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13話
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青空が美しい情景を魅せる9月、冬心は大学院へと進学した。
彼の書いた論文は極めて高く評価され、アーラン教授は即座に博士課程への進級を勧めた。しかし、前例のない異例の飛び級であったため、教授陣は慎重に議論を重ねた末、まずは修士課程を修了させるべきだとの結論に至った。
アーラン教授は「時間の無駄だ」と強く主張したが、最終的には「今学期の学習進度を最大限に考慮し、来年には博士課程への編入を認める」という特例を設けることで、教授陣の合意が形成された。
朝晩の冷え込みを感じる10月に入り、冬心は学業と翻訳作業にほとんどの時間を注ぎ込んでいた。エミリは4年生としてインターンシップに追われ、ジャンは来年の大学院入試に向けて奮闘する日々を送っている。そんな忙しい毎日でも、毎週土曜日にジャンと過ごすデートの時間だけは欠かさずに楽しんでいた。
先日、二人で行ったヨーロッパ鉄道旅行の映像をユーチューブに公開すると、瞬く間に大きな反響を呼んだ。ジャンと冬心、二人が「恋人同士」として初めて素顔を公開したからだ。
顔出しを決めた背景には、冬心のもとに届く執拗な勧誘や迷惑メールの存在があった。なかでもイギリスの流星は、LINEで頻繁に連絡を寄せるだけでなく、SNSやユーチューブのコメント欄にまで熱烈なメッセージを書き込み、冬心を困惑させていた。
ただの知人だと思っていた流星からのエスカレートするアプローチに、冬心は一人で抱えきれずジャンに相談した。話を聞いたジャンは、一瞬だけ瞳に陰を宿したが、すぐに穏やかな声でこう告げた。「君を守れるなら、自分をさらけ出すことなんて構わない。恋人が俺だってはっきり示して、余計な虫が寄ってこないようにしよう」
ジャンの深い愛情に触れた冬心は、心の底から満たされるのを感じ、鼻の奥がツンとした。そうして動画の公開に踏み切った結果、ジャンに関する質問が殺到するなど大きな反響が広がった。しかしそれ以上に、二人を応援する温かいコメントが溢れ、ファンの優しさは何よりも心強い支えとなった。
木々が黄色く色づき始め、紅葉の便りが届く10月半ば。冬心のツイッターのフォロワーは1000万人を突破し、ユーチューブの登録者数は2700万人に達した。想像を超える膨大な収益も入り、パリでの税金も増えるほどだった。
冬心の著書『黒と白 noir et blanc』は、8月からアメリカ、カナダ、オーストラリアなど英語圏で発売され、続いて9月から10月にかけてイタリア、スペイン、ドイツでも刊行が始まった。9月末の清算によれば、わずか6か月間で1000万部を突破し、世界新記録を打ち立てた。膨大な印税についてはジャンダ教授と相談のうえ、国境なき医師団と難民救済財団に全額を寄付した。
その後、冬心はしばらくの間、殺到するマスコミの取材依頼を断り、学校の勉強に専念していた。フランスのオメガ保護法は世界でも異例の厳しさを誇り、極優性オメガである冬心に対して勝手に写真を撮ったり、付きまとったりする行為は懲役20年の実刑に処される。そのあまりの重罰ゆえに、遠巻きに熱い視線を送る者は絶えなかったが、平穏を乱すような無礼者が現れることはなかった。
11月のパリは、北風が吹き荒れる本格的な冬の到来を迎えていた。冬心はバーガンディー色のロングダウンを羽織り、冷え込むシャンゼリゼ通りを急ぎ足で進む。 今日は11月25日の金曜日。ジャンの22歳の誕生日だ。授業を終えて駆けつけたものの、予約していた「ローゼホテル」のレストランに到着したのは、予定を15分過ぎた夜7時15分だった。店内に足を踏み入れると、そこには既にジャンが席に着き、手元のスマホを眺めていた。
「遅くなってごめんなさい」
寒さのせいで頬をサクランボ色に染めた冬心が、大きなショッピングバッグを抱えて現れた。それを見たジャンは、顔を輝かせて「大丈夫だよ」と、包み込むような温かい声で応えた。
「お誕生日おめでとう!」
冬心が差し出したバッグを、ジャンは「ありがとう」と微笑んで受け取った。綺麗にラッピングされたセリーヌの箱を開けると、そこには上品なグレーのクルーネックセーターが収まっていた。ーーそれは、今まさに冬心が着ているものと同じ、お揃いのセーターだった。
思いがけないペアの贈り物に、ジャンは胸を熱くし、何度も感謝の言葉を口にする。二人は美味しいディナーと温かな談笑に包まれ、幸せな時間を分かち合ったあと、予約していた4階の部屋へと向かった。
ルイ16世様式の家具に囲まれた、18世紀クラシックスタイルの豪華な空間。まるで魔法にかかったように、絢爛で華やかな雰囲気が極上のひとときを演出していた。二人は眩い湯船に身を沈め、互いの体温や匂い、感触を確かめ合うように触れ合っていた。
ジャンが耳元で囁く甘い言葉と優しい愛撫に、冬心の鼓動は高鳴り、自然と高揚感が広がっていく。夢見心地のまま、熱を帯びた身体を反らしながら、冬心はジャンと深いキスを交わした。
このホテルを予約したとき、冬心は心に誓っていた。ーー8月のスイスで果たせなかった続きを、今度こそジャンの誕生日に実現させたい、と。
「もう、怖くない。ジャンのためなら…」
そう自分を奮い立たせる冬心の背中を、ジャンへの愛しさが力強く押していた。ジャンと一緒にいると、不思議なほど世界が温かく感じられるのだった。
時計が夜10時をまわった頃、ジャンは冬心を横抱きにして浴室を出た。二人は甘い余韻に包まれながら、愛しさに身を委ねてベッドで体を一つに重ね合った。
ほわっとした気持ちでジャンを見上げる冬心。ジャンは短い吐息を漏らしながら、興奮した様子で「愛してる」と囁いた。その瞬間、冬心の涙腺が緩み、視界がじわりと滲む。ぽろぽろと涙が頬を伝い落ちる。嬉しさと幸せで胸がいっぱいになり、冬心はただその温もりに包まれていた。
冬心が震える涙声で「私も愛してる」と囁いた瞬間、ジャンの鼓動は一気に速くなった。彼は冬心の唇から項、そして鎖骨へと、なぞるように熱い舌を這わせていく。薄桃色の蕾に吸いつき、愛おしむように舌先で転がすと、冬心は甘い声を漏らして身をよじった。 絡み合う二人の裸身は、互いの熱に浮かされ、陶酔の極みに達している。
ジャンはそのまま冬心の秘所へと顔を寄せ、濡れた窄まりを優しく、丁寧に愛撫した。両足を大きく広げ、嬌声を上げる冬心。全身を突き抜けるような衝撃にその身を激しく震わせ、彼はそのまま深い悦楽の深淵へと果てていった。
絶頂の余韻に浸る冬心の姿を目の当たりにし、ジャンは溢れんばかりの愛おしさを覚えた。こみ上げる熱い情熱が、彼の胸の奥を深く、激しく焦がしていった。彼は冬心を優しく宥めながら、昂ったペニスをゆっくりと挿入していく。緊張で狭まった内壁は、その質量に合わせるようにじわじわと広げられ、ジャンの脈動に呼応してリズミカルに脈打った。
室内には冬心が放つ濃密な薔薇のフェロモンが立ち込め、それがジャンの興奮をいっそう煽り立てる。冬心はそのあまりに心地よい刺激に、恍惚感に酔いしれながら何度も射精を繰り返した。ジャンは力強く腰を振り、冬心の胎内を突き抉るように深く貫いていく。すると、汗ばんだジャンの体から、次第に森林を思わせるウッディな香りが放たれ始めた。
冬心は恍惚とした陶酔の中にあり、鼻腔をツンと刺激する落ち着いた渋いウッディの香りに包まれて、熱が弾けるように体中へジャンのフェロモンが染み渡る感覚を楽しんでいた。その渋い余韻に浸り、突き上げられる衝撃に身を委ねて揺れていた冬心だったが、突然、予期せぬ突発性発情期が訪れた。
15歳の頃、カナダのスキー場で大怪我をしたのをきっかけに、劣性アルファからベータへと二次性徴が変化して以来、ジャンはずっとベータとして生きてきた。それなのに彼は、自分の中にまだアルファの要素がわずかに残っていることなど、まったく気づいていなかった。
極優性のオメガのフェロモンは非常に強く濃度が高いため、セックス中に相手のフェロモン分泌腺を強く刺激し、普段はほとんど塞がっていた分泌を一気に促してしまうことがある。その結果、ベータとして安定していたはずの相手が、オメガの強烈なフェロモンに触発されて、潜在的に残っていたアルファ性が再び目覚め、本格的にアルファへと二次転換してしまう——そんな非常に稀なケースも、実際に存在する。そして今、冬心の濃密なフェロモンが、ジャンの中で長年眠っていたアルファ性を静かに、しかし確実に呼び覚まし始めていた。
冬心を無茶苦茶に壊したいという野性的な欲情に駆られたジャンは、初めの優しさはどこへやら、本能のまま猛獣の如く、冬心を激しくむさぼり尽くしていく。
とうとう絶頂に至ったジャンは身体を大きく震わせ、大量の精液を冬心の内に注ぎ込んだ。満悦感で意識が混濁していた冬心は絶叫し、その華奢な身体を大きく痙攣させる。荒い息を吐き出すジャンは、涙と汗に濡れ、ぐったりと萎びている冬心の姿を見て、はっと我に返った。
「冬心。愛してる」
ジャンの包み込むような低い声が、冬心の鼓膜に甘く反響する。二人は顔を近寄せ、互いの吐息に触れ合い、吸い込まれるように熱いキスを交わした。
翌朝、早めに目を覚ましたジャンは、冬心の整った寝顔を目に焼き付けるようにじっと見つめ、その華奢な身体を優しく撫でていた。肌に触れる心地よさに目を覚ました冬心は、穏やかな眼差しでジャンを見つめ返す。すると、ジャンは爽やかな笑顔を浮かべ、「おはよう。朝セックスしたいな」と甘えるように言い出した。
初めての情事の直後で身体には疲れが残っていた冬心だったが、あどけない笑顔でねだるジャンが子犬のように可愛らしく、ついふわりと頷いてしまう。春の陽だまりのような温かさを纏ったジャンは、ぱあっと顔を輝かせて冬心に抱きついた。
二人は朝食のこともすっかり忘れ、正午にホテルのフロントから退室確認の電話が鳴り響くまで、燃え上がるような情愛のなかに遊び耽った。
11月の初め、北風に乗って寒さが一段と深まったピース大学は、ジャンダ教授にまつわる噂で持ちきりだった。10月中旬から妊婦用のワンピースを着るようになったジャンダ教授の姿を見て、学生も職員も、そして同僚の教授たちも皆、目を丸くしては案じるように囁き合っていた。未婚で番もいない高齢のオメガがどうやって出産するのかーー好奇心よりも健康を気遣う声が多かった。
齋藤助教は、8月から続いていたジャンダ教授の体調不良が妊娠によるものだと気づき、教授を気の毒に思って、より慎重に気を配るようになった。一方、春馬は12月の全日本アイスホッケー選手権大会に向けて多忙を極め、宿舎で寝泊まりしながら、自由な時間もなく猛練習に励んでいた。
でも、どうしてもジャンダ教授に会いたい春馬は、とうとう外出禁止のルールを破り、独断で宿舎を抜け出して教授の家へと向かった。しかし、いくら会いたいとコンシェルジュを通して懇願しても、ジャンダ教授は応じてくれなかった。会いたくて胸が苦しく、どうしようもない気持ちを辛うじて落ち着かせ、春馬は宿舎へ戻るしかなかった。
11月25日、金曜日の東京は小春日和の穏やかな日差しが眩しい一日だった。夜8時を回った頃、ジャンダ教授は重くなったお腹を抱えながら地下駐車場へと足を運ぶ。校内でさまざまな噂が飛び交っていることは自覚していた。しかし、希少なオメガの妊娠と出産は国を挙げて手厚い支援の対象となるため、周囲の助けもあって出産の準備は順調に進んでいた。
一般のベータの女性は妊娠37週目からが正期産とされるが、形質者は特殊な身体構造を持つため、女性オメガは28週、男性オメガは23週が正期産と定められている。そのため、ジャンダ教授の出産予定日は12月31日か1月1日のあたりだと診断されていた。
お腹が大きく膨らんだ今、彼女はついにパリの家族へ妊娠の事実をありのままに打ち明けた。すると、心配した情の厚い母アンナと妹のソフィアが、12月頃に東京へ向かい、身の回りの世話をしたいと申し出てくれた。
一方、一人で悩み続けていた春馬は、11月に入っていっそう厳しさを増した訓練に追われ、自由な時間も取れないまま気が滅入っていた。母の桂子に助けを求めたい一心で、彼はついにジャンダ教授の妊娠を打ち明ける。母の桂子はひどく驚いたものの、初孫に会える喜びが勝り、「嬉しいわ」と声を弾ませた。
桂子は「教授を助けるために力を尽くすから、心配しないで訓練に集中しなさい」と、切々と、それでいて力強く春馬を励ました。その晩、春馬の実家では、父のマイクと母の桂子がそわそわと落ち着かない様子で、一人息子である春馬のため、そしてジャンダ教授の妊娠について夜遅くまで話し合っていた。
春馬の母、桂子は悩み抜いた末、ついにピース大学へと足を踏み入れた。彼女はひとつ深呼吸をすると、人文学部棟の3階にあるジャンダ教授の研究室のドアをノックする。すると中から、厚い眼鏡をかけた、体格の良い精悍な男が出てきた。
彼は目の前に立つ女性が有名な書道家、山田桂子だと気づくと、驚きのあまり目をぱちくりとさせた。齋藤助教は無類の書道好きで、中学から大学まで書道部に所属していたほどだ。今年の1月に開催された個展にも足を運んだほどの大ファンだったのである。44歳になってもなお、気力に満ち溢れ、粋で迫力のある彼女の書体を彼は心から敬愛していた。
はっと我に返った齋藤助教は、丁寧な口調で「ジャンダ教授はただいま席を外しております。中で少々お待ちください」と案内した。憧れの書道家を前にした高揚感から、訪問の理由を尋ねることさえ忘れ、彼女を研究室へと招き入れてしまったのだ。齋藤助教は礼儀正しく飲み物の希望を伺い、温かいお茶を出してもてなした。それから少し後で、大きなお腹を抱えたジャンダ教授が研究室に戻ってきた。
桂子は思わず立ち上がり、ジャンダ教授の大きなお腹を見つめた。相変わらず美しく若々しい彼は、以前より痩せてはいたが、その分だけ突き出たお腹の重みが痛々しいほどに伝わってくる。
一人息子が惚れ込み、猛進し、盲愛してやまない稀少な男性オメガ。その並外れた美貌に目を奪われ、思わず生唾を呑み込んだ桂子だったが、すぐにはっと我に返った。
驚きと戸惑いを隠せない様子のジャンダ教授を察し、桂子は改めて柔らかな微笑みを浮かべ、先に挨拶を述べた。対するジャンダ教授も、どこか淡々とした語気で静かに挨拶を返した。
桂子はあらかじめ用意していた通り、話を切り出した。おっとりとした柔らかな口調ながら、どこか痛切な響きを込めて、彼女はジャンダ教授にこう告げた。
「春馬との結婚を、ぜひ考えてほしいんです」
あまりに唐突で慮外な話に、ジャンダ教授の胸に漠然とした不安がよぎった。言葉がうまく出てこず、呂律が回らなくなってしまう。ぽかんとした教授の様子を見て取った桂子は、もう一度、芯の通った声音で念を押した。
「赤ちゃんの幸せのためにも……春馬と結婚してほしいんです」
桂子にとって、自分より6歳も年上の「お嫁さん」など、想像したこともなかった。優性アルファらしい春馬の、セックスに対する強い嗜好はよく知っていた。これまで息子は自由奔放に恋愛を謳歌してきたが、どこか計画性と将来を見据えた行動を取っていたため、誰かを妊娠させたことは一度もなかった。だからこそ、息子を信じ、その奔放な性生活に一切口を出さなかったのだ。
ところが、この絶世の美貌を持つオメガ・ジャンダ教授には、確実に男を虜にする魔性があった。春馬は社会的に排除される危険を冒してまで、ついにはレイプにまで手を染めてしまった。気が狂ったようにエスカレートしていく息子の無鉄砲な行動に、桂子は恐怖心すら覚えていた。
でも、春馬の幸せと孫の将来のためなら、年上の嫁であっても心から歓迎したいーーそれが桂子の偽らざる心境だった。しばらくの間、二人の間には重い沈黙が流れ、ジャンダ教授はただ静かに視線を落としていた。何も言わず座り続ける彼の体調を気遣い、察しのいい桂子はすっと腰を上げる。
「すぐに返事をしなくて構いません。ゆっくりと考えてみてください」
そう言い残すと、桂子は丁寧にお辞儀をして研究室を後にした。
隣の机で会話を偶然耳にした齋藤助教は、赤ちゃんの父親が春馬選手だと知り、衝撃を受けた。だが同時に、なぜ春馬が必死に研究室へ訪れてきたのか、その理由に合点がいった。義理堅い齋藤助教は、尊敬するジャンダ教授のために、この秘密は決して口外せず墓場まで持っていこうと心に誓った。
ジャンダ教授はしばらく座ったまま動けずにいた。やがて思いが整理できたかのように、ゆっくりと立ち上がり、机上に置かれたパイロット制服姿のポールの写真を見つめて、涙をこぼした。傍で見ていた齋藤助教はひどく動揺したが、教授の涙の理由を察し、胸が裂けるような悲痛を抱えながら、そっとひそかに研究室を出て行った。
厳しい寒波に見舞われ、寒い日々が続く12月上旬。パリからジャンダ教授の母アンナと妹ソフィアが来日した。母アンナは劣性オメガであり、三度の出産経験があるため、手際よく世話をしてくれた。出産予定日が近づくにつれ、ジャンダ教授は足がむくみ、歩くのも大変そうになっていた。
母アンナと妹ソフィアは、妊娠に至った経緯や、相手側の家族から結婚の申し出があったことなど、重い事実を打ち明けられて涙を流した。ジャンダ教授は、今なおポールを深く愛し続けている。母も妹も、7年という歳月を共に歩んだポールとジャンダの熱愛が、いかに尊いものであったかを痛いほど理解していた。
ジャンダ教授より5歳年下のポールは、かつて番を飛行機事故で失い、長い間誰とも付き合わずに悲しみに暮れていた。ジャンダ教授とポールは共通の友人の結婚式で出会い、友人として交流を重ねるうちに、徐々に愛情を育んでいった。しかし、亡くなった番のことが心に影を落とし、ポールはジャンダ教授との番の契約をためらっていた。
ポールの前の番は、同じパイロットで極劣性のオメガだった。二人は交際わずか2ヶ月で番の契約を交わし、結婚式も挙げた。しかし、結婚からほんの3ヶ月後に凄惨な事故が起きた。その番が操縦する飛行機が、アメリカからシンガポールへ向かう途中で巨大な乱気流に巻き込まれ、フィリピン海へと墜落したのだ。パイロット、乗務員、そして乗客までもが命を落とす、あまりにも悲惨な事故だった。それは、ポールがまだ27歳という若さだった頃の出来事である。
番が死別すれば、生物学的な番の契約は自然に解消されるメカニズムになっている。しかし、心にぽっかりと空いた巨大な穴は埋まらず、ポールはジャンダ教授に出会うまで、深い喪失感から誰も愛することができずにいた。
一方、類まれな美貌と慈愛に満ちた包容力を備えたジャンダ教授は、常に恋人が途切れることのない人気者だった。ポールと出会ったのは、ちょうど元の恋人と別れた直後のタイミングであり、教授は自然と彼に惹かれていった。そして二人は、着実に熱烈な愛を育んでいったのである。
アンナは、ポールの死後に誰とも付き合わず、どこか抜け殻のように6年間も独身を貫くジャンダの姿を見て、息子がどれほどポールを愛していたのかを痛切に実感した。案の定、ジャンダは春馬やその家族からの結婚の申し出を、頑なに拒み続けていた。
アンナはジャンダを気の毒に思い、生まれてくる孫を全身全霊で支える決意を固めた。たとえ凄惨な事件によって授かった命であっても、半分はローゼの血を引く尊い命。すべてを受け入れる覚悟を決めたアンナは、パリにいる夫へ妊娠の真相を伝えた。
大手ローゼ・グループの会長であるルイ・ローゼは、ジャンダ教授の父親であり、フランス国内でも著名な優性アルファのセレブだ。若かりし頃は外交官として世界を股にかけ活躍していたが、妻の父である先代会長の急逝を機にパリへ帰還。養子縁組を経て婿養子として家業を継いだ。現在は実業家の傍ら、社会党の国会議員としてもその名を馳せている。
そのルイ・ローゼの手元には、すでに探偵から届いた春馬・パンサーの身辺調査報告書があった。弱冠20歳のピース大学生であり、アイスホッケーの日本代表選手。裕福な家庭に育ち、日本人の母は著名な書道家、ベルギー人の父は名高い現役のプロゴルファーであるーー。
父方の祖父はベルギー人で、ベルギー王立大学医学部の教授を務めていたが、3年前、胃癌によりこの世を去っている。祖母はフランスの国民的歌手、イザベル・マルソーだ。70歳を迎えた今なお、数々の名曲を世に送り出し、権威ある賞を総なめにしてきた彼女の歌声は、今も人々を魅了し続ける芸能界の巨匠である。
一方、母方の祖父は人々に尊敬される書道家、祖母は高名な古典舞踊家であったが、4年前、ティレニア海でのクルーズ船座礁事故に巻き込まれ、共に帰らぬ人となった。
春馬・パンサーの氏素性は、一分の隙もなく申し分ない。しかし、それだけに「レイプ」という事実がルイの神経を逆撫でする。次男のジャンダは、生まれた時からその絶世の美貌で周囲の視線を独占してきた。外交官という父の仕事柄、世界各地を転々とする日々だったが、ジャンダの傍らには、常に彼を慕う恋人の姿があったのだ。
融通無碍な恋愛観を持つルイは、恋多きジャンダを自由に育ててきた。それは、心優しい息子を心底から信頼していたからに他ならない。これまで数々のアルファと浮名を流してきたジャンダだったが、妊娠は今回が初めてだった。
妊娠の真相を伏せ続ける次男を案じ、あらゆる手を尽くして調査させた結果、ルイはついに「レイプ」という事実に辿り着く。込み上げる憤怒を必死に抑え込み、彼は息子の口から真実が語られるのをじっと待ち続けた。
春馬・パンサーを法的に訴えることも可能だったが、ジャンダは生まれてくる赤ちゃんの将来を案じ、父親である春馬の起訴だけはしないでほしいと切に願った。ルイは、爆発しそうな怒りを辛うじて胸の奥へ押し込み、愛する息子の意志を受け入れるしかなかった。
春馬は全日本アイスホッケー選手権大会で優勝し、ようやく自由な時間を得た。毎夜ジャンダ教授のマンションに姿を見せていたが、教授の態度は容赦なく冷たかった。
12月17日、土曜日。ピース大学は長い冬休みに入ったばかりだった。冬休み初めの土曜日で時間に余裕のあった春馬は、相変わらず教授の姿を追いたくて、冷たい北風が吹きすさぶ朝8時からマンションの入り口で待ち続けていた。
木槿丘のピース高層タワーマンションのコンシェルジュは、いつも入り口で春馬が待っているのを見かけ、不思議に思っていた。昼食を済ませて戻った午後1時、まだ外に立ち尽くしている春馬の姿を見て、寒さに耐える彼が気の毒になり、思わず声をかけた。
「寒いでしょう。よければラウンジの中で待っていてもいいですよ」
春馬は朗らかに「ありがとうございます!」と答え、深々とお辞儀をした。
マンションのラウンジは温かく、穏やかな音楽が流れていて居心地がよかった。午後2時を過ぎ、小腹が空いた春馬が鞄から栄養ドリンクを取り出して一気に飲み干した、その時だ。奥のエレベーターの扉が開き、背の高いブロンドヘアの美女が三人、連れ立って現れた。その中心には、ひときわ際立つ美貌を放つジャンダ教授の姿があった。
喜びが溢れた春馬は、弾かれたように駆け寄り、ジャンダ教授の視線を捉えた。不意を突かれた教授は、嫌な胸騒ぎに一瞬で表情を凍らせたが、見て見ぬふりをしてそのまま通り過ぎようとする。しかし、勘の鋭い母アンナは、目の前の青年を一目見ただけで、彼こそが赤ちゃんの父親であるアルファだと直感した。
臨月を迎え、大きく膨らんだお腹を抱えたジャンダ教授は、足の浮腫みのせいで思うように歩くことができない。アンナとソフィアに支えられながら、一歩一歩が辛そうな彼女の姿を目の当たりにした春馬は、衝動を抑えきれず、強引にその腕を引いて教授を抱きしめた。
あまりの出来事に、ジャンダ教授は「嫌!」と悲鳴を上げた。隣にいたアンナとソフィアも、突然の暴挙に激しく動揺し、震える声で「やめなさい!」と日本語で春馬を必死に宥めた。
ジャンダ教授の悲鳴を聞いたコンシェルジュは驚いて駆け寄り、事情を尋ねた。春馬は何も答えず、教授を横抱きにして担ぎ上げた。
弱々しいアンナとソフィア、そしてコンシェルジュは途方に暮れ、巨躯の春馬を説得するほか術がなかった。
震える声で教授はコンシェルジュに警察を呼ぶよう懇願した。しかし春馬は、アンナとソフィアの必死の忠告を意に介さず、すたすたと歩いてエントランスの外へ出ていった。
その時、アンナは生まれてくる孫のことを思い、コンシェルジュへ「警察だけは呼ばないでください」と切実な声で懇願した。いつか成長した孫が、ニュースや新聞を通じて「自分の父親が母親を強いた末に授かった命だ」という残酷な真実を知ることになったらーーその絶望を想像し、彼は背筋が凍る思いがしたのだ。コンシェルジュも、これは単なる事件ではなく複雑な痴情のもつれであると察知し、通報を思いとどまった。
暴れ疲れた北風がふと凪ぎ、ジャンダ教授の長いブロンドの髪をなびかせて、蒼白な彼女の頬を冷やした。アンナは早歩きで春馬に歩み寄ると、「ジャンダの足はむくんで痛むのです。血行を促すためにも、少し歩かせてください」と優しく頼んだ。
流暢な日本語を話すアンナを見て、春馬はすぐに彼が教授の母親だと悟った。この国では珍しい、凛とした美しさを持つ男性のオメガ。ジャンダ教授のあの類まれなる美貌は、間違いなく母親譲りなのだと感じた。
春馬は、促されるままジャンダ教授を地面に優しく降ろした。教授はアンナとソフィアの手を借りて支えられながら、マンションの隣にある公園へとゆっくり歩を進める。春馬は何も言わず、ただ教授の後ろを静かについていった。
見上げれば、冬の澄み渡った青空から日差しが燦々と降り注ぐ穏やかな小春日和。公園内は、そんな陽気に誘い出された子連れの若い母親たちで賑わっていた。
テレビで見慣れた春馬選手を見て、若い母親たちは笑顔で「日本選手権の試合、とても素晴らしかったです!」と口々に称賛した。春馬も気前よく「ありがとうございます」と答え、丁寧に礼を述べた。
一方、ジャンダ教授は、そんな春馬の存在が癪に障って仕方がなかったが、赤ちゃんの健康を第一に考え、重い体を引きずるようにして公園内をよろよろと歩き回った。冷たくも新鮮な風が心地よく、澄み渡った空気は美味しく感じられた。春馬は、アンナとソフィアに両手を支えられながらゆっくり歩く教授の姿を、黙ってじっと見つめていた。
若い母親たちは、美しい外国人の三人に目を奪われたが、その中でもひときわ目立つ絶世の美貌を持つ妊婦ーージャンダ教授に視線を注いでいた。そんな中、一人の子供がジャンダ教授のもとへ駆け寄り、「綺麗なお姉ちゃん、お腹を触ってみてもいい?」と無邪気に声をかけた。4、5歳ほどのその男の子は、天使のように愛らしく、ジャンダ教授は思わず「いいですよ」と優しく微笑んだ。
教授は男の子が触れやすいように、薔薇色のロングコートの前を開き、大きく膨らんだお腹を差し出した。男の子が嬉しそうに撫で始めると、それを見た他の子供たちも「僕も!」「私も!」と口々に言いながら集まってくる。ジャンダ教授のことを、てっきり美しい女性だと思い込んだ母親たちも輪に加わり、次々と質問を投げかけ、そこには穏やかな談笑の花が咲いた。
しばらく様子を見守っていた春馬は、ジャンダ教授に疲れの色が見え始めたのを察し、「そろそろ帰る時間だ」と告げて教授を人だかりから連れ出した。周囲の人々は、時の人である春馬選手と、あまりに優美なジャンダ教授の姿を交互に見つめている。
そんな中、無垢な子供たちが「お姉ちゃんの旦那様なの?」と問いかけた。その言葉に春馬は上機嫌になり、「そうだよ、俺の奥さんなんだ」と快活に言い残すと、ジャンダ教授の手を取ってゆっくりと歩き出した。
周囲から注がれる好奇の混じった視線を意識したジャンダ教授は、ここで騒ぎを大きくすることを恐れ、握られた春馬の大きな手を振り払うことができなかった。
一方、アンナはジャンダより30歳も年下の、若い春馬の姿をじっと見つめていた。その真っ直ぐな瞳から、彼が本気で息子を愛していることを確信し、心の奥底でそっと安堵の息をもらした。
急激な疲労に襲われたジャンダ教授が、よろめいて倒れそうになった瞬間、類まれな運動神経を持つ春馬が反射的に彼を抱きとめ、軽々と横抱きにした。その様子を見ていたアンナとソフィアは、不安に胸を締め付けられながらも、いざという時にジャンダを支えてくれる春馬がそばにいてくれたことに、密かな安心感を覚えずにはいられなかった。
家に戻ると、ジャンダ教授は手を洗い、水分を補給してすぐにベッドへと潜り込んだ。心身ともに疲れ果てていた彼は、春馬のことなど気にかける余裕もなかった。ただひどい眩暈に耐えながら、今は一刻も早く体を休めたい一心だった。
春馬はジャンダ教授の家まで入り込み、ベッドで目を閉じて微睡む教授を見つめながら、多量のフェロモンを放っていた。何か自分にできることがあれば何でもしてあげたいーーそんな切実な想いが、溢れ出るフェロモンとなって教授を包み込んでいく。
それを見ていたアンナは、懐妊中のオメガにとって、番やパートナーが放つ「フェロモンのシャワー」がいかなる薬よりも心身を安定させることを知っていた。だからこそ、彼は春馬を追い出すことはせず、そのまま家に留まらせることにしたのである。
夕食の準備をしながら、ソフィアは自分の中に芽生えた奇妙な感情に気づき始めていた。あれほど憎んでいたはずの春馬に対し、なぜか嫌悪しきれない自分がいるのだ。
ジャンダから初めて妊娠の真相を聞いたときには、憎しみと鬱屈で胸が張り裂けそうだったのに、実際に会った春馬は、愛に焦がれる悲しみを湛えた瞳で、優しい眼差しを向けながらずっとジャンダを追っていた。
30歳もの年の差には驚いたが、若々しく見えるジャンダと、年齢以上に大人びて見える春馬は、不思議と釣り合っているように思えた。
春馬が寝室でずっとジャンダ教授を見守っていると、アンナが静かに入ってきて夕食を勧めた。アンナは眠っているジャンダ教授を優しく起こし、少しでも野菜スープを口にするよう声をかける。
春馬のフェロモンに酔って朦朧としていた教授は、眩暈が収まり体も軽くなったように感じ、急激な空腹感を覚えて「お腹が減ったわ」とこぼした。ずっと食欲不振が続いていた息子が自ら食事を欲したことに、アンナは顔を輝かせた。
「今日はカレーライスがあるから、たくさん食べましょう」と、アンナは明るい声を弾ませた。
四人は食卓を囲み、野菜チキンカレーに野菜スープ、そして和風サラダを静かに食べ進めた。ジャンダ教授が美味しそうに頬張る愛らしい姿を、春馬は満足げに見つめていた。その光景を目の当たりにできる喜びを噛み締めながら、彼は幸せな気持ちで自分のカレーライスを平らげた。
アンナとソフィアも、これまでの食欲不振が嘘のように健筆を振るうジャンダの姿を見て、ほっとして自然と口元を綻ばせていた。
彼の書いた論文は極めて高く評価され、アーラン教授は即座に博士課程への進級を勧めた。しかし、前例のない異例の飛び級であったため、教授陣は慎重に議論を重ねた末、まずは修士課程を修了させるべきだとの結論に至った。
アーラン教授は「時間の無駄だ」と強く主張したが、最終的には「今学期の学習進度を最大限に考慮し、来年には博士課程への編入を認める」という特例を設けることで、教授陣の合意が形成された。
朝晩の冷え込みを感じる10月に入り、冬心は学業と翻訳作業にほとんどの時間を注ぎ込んでいた。エミリは4年生としてインターンシップに追われ、ジャンは来年の大学院入試に向けて奮闘する日々を送っている。そんな忙しい毎日でも、毎週土曜日にジャンと過ごすデートの時間だけは欠かさずに楽しんでいた。
先日、二人で行ったヨーロッパ鉄道旅行の映像をユーチューブに公開すると、瞬く間に大きな反響を呼んだ。ジャンと冬心、二人が「恋人同士」として初めて素顔を公開したからだ。
顔出しを決めた背景には、冬心のもとに届く執拗な勧誘や迷惑メールの存在があった。なかでもイギリスの流星は、LINEで頻繁に連絡を寄せるだけでなく、SNSやユーチューブのコメント欄にまで熱烈なメッセージを書き込み、冬心を困惑させていた。
ただの知人だと思っていた流星からのエスカレートするアプローチに、冬心は一人で抱えきれずジャンに相談した。話を聞いたジャンは、一瞬だけ瞳に陰を宿したが、すぐに穏やかな声でこう告げた。「君を守れるなら、自分をさらけ出すことなんて構わない。恋人が俺だってはっきり示して、余計な虫が寄ってこないようにしよう」
ジャンの深い愛情に触れた冬心は、心の底から満たされるのを感じ、鼻の奥がツンとした。そうして動画の公開に踏み切った結果、ジャンに関する質問が殺到するなど大きな反響が広がった。しかしそれ以上に、二人を応援する温かいコメントが溢れ、ファンの優しさは何よりも心強い支えとなった。
木々が黄色く色づき始め、紅葉の便りが届く10月半ば。冬心のツイッターのフォロワーは1000万人を突破し、ユーチューブの登録者数は2700万人に達した。想像を超える膨大な収益も入り、パリでの税金も増えるほどだった。
冬心の著書『黒と白 noir et blanc』は、8月からアメリカ、カナダ、オーストラリアなど英語圏で発売され、続いて9月から10月にかけてイタリア、スペイン、ドイツでも刊行が始まった。9月末の清算によれば、わずか6か月間で1000万部を突破し、世界新記録を打ち立てた。膨大な印税についてはジャンダ教授と相談のうえ、国境なき医師団と難民救済財団に全額を寄付した。
その後、冬心はしばらくの間、殺到するマスコミの取材依頼を断り、学校の勉強に専念していた。フランスのオメガ保護法は世界でも異例の厳しさを誇り、極優性オメガである冬心に対して勝手に写真を撮ったり、付きまとったりする行為は懲役20年の実刑に処される。そのあまりの重罰ゆえに、遠巻きに熱い視線を送る者は絶えなかったが、平穏を乱すような無礼者が現れることはなかった。
11月のパリは、北風が吹き荒れる本格的な冬の到来を迎えていた。冬心はバーガンディー色のロングダウンを羽織り、冷え込むシャンゼリゼ通りを急ぎ足で進む。 今日は11月25日の金曜日。ジャンの22歳の誕生日だ。授業を終えて駆けつけたものの、予約していた「ローゼホテル」のレストランに到着したのは、予定を15分過ぎた夜7時15分だった。店内に足を踏み入れると、そこには既にジャンが席に着き、手元のスマホを眺めていた。
「遅くなってごめんなさい」
寒さのせいで頬をサクランボ色に染めた冬心が、大きなショッピングバッグを抱えて現れた。それを見たジャンは、顔を輝かせて「大丈夫だよ」と、包み込むような温かい声で応えた。
「お誕生日おめでとう!」
冬心が差し出したバッグを、ジャンは「ありがとう」と微笑んで受け取った。綺麗にラッピングされたセリーヌの箱を開けると、そこには上品なグレーのクルーネックセーターが収まっていた。ーーそれは、今まさに冬心が着ているものと同じ、お揃いのセーターだった。
思いがけないペアの贈り物に、ジャンは胸を熱くし、何度も感謝の言葉を口にする。二人は美味しいディナーと温かな談笑に包まれ、幸せな時間を分かち合ったあと、予約していた4階の部屋へと向かった。
ルイ16世様式の家具に囲まれた、18世紀クラシックスタイルの豪華な空間。まるで魔法にかかったように、絢爛で華やかな雰囲気が極上のひとときを演出していた。二人は眩い湯船に身を沈め、互いの体温や匂い、感触を確かめ合うように触れ合っていた。
ジャンが耳元で囁く甘い言葉と優しい愛撫に、冬心の鼓動は高鳴り、自然と高揚感が広がっていく。夢見心地のまま、熱を帯びた身体を反らしながら、冬心はジャンと深いキスを交わした。
このホテルを予約したとき、冬心は心に誓っていた。ーー8月のスイスで果たせなかった続きを、今度こそジャンの誕生日に実現させたい、と。
「もう、怖くない。ジャンのためなら…」
そう自分を奮い立たせる冬心の背中を、ジャンへの愛しさが力強く押していた。ジャンと一緒にいると、不思議なほど世界が温かく感じられるのだった。
時計が夜10時をまわった頃、ジャンは冬心を横抱きにして浴室を出た。二人は甘い余韻に包まれながら、愛しさに身を委ねてベッドで体を一つに重ね合った。
ほわっとした気持ちでジャンを見上げる冬心。ジャンは短い吐息を漏らしながら、興奮した様子で「愛してる」と囁いた。その瞬間、冬心の涙腺が緩み、視界がじわりと滲む。ぽろぽろと涙が頬を伝い落ちる。嬉しさと幸せで胸がいっぱいになり、冬心はただその温もりに包まれていた。
冬心が震える涙声で「私も愛してる」と囁いた瞬間、ジャンの鼓動は一気に速くなった。彼は冬心の唇から項、そして鎖骨へと、なぞるように熱い舌を這わせていく。薄桃色の蕾に吸いつき、愛おしむように舌先で転がすと、冬心は甘い声を漏らして身をよじった。 絡み合う二人の裸身は、互いの熱に浮かされ、陶酔の極みに達している。
ジャンはそのまま冬心の秘所へと顔を寄せ、濡れた窄まりを優しく、丁寧に愛撫した。両足を大きく広げ、嬌声を上げる冬心。全身を突き抜けるような衝撃にその身を激しく震わせ、彼はそのまま深い悦楽の深淵へと果てていった。
絶頂の余韻に浸る冬心の姿を目の当たりにし、ジャンは溢れんばかりの愛おしさを覚えた。こみ上げる熱い情熱が、彼の胸の奥を深く、激しく焦がしていった。彼は冬心を優しく宥めながら、昂ったペニスをゆっくりと挿入していく。緊張で狭まった内壁は、その質量に合わせるようにじわじわと広げられ、ジャンの脈動に呼応してリズミカルに脈打った。
室内には冬心が放つ濃密な薔薇のフェロモンが立ち込め、それがジャンの興奮をいっそう煽り立てる。冬心はそのあまりに心地よい刺激に、恍惚感に酔いしれながら何度も射精を繰り返した。ジャンは力強く腰を振り、冬心の胎内を突き抉るように深く貫いていく。すると、汗ばんだジャンの体から、次第に森林を思わせるウッディな香りが放たれ始めた。
冬心は恍惚とした陶酔の中にあり、鼻腔をツンと刺激する落ち着いた渋いウッディの香りに包まれて、熱が弾けるように体中へジャンのフェロモンが染み渡る感覚を楽しんでいた。その渋い余韻に浸り、突き上げられる衝撃に身を委ねて揺れていた冬心だったが、突然、予期せぬ突発性発情期が訪れた。
15歳の頃、カナダのスキー場で大怪我をしたのをきっかけに、劣性アルファからベータへと二次性徴が変化して以来、ジャンはずっとベータとして生きてきた。それなのに彼は、自分の中にまだアルファの要素がわずかに残っていることなど、まったく気づいていなかった。
極優性のオメガのフェロモンは非常に強く濃度が高いため、セックス中に相手のフェロモン分泌腺を強く刺激し、普段はほとんど塞がっていた分泌を一気に促してしまうことがある。その結果、ベータとして安定していたはずの相手が、オメガの強烈なフェロモンに触発されて、潜在的に残っていたアルファ性が再び目覚め、本格的にアルファへと二次転換してしまう——そんな非常に稀なケースも、実際に存在する。そして今、冬心の濃密なフェロモンが、ジャンの中で長年眠っていたアルファ性を静かに、しかし確実に呼び覚まし始めていた。
冬心を無茶苦茶に壊したいという野性的な欲情に駆られたジャンは、初めの優しさはどこへやら、本能のまま猛獣の如く、冬心を激しくむさぼり尽くしていく。
とうとう絶頂に至ったジャンは身体を大きく震わせ、大量の精液を冬心の内に注ぎ込んだ。満悦感で意識が混濁していた冬心は絶叫し、その華奢な身体を大きく痙攣させる。荒い息を吐き出すジャンは、涙と汗に濡れ、ぐったりと萎びている冬心の姿を見て、はっと我に返った。
「冬心。愛してる」
ジャンの包み込むような低い声が、冬心の鼓膜に甘く反響する。二人は顔を近寄せ、互いの吐息に触れ合い、吸い込まれるように熱いキスを交わした。
翌朝、早めに目を覚ましたジャンは、冬心の整った寝顔を目に焼き付けるようにじっと見つめ、その華奢な身体を優しく撫でていた。肌に触れる心地よさに目を覚ました冬心は、穏やかな眼差しでジャンを見つめ返す。すると、ジャンは爽やかな笑顔を浮かべ、「おはよう。朝セックスしたいな」と甘えるように言い出した。
初めての情事の直後で身体には疲れが残っていた冬心だったが、あどけない笑顔でねだるジャンが子犬のように可愛らしく、ついふわりと頷いてしまう。春の陽だまりのような温かさを纏ったジャンは、ぱあっと顔を輝かせて冬心に抱きついた。
二人は朝食のこともすっかり忘れ、正午にホテルのフロントから退室確認の電話が鳴り響くまで、燃え上がるような情愛のなかに遊び耽った。
11月の初め、北風に乗って寒さが一段と深まったピース大学は、ジャンダ教授にまつわる噂で持ちきりだった。10月中旬から妊婦用のワンピースを着るようになったジャンダ教授の姿を見て、学生も職員も、そして同僚の教授たちも皆、目を丸くしては案じるように囁き合っていた。未婚で番もいない高齢のオメガがどうやって出産するのかーー好奇心よりも健康を気遣う声が多かった。
齋藤助教は、8月から続いていたジャンダ教授の体調不良が妊娠によるものだと気づき、教授を気の毒に思って、より慎重に気を配るようになった。一方、春馬は12月の全日本アイスホッケー選手権大会に向けて多忙を極め、宿舎で寝泊まりしながら、自由な時間もなく猛練習に励んでいた。
でも、どうしてもジャンダ教授に会いたい春馬は、とうとう外出禁止のルールを破り、独断で宿舎を抜け出して教授の家へと向かった。しかし、いくら会いたいとコンシェルジュを通して懇願しても、ジャンダ教授は応じてくれなかった。会いたくて胸が苦しく、どうしようもない気持ちを辛うじて落ち着かせ、春馬は宿舎へ戻るしかなかった。
11月25日、金曜日の東京は小春日和の穏やかな日差しが眩しい一日だった。夜8時を回った頃、ジャンダ教授は重くなったお腹を抱えながら地下駐車場へと足を運ぶ。校内でさまざまな噂が飛び交っていることは自覚していた。しかし、希少なオメガの妊娠と出産は国を挙げて手厚い支援の対象となるため、周囲の助けもあって出産の準備は順調に進んでいた。
一般のベータの女性は妊娠37週目からが正期産とされるが、形質者は特殊な身体構造を持つため、女性オメガは28週、男性オメガは23週が正期産と定められている。そのため、ジャンダ教授の出産予定日は12月31日か1月1日のあたりだと診断されていた。
お腹が大きく膨らんだ今、彼女はついにパリの家族へ妊娠の事実をありのままに打ち明けた。すると、心配した情の厚い母アンナと妹のソフィアが、12月頃に東京へ向かい、身の回りの世話をしたいと申し出てくれた。
一方、一人で悩み続けていた春馬は、11月に入っていっそう厳しさを増した訓練に追われ、自由な時間も取れないまま気が滅入っていた。母の桂子に助けを求めたい一心で、彼はついにジャンダ教授の妊娠を打ち明ける。母の桂子はひどく驚いたものの、初孫に会える喜びが勝り、「嬉しいわ」と声を弾ませた。
桂子は「教授を助けるために力を尽くすから、心配しないで訓練に集中しなさい」と、切々と、それでいて力強く春馬を励ました。その晩、春馬の実家では、父のマイクと母の桂子がそわそわと落ち着かない様子で、一人息子である春馬のため、そしてジャンダ教授の妊娠について夜遅くまで話し合っていた。
春馬の母、桂子は悩み抜いた末、ついにピース大学へと足を踏み入れた。彼女はひとつ深呼吸をすると、人文学部棟の3階にあるジャンダ教授の研究室のドアをノックする。すると中から、厚い眼鏡をかけた、体格の良い精悍な男が出てきた。
彼は目の前に立つ女性が有名な書道家、山田桂子だと気づくと、驚きのあまり目をぱちくりとさせた。齋藤助教は無類の書道好きで、中学から大学まで書道部に所属していたほどだ。今年の1月に開催された個展にも足を運んだほどの大ファンだったのである。44歳になってもなお、気力に満ち溢れ、粋で迫力のある彼女の書体を彼は心から敬愛していた。
はっと我に返った齋藤助教は、丁寧な口調で「ジャンダ教授はただいま席を外しております。中で少々お待ちください」と案内した。憧れの書道家を前にした高揚感から、訪問の理由を尋ねることさえ忘れ、彼女を研究室へと招き入れてしまったのだ。齋藤助教は礼儀正しく飲み物の希望を伺い、温かいお茶を出してもてなした。それから少し後で、大きなお腹を抱えたジャンダ教授が研究室に戻ってきた。
桂子は思わず立ち上がり、ジャンダ教授の大きなお腹を見つめた。相変わらず美しく若々しい彼は、以前より痩せてはいたが、その分だけ突き出たお腹の重みが痛々しいほどに伝わってくる。
一人息子が惚れ込み、猛進し、盲愛してやまない稀少な男性オメガ。その並外れた美貌に目を奪われ、思わず生唾を呑み込んだ桂子だったが、すぐにはっと我に返った。
驚きと戸惑いを隠せない様子のジャンダ教授を察し、桂子は改めて柔らかな微笑みを浮かべ、先に挨拶を述べた。対するジャンダ教授も、どこか淡々とした語気で静かに挨拶を返した。
桂子はあらかじめ用意していた通り、話を切り出した。おっとりとした柔らかな口調ながら、どこか痛切な響きを込めて、彼女はジャンダ教授にこう告げた。
「春馬との結婚を、ぜひ考えてほしいんです」
あまりに唐突で慮外な話に、ジャンダ教授の胸に漠然とした不安がよぎった。言葉がうまく出てこず、呂律が回らなくなってしまう。ぽかんとした教授の様子を見て取った桂子は、もう一度、芯の通った声音で念を押した。
「赤ちゃんの幸せのためにも……春馬と結婚してほしいんです」
桂子にとって、自分より6歳も年上の「お嫁さん」など、想像したこともなかった。優性アルファらしい春馬の、セックスに対する強い嗜好はよく知っていた。これまで息子は自由奔放に恋愛を謳歌してきたが、どこか計画性と将来を見据えた行動を取っていたため、誰かを妊娠させたことは一度もなかった。だからこそ、息子を信じ、その奔放な性生活に一切口を出さなかったのだ。
ところが、この絶世の美貌を持つオメガ・ジャンダ教授には、確実に男を虜にする魔性があった。春馬は社会的に排除される危険を冒してまで、ついにはレイプにまで手を染めてしまった。気が狂ったようにエスカレートしていく息子の無鉄砲な行動に、桂子は恐怖心すら覚えていた。
でも、春馬の幸せと孫の将来のためなら、年上の嫁であっても心から歓迎したいーーそれが桂子の偽らざる心境だった。しばらくの間、二人の間には重い沈黙が流れ、ジャンダ教授はただ静かに視線を落としていた。何も言わず座り続ける彼の体調を気遣い、察しのいい桂子はすっと腰を上げる。
「すぐに返事をしなくて構いません。ゆっくりと考えてみてください」
そう言い残すと、桂子は丁寧にお辞儀をして研究室を後にした。
隣の机で会話を偶然耳にした齋藤助教は、赤ちゃんの父親が春馬選手だと知り、衝撃を受けた。だが同時に、なぜ春馬が必死に研究室へ訪れてきたのか、その理由に合点がいった。義理堅い齋藤助教は、尊敬するジャンダ教授のために、この秘密は決して口外せず墓場まで持っていこうと心に誓った。
ジャンダ教授はしばらく座ったまま動けずにいた。やがて思いが整理できたかのように、ゆっくりと立ち上がり、机上に置かれたパイロット制服姿のポールの写真を見つめて、涙をこぼした。傍で見ていた齋藤助教はひどく動揺したが、教授の涙の理由を察し、胸が裂けるような悲痛を抱えながら、そっとひそかに研究室を出て行った。
厳しい寒波に見舞われ、寒い日々が続く12月上旬。パリからジャンダ教授の母アンナと妹ソフィアが来日した。母アンナは劣性オメガであり、三度の出産経験があるため、手際よく世話をしてくれた。出産予定日が近づくにつれ、ジャンダ教授は足がむくみ、歩くのも大変そうになっていた。
母アンナと妹ソフィアは、妊娠に至った経緯や、相手側の家族から結婚の申し出があったことなど、重い事実を打ち明けられて涙を流した。ジャンダ教授は、今なおポールを深く愛し続けている。母も妹も、7年という歳月を共に歩んだポールとジャンダの熱愛が、いかに尊いものであったかを痛いほど理解していた。
ジャンダ教授より5歳年下のポールは、かつて番を飛行機事故で失い、長い間誰とも付き合わずに悲しみに暮れていた。ジャンダ教授とポールは共通の友人の結婚式で出会い、友人として交流を重ねるうちに、徐々に愛情を育んでいった。しかし、亡くなった番のことが心に影を落とし、ポールはジャンダ教授との番の契約をためらっていた。
ポールの前の番は、同じパイロットで極劣性のオメガだった。二人は交際わずか2ヶ月で番の契約を交わし、結婚式も挙げた。しかし、結婚からほんの3ヶ月後に凄惨な事故が起きた。その番が操縦する飛行機が、アメリカからシンガポールへ向かう途中で巨大な乱気流に巻き込まれ、フィリピン海へと墜落したのだ。パイロット、乗務員、そして乗客までもが命を落とす、あまりにも悲惨な事故だった。それは、ポールがまだ27歳という若さだった頃の出来事である。
番が死別すれば、生物学的な番の契約は自然に解消されるメカニズムになっている。しかし、心にぽっかりと空いた巨大な穴は埋まらず、ポールはジャンダ教授に出会うまで、深い喪失感から誰も愛することができずにいた。
一方、類まれな美貌と慈愛に満ちた包容力を備えたジャンダ教授は、常に恋人が途切れることのない人気者だった。ポールと出会ったのは、ちょうど元の恋人と別れた直後のタイミングであり、教授は自然と彼に惹かれていった。そして二人は、着実に熱烈な愛を育んでいったのである。
アンナは、ポールの死後に誰とも付き合わず、どこか抜け殻のように6年間も独身を貫くジャンダの姿を見て、息子がどれほどポールを愛していたのかを痛切に実感した。案の定、ジャンダは春馬やその家族からの結婚の申し出を、頑なに拒み続けていた。
アンナはジャンダを気の毒に思い、生まれてくる孫を全身全霊で支える決意を固めた。たとえ凄惨な事件によって授かった命であっても、半分はローゼの血を引く尊い命。すべてを受け入れる覚悟を決めたアンナは、パリにいる夫へ妊娠の真相を伝えた。
大手ローゼ・グループの会長であるルイ・ローゼは、ジャンダ教授の父親であり、フランス国内でも著名な優性アルファのセレブだ。若かりし頃は外交官として世界を股にかけ活躍していたが、妻の父である先代会長の急逝を機にパリへ帰還。養子縁組を経て婿養子として家業を継いだ。現在は実業家の傍ら、社会党の国会議員としてもその名を馳せている。
そのルイ・ローゼの手元には、すでに探偵から届いた春馬・パンサーの身辺調査報告書があった。弱冠20歳のピース大学生であり、アイスホッケーの日本代表選手。裕福な家庭に育ち、日本人の母は著名な書道家、ベルギー人の父は名高い現役のプロゴルファーであるーー。
父方の祖父はベルギー人で、ベルギー王立大学医学部の教授を務めていたが、3年前、胃癌によりこの世を去っている。祖母はフランスの国民的歌手、イザベル・マルソーだ。70歳を迎えた今なお、数々の名曲を世に送り出し、権威ある賞を総なめにしてきた彼女の歌声は、今も人々を魅了し続ける芸能界の巨匠である。
一方、母方の祖父は人々に尊敬される書道家、祖母は高名な古典舞踊家であったが、4年前、ティレニア海でのクルーズ船座礁事故に巻き込まれ、共に帰らぬ人となった。
春馬・パンサーの氏素性は、一分の隙もなく申し分ない。しかし、それだけに「レイプ」という事実がルイの神経を逆撫でする。次男のジャンダは、生まれた時からその絶世の美貌で周囲の視線を独占してきた。外交官という父の仕事柄、世界各地を転々とする日々だったが、ジャンダの傍らには、常に彼を慕う恋人の姿があったのだ。
融通無碍な恋愛観を持つルイは、恋多きジャンダを自由に育ててきた。それは、心優しい息子を心底から信頼していたからに他ならない。これまで数々のアルファと浮名を流してきたジャンダだったが、妊娠は今回が初めてだった。
妊娠の真相を伏せ続ける次男を案じ、あらゆる手を尽くして調査させた結果、ルイはついに「レイプ」という事実に辿り着く。込み上げる憤怒を必死に抑え込み、彼は息子の口から真実が語られるのをじっと待ち続けた。
春馬・パンサーを法的に訴えることも可能だったが、ジャンダは生まれてくる赤ちゃんの将来を案じ、父親である春馬の起訴だけはしないでほしいと切に願った。ルイは、爆発しそうな怒りを辛うじて胸の奥へ押し込み、愛する息子の意志を受け入れるしかなかった。
春馬は全日本アイスホッケー選手権大会で優勝し、ようやく自由な時間を得た。毎夜ジャンダ教授のマンションに姿を見せていたが、教授の態度は容赦なく冷たかった。
12月17日、土曜日。ピース大学は長い冬休みに入ったばかりだった。冬休み初めの土曜日で時間に余裕のあった春馬は、相変わらず教授の姿を追いたくて、冷たい北風が吹きすさぶ朝8時からマンションの入り口で待ち続けていた。
木槿丘のピース高層タワーマンションのコンシェルジュは、いつも入り口で春馬が待っているのを見かけ、不思議に思っていた。昼食を済ませて戻った午後1時、まだ外に立ち尽くしている春馬の姿を見て、寒さに耐える彼が気の毒になり、思わず声をかけた。
「寒いでしょう。よければラウンジの中で待っていてもいいですよ」
春馬は朗らかに「ありがとうございます!」と答え、深々とお辞儀をした。
マンションのラウンジは温かく、穏やかな音楽が流れていて居心地がよかった。午後2時を過ぎ、小腹が空いた春馬が鞄から栄養ドリンクを取り出して一気に飲み干した、その時だ。奥のエレベーターの扉が開き、背の高いブロンドヘアの美女が三人、連れ立って現れた。その中心には、ひときわ際立つ美貌を放つジャンダ教授の姿があった。
喜びが溢れた春馬は、弾かれたように駆け寄り、ジャンダ教授の視線を捉えた。不意を突かれた教授は、嫌な胸騒ぎに一瞬で表情を凍らせたが、見て見ぬふりをしてそのまま通り過ぎようとする。しかし、勘の鋭い母アンナは、目の前の青年を一目見ただけで、彼こそが赤ちゃんの父親であるアルファだと直感した。
臨月を迎え、大きく膨らんだお腹を抱えたジャンダ教授は、足の浮腫みのせいで思うように歩くことができない。アンナとソフィアに支えられながら、一歩一歩が辛そうな彼女の姿を目の当たりにした春馬は、衝動を抑えきれず、強引にその腕を引いて教授を抱きしめた。
あまりの出来事に、ジャンダ教授は「嫌!」と悲鳴を上げた。隣にいたアンナとソフィアも、突然の暴挙に激しく動揺し、震える声で「やめなさい!」と日本語で春馬を必死に宥めた。
ジャンダ教授の悲鳴を聞いたコンシェルジュは驚いて駆け寄り、事情を尋ねた。春馬は何も答えず、教授を横抱きにして担ぎ上げた。
弱々しいアンナとソフィア、そしてコンシェルジュは途方に暮れ、巨躯の春馬を説得するほか術がなかった。
震える声で教授はコンシェルジュに警察を呼ぶよう懇願した。しかし春馬は、アンナとソフィアの必死の忠告を意に介さず、すたすたと歩いてエントランスの外へ出ていった。
その時、アンナは生まれてくる孫のことを思い、コンシェルジュへ「警察だけは呼ばないでください」と切実な声で懇願した。いつか成長した孫が、ニュースや新聞を通じて「自分の父親が母親を強いた末に授かった命だ」という残酷な真実を知ることになったらーーその絶望を想像し、彼は背筋が凍る思いがしたのだ。コンシェルジュも、これは単なる事件ではなく複雑な痴情のもつれであると察知し、通報を思いとどまった。
暴れ疲れた北風がふと凪ぎ、ジャンダ教授の長いブロンドの髪をなびかせて、蒼白な彼女の頬を冷やした。アンナは早歩きで春馬に歩み寄ると、「ジャンダの足はむくんで痛むのです。血行を促すためにも、少し歩かせてください」と優しく頼んだ。
流暢な日本語を話すアンナを見て、春馬はすぐに彼が教授の母親だと悟った。この国では珍しい、凛とした美しさを持つ男性のオメガ。ジャンダ教授のあの類まれなる美貌は、間違いなく母親譲りなのだと感じた。
春馬は、促されるままジャンダ教授を地面に優しく降ろした。教授はアンナとソフィアの手を借りて支えられながら、マンションの隣にある公園へとゆっくり歩を進める。春馬は何も言わず、ただ教授の後ろを静かについていった。
見上げれば、冬の澄み渡った青空から日差しが燦々と降り注ぐ穏やかな小春日和。公園内は、そんな陽気に誘い出された子連れの若い母親たちで賑わっていた。
テレビで見慣れた春馬選手を見て、若い母親たちは笑顔で「日本選手権の試合、とても素晴らしかったです!」と口々に称賛した。春馬も気前よく「ありがとうございます」と答え、丁寧に礼を述べた。
一方、ジャンダ教授は、そんな春馬の存在が癪に障って仕方がなかったが、赤ちゃんの健康を第一に考え、重い体を引きずるようにして公園内をよろよろと歩き回った。冷たくも新鮮な風が心地よく、澄み渡った空気は美味しく感じられた。春馬は、アンナとソフィアに両手を支えられながらゆっくり歩く教授の姿を、黙ってじっと見つめていた。
若い母親たちは、美しい外国人の三人に目を奪われたが、その中でもひときわ目立つ絶世の美貌を持つ妊婦ーージャンダ教授に視線を注いでいた。そんな中、一人の子供がジャンダ教授のもとへ駆け寄り、「綺麗なお姉ちゃん、お腹を触ってみてもいい?」と無邪気に声をかけた。4、5歳ほどのその男の子は、天使のように愛らしく、ジャンダ教授は思わず「いいですよ」と優しく微笑んだ。
教授は男の子が触れやすいように、薔薇色のロングコートの前を開き、大きく膨らんだお腹を差し出した。男の子が嬉しそうに撫で始めると、それを見た他の子供たちも「僕も!」「私も!」と口々に言いながら集まってくる。ジャンダ教授のことを、てっきり美しい女性だと思い込んだ母親たちも輪に加わり、次々と質問を投げかけ、そこには穏やかな談笑の花が咲いた。
しばらく様子を見守っていた春馬は、ジャンダ教授に疲れの色が見え始めたのを察し、「そろそろ帰る時間だ」と告げて教授を人だかりから連れ出した。周囲の人々は、時の人である春馬選手と、あまりに優美なジャンダ教授の姿を交互に見つめている。
そんな中、無垢な子供たちが「お姉ちゃんの旦那様なの?」と問いかけた。その言葉に春馬は上機嫌になり、「そうだよ、俺の奥さんなんだ」と快活に言い残すと、ジャンダ教授の手を取ってゆっくりと歩き出した。
周囲から注がれる好奇の混じった視線を意識したジャンダ教授は、ここで騒ぎを大きくすることを恐れ、握られた春馬の大きな手を振り払うことができなかった。
一方、アンナはジャンダより30歳も年下の、若い春馬の姿をじっと見つめていた。その真っ直ぐな瞳から、彼が本気で息子を愛していることを確信し、心の奥底でそっと安堵の息をもらした。
急激な疲労に襲われたジャンダ教授が、よろめいて倒れそうになった瞬間、類まれな運動神経を持つ春馬が反射的に彼を抱きとめ、軽々と横抱きにした。その様子を見ていたアンナとソフィアは、不安に胸を締め付けられながらも、いざという時にジャンダを支えてくれる春馬がそばにいてくれたことに、密かな安心感を覚えずにはいられなかった。
家に戻ると、ジャンダ教授は手を洗い、水分を補給してすぐにベッドへと潜り込んだ。心身ともに疲れ果てていた彼は、春馬のことなど気にかける余裕もなかった。ただひどい眩暈に耐えながら、今は一刻も早く体を休めたい一心だった。
春馬はジャンダ教授の家まで入り込み、ベッドで目を閉じて微睡む教授を見つめながら、多量のフェロモンを放っていた。何か自分にできることがあれば何でもしてあげたいーーそんな切実な想いが、溢れ出るフェロモンとなって教授を包み込んでいく。
それを見ていたアンナは、懐妊中のオメガにとって、番やパートナーが放つ「フェロモンのシャワー」がいかなる薬よりも心身を安定させることを知っていた。だからこそ、彼は春馬を追い出すことはせず、そのまま家に留まらせることにしたのである。
夕食の準備をしながら、ソフィアは自分の中に芽生えた奇妙な感情に気づき始めていた。あれほど憎んでいたはずの春馬に対し、なぜか嫌悪しきれない自分がいるのだ。
ジャンダから初めて妊娠の真相を聞いたときには、憎しみと鬱屈で胸が張り裂けそうだったのに、実際に会った春馬は、愛に焦がれる悲しみを湛えた瞳で、優しい眼差しを向けながらずっとジャンダを追っていた。
30歳もの年の差には驚いたが、若々しく見えるジャンダと、年齢以上に大人びて見える春馬は、不思議と釣り合っているように思えた。
春馬が寝室でずっとジャンダ教授を見守っていると、アンナが静かに入ってきて夕食を勧めた。アンナは眠っているジャンダ教授を優しく起こし、少しでも野菜スープを口にするよう声をかける。
春馬のフェロモンに酔って朦朧としていた教授は、眩暈が収まり体も軽くなったように感じ、急激な空腹感を覚えて「お腹が減ったわ」とこぼした。ずっと食欲不振が続いていた息子が自ら食事を欲したことに、アンナは顔を輝かせた。
「今日はカレーライスがあるから、たくさん食べましょう」と、アンナは明るい声を弾ませた。
四人は食卓を囲み、野菜チキンカレーに野菜スープ、そして和風サラダを静かに食べ進めた。ジャンダ教授が美味しそうに頬張る愛らしい姿を、春馬は満足げに見つめていた。その光景を目の当たりにできる喜びを噛み締めながら、彼は幸せな気持ちで自分のカレーライスを平らげた。
アンナとソフィアも、これまでの食欲不振が嘘のように健筆を振るうジャンダの姿を見て、ほっとして自然と口元を綻ばせていた。
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