が動かない。構図も配色も完璧に設計したはずだったが、線を置くたびに、そこにあるはずの呼吸が、どこかへ逃げていく。
かつては、この冷たさの中に安らぎがあった。理性の秩序が僕を守っていた。だが今は違う。完璧に組み立てられた世界の中に、心臓の音だけが浮いている。
あの色が、頭から離れない。生きて、滲んで、壊れていくあの色が、僕の世界を侵食していく。
筆を握る手が震え、何を描いても嘘のように思えた。画布の上で乾いていく絵の具が、まるで自分の中の何かを蝕んでいるようだった。
――どうして、描けないんだ。
父のアトリエを訪れたのは、偶然だった。ちょうど使いかけの麻布の処理をしようと、家の奥へ向かったとき、障子の隙間から、微かな灯りと硯を擦る音が漏れていた。
部屋の中は、墨と木の匂いが混じり合っていて、まるで時間が止まっているようだった。父は座したまま、筆を動かしていた。その筆の運びは、まるで呼吸だった。音を立てずに生きている。そんな風に見えた。
「お父さん」
僕は、そっと声をかけた。父は振り返らずに「どうした」と短く返す。
「キャンバスの下地に、新しい麻布を張りたいと思いまして」
「ああ。裏の倉に二反ほど残っていたはずだ」
それだけで会話は終わる。
だが、何かが胸の奥で疼いて、思わず、言葉が零れた。
「お父さんにとって、美とは何ですか」
父の筆がわずかに止まった。硯の水面が、灯りを映して微かに揺れている。
「形に宿るものだ」
低い声が、闇の中で響いた。
「構成、線、余白。それらを制する者が本物の美を掴む」
淡々とした口調だった。だがその一言一言が、刃のように鋭かった。まるで美の本質を定義づけることが、彼にとって呼吸なのだと思えた。
僕は、唇を噛む。
「でも、形が整っていなくても、心が動かされることがあります」
父の背筋がわずかに動く。だが、筆は止まらない。
「それは、本物の美ではない」
その声は冷たく、静かだった。まるで、僕の胸の内を見透かしているように。
「美は感情ではなく構築だ。魂を燃やして描くなどというのは凡人の言い訳にすぎない」
その瞬間、息が詰まった。言葉が出なかった。僕が今まで信じてきた正しさのすべてを肯定してくれるその言葉が、何故だか崩れていくような感覚があった。
あの絵を見たとき、確かに心が動いた。それを偽物と切り捨ててもいいのだろうか。
けれど、父の静謐な世界の前では、どんな感情も無力に思えた。僕はただ、黙って立ち尽くすことしかできなかった。
そのとき、勢いよく扉が開かれた。
「できたぞ! これは建築界を驚嘆させる最高傑作だ!」
勢いよく開かれた扉の先に立っていたのは母だった。金糸のような髪は乱れ、白いシャツはインクの染みで黒くまだらに汚れていた。顔には疲労の影があったが、それでも、どこか異様に美しかった。まるで、生きるという行為そのものがその人の中で燃えているように。
「……君か」
父が眉をひそめる。
「ん? 葉もいるのか。その様子だと――」
母は手に持っていた設計図を持ち上げて笑った。
「君が、相変わらず、構築だの余白だの言ってるんじゃないか」
父は黙って筆を置いた。母は部屋に入ると、机上の水墨画を手に取り、光にかざして見た。
「線はきれいだな。でも、色がない」
「水墨画なのだから同然だろう」
「そういうことじゃないさ! 水墨画だろうが色はある。黒も白も美しい色彩の一つだよ」
母の声は疲労からか荒れていたが、それでも一本の線が通っているような、まっすぐとした声だった。
「君の言う構築だけで美が作れるなら、誰も苦しみなんて抱えやしないさ。でも、葉は今、苦しんでるんだろう。壊れるくらいに、何かを感じてる」
父は筆を持ったまま、静かに目を細める。
「感じるだけでは芸術は残らない」
母が一歩、近づく。
「でも、感じなければ、芸術は始まらない」
その瞬間、空気が震えた。硯の水が波紋を描き、灯りが小さく揺れた。
二人の世界のあいだで、僕は立ち尽くしていた。父の言葉も、母の言葉も、どちらも真実だった。それでも、どちらも、僕を救ってはくれなかった。
沈黙が落ち、父の部屋の隅で、灯りがじりじりと小さく鳴る音がする。母が、ふとこちらを見た。
「君は最近、誰かに影響を受けたのだろう」
「……はい」
「その人に、もう一度会ってみるといいさ」
「え?」
「君が何を感じたのか。それを確かめることができるのは、その人の前だけだよ」
父は目を閉じる。
「……感情に流されるな。だが確かめることは否定しない」
僕は二人を見つめ、深く頷いた。
「分かりました。もう一度、彼に会いに行きます」
***
夜は更け、光の落ちた家の外には、少し早い雪が舞っていた。音のない世界に、白だけが降り積もる。女は窓際に腰を下ろし、グラスを傾けた。
金髪にはまだインクの粉が付いている。白いシャツの袖口にも、建築用の青いペンキが乾いて固まっていた。けれど、その汚れが、彼女をいっそう美しく見せていた。光を知らない天使が、現世に触れたような危うい美しさだった。
グラスの中で、ワインが揺れる。液面に映る光が、まるで血潮のように紅い。
「美しい瞳だった」
独り言のように漏れた声は、雪の音に溶けて消えた。
墨の香りがふわりと漂い、背筋を伸ばしたまま、筆を滑らせている男が女の瞳に映る。
二人の間には、会話よりも長い沈黙が流れた。暖炉の火もなく、音もなく、ただ雪だけが降り続いている。
「君の言葉は、いつも遠くから響く」
「君の声は近すぎて眩しい」
二人の言葉は、重ならないまま空気の中に散っていく。
硯の上の水が、静かに波打つ。男はその筆先で、いつになく柔らかな線を描いた。墨の黒が、光を孕んで青く見える。
「あいつは変わるだろう」
小さく呟いた声は、雪の白に吸い込まれていった。
女はグラスを見つめたまま、微笑んだ。
「変わるのは、あの子だけじゃない」
男は答えなかった。けれど筆の動きが、一瞬だけ止まった。灯りがわずかに揺れ、二人の影が重なる。
外では、雪が静かに降り続いていた。世界から音が失われ、ただ、白と黒のあいだで、夜が呼吸していた。
***
冬の海は、音を失っていた。波は確かに打ち寄せているのに、その響きが胸の奥まで届かない。灰色の空の下、僕の体にまとわりつく油絵具の匂いが、潮の香りと混じり合っている。
坂を登るたび、冷たい風が頬を切った。遠くに見える校舎は、白く、淡く、まるで夢の残骸のように静かだった。
蒼南高校――彼がいる場所。
門の脇に立つと、ちょうど放課後のチャイムが鳴った。金属的な音が冬の空気を震わせる。風に乗って、生徒たちの笑い声が遠くから流れてきた。その音が、現実の輪郭をかろうじて保っているように感じられる。
美術室へ向かう途中、ガラス窓の向こうに見えた。夕陽を背に、キャンバスに向かう一人の少年。制服の袖は絵の具で汚れ、光の粒が髪に散っていた。
筆の動きは、まるで呼吸そのもののようだった。
生きている。
そのことだけが、痛いほど伝わってきた。
足が止まる。声をかけようとするたびに、喉が閉じる。何を言えばいいのか分からない。あのときの言葉は、怒りで、嫉妬で、感情の逃げ場だった。いま、もう一度彼に向き合ったとして、僕は、何を伝えられるだろうか。
そのとき、背後から声がした。
「あなた……もしかして、琥珀学院の生徒さんかしら」
振り返ると、優しげな女性が立っていた。肩にストールをかけ、手には図面の束を抱えている。その雰囲気と仄かに香る油絵具のにおいから、この学校の美術部顧問だろう。
「はい。一色葉と言います」
彼女の目がわずかに見開かれる。
「ああ、やっぱり。あなたが有栖川君の話していた方ね」
「……僕?」
「ええ。彼、あなたの絵を見て、絵を描き始めたのよ。中学の時にあなたの作品を見て、こんな絵が描きたいって思ったんだって言っていたわ」
言葉が喉の奥で止まった。鼓動が耳の奥で鳴っている。
――僕が、彼をこの世界に連れてきた。
その事実を飲み込めずにいると、顧問は柔らかく微笑んだ。
「あなたが、彼の最初の光だったのね」
光。
その言葉が胸の奥で、静かに崩れた。
あの頃、僕は確かに描けていた。正しい美を追い求めることが、自分の存在証明だった。
誰かの心を動かすためではなく、完璧を積み上げるために筆を持っていた。それなのに、僕の絵が、誰かの光になっていたというのか。
嬉しいとも、誇らしいとも思えなかった。ただ、胸の奥に疼くような痛みが広がっていく。
今の僕は、もうあの光を描けない。あの頃の自分を思い出そうとすると、手の中が空っぽになる。筆を握っても、もう温度がない。
「有栖川君は美術室にいると思うわ」
顧問の声が遠くで響いた。
「せっかく来たんだから、会いに行ってあげてね」
「……はい」
かすれた声が喉の奥で震えた。
顧問と別れて廊下を進む。靴音が静かな校舎に響く。夕陽が斜めに差し込み、床に長い影を落としていた。
美術室の前に差しかかったとき、扉が開いた。油絵具の匂いと、海の匂いが混ざり合って流れてくる。その中から、有栖川が現れた。
夕陽の光が彼の肩を照らす。一瞬、目が合い、世界が止まったように感じた。
彼は少し驚いたように目を見開き、それから何かを言いかけたけれど、その言葉は唇の端で止まる。
僕が、静かに会釈をすると、彼もわずかに頷く。それだけだった。
光が差し込む廊下の中で、二人の影が重なり、すぐに離れていった。
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。息が浅くなる。足が震える。
――彼の中で、僕はいまも生きている。だが、僕の中で、僕はもう死んでいる。
校門を出るころには、空が茜に染まっていた。冷たい風が頬を刺す。駅へ向かう道で、橙色の光がガラスに映り込み、揺れていた。電車の窓に映る自分の顔が、誰なのか分からなくなる。あの頃の僕の光が、彼の中でまだ生きている。
それなのに、僕は――。
胸の奥で、何かが焦げるように痛んだ。それは怒りでも悲しみでもなかった。もっと原始的な、名前のない衝動。心の奥底に沈んでいた何かが、微かに息を吹き返す。
僕は、窓の外を見つめたまま、ゆっくりと目を閉じる。沈んでいく夕陽が、まるで血のように赤く滲んでいた。
夜のアトリエは、まるで呼吸を忘れたように静まり返っていた。外では雪が降り、はらはらと落ちていく白が、ゆっくりと世界を覆い尽くしていくのを感じた。
ランプの灯が薄く揺れ、壁にかかった『教室の午後』が、まるで溶けかけた影のように震えていた。
僕は、その前に立っていた。指先が冷たく、息をするたびに肺が軋む。
あの日、彼の顧問が言った言葉が、脳裏のどこかで何度も反響している。
「あなたが、彼の最初の光だったのね」
その一言が、静かな水面に落ちた石のように、ゆっくりと、しかし確実に、僕の中の何かを壊していった。彼の光の源に、僕がいた。僕が描いたあの理性の光が、誰かの魂を揺らしていた。その事実が、嬉しくて、恐ろしくて、吐き気がするほどに美しかった。
構築された美の中に、命があった。僕が排除してきた感情が、確かにそこにあった。有栖川の瞳が、その光を見つけたのだ。そして今、僕は、あの瞳の奥に取り込まれている。
机の上には乾いたパレット。ひび割れた絵の具の層が、かつての自分の時間を閉じ込めている。僕は、それを握りつぶすように掴み、新しい絵の具を絞り出した。
青、黄、白、赤。どの色も、息をしているように見えた。こんなにも色が熱を持っていたことを、どうして僕は忘れていたのだろうか。
キャンバスを張り、釘を打つ音が夜に響く。
いつもであれば、線を引き、空間を制御するためにも、まず構図を決める。
だが今夜は、頭の中が空っぽだった。思考が溶けて、ただ、描きたいという衝動だけが全身を満たしていく。
筆を取る。呼吸が速くなる。白いキャンバスが、獣のようにこちらを睨んでいる気がしたが、その恐怖と快楽が、ひとつのものになっていく。
最初の一筆を落とすと、音がした。絵の具が、空気を裂くように音を立てた。瞬間、世界が色で満たされる。青が滲み、赤が侵食し、黄が光を孕む。すべての色が互いを壊しながら生きている。それは、破壊であり、再生だった。
僕は筆を止めなかった。止めることができなかった。止めたら、世界が止まる気がして。腕が震え、指先が冷えきって感覚がない。それでも、筆はなめらかに踊り続ける。
何を描いているのか、もう分からない。教室の窓か、光か、それとも彼の瞳か。そんなことはどうでも良くて、ただ、描き続ける。描くたびに、世界が生まれ変わるようだった。
絵具の匂いが、空気を満たしていく。鼻の奥が焼け、肺が甘く痺れ、頭の中が白く濁る。時間の感覚が溶けていき、外の雪はいつの間にか止んでいた。
筆の軌跡が光になり、色が音になる。視界の端で、誰かが笑っている気がした。有栖川の声か、それとも僕の声か。もう区別がつかない。色が、血のように流れていき、指先が、絵と同化していく。手が、痛い。けれど、その痛みさえも美しかった。
筆が、いつの間にか落ちていた。それでも、僕の手は空を掴むように動き続けていた。腕の中で、空気が形を持ち、見えない絵が生まれては消える。世界が、画布の外へと広がっていく。僕の中に、何かがあふれ出すのを止められない。止めようとすれば壊れてしまう。描くことが、呼吸よりも自然になっていた。
気づけば、体が傾いていて、視界がゆらゆらと揺れ、絵の具の光が滲む。床の冷たさが頬に伝わると同時に、黒く染まった指先が視界に映る。青と赤と黄が混ざり、まるで焦げたような、深い闇の色になっていた。
いつの間にか、喉の奥から静かな笑いが漏れていた。涙が滲む。それが悲しみなのか歓喜なのか、自分でも分からなかった。
視界の端で、再び息を吹き返した雪が白く光る。夜が呼吸していた。僕は、その光の中で、静かに息を忘れていた。
時間の感覚は、もう、すでになくなっていた。朝も夜も分からないなかで、光だけは確かに存在している。それは窓から射すものではなく、僕の中から滲み出ている光だった。
筆を握ると、手が勝手に動く。何を描こうとしているのか、自分でも分からない。ただ、描かなくてはいけないという確信だけが、体を動かしていた。
光は、確かに、生きている。
父の声がどこか遠くで響く。
「葉、お前は何を描こうとしている」
音は波のように遠ざかっていく。
「光です」
自分の声が空気に混じって消えていくのを感じた。
「光など現象にすぎない」
違う。僕には分かる。あれは、光は、生きている。呼吸をしている。彼の中で、僕の中で、確かに脈を打っている。
油の匂いが空気を満たしていた。指先から冷たさが抜け、腕は軽く、心臓はここではない、どこか遠くで鳴っているように思えた。
描くたびに、胸の奥で何かが燃える。描けば描くほど、世界が近づいてきて、その向こうにある何かに、手が届きそうになるのを感じる。彼は、ずっと、僕を見つめている。誰なのか分からないけれど、その視線が、僕を生かしていた。
壁には白が、青が、金が散っている。それぞれの粒が脈動しているように見えた。絵が、僕の代わりに、息をしている。呼吸している。
気がつけば、雪の白は消えていて、微かな緑の気配が混じっている。外では、もう春が始まろうとしているのだろうか。しかし、僕の中にはまだ冬があった。凍った光を、ゆっくりと溶かしていけば、絵の中に春が差す。色が膨張し、世界が広がり、僕の呼吸が、色に変わる。
筆を持つ手は震え、視界が滲み、光は焼けるように痛い。それでも、止まることはできない。
描くたびに、生まれ変わる世界は、恐ろしく、そして唯一の救いだった。
僕は描きながら、自分という輪郭を失っていった。描くたびに、僕が削れていき、その欠片の代わりに、光が生まれる。
それでいい。僕が消えても、この絵が残るなら、それでいい。
いつの間にか、雪はすべて溶けていて、窓の外からは、かすかに鶯の鳴く声が聞こえる。
アトリエの空気は、まだ冷たいのに、どこか柔らかい匂いがした。
絵の中で、光が芽吹いていた。雪解けの水の音が聞こえる。風の中に、花の匂いが混じる。
春はもう来ていたんだなと、この時始めて気がついた。
筆が手から離れ、音もなく、床に落ちる。そのなかで、僕は、絵を見ていた。
光があった。
燃えるように、穏やかに、確かに生きていた。
――なんて、美しいのだろう。
その言葉が唇の奥で零れる。声なのか、祈りなのか、自分でも分からなかったが、胸の奥に広がっていく光の熱に、心が静かに溶けていくのを感じた。
とめどなく溢れ続ける涙が頬を伝い、光の粒になって消えていく。体は軽く、視界が、白い。何も見えないのに、すべてが見える。この世界の始まりも終わりも、光の中にあった。
ただ、光だけが、優しく、深く、どこまでも存在していた。
光が僕を包み、世界が溶ける。輪郭が消え、肌も血も骨も、そのすべてが光へと還っていく。
その瞬間、僕は確かに――生きていた。
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