透明な心に揺れながらアセッションする

j.poem

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9話

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7月18日、月曜日の朝9時頃。
ジャンは父親のブルーのプジョーGTハイブリッドを借り、冬心の大きなスーツケースとコーチのトートバッグをトランクに積み込むと、シャルル・ド・ゴール国際空港へと車を走らせた。

昨夜の告白と初めてのキスの余韻に胸をときめかせた冬心は、一睡もできなかった。ジャンも同じく、恋の熱に眠れぬ恋焦がれた夜を過ごしていた。

「冬休みには一緒に東京へ行きたい」 ハンドルを握りながらジャンはそう言い、大学1年の頃に母親の展覧会に同行して日本を訪れた思い出を楽しげに話す。車内には、未来への期待と甘やかな余韻が満ちていた。

夏のバカンスシーズンで空港は人で溢れていた。搭乗手続きを終えると、もう出国審査に向かわなければならない時間だった。ジャンは冬心を強く抱きしめ、頬にそっとキスを落とす。たった一週間の別れなのに、胸が締めつけられるように悲しく、腕をなかなか離せない。

やがて冬心は人々の列に並び、扉の向こうへと消えていく。見えなくなるまで、ジャンはただ立ち尽くし、その胸に恋衣を深く染めていた。

日本航空のファーストクラスで、冬心はゆったりと眠り続けていた。 「まもなく東京羽田空港に着陸します」というアナウンスに目を覚ます。12時間の飛行は、夢のようにあっという間だった。ジャンと離れている寂しさに胸を痛めていたのに、今は祖母に会えると思うだけで心が弾み、胸が高鳴った。

19日火曜日の朝5時。羽田空港第3ターミナルの到着ロビーには、どこから噂が広まったのか、多くの人々が冬心を一目見ようと集まっていた。

大きなマスクをかけたジャンダ教授と祖母・知加子は、冬心の顔写真のピケットや「冬心女神様」と書かれたスローガンを手にした若者たちの波に呑み込まれ、慌てていた。人々の押し寄せる勢いに祖母が危険にさらされるのを心配したジャンダ教授は、必死に彼女を守ろうとする。

ロビーには警察官や警備員も多数配置され、熱狂するファンや取材陣を必死に整理していた。

6時になると、電光掲示板に冬心の乗ったJL047便の到着が表示された。ジャンダ教授と祖母・知加子は嬉しさに胸を高鳴らせ、人混みをかき分けて前へ進もうとする。

その時、警備員が二人近づき、祖母に丁寧に声をかけた。 「冬心さんのお祖母様ですか?」 そうだと答えると、彼らは「こちらへどうぞ」と扉の前までエスコートしてくれる。

人の波はさらに膨れ上がり、警備員たちは列を作って通路を確保し、到着者が安全に出口へ出られるよう必死に対応していた。

祖母・知加子は扉から出てくる人々をじっと見つめていた。しばらくして少し疲れ始めたその時ーー。

白のジョッキー帽にハイネックのバルーンスリーブブラウス、そしてサルエルパンツを軽やかに着こなした美しい冬心が、ガードに囲まれて姿を現した。

瞬間、集まった人々は一斉にシャッターを切り、「冬心!冬心!」と声を張り上げて大騒ぎになる。冬心は朝早くから集まってくれたファンに胸を打たれ、感謝の気持ちを込めて手を振った。

警備員たちは列が崩れないよう必死に支え、警察官たちも「押さないでください!」と声を張り上げて群衆を制していた。

冬心は群衆の中に微笑む祖母の顔を見つけ、嬉しさに駆け寄った。カメラのフラッシュなど気にもせず、祖母を強く抱きしめる。隣で目を潤ませていたジャンダ教授にも抱擁を交わした。

その光景はテレビ局のカメラに収められ、生放送で全国へと伝えられた。

天命は京香と搾りたての野菜ジュースを飲みながら、テレビで冬心の帰国生放送を見ていた。画面に映る冬心は、以前よりもさらに輝きを増し、まるでダイヤモンドのように光っていた。

パリのガードから写真を受け取っていたので本当は久しぶりではないが、大きなテレビ画面に映る姿は格別だった。ジャン・ロレンスというフランス人と親しくなったと聞き、天命は調査を依頼した。報告によれば、ジャンは裕福で誠実な好青年。天命は二人の馴れ初めと恋の行方を静かに見守っていた。

今朝届いた写真には、熱いキスを交わす相思相愛の二人の姿が写っていた。胸の奥に複雑な痛みが走ったが、それも冬心の青春の愛の輝きだと受け止めた。天命は、これからも優しく見守ろうと心に決めた。

ガードマンたちの助けで無事に駐車場までたどり着いた冬心は、荷物をジャンダ教授の車に積み込み、ようやく家へ向かうことができた。一昨日、ジャンダ教授から「生放送がある」と聞いていたが、これほど多くの人々が待ち構えているとは思いもしなかった。

車を走らせながら、ジャンダ教授は冬心に近況を伝えた。印税はすべて寄付したため問題はないこと、SNS収入が多く、区役所から来月末までに公営アパートを退去するよう通知が届いたこと、高収入のため祖母がオメガ支援施設を辞めざるを得なかったこと、特別所得者税法により9月から住民税と所得税が大幅に増えること、本の表紙の自画像が好評で、国立形質者美術館から記念絵画の依頼が来ていること、芸能界からCMやテレビ出演の依頼が殺到していることなど、ジャンダ教授は代理人として、冬心の生活を支えるために奔走していた。 

警察車両の護衛もあり、取材車に追われることなく、星空町の銀河水公営アパートへと安全に帰り着いた。

銀河水公営アパートの周辺にも多くの人々が集まり、「冬心!冬心!」と声を張り上げていた。 熱い声援に感動した冬心は、美しい笑顔で手を振った。

家に入ると荷物を解きながら、祖母にはエデーヌのマヌカハニーとラズベリーの蜂蜜の特別セットを、ジャンダ教授にはロマネ・コンティ・エシェゾーのワインとピエール・エルメのチョコレートを贈った。二人はとても喜び、心から感謝を伝えた。

冬心は自室で荷物を整理し、祖母とジャンダ教授は昼食に夏野菜をふんだんに使った冷製サラダうどんを準備している。セミの涼やかな声が響く真夏の東京は晴天に包まれ、幻の青い鳥が希望への光を抱いて羽ばたいていた。

冬心は鈴木先生や学長、恩師たち、齋藤助教、光出版社の関係者など、これまでお世話になってきた人々に挨拶をして回った。鈴木先生にはメゾン・ド・ラ・トリュフのチョコレートとロマネ・コンティのコルトンワインを贈り、たいへん喜ばれた。

その折、冬心の収入が増えたことで引っ越しが必要になる事情を聞いた鈴木先生は、三件ほどの良いマンションを紹介し、不動産会社の名刺を渡して都合の良い時に内見するよう勧めた。もっとも、その物件は天命の指示に基づき、秘書の橘が選び抜いたものであり、冬心に勧めるようあらかじめ準備されていたものだった。

鈴木先生は四年前に冬心を襲った不吉な事件を思い返し、ピースグループがその償いを背負っていると感じていた。健康診断を終えた冬心の状態は良好で、ホルモンバランスやフェロモンにも異常はなく、鈴木先生はようやく安堵の表情を浮かべた。

翌朝、冬心は鈴木先生に紹介された物件を内見し、夕暮れには学長・宇宙天弥の邸宅を訪ねた。マリアージュフレールのお茶セットとシャトー・ペトリュスのワインを贈ると、学長と妻の鈴子は心から喜んでくれた。  

ちょうど夏休みでイギリスから帰国していた長男・流星が紹介される。彼はオックスフォー大学の四年生で、極劣性アルファの青年だった。190センチの長身に切れ長の目、高く整った鼻、薄い唇を備え、その姿はまるでギリシャ神話の石像のように気高い。  

テレビでしか見たことのなかった冬心の実物は想像以上に美しく、流星は本能のままに一目惚れしてしまう。普段は物静かで口数の少ない彼も、冬心の話があまりに面白く、次々と話題を振って会話は弾んでいった。

学長の天弥と妻の鈴子は、普段あまり喋らない息子が冬心と楽しげに語り合う姿を見て、よく似合う二人に自分たちの青春を重ね、心を膨らませていた。四人は夕食を共にし、別れ際には流星と冬心がラインを交換する。冬心は親友になれると思っていたが、流星の胸には「魂の番になりたい」という密かな願いが芽生えていた。  

流星は庶子として宇宙家に生まれ、肩身の狭い思いを抱えながら必死に努力してきた父の姿を見て育った。だからこそ、自分も父のように立派になり、宇宙家やピースグループの中で確かな地位を築かなければならないという強い執念を抱いていた。

流星はこれまで、家柄や学歴、形質に恵まれたハイスペックなオメガとしか交際してこなかった。恋愛に対しては常に慎重で、時間をかけて深く付き合うのが彼の流儀だった。過去に二人のオメガと関係を持ったが、男性のオメガは珍しく、一度も経験がなかった。  

だからこそ、冬心との出会いは特別だった。こんなに美しい、希少な極優性オメガに巡り会えるなど、まさに千載一遇の機会。流星はそのチャンスを逃すまいと心に誓い、胸の奥では思いが炎のように燃え始めていた。

22日の金曜日、午前11時頃。冬心は愛子、樹里、春馬とコスモス坂のコスモスヒルズでランチの約束があり、家を出かけた。強い日差しが照りつける蒸し暑い日で、冬心は白のストライプスキッパーシャツに黒のクロップドパンツ、白いキャップ、そしてルイスボトンのボストンサングラスを身につけていた。  

呼んでおいたタクシーはすでに到着しており、周囲にはしつこい記者たちが待ち構えていた。暑さの中で苦労している彼らに申し訳なさを覚えた冬心は、笑顔で軽くお辞儀をする。車に乗り込むと、涼しいエアコンの風が心地よく、窓の外には夏の緑に彩られた東京の街並みが広がっていた。  

運転手は冬心に興味を持ち、いろいろと話しかけてくる。冬心も笑顔で応じ、会話を楽しみながら40分ほどで目的地に到着した。そこには、猛暑にもかかわらず追いかけてきた記者たちの姿があり、冬心は彼らの熱心な仕事ぶりに驚きを隠せなかった。

愛子が予約していた和風レストラン『美会』には、すでに樹里と春馬が到着して談笑していた。  

「冬心、ここだよ! 久しぶり!」  

樹里が笑顔で手を振る。  

花畑樹里はピース私立高校時代からの親友で、1年生から3年生まで同じクラスを過ごした仲だ。176センチの長身に整った顔立ちを持つ優性オメガで、高校時代は人気者だった。国内の大学には進学せず、アメリカのハーバー大学音楽科に合格して留学。今は夏休みで東京の実家に戻ってきている。

「よー久しぶり、とうちゃん」

冬心を愛称で「とうちゃん」と呼ぶ春馬・パンサーは、黄金色に日焼けした元気な笑顔を見せた。彼は冬心と同じピース私立高校の出身で、今も同じピース大学に通う友人である。

ベルギー人の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、優性アルファの春馬は運動神経に恵まれていた。中学時代からアイスホッケー部に所属し、二年前にはフィンランドオリンピックに選ばれるほどの有望選手となり、現在は体育科に在籍している。  

高校一年の頃、冬心に告白して振られたが、持ち前の明るさでその後も良き友人として付き合い続けてきた。198センチの長身に、訓練で鍛え上げられたがっしりとした体格は、見る者に迫力と魅力を感じさせる。

樹里と春馬は高校2年生の頃から交際していたが、春馬の厳しい訓練や樹里の留学試験の準備で次第に疎遠になり、3年生の頃には別れてしまった。それでも二人は普通の友人として関係を続けている。  

春馬は特有の明るさと魅力で女子の間に人気があり、常に多くの人と関わってきた。だが、真剣な交際よりも気軽な関係の方が多く、長続きする恋は少なかった。

「お久しぶり。会いたかったよ。樹里、エリザベート王妃国際音楽コンクール優勝、本当におめでとう! 演奏は素晴らしかった。ウジェーヌ・イザイのヴァイオリン・ソナタ、技巧も表現力も圧巻だった。テレビで見たけれど、とても美しかった。 春馬も日本代表としての活躍、立派だったよ!」

席についた冬心は、嬉しさのあまり弾む声で話しかけた。  

「俺らより、お前の方がすごいじゃん。SNSのフォロワーも多いし、本も大人気だしな!」  

春馬がウィンクを交えて冗談めかす。  

「そうよ。韓国でも中国でも発売されて話題になってるってニュースで見たわ。冬心はもう立派なセレブね」  

樹里が微笑みながら言う。橙色の照明に照らされたその化粧顔は、影を揺らしながら美しく輝いていた。

「そんなことない。本の印税は全部寄付したからいいけど、ユーチューブやツイッターがバズったのは意外だった。ありがたく思ってる」  

ちょうどその時、汗をにじませながらアイボリーのフレアマイクロミニワンピースを軽やかに着こなした愛子が近づいてきた。  

「みんな、久しぶり。バスが混んでて遅くなっちゃった、ごめん。暑いね」  

「いいの、ゆっくりで。まずは注文してから話そう」  

樹里がメニューを開きながら言った。樹里と愛子、そして春馬は同じ教会に通う幼馴染で、家族ぐるみの付き合いがある。四人はお任せコースを注文し、近況報告で話が弾んだ。冬心は三人の許可を得て携帯用カメラを回し、ランチタイムの様子を録画する。  

ふかひれの茶碗蒸しを味わいながら、樹里はアメリカ人の恋人やハーバー大学での生活について語った。春馬はチェコで開催された世界アイスホッケー選手権で銀メダルを獲得したこと、そしてリトアニア人のゲイとの親密な関係について話した。

春馬はバイセクシュアルで、相手が美しければ性別や形質にはこだわらなかった。一方、愛子は有酸素運動ダイエットで6キロの減量に成功した話や、8月に予定しているスイス旅行の話を披露し、四人はお喋りに夢中になっていた。  

デザートのフルーツ白玉あんみつを味わいながら、春馬がふいに切り出す。  

「とうちゃん、俺の先輩がお前に惚れちゃってさ。紹介してくれってしつこく言うんだよ。面倒だから、一度だけでも会ってくれない?」

フルーツ白玉あんみつの抹茶アイスをひと口舐め、冬心は少し躊躇いながら口を開いた。  

「あの……みんなに話さなきゃいけないことがある。実は、私、付き合ってる人がいるの」  

「えっ、付き合ってるって!」  

「誰だよ、言ってみ!」  

「いつからなの? 詳しく話して!」  

樹里、春馬、愛子の声が重なり、驚きと興奮が一斉に弾けた。

「最近だよ。先週の日曜日に告白されて付き合うことになったんだ。エミリの双子の弟、同じ学校の天文学科4年生でね。4月下旬に会ってからずっと友達だったけど、いつの間にか好きになっちゃった。すごく優しいし、面白いし、一緒にいて楽しいし、パリでの生活でも頼りになる人なんだ。あ、ユーチューブにもよく出てたけど、顔はぼかして処理してたから」  

冬心は頬をバラ色に染めながら語った。  

「で、どこまで進んだの?」  

愛子が悪戯っぽい笑みを浮かべて尋ねる。  

「まだだろ、とうちゃん。バージンなんだから」  

春馬がほうじ茶を啜りながら茶化した。

「でも、抱擁やキスくらいはしたんでしょ?」  

樹里が興味津々な笑顔で問いかける。今まで誰とも付き合わなかった冬心が選んだ相手に、どうしても関心が向いていた。  

「うん……もう、この話はいいでしょう」  

冬心が話を切り上げようとすると、愛子がすぐに食い下がる。  

「写真ある?見せてよ、冬心の王子様」  

「俺も見たい!」  

春馬が元気な声を上げる。  

「見せてよ。私たちも恋愛話を素直に打ち明けたんだから」  

樹里も瞳を輝かせながら楽しそうに言った。

「分かったよ。待ってね」  

冬心はスマホをタップして愛子に渡した。三人はアルバムをめくりながら楽しそうに声を上げる。  

「マジすげぇイケメンじゃん!背も高いし、超カッコいい!」  

「ほんと、めっちゃお似合いだよ」  

「カッコよすぎて、マジで惚れちゃいそう!」  

笑い声と褒め言葉が飛び交う中、突然スマホが着信音を奏でた。愛子が慌てて冬心に渡すと、冬心は流暢なフランス語で応答する。三人は静かに耳を傾けながら、その姿を見つめていた。  

やがて三分ほどの通話が終わり、空気が落ち着いたところで樹里が口を開いた。

「彼氏だね、ラブラブじゃん。いい感じ」  

樹里はフランス語が分かるので、冬心とジャンの会話を理解していた。春馬も知っていたが、黙って耳を傾けていた。  

「何を話してたの? 教えてよ、樹里」  

愛子が大きな瞳を輝かせて頼む。  

「元気か、体調はどうか、会いたいって……普通の恋人同士の甘いやり取りだったよ。最後には『愛してる』って言ってたね。可愛い冬心、まるで恋する乙女みたい」  

樹里が無邪気な笑みを浮かべて言う。  

「もう、いいでしょ。からかわないでよ……」  

冬心は頬を染めながら、照れくさそうに言った。  

楽しい時間はあっという間に過ぎ、気づけば午後三時になっていた。冬心が先に立って会計を済ませると、友人たちは「ありがとう」と笑顔で声をかける。成功した冬心が、さりげなくみんなにご馳走したのだった。
  
冬心がパリの美術館で買い集めた絵葉書や栞、トートバッグ、そしてパトリック・ロジェのチョコレートを詰めたお土産袋を、樹里・愛子・春馬がそれぞれ手に持ち、四人は店を後にした。

四人が外に出ると、待ち構えていたパパラッチが一斉にシャッターを切る。愛子は少し戸惑ったが、冬心と樹里、春馬は慣れた様子で気にも留めず、静かにエレベーターへと歩いていった。

久しぶりの集まりで、このまま別れるのは惜しいと感じた春馬が提案した。  

「大学のカフェでコーヒーでも飲もう」  

四人は春馬の車に乗り込み、隣町のピーズ大学へ向かった。久々の再会に気持ちは弾み、冗談を言い合いながら大笑いし、車内は笑い声で満ちていた。夏の午後の光を浴び、彼らは笑い声に包まれながらドライブを楽しんだ。

夏休み中でも、部活や勉強に励む学生たちで校内は賑わっていた。ピース大学には学部棟ごとにカフェがあり、観光客も訪れるため夏休みでも営業している。  

四人は人文学部棟のカフェに入り、空いた席を探した。そのとき、冬心はふと隣の席に目をやり、一人でクロワッサンとコーヒーを楽しむジャンダ教授の姿を見つけた。

「こんにちは、先生。お昼ですか?」  

冬心の声に顔を上げたジャンダ教授は、柔らかな笑みを浮かべて応じた。  

「冬心。ここで会えるとは思わなかった。うん、少し遅くなったが昼食だよ」  

「あ、こちらは私の友達の愛子、樹里、春馬です。いつもお世話になっているジャンダ教授だよ」  

冬心が紹介すると、春馬が真っ先に声を上げた。  

「初めまして。春馬・パンサーです。体育科の2年生です。先生のお話は常々冬心から聞いていました」  

続いて樹里が微笑みながら挨拶する。
  
「初めまして。私は花畑樹里、ハーバー大学の音楽科に通っています」  

愛子も顔見知りらしく、親しげに声をかけた。
  
「こんにちは、先生。夏休みなのにバカンスには行かれないのですか?」  

ジャンダ教授は、美しい顔に花が咲くような笑みを浮かべて答えた。  

「こんにちは。来月はパリに行く予定なんです。今は採点やセミナーの準備で忙しくてね。どうぞ気にせず楽しんでください。こうして皆さんに会えて、本当に嬉しいですよ」

ジャンダ教授は冬心の友達に迷惑をかけまいと、気を配りながら静かにコーヒーを口にしようとした。その時、春馬が笑顔で元気よく声をかける。  

「先生、もしよければご一緒にどうですか。ぜひ先生とお話ししたいんです。俺、体育部は建物が離れているから、ここに来るのは滅多にないんですよ。父はベルギー人で祖母はフランス人なので、よくパリに遊びに行きました。フランス語も少し分かります」  

「誘ってくれてありがとう。でも私は食事を早く済ませないといけないので、どうぞ皆さんだけで楽しんでくださいね」 

ジャンダ教授は微笑みを浮かべながら、やんわりと断った。冬心と樹里、愛子はその言葉に従い、隣の席へと腰を下ろした。しかし春馬だけは教授の正面に堂々と腰を掛け、さらに言葉を投げかけた。

「先生。この学校にこんなに美しい方がいらっしゃるなんて、全然知らなかった。もっと早く出会えていたらよかった。今週は訓練もオフなんです。先生と親しくなりたいです」  

ジャンダ教授は、息子のように若い男性からの突然の誘いに困惑していた。その時、冬心が慌てて助け舟を出す。  

「春馬、やめなさい!先生に迷惑かけないで、こっちに来なよ。先生、本当にすみません」  

春馬は訝しげな目を向け、語気を強めて冬心に言い返した。  

「悪戯じゃない。俺、チャラいけど恋愛には真剣なんだ。先生に一目惚れしたんだよ。時間がないから、早く気持ちを伝えたいだけさ」  

ジャンダ教授は居心地の悪さを感じ、トレイに半分残したクロワッサンとコーヒーカップを乗せて立ち上がった。  

「では、先に失礼します」  

春馬が声を張り上げる。  

「ちょっと、待てよ!」  

冬心が小声で制止した。  

「春馬、やめなさい!先生は見た目よりずっと年上で、もう五十歳なんだ。敬意を払わなくちゃ」  

春馬は真剣な顔で言い返した。  

「年齢差なんて関係ねぇ。俺は本気なんだ」

春馬は急ぎ足でジャンダ教授を追いかけた。教授はトレイを返却カウンターに置くと、横の洗面台で丁寧に手を洗っていた。春馬は隣に立ち、熱心に声をかけ続ける。  

やがて手を洗い終えた教授は、ハンカチで手を拭きながら春馬を気にも留めず、静かにカフェを出た。春馬もその冷たい態度を気にせず、後を追っていった。

それを見ていた冬心と樹里、そして愛子は春馬をよく知っていた。だからこそ、彼が本気で先生に惚れて口説いているのを察し、誰も止めようとはしなかった。  

春馬は恋に落ちると相手に一途で、燃えるように情熱を注ぐタイプだった。遊びの軽い関係と、本当の恋人に対する態度をはっきりと分けているのも彼らには分かっていた。  

軽やかなジャズが流れるカフェに残された三人は、一瞬呆然としたものの、やがて気を取り直した。そしてコーヒーを注文するために、カウンターへと足を運んだ。






















 


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