愛って触れないほど遠い…

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冬心の本『黒と白 noir et blanc』は、4月4日にフランスで初めて発売され、わずか1か月後の5月上旬には累計200万部を突破した。驚異的な販売により、担当のモンターニュ・ブルー出版社は意気揚々と増刷に力を注いでいる。そして5月5日には、ついに日本でも刊行された。

冬心は日本語、韓国語、中国語、英語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語の翻訳を自ら担当し、さらに表紙も自画像をジオメトリック的にデザインしている。

ジャンダ教授の紹介により、冬心の本は光出版社が著作権・出版権・翻訳権を保有し、同社が海外出版社と交渉を行い、海外刊行も取り決めている。4月のフランスを皮切りに、5月は日本、6月は韓国、7月は中国、8月は英語圏と、続々と出版される予定である。

冬心は学校の勉強の傍ら、翻訳の仕事に没頭する多忙な日々を送っている。

冬心は5月上旬までの計算で、印税12%からフランスの税金を差し引いた約3億4千万円ほどの収入を得た。光出版社の編集長・望月氏から連絡を受け、インターネットバンキングで確認すると、想像を超える巨額に驚愕した。

冬心は、この収入の全額を昨年休戦となったパレスチナ・ガザ地区の援助のため、国境なき医師団(MSF)日本へ寄付し、感謝状を受け取った。マスコミは冬心を「善良なる天使」と讃えて絶賛した。寄付にあたっては祖母に相談し、祖母も快く理解してくれたため、心から満足のいく寄付となった。

20歳まで多くの人々に支えられて生きてきた冬心は、その恩返しをしたいと考え、7万人以上の犠牲者が出たガザ地区への人道援助が求められる時世に応じて寄付を決意した。テレビ局や新聞社から多数のインタビュー要請が寄せられたが、すべて断った。

世界中の冬心のファンたちは、パリで静かに勉学に励みたいという彼の素朴な願いを尊重し、サイレント応援活動を展開してSNS上で大きく広がっている。

冬心は3月5日にパリに到着して以来、ツイッターとユーチューブを開設し、フランスでの生活を思い出として残すために記録している。ツイッターでは短歌をフランス語・英語・日本語で発信し、ユーチューブでは日々の生活を撮影・編集して週に一度アップロードしている。

祖母やジャンダ教授、愛子ちゃん、鈴木先生、ソフィアさん、エミリなどの知り合いが登録してくれたSNSでは、冬心が作家ではないかという噂が4月頃から世間に広まり、多くの質問やコメントが寄せられた。しかし冬心は気にせず、学校生活やソフィアさんの家での私生活、パリの美術館や街の風景などを記録し続けている。

ソフィアさんは、子供たちの顔を見えないように修正するなら、家の中を撮影してもよいと許可してくれた。3月末にはブーゴー新人作家賞委員会の招待でマルセイユのブーゴー記念館を訪れ、記念写真を撮り、フランス文壇の巨匠たちと楽しくティータイムを過ごした。

それを動画として発信したことで、ユーザーネーム『camellia』が日本語で椿を意味することから、世界で唯一無二の極優性オメガ椿冬心だとファンたちが確信し、噂が広がった。

それで、7月初めにはツイッターのフォロワー数が700万人に達し、ユーチューブの登録者も2200万人を超え、膨大な収入を得るとともに、多くの企業から広報などの依頼が寄せられた。しかし冬心は、予想以上の反響にも動じず、黙々と自らの日常生活を記録し続けている。

その一方で天命は、5月5日木曜日の祝日に予定通り、小泉京香と月道神社で結婚式を挙げた。結婚式後、京香はひのき坂にある天命のピースタワーマンションに入居し、同居を始めた。

天命の仕事と京香の公演のスケジュールが合わず、新婚旅行は冬休みに延期することにした。

天命は仕事中毒で帰宅が遅い日が多く、夫婦でゆっくり語り合う時間はほとんどなかった。しかし、性関係を持つことだけは欠かさず続けたため、京香は次第に体力的な疲労を覚えるようになった。天命は子供を早く望んでいたが、その強い思いが京香には重くのしかかり、公演のある日には誘いを断ることもあった。

天命も無理に迫ることはなかったため、外から見れば夫婦仲は穏やかに映った。だが京香の心には、天命が本当に自分を愛しているのかという疑念が芽生え始めていた。

時折見せる天命の哀愁を帯びた虚しい瞳に触れるたび、京香はこの世に独り取り残されたような心悲しさを覚えるのだった。

新緑の美しい水無月に入り、パリは燦々と降り注ぐ柔らかな日差しに包まれ、街全体が陽気に溶けていた。

冬心は『フランス頽廃文学の官能美的な歴史考察』という論文を完成させた。膨大な事例を扱うため、夜遅くまで学校の図書館に籠り、熱心に調査して170ページを書き上げたのだ。2週間後には夏休みに入る。

校庭の芝生には快晴の下で日向ぼっこを楽しむ学生たちが溢れていた。フランス大衆文学論の2限目を終えた冬心は、エミリとともに1階の人文学部の食堂へ向かった。  

「こっちだよ、冬心、エミリ」

笑顔で手招きするジャンが先に席を取り、待っていた。ジャンは理学部棟に所属しており、人文学部棟からは徒歩で15分ほど離れているが、木曜日は3時限目が空いているため、冬心とランチを共にするためにわざわざ人文学部棟の学生食堂まで足を運ぶのだ。

二人は4月末にシャンゼリゼ通りのパラディシネマで出会って以来、急速に親しくなり、毎日LINEで連絡を取り合い、週に二、三度は食事を共にしたり、美術館を訪れたり、散歩を楽しんだりしている。

冬心は、前菜にカリフラワーのフレンチサラダを、メインにしいたけとマッシュルームのテリーヌを、そしてデザートにスイカを選んだ。ジャンは、前菜にアボカドとサーモンのタルタル、メインにカスレ、デザートにスイカを選んだ。

エミリは、前菜にオレンジとにんじんのラペ、メインに白身魚のポワレ、そして同じくスイカのデザートを選んだ。

学生食堂は安くて美味しいため、いつも賑わっている。三人は料理のトレイを持って席に戻り、食べながら会話に花を咲かせた。

「冬心、夏休みに日本へ行ってきたら、ヨーロッパ旅行は疲れないかな」

アボカドとサーモンのタルタルを口に運びながら、ジャンが尋ねた。

「うん、一週間くらい行ってくるから、大丈夫だと思う」

冬心は甘酸っぱいフレンチドレッシングで和えられたカリフラワーを口にしながら答えた。

「イタリア、スペイン、ポルトガル、スイス、ドイツ、ベルギー、オランダ、デンマークを列車で回るって相当な体力が必要だね。二人、マジで本気なの。それで、何日から何日までの旅なの。以前、聞いたけれど忘れちゃった」

エミリがオレンジとにんじんのラペをフォークで取りながら言った。

「18日の月曜日に東京を出発して25日の月曜日にパリへ戻る。そしてヨーロッパ列車旅行は27日の水曜日に出発し、8月28日の日曜日にパリへ戻る予定なんだ。一つの国につき4日間滞在するから、それほど大変ではないと思うけど、せっかくパリで暮らしているんだから色んな国へ行ってみたいし、挑戦するのも楽しいから」

冬心は予定を思い浮かべながら水を口にし、静かに答えた。

「では、二人は付き合ってるってことなの?一緒に旅するなら、一緒に寝るんでしょ」

エミリはいたずらっぽい目つきで笑みを浮かべた。

「ゴホゴホ……そんなことな~ん、ゴホゴホ」

水を飲んでいた冬心は、エミリの途方もない言葉に突然むせて咳き込み、声がかすれた。

「冬心、大丈夫だ。水をもっと飲んでみろ。エミリ、お前、本当にいかれてるな。冬心は親友だぞ。一緒に寝たりはするけど、一緒に寝るってっつがエッチのことではないからな。まっぴらごめんだ、下ネタかよ」

ジャンはタルタルソースに絡まったサーモンをぺろりと食べながら、語勢を強めて言った。

「もう三か月も会っているから、脈ありかなと思ったのよ。二人はすごく意気投合してるし、よく似合うし、ジャンも元カノと別れてもう半年になるんじゃない。だから、そろそろいいかなと感じただけ」

エミリは口角に笑みを浮かべ、フォークを舐めた。

「経費を節約するため、一緒に使う部屋を予約している国もある。けど、そんな風に考えたことないから唐突な話でドン引きしちゃった。まだ、翻訳の仕事もあるから旅行しながら翻訳もしなくちゃ。8か国も回るから手荷物をできるだけ軽くしたい。知らないところへ行くってワクワクしちゃうね」

雰囲気を変えようとする冬心の明るい言葉に合わせて、平常心を取り戻したジャンも口を開いた。

「俺は今まで色んな国へ行ったけど、7、8月は暑くて大変だ。でも、冬心と一緒ならへっちゃらだ。楽しみだな」

ジャンは爽やかに笑いながら言った。

「ね、冬心って今まで誰とも付き合ったことないよね。ほんと天然記念物みたい。ジャンはこれまで何回か付き合ってきたんだよ。いつも友達から始まって、気づいたら自然にカップルになってたって感じ。幼稚園の頃から幼馴染と付き合って結婚する、とか言ってたし。小学校、中学校、高校でも自然な流れで付き合って、自然に別れちゃったみたい。理由はジャンの無関心で疎遠になったんだって。大学ではベラと長く付き合ってたんだけど、あ、ベラって元カノね。ジャンと同じ学部の友達だったの。2年生から付き合い始めて2年くらい続いたけど、ベラがジャンの無関心に耐えられなくて、別の人好きになっちゃったって言って別れたんだよね。でもジャンも勉強に夢中だったから、まあすんなり別れたって感じ。今はただの友達って感じかな」

エミリがジャンの恋愛話を続けると、ジャンは恥ずかしくなって遮った。

「もう、昔のくだらない話はやめよう。ルカスとはノルウェーに行くんだろ。ガイランゲルフィヨルドやトロルトゥンガ、それにムンク美術館はおすすめだから、ぜひ行ってみてくれ。8月なら気候もいいし、歩き回るのにもぴったりだ」

ジャンはカスレをスプーンですくいながら言った。

「分かってる。ルカスはノルウェーは4回目だって。旅行は全部ルカスに任せてるの。楽しみ。私だけ絶好調かよ。灯台元暗しって言うんじゃん。客観的に見れば、二人はもう付き合っているみたいだよ。毎日ラインで連絡するし、週に2~3回は必ず会って食事や散歩もするし、時々ジャンが冬心を誘って友達集まりに連れて行くし……。上辺では恋人と言わないだけで、中身は普通のカップルみたいに付き合っているんじゃない!」

図星を突くエミリの話で、冬心は漠然とした。

「親友だから、いいでしょ。友達も冬心に会いたいというから連れて行ったよ。冬心も結構溶け込んで楽しんだからな。冬心がパリにいる間には、楽しい思い出をいっぱい作ってほしいんだ。勉強や本の出版で忙しいけど、フランスの魅力を堪能してほしい。まあ、別荘があるコート・ダジュールは来年行こうぜ。リモデリングするって知らなかったから、ごめん」

ジャンの話を静かに聞いていた冬心が、瞼を伏せながら丸い声を出す。

「大丈夫だよ。気にしないでね。でも、お母さんが17日、日曜日の展覧会で招待してくださって感謝している。本当にありがとう」

「母ちゃんに冬心と友達だと言ったら、ビックリ仰天してさ。本を読んで感心したから会いたいって言われて、ヨーロッパ列車旅行も一緒に行くことにしたと言ったら、母ちゃんの顔、固まったぞ。それで、17日の展覧会に冬心も一緒に来たら嬉しいってさ。まあ、2か月間の展示だから時間は余裕だけれど、日曜日の夜、一緒に食事したいってね。18日に東京出発なのに、こっちがごめんな。疲れたらディナーは断ってもいいから、気楽に言ってくれ」

ジャンは悠長な表情で、優しい声を添えて言った。

「私、本当に嬉しい。ジャンもエミリもいつも親切で、いろいろ助けてくれてるし、本当に感謝してるんだ。ジャンからお母さんの展示会に来られるかと聞かれて、とても嬉しかった。絵画は大好きだし、この間ジャンとルーブル美術館やオルセー美術館、オランジュリー美術館に行った時も胸が弾んで、とても楽しかった。それに、ジャンのお母さんが画家だって聞いて、ずっと会いたいと思っていたんだ。ありがとう」

冬心は頬をバラ色に染め、柔らかな声でそう告げた。三人はヨーロッパ列車旅行の話題に花を咲かせ、笑い合いながら穏やかなランチタイムを過ごしていた。

7月17日、日曜日の眩しい陽光が降り注ぐ正午。

冬心はジャンと18区のモンマルトル駅で待ち合わせ、ジャンが予約していたカフェ・デ・ドゥー・ムーランへ入った。二人はカプチーノを二つ、クレームブリュレを二つ、そして野菜たっぷりのサラダ・ジェオンを一つ注文する。  

昨日まで期末試験が続いていたが、ようやく夏休みに入った。店内では多くの人が冬心に視線を向けていて、ジャンは少し不愉快になった。しかし、そろそろそんな視線にも慣れなくてはならない、と自分に言い聞かせた。

日差しが強くて暑いのに、冬心は白の長袖リネンシャツにライトブルーのストレートデニム、白のキャップに白のスニーカーを合わせていた。その姿はまるでお洒落なパリジャンのようだった。  

ジャンは冬心の期末試験の舞台芸術論の評論作文について話を聞きながら、彼の美しい顔に見惚れていた。胸の奥に広がる幸福感に浸り、時間を忘れるほどだった。

美味しいランチを終えた二人は、モンマルトルのアートギャラリーを見て回っていた。 冬心は翌日の東京出発に備えて荷物をまとめていたが、まだお土産を探していた。  

おばあさん、ジャンダ教授、鈴木先生、宇宙学長夫妻、齋藤助教、他の教授たち、高校の恩師、愛子ちゃんと佐藤先輩、ピース書店の高橋店長、加奈ちゃんやスタッフたち、光出版社の望月編集長や編集部ーーすでにローゼデパートで贈り物を用意していたが、もっと良いものがないかとギャラリーや雑貨店を見て回った。  

展示されている絵画はどれも個性的で心に残るものばかりで、冬心はその没入感を楽しみながら、絵画の栞や絵葉書をいくつか選んで購入した。

真夏の7月のパリは、街中に花や緑が溢れ、とても美しい花々が鮮やかに咲き乱れていた。午後4時30分、冬心とジャンは花屋に立ち寄り、白のユリ、白のクチナシ、ピンクの薔薇、ピンクのダリアをかすみ草で包んだ大きな花束を買った。そして二人は、ジャンの母のアートギャラリー『アンジュ』へと向かった。

賑やかな人々で溢れるアートギャラリー『アンジュ』に入ると、背の高い痩身の女性が黄土色の長い髪をサラサラと揺らしながら近づいてきた。ジャンの母、エリザベート・ローランサンである。彼女は笑顔で二人を迎えた。  

「ようこそ。ジャンの母、エリザベート・ローランサンです。いつもジャンとエミリがお世話になっております」  

優雅なブラックのレース切替ビスチェ風パフスリーブフレアドレスをお洒落に着こなし、エリザベートは柔らかく挨拶を添えた。

「初めまして。今回、招待していただきありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。これ、ほんの気持ちばかりの品ですが、どうぞお受け取りください」

上品で大人の女性らしいジャンの母の優しい眼差しを見つめながら、冬心は高雅な花束を差し出した。  

「ありがとうございます。本当に美しい花々ですね。あぁ、いい香りですわ」  

エリザベートは満面の笑みを浮かべ、大喜びした。  

「母ちゃん、俺たちちょっと見回ってもいい?人が多いから早めに見ておかないと。では」

ジャンと冬心はエリザベートに会釈し、回廊を進んで歩いた。彼女の絵画は童話的で幻想的な世界観を持ち、柔らかな彩色と優しい雰囲気に満ちていた。  

「パリのエミリ」という児童書シリーズは大人気を博し、国際児童文学賞を受賞した経歴もある。エリザベートは有名な画家であると同時に、児童文学作家としても知られていた。パンフレットには、そのシリーズが自分の娘をモチーフにしていると記されていた。

冬心は、本の表紙に描かれた幼いエミリが親友のエミリにそっくりだと思い、親しみを覚えた。ジャンと冬心が念入りに鑑賞を終えた頃、エリザベートの妹、ニキ・ローランサンが画廊に姿を見せた。彼女は文学評論家として活躍しており、冬心が来ると知って再びアートギャラリー『アンジュ』を訪れたのだった。  

「叔母さん、先週来たんじゃないか。また来たの?」  

ジャンは元気な声で先に呼びかけた。

「うん、初めまして。私、ジャンの叔母、ニキ・ローランサンです。アーラン教授の弟子で、文学評論家をしています。『黒と白 noir et blanc』を読んでとても感心しました。本当に傑作ですね。中世ヨーロッパの複雑な情勢とキャラクターの心情を綿密に描いていて、名筆だと思いました。4冊もある長編を高校生の頃にフランス語で書かれたなんて、本当にすごいです。噂はブーゴー新人作家賞受賞以前から聞いていました。アーラン教授も、今まで会ったことのない偉大な天才がいると称賛していましたよ。今日、直接お会いできて光栄です」  

ふくよかな体で、あどけない少女のようなニキは目をキラキラ輝かせ、全身で喜びを表していた。  

「初めまして。私も出会えて嬉しいです。本を高く評価してくださり、ありがとうございます」

冬心の美しい顔に見とれていたニキは、フランス人以上に美しい発音で話す冬心の声にうっとりしていた。やがて三人は画廊を出て、エリザベートの車に乗り込む。  

車はパリ7区へと向かい、エッフェル塔を望むことのできる高級地区グロ・カイユに入った。そこは治安が最も良い街として知られ、オスマン様式の建物が優雅な外観を誇っていた。三階のアパートに入ると、ジャンの祖母と父親がすでに美味しい料理を用意して待っており、温かく迎えてくれた。

ジャンの父、クロード・ロレンスは劣性アルファの音楽プロデューサーであり、フランス芸術界を代表する著名な音楽家だった。ザース、シルビー、ゴールドマンといった有名歌手をプロデュースし、さらに『シェルルールの雨傘』や『愛の悲しみのボレロ』などの映画やミュージカル音楽も手がけている。ヴィクトワール・ドゥ・ラ・ミュージック賞やカンヌ映画祭の音楽賞を受賞した実力者でもあった。  

ジャンを思わせる錆利休色の大きな瞳は、物事を見透かすような鋭い光を宿し、インテリジェントな雰囲気を漂わせていた。一方、ジャンの祖母リリ・ボニスはベータのチェリストで、77歳の今もなおパリ・ドビュッシー大学の名誉教授として教壇に立ち続けている。

大理石風の十二人掛けの大きなテーブルには、レーズンとカッテージチーズ入りのキャロットラペ、じゃがいものガレット、サーモンやカッテージチーズをのせたカナッペ、カニかまと夏野菜のテリーヌ、煮込んだ夏野菜とベーコンのラタトゥイユが並んでいた。  

さらに、とろりとしたオニオングラタンスープ、こんがり焼き上げてグラタンに仕立てたたらのブランダード、ポテトフライを添えたステーク・フリット、そして白ワインでコトコト煮込んだ梨のコンポートのデザートまで、食欲をそそるフランスの家庭料理がずらりと揃っていた。  

料理好きなジャンの父と祖母が腕を振るい、心を込めて用意したのだ。冬心がローゼデパートで買ってきたロマネ・コンティの赤ワインも開け、皆で快く「サンテ」と声を合わせて乾杯した。

食卓を囲んだジャンの家族は、世界唯一の極優性オメガである美しい冬心の話題で盛り上がっていた。冬心が5月上旬までの印税収入を、5月中旬にパレスチナのガザ地区援助のため国境なき医師団(MSF)日本へ全額寄付したこと、さらに5月は日本、6月は韓国、7月は中国でも著作が刊行され、6月末までにはフランス・日本・韓国で総累計売上が400万部を超えたその印税の巨額な全額を、7月上旬に国境なき医師団(MSF)フランスへ寄付した件についても話題に上り、料理を味わいながら皆で語り合っていた。

冬心は穏やかな雰囲気に包まれ、美味しい料理に酔いながら、普段より多く食べていた。ジャンはそんな冬心が可愛くて、彼の美しい顔を見つめながら、取り皿が空くたびにすぐ料理を取り分けてあげた。嬉しそうな表情を浮かべるジャンの姿は、愛情そのものだった。  

それを見ていたジャンの両親と祖母は、ジャンがどれほど冬心を愛しているかを心から感じ取っていた。

ジャンの祖母リリは、ジャンが十五歳の冬休みの頃の出来事を語り始めた。カナダのインヴァーメア山でスキーをしていたとき、突然雪崩が起きてジャンは重い雪に巻き込まれ、大怪我を負ったのだ。  

彼は意識不明のまま二週間も入院し、ようやく目を覚ました。しかし脳のホルモン系に異常が生じ、劣性アルファからベータへと変わってしまった。病院側もあらゆる手を尽くしたが、これ以上は助けられないと告げられ、退院して帰国することになった。

暗い悲しい話をしたが、ジャンの母は不幸にも三人が亡くなった中で、ジャンが助かったことを不幸中の幸いだと語り、瞳を潤ませた。そしてすぐに気を取り直し、今はできればスキーはさせたくないと明るい声で言い添えた。  

冬心は余韻に震える声で、「生きていて良かった」と繊細な響きを帯びて答えた。

美味しい食事の時間は冬心の話題で盛り上がったが、食後のティータイムではジャンの母の絵画や父の音楽の話に移り、華やかな会話の花が咲いた。  

ジャンの祖母リリは、堪能なフランス語で丁寧に話す冬心をとても気に入り、ずっと微笑んでいた。やがてジャンは「腕前を見せたい」と言って奥の部屋からバイオリンを持ち出し、ヴァルディの『四季想』の“夏”を演奏し始めた。  

力強く弓を弾き、時に弾ませ、時に緩めながら楽しそうに奏でる姿を見て、冬心の胸の奥は熱くなった。

ジャンは演奏を終えると、今度は冬心の演奏を聞きたいと言い出した。彼は以前クラシック音楽のコンサートに行ったとき、冬心が小さい頃からオメガ支援施設で無料の音楽レッスンを受けていたと話していたことを思い出したのだ。  

冬心はピアノ、バイオリン、チェロを高校生まで学び続けていた。唯一の極優性オメガであったため、日本政府から手厚い福祉支援を受けていたのだ。そのことを冬心が楽しげに語っていたのをジャンは覚えていた。

頬を赤らめた冬心はジャンからバイオリンを受け取り、ヴァルディの『ラ・フォリア』を奏で始めた。ジャンは急いで奥の部屋からもう一挺のバイオリンを持ち出して来た。  

序章はゆっくりと静かな弓さばきで始まり、やがて急激にテンポが速まる。二人の手は素早く舞い踊り、見事な調和を生み出した。クライマックスでは力強く弦を響かせ、華麗で躍動感あふれる演奏に、皆は息を呑んで聞き入った。

15分ほどの演奏だったが、その旋律は高揚感に満ち、皆は拍手を送って称賛した。ジャンの叔母ニキが熱心に頼んだため、冬心はピアノとチェロの音色も披露することにした。  

彼は白のグランドピアノに座り、リストンの『ラ・カンパネラ』を奏でる。鐘が鳴り響くような高音域の美しい音色がリビングルームに広がり、素晴らしい演奏に皆は深く感動した。  

続いて冬心はジャンの祖母リリの相棒であるチェロを受け取り、ジャンに「ピアソーの『リベルタンゴ』を弾けますか」と尋ねた。ジャンは「できる」と答え、ピアノの前に座った。

初めての共演だというのに、二人は力強く速いテンポで演奏を始めた。ジャンの独創的で癖のあるピアノの音色と、冬心の華やかで力強い旋律は、聴く者の心身の芯を揺さぶった。  

ジャンの祖母リリは、スラリとした体で演奏に臨む冬心が、全身から溢れる力強いエネルギーを放ちながら奏でる技巧を、興味深そうに見つめていた。

二人の演奏に息を殺して浸っていたジャンの父クロードは、やがてピアノの前に座り、皆で一緒に歌おうと促した。家族はピアフの『愛の賛歌』を楽しく歌い、その後クロードの要請で冬心が『恋はみずいろ』を澄み渡る歌声で披露した。  

歌も演奏もどちらも素晴らしく、クロードは冬心に本格的に音楽をしてみないかと尋ねた。「一緒に仕事をしたい」と、彼は真剣に言い出した。

冬心は演奏も歌も大好きだったが、思いがけないお願いに少し戸惑った。それでもジャンの父親の言葉なら信じられると感じ、悩んだ末に「ぜひご一緒させていただきたい」と伝えた。  

ジャンは驚きのあまり、思わず冬心を強く抱きしめた。初めての抱擁に冬心は息を呑み、胸の鼓動が激しく高鳴った。

時間はいつの間にか夜十時半を過ぎていた。冬心はジャンの祖母リリからバイオリンを、母エリザベートからは幻想的な絵画がプリントされた美しいクッションカバーを六つ贈られた。  

挨拶を済ませると、地下鉄エコール・ミリテール駅へ向かうことにした。皆がワインを飲んでいたため運転はできず、いつものように紳士的なジャンが冬心の家まで送ることになった。

7月半ばのパリは高緯度にあるため、夜十時を過ぎてようやく日が落ち、街は涼やかな闇に包まれた。観光客たちは楽しみを求めて賑わい、夜の街は活気に溢れていた。  

ライトアップされたエッフェル塔がイルミネーションに輝き、情趣あるパリの街並みを見下ろしている。やがて二人がエコール・ミリテール駅に着くと、人々で混み合っていたため、ジャンは冬心と逸れないようにそっと手を繋いだ。

押し寄せる人々の波に冬心が転びそうになったので、ジャンは腕を伸ばし、彼の華奢な肩を抱いて歩いた。夏の観光繁盛期が始まったため、夜遅くにもかかわらず満員電車は人々で溢れていた。  

ジャンは誰かが冬心に触れないよう気を配り、両腕で抱きしめて胸の中に守った。冬心は恥ずかしさを覚えながらも、隣の男がわざとらしく腕で触れてきたため、ジャンの腕の中で安心することができた。

冬心の顔はジャンの硬い胸に密着し、彼の心臓がドクンドクンと鳴り響く音を聞きながら、頬を赤く染めていた。ジャンは愛おしい冬心を抱きしめ、心臓が熱く、はち切れそうに震え、戸惑っていた。  

冬心の薔薇の神秘的で奥深いフェロモンに酔いながら、ジャンは明日日本へ旅立つ冬心を離したくないという強い思いに駆られる。  
ただ衝動に耐え、腕に力を込めすぎないよう必死に踏ん張っていた。

クルセル駅に着くと人波は減り、町は静寂の色を帯びていた。二人は手を繋いだまま、閑静な高級住宅街を歩いていく。  

深夜の町には誰もいない。銀色の月光に照らされ、揺れる影の中で二人は互いの体臭を探り合っていた。緑に染み込んだ新鮮な空気に、ほんのりと温かみのあるサンダルウッドの香りが混じり、冬心の鼻をやさしくくすぐった。  

ジャンは気付いていなかったが、冬心のフェロモンの影響で眠っていたジャンのフェロモンがほのかに浮かび上がっていた。

冬心がお世話になっている壮大な邸宅の前に着いたとき、ジャンは銀月の魔法にかけられたような恍惚から抜け出し、慎重に口を開いた。  

「冬心……好きだ。初めて会った時からーーいや、ブーゴー新人作家賞の受賞式をテレビで見た時から、ずっと好きだった。  
恋愛は経験してきたけれど、こんな気持ちは初めてだ。友達のままではいられない。俺と付き合ってほしい」

緩んで輝く大きな瞳を潤ませながら、冬心はジャンの深愛に陶酔する優しい瞳をじっと見つめ、ゆっくりと頷いた。ジャンは冬心の小さく美しい顔を両手で優しく撫で、艶やかで柔らかな唇にそっとキスをした。  

二人は時を忘れ、しばらく互いの甘い唇を味わっていた。しかし時間はそよ風のように流れ、やがて18日の月曜日へと移ろっていった。

















































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