愛って触れないほど遠い…

j.poem

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12話

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スイスでの最後の夜は、どんよりとした気まずさに包まれていた。 それでも、懐の深いジャンは何事もなかったかのように振る舞い、普段通りに冬心に接してくれた。

ドイツへ向かう列車に揺られ、ようやく眠りについたジャンの寝顔を見つめながら、冬心は昨夜の出来事を思い出しては申し訳なさで胸がいっぱいになった。 恋人という間柄でありながら、行為の最中に突然拒絶してしまうなんて、なんてひどいことをしたのだろう。ただ、過去のレイプの記憶が蘇って怖くなっただけで、ジャンを拒んだわけではない。

冬心は、いつか時が来たらすべてを正直に話そうと心に決め、眠るジャンの隣で翻訳の仕事に取り掛かった。

ドイツ、ベルギー、オランダ、デンマークを巡る旅の間、二人はまるで何事もなかったように、笑い合ったり、他愛もない話をしたり、目の前の景色に素直に目を輝かせたりして、充実した日々を過ごした。

旅の締めくくりは、飛行機で向かったローマだ。コロッセオやバチカン美術館を精力的に歩き回り、ホテルへ戻る頃には心地よい疲れに包まれていた。二人はそれぞれの部屋に入り、静かに休むことにした。

自室で翻訳作業に向き合いながらも、冬心の胸にはスイスでのあの夜の記憶が重い鎖のように絡みつき、離れなかった。ーーこのままではいけない。もどかしさに胸を締めつけられる。

夜11時を回った頃、冬心は意を決して隣にあるジャンの部屋のドアをそっとノックした。スマホで友人とLINEをしていたジャンは慌てて立ち上がり、ドアを開けた。そこに立っていたのは、頰を少し赤らめ、恥ずかしそうにはにかむ冬心の姿だった。ジャンは一瞬驚いたものの、すぐに嬉しさが込み上げ、柔らかく微笑んだ。

「……どうぞ、入って」

こじんまりとした部屋だが、ルネサンス様式の古風で洒落たインテリアが、落ち着いた居心地の良さを醸し出していた。ジャンは「何か飲む?」と尋ね、冬心にミネラルウォーターを差し出した。

何から話すべきか戸惑う冬心の様子を察したのだろう。ジャンは、今日訪れたバチカン美術館の話題を先に切り出した。彼は、ミケランジェロの天井画について愉快そうに語り始める。 

「特に『アダムの創造』が印象的だったよ。神とアダムの指先が触れ合うあの瞬間は有名で、映画『E.T.』なんかでもオマージュされているんだ」

静かにジャンの話を聞き入っていた冬心は、ようやく腹をくくって口を開いた。

「ジャン、話がある。あのースイスでの最後の夜、つらい思いをさせてしまってごめんなさい。ジャンのことは大好きだよ。でも、まだ過去のトラウマから離れられないみたい…」

静かに冬心の大きな目を見つめているジャンは優しく頷いた。

「辛かったら、話さなくてもいい。俺、ずっと待たせてもいいんだ。どんなに辛かったか、俺には計り知れない、けど、冬心の記憶が楽しい思い出で上書きされて辛い記憶が這い上がらないように消してあげたい。いつまでも待てるから」

優しい眼差しで見つめてくれるジャンがとても愛おしくて冬心の目尻がうるんと濡れてきた。

「私、高校1年生の頃に、レイプされたことがあるの。学校の先輩だった。普段はいい人だったのに、急に豹変した姿が本当に怖くて……声も出せず、体が凍りついたみたいに動かなくて、ただ泣くことしかできなかった。運よく、オメガの先輩が助けてくれて病院に運ばれたんだけど、それから男性が、特にアルファが怖くなってしまったの。近寄ってくる人はみんな拒絶して、一生恋愛なんてしないと思ってた」

冬心は震える声を絞り出すように続けた。

「でも、ジャンと出会って……自分でも驚くくらい、自然に好きだっていう感情がさざ波みたいに押し寄せてきて……もっとそばにいたいって思った。初めてのキスもすごく甘くて、頭の中でじんじんと電流が走るみたいで……あんな感覚、初めてだった。その日は嬉しくて全然眠れなかった。あの日も、体が熱くなって、もっとジャンのことを知りたいと思った。でも、ジャンがそこに触れた瞬間、あの時の怖い記憶が鮮明に蘇ってきて……思わず、拒絶してしまったの」

ジャンは静かに最後まで聞き終えると、冬心の目を真っ直ぐに見つめて、優しく、でも確かな声で言った。

「大丈夫だよ、冬心。どんなに辛かったんだ……本当に、何もできなくてごめん。何か俺にできることがあったら、全力で尽くしたい。俺は、ずっと一緒にいたい。冬心のそばに、ずっと」

穏やかな微笑みを湛え、口角を柔らかく緩めて話すジャンを見て、冬心の胸はぎゅっと熱く震えた。とうとう目尻から涙がぽつりと零れ落ち、視界を滲ませていく。

ジャンは自らの鼓動が波打つのを感じながら、今にも消えてしまいそうな冬心をそっと抱きしめた。暫くの間、二人は互いの存在を確かめ合うように切実に抱き合っていた。

やがてジャンは、潤んだ瞳で自分を見つめる冬心に誘われるように、その透き通る頬へ両手を添えて、優しく口づけを交わした。

ジャンは、もし世界で唯一無二の極優性オメガである冬心が暴力に晒されていたなら、無期懲役は免れず、世間を大きく騒がせていたはずだと考えた。だが、そんなニュースを耳にしたことは一度もない。絶滅危惧種のオメガは国際オメガ保護法によって厳しく守られている。好奇心よりも怒りが勝り、ジャンは頭をかきながら静かに問いかけた。

「法律で守秘義務があったとしても、大事件になっていたはずだ。加害者はどうなった?刑務所に入ったのか?重罪だろう?」

冬心は小さく頷いて答えた。

「ううん、まだ未成年だったから許すことにしたの。4人ともアメリカに留学したよ」

ジャンは呆れたように顔をしかめ、言葉を吐き出した。

「信じられない、冬心。4人も関わったなんて……くそっ、許せない!」

顔を赤くして憤慨するジャンを見て、冬心は慌てて言った。

「全員に……じゃなかったんだ。最初の人が無理やりに…5分くらいしたところで、女子の先輩が部屋に踏み込んで助けてくれたから。その香織先輩とは今も連絡を取り合っているよ。本当に命の恩人で、素敵な人なんだ」

「……それでも、同意のない行為は犯罪だ。許すべきじゃなかった。今は一般人同士の事件だって厳罰化されているんだぞ。ましてやオメガ相手なら、極刑だってあり得る。俺には到底、理解できない」

ジャンは納得がいかない様子で、吐き捨てるように言った。機嫌を損ねてしまった彼を申し訳なく思った冬心は、一ヶ月に及ぶ入院生活のことを淡々と語り始めた。 加害者たちが渡米する前に揃って謝罪に来たこと、彼らの親たちが献身的に見舞いによく訪れたこと……。

「許すことでしか、私は自分の現実と向き合えなかったんだ。そうしないと、一歩も前に進めない気がして…」

冬心の静かな、けれど悲痛な告白を、ジャンは胸を締め付けられるような思いで聴いていた。そして耐えきれなくなったように、その華奢な身体を強く抱きしめた。

翌朝、二人はジャンのベッドで目を覚ました。昨夜、冬心と抱き合ったまま眠ったジャンは、爽やかな気分で鼻歌を口ずさんでいた。今日はスペイン広場を散策する予定だ。軽くシャワーを浴び、ホテルのレストランで朝食を済ませると、二人は地下鉄へと乗り込んだ。スパーニャ駅で降りると、まずは「舟の噴水」の前で記念写真を一枚。それから有名な大階段を上り、眼下に広がるヨーロッパの古風で美しい街並みを心ゆくまで堪能した。

その後、トレヴィの泉でローマの活気ある風景を楽しんだ二人は、歴史の重みを感じさせる「カフェ・グレコ」へと足を運んだ。ローマ最古と言われるその店内に一歩足を踏み入れると、大理石の丸テーブルや赤いベルベットの椅子、壁に飾られた壮麗な絵画が、格式高い空間を演出している。二人はそこでレモネードやカプチーノ、エスプレッソにティラミスを注文し、至福のひとときを過ごした。

続いて訪れたパンテオンでは、その圧倒的な建築美に言葉を失い、ただただ胸を高鳴らせる。 旅の三日目、二人は列車に揺られてミラノへと移動した。壮大なミラノ大聖堂(ドゥオーモ)を仰ぎ見て、その夜はミラノのホテルに宿を取る。四日目はブレラ絵画館で中世の美術品をじっくりと吟味し、最後はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアで華やかなショッピングを楽しんだ。

こうして、一ヶ月に及ぶ二人の旅は終わりを迎える。8月28日の日曜日。ミラノから飛び立った飛行機の中で、二人は巡った八カ国の思い出を胸に、住み慣れたパリへと帰路についた。

ジャンと別れるのは少し寂しかったが、17区ソレイユ通りの大理石造りのオスマン様式の豪邸が見えてくると、ジェラールやマクソンス、ミレイユ、そして猫たちに会える期待で冬心の胸は高鳴った。ジャンと一緒に家へ入ると、ソフィアさんと夫のジャック、子どもたち、猫たちが温かく迎えてくれた。荷物を運んでくれたジャンは、夕食に誘うソフィアさんの申し出を丁寧に断り、冬心に優しいキスを残して玄関を後にした。

冬心はソフィアさんの家族や使用人たちにお土産を渡し、夕食を楽しんだ。旅の思い出を語り合いながら、短い夏の夜に漂う温もりを分かち合い、親切な家族に囲まれて胸がふわりと満たされた。

食事を終え、3階の部屋でシャワーを浴びた冬心は、久しぶりにジャンダ教授へビデオ通話をかけることにした。最近はラインでやり取りはしていたものの、ビデオ通話は1か月以上していなかった。夕食の席でソフィアさんが「ジャンダ教授は10日間パリに滞在していたけれど、久しぶりに会ったら顔色が悪くて痩せていた」と話していたのが気になったのだ。

夜10時頃なら東京は午後3時のはず。冬心は通話をかけ、しばらく待っても応答がなく焦りながら待ち続けた。やがて、美しいジャンダ教授の姿がモニターに映し出された。

「先生、お久しぶりです。お元気ですか?」

画面越しに、ジャンダ教授がふわりと柔らかな微笑みを湛えて応えた。

「久しぶりだね、冬心。おかげさまで元気だよ。無事に帰ってきてよかった。旅行は楽しかった?」

その笑顔を目にした瞬間、冬心は言いようのない胸騒ぎを覚えた。確かに少し頬がこけて痩せたように見える。だが、努めて明るく振る舞う教授を気遣い、冬心も平静を装って旅の思い出を語り始めた。教授は微笑みながら耳を傾け、冬心が訪れた八か国の穴場について親切に話を広げてくれた。

続いて教授は、星空町のピースタワーマンションへの引っ越しのこと、祖母・知加子が新居をとても気に入っていること、冬心の希望通りに内装が仕上がったこと、健康診断で祖母の体調が良好だったこと、印税による寄付や新しい本の出版など、近況を語った。30分ほど話し込み、冬心は疲色の隠せない教授を慮って通話を終えた。

いつも世話になっている教授の健康が心配で、冬心の胸には不安が残った。ドイツ旅行中、アメリカにいる樹里から「春馬の様子がおかしい」とラインが届いた。夏の訓練で忙しいのは分かっていたが、既読もつかず返信もないのは初めてで、樹里は心配していた。

さらにオランダ旅行の際には、愛子から「春馬が蒸発した」と連絡があった。7月末からまったく繋がらないという。勘の鋭い愛子と樹里は、どうやら教授と関係があるのではないかと口を揃えた。

冬心自身の直感も、これは春馬と教授の間に起きた「色恋沙汰」の類ではないかと告げていた。冬心も旅先から何度も連絡を試みたが、春馬とは一度も繋がらなかったのだ。業を煮やした愛子が日曜の教会のミサで春馬の母親に消息を尋ねたところ、「合宿が忙しくて連絡が取れないらしい」とはぐらかされたという。

何か隠されているのでは、と冬心は思わず考え込む。春馬は欲しいものを手に入れるまで突き進む性格だ。信念を貫く辛抱強さがあり、一目惚れした教授のことを簡単に諦めるはずがない。そう思うと、冬心の胸はざわめき、波立つように熱を帯びた。

9月に入り、2学期が始まると、ピース大学の校庭は柔らかな日差しに包まれ、学生たちで賑わっていた。ジャンダ教授は相手のフェロモンが欠けているせいで悪阻が治まらず、辛うじて教壇に立ち講義を続けていた。8月頃から急激に痩せ、体調を崩している教授の姿を見て、齋藤助教は心配で胸を痛めていた。

昼食の時間も、教授は吐き気に襲われ、何も食べられずに野菜ジュースだけを口にしていた。齋藤助教は病院に行くよう勧めたが、教授は蒼白な顔に微笑みを浮かべ、「胃もたれだ」と言い残してトイレへ向かってしまう。不安に駆られながらも、ただ静かに見守るしかない助教は、切ない思いに胸を締めつけられていた。

博士課程に進んでいる齋藤翼は、ベータでありながら優れた頭脳を持ち、努力を重ねて26歳で博士課程へ進学した。貧しい家庭に育ちながらも、勉強だけが人生を照らす希望だった。経済的な理由で大学院進学をためらっていた時、ジャンダ教授が助教として採用してくれたことで救われた。美しく優しい教授は学生たちの間で人気があり、皆の憧れの存在だった。

6年前にフィアンセを亡くして以来、教授が心から笑う姿を見たことはない。淡い恋心が芽生えたものの、親と同じ年齢であり、道徳心の強い齋藤助教はその想いを抑え、今では深く静かな尊敬の念へと昇華していた。

学校が始まると、春馬選手は毎日のように研究室を訪れ、ジャンダ教授に会いたいと申し出た。しかし教授は強く拒み、研究室に入ることさえ許さなかった。諦めずに通い続ける春馬に対し、教授は学校のオメガハラスメント防止本部へ相談し、春馬が校内で近づけないよう接近禁止命令が下された。その命令を破れば、選手資格を剥奪され、さらに懲役5年の実刑が科される厳しいものだった。

齋藤助教は、体育部の春馬選手と人文学部の教授の間にどんな関係があるのか分からず、疑問を募らせていた。幸いにも接近禁止命令が出てからは、春馬が教授を訪れることはなくなった。

10月、澄み渡る青空に清らかな風が吹き、ピース大学の校庭は朱や緋に染まるノムラモミジの葉で鮮やかに彩られていた。ある日、講義を終えたジャンダ教授は、学会の準備に追われて夜10時まで研究室に残っていた。ようやく身の回りを片付け、帰宅の途につこうとしたものの、酷い悪阻のせいで一日中ジュース以外は口にできておらず、体調は限界に達していた。

齋藤助教と共に人文学部棟を後にすると、夜風が清々しく吹き抜け、澱んでいた気分がわずかに晴れた。齋藤を送り届け、ようやく木槿丘のピースタワーマンションへ辿り着いたジャンダ教授は、速度を落として地下駐車場へと滑り込もうとした。

その時だった。 フロントガラスに大きな影が体当たりするように飛び込んできた。「ドンッ」という鈍い衝撃に、教授は息を呑む。狼狽しながら運転席から飛び出し、倒れ込んだ人影に駆け寄って声をかけようとした。

だが、その人影は瞬時に立ち上がると、教授の腕を力任せに掴んだ。不意を突かれた教授は思わず悲鳴を上げる。相手は春馬だった。彼は夜7時から駐車場の入口で待ち伏せしていたのだ。教授が再び声を上げようとすると、春馬は口を塞ぎ、助手席に座らせ、自ら運転席へ移った。

震える教授は硬直し、言葉も出てこない。春馬は教授の新しい紫パールのメルセデスベンツを指定の駐車スペースへ停めた。教授は7月25日の厄落としを願って、この車を新しく購入していた。

怯える教授を見て、春馬はふっと笑みを浮かべ、優しい声で語りかけた。

「先生、ずっと会いたかった。ちゃんと食事してる?ずいぶん痩せたな」

教授は震える声で叫ぶ。

「来ないで!警察を呼ぶわよ!」

ジャンダ教授は平静を保とうとしたが、震える涙声がそれを裏切っていた。春馬は何も言わずに教授を抱きしめる。久しぶりに鼻をくすぐる春馬の濃密なフェロモンの香りが全身を伝い、むかむかしていた悪阻が次第に和らいでいく。久々に訪れた安定感に、教授は抗うことも忘れ、温かな胸に身を委ねて荒い息をついていた。

妊娠初期のオメガは、パートナーのフェロモンに触れることで安定する必要がある。二か月ぶりに赤子の父である春馬のフェロモンを受け、お腹の子も心地よさを感じ、悪阻も落ち着いていった。しばらく抱き合っていた春馬は、教授から鈴蘭の香りのフェロモンがまったく出ていないことに気づく。

番の解除手術を受ければ、一か月ほどで通常通りフェロモンが戻るはずだ。アルファである春馬の強いフェロモンに反応しないオメガは今までいなかった。通常なら、春馬がフェロモンを放てば、相手のオメガも自然に反応して香りを放つものだ。

しかし、教授からは何の香りもしない。不思議に思った春馬は、教授の首筋に鼻を寄せて確かめたが、ボディソープの爽やかな香り以外は感じられなかった。

春馬はさらに、意図的にフェロモンを大量に放出した。先ほどまで拒絶し、震えていたはずのジャンダ教授は、今や毒気を抜かれたように、春馬が降らせるフェロモンのシャワーを恍惚と浴びている。彼は安らかな表情を浮かべ、春馬の腕の中で静かに身を委ねていた。

春馬はジャンダ教授の美しい顔を見つめながら、ふと学校の保健の授業で聞いた言葉を思い出した。「妊娠したオメガは出産までフェロモンが出なくなる。パートナーのフェロモンに触れなければ、悪阻や食欲不振などの症状が重くなる」ーーその内容が頭をよぎったのだ。

はっとして教授のお腹に手を添えると、華奢な体にわずかな膨らみが感じられた。まだ目立つほどではないが、10月の半ばには大きくなるだろう。胸の奥で熱いものが込み上げ、生唾を飲み込んだ春馬は、教授を抱いたままエレベーターへ向かった。17階のボタンを押す間も、教授は静かに身を委ねていた。

久しぶりに訪れた教授の家は、以前と変わらず清潔で心地よい香りに包まれていた。尻尾を振りながら「にゃん」と鳴いたポールが迎えてくれる。相変わらず可愛い姿に春馬は微笑み、教授をソファへそっと降ろした。美しい顔を撫でながら、抑えきれない想いを胸に秘め、静かにフェロモンを放つ。

その温もりに包まれた教授は、久しぶりに身体が楽になるのを感じ、安らかな微睡みに身を委ねて静かに意識を手放した。

「先生、ここで寝たら風邪をひきますよ。俺が手伝うから、一緒に風呂に入りましょう」

ジャンダ教授は何も言わず、ただうとうととまどろむばかりだった。春馬はそっと服を脱がせ、抱き上げて浴室へ運ぶ。フェロモンに酔った教授は反応が鈍く、されるがまま椅子に座らされた。春馬は泡立てたスポンジで丁寧に身体を洗い、腰まで届く美しいブロンドの髪を優しく流す。歯磨きも手伝い終えると、大きなタオルで全身を拭き、オメガクリームを隅々まで塗り込んだ。髪を乾かし終えた頃には、ようやく寝る支度が整っていた。

春馬はジャンダ教授を寝室のベッドに寝かせてから、そっとリビングルームに出る。ポールはキャットタワーで眠っていた。胸がそわそわして落ち着かなかった春馬は、車から持ってきたジャンダ教授のルイスボトンの茶色の革トートバッグについ出来心で手を入れる。トートバッグの中からは手帳、オメガクリーム、リップクリーム、手鏡、櫛が入ったポーチ、スマホ、初めての育児書、産婦人科薬袋、オメガ妊娠手帳、ハンカチ、消毒用ウェットティッシュが出てきた。

目を大きく開いた春馬は、震える手で妊娠手帳を捲った。

妊娠3週目から赤ちゃんの超音波写真が貼られていた。10週目の写真には、はっきりと小さな姿が映っていて、丸い豆のように愛らしい。思わず春馬の目尻から涙がこぼれ落ちる。これまで味わったことのない喜びが胸に込み上げ、心が震えた。

これまでにも、多くのオメガや女性たちと肌を重ねてきた。けれど、一度として相手を妊娠させたことはなかった。相手が細心の注意を払って避妊薬を飲んでいたこともあるし、春馬自身も必ず避妊具を身に着けていたからだ。しかし、あの7月25日の出来事だけは違った。教授と結ばれたあの日は、一生忘れることのできない、魂に刻まれた記憶だ。

春馬の心に、固い決意が宿った。何があっても、ジャンダ教授とこの子は俺が守り抜く。 教授は今年で50歳。高齢出産には、常に危険がつきまとう。片時もそばを離れず、自分が支え続けなければならない。春馬は静かな闘志を燃やしながら浴室へ向かい、手早くシャワーを浴びてから寝室へと戻った。

ベッドで深く眠るジャンダ教授の姿は、神々しいほどに美しい。春馬は慈しみのフェロモンを放ちながら、その細い身体を壊さないよう、けれど離さないように力強く抱きしめた。

翌朝、驚くほど体が軽く、清々しい気分で目を覚ましたジャンダ教授は、隣で眠る春馬の姿を見つけるなり、思わず悲鳴を上げてしまった。その声にゆっくりと目を開けた春馬は、動じることもなくにこりと微笑む。

「先生、昨夜のこと覚えてる? 先生のためにフェロモンで満たしておいたから。……赤ちゃんも、初めて父親に会えて喜んでるかもしれないね」

春馬の言葉に、教授は言葉を失い、驚きで目を見開いたまま固まってしまった。下着一枚で寝ていた春馬は、そのまま平然と起き上がり、服を着始める。 ふと気づけば、あれほど苦しめられていたお腹の張りやつわりが消え、体調はかつてないほどに安定していた。

ようやく昨夜の記憶が断片的に蘇ってくる。車の中で春馬に抱き上げられ、彼のフェロモンに包まれて深い安らぎを得たことーー。 病院でも「薬よりパートナーのフェロモンの方が効果がある。母子の安定のために、できるだけパートナーのそばにいるように」と強く勧められていた。

赤ちゃんの健康のためには、春馬の存在が必要不可欠なのだ。避けられない現実に直面し、打ちひしがれたような、それでいてどこか救われたような複雑な思いを抱えたまま、教授は何も言わず逃げるようにドレッシングルームへと消えた。

ジャンダ教授は久しぶりに食欲がそそり、キッチンに立てサンドイッチを作り始める。春馬は傍らでポールと戯れながら、その様子を眺めている。トマト、レタス、チキンの胸肉のステーキ、焼き玉ねぎ、目玉焼きをそろえてサンドイッチを作り置き、ケールとバナナと蜂蜜を入れてさっぱりしたケールジュースも作った。朝食が完成し、ジャンダ教授は大理石のテーブルに座る。

何も言わないジャンダ教授だが、サンドイッチもジュースも二人分を作りおき、春馬はジャンダ教授の向かいの椅子に座る。サンドイッチはとても瑞々しく美味しかった。ケールジュースも健康的で甘みもあって美味しい。

満足気にかぶりつく春馬はジャンダ教授の皿には一つのサンドイッチだけなのに、自分の皿にはサンドイッチが3つもあることに気づく。ジュースのコップもジャンダ教授は普通のサイズなのに、自分は超ビッグサイズのグラスにジュースがたっぷり入っていた。

ジャンダ教授の優しい気遣いで、気持ちいい春馬はジャンダ教授と言葉を交わしていないけれど、一般の熟年夫婦のような感じがして、胸がぞくぞくしてこそばゆかった。春馬はジャンダ教授の優美な姿をただただ目に焼き付けていた。

食事を終えた二人は教授の車に乗り込み、ピース大学へと向かった。10分ほどの短いドライブの後、地下駐車場の静寂の中に車が止まると、それまで黙っていた春馬が不意に口を開いた。

「先生。……俺もあの赤ちゃんの父親だし、責任があると思ってる。だから、もし少しでも調子が悪くなったらすぐに連絡して。フェロモンで安静にするのが一番大事だからさ。……俺、嬉しいんだ。赤ちゃん、綺麗な先生に似てくれたらいいな。じゃあね」

春馬は太陽が弾けるような眩しい笑顔を残すと、軽やかな足取りで車を降りていった。

一人残された車内で、ジャンダ教授は自分の体調の変化に気づく。あんなに酷かった腹部の張りも胸のむかつきも、今は嘘のように消え、身体は驚くほど軽い。 だが、春馬のペースに巻き込まれ、彼を必要としてしまっている現状に、教授の心にはふつふつと苛立ちが募る。それでも、妊娠以来まともに食事が喉を通らなかった自分が、今朝のサンドイッチをあんなに美味しく完食できたのは紛れもない事実だった。

赤ちゃんのためにも薬に頼らず、春馬のフェロモンで安定を保つ必要があるーー逃れられない現実を前に、教授の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。しばらくの間、声を殺してすすり泣いていたが、やがてこれが抗いようのない運命なのだと自分に言い聞かせた。教授は深く息を吐き出し、涙を拭うと、トートバッグを手に凛とした表情で運転席から降りた。





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