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男装メガネっ子元帥、お楽しみの真っ最中を覗いてダメージを受ける

「ザフエルさん。痛いです。放して下さい」

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「正確には脱走ではありません」
 ザフエルは冷静に続けた。

「どうやら城砦内に忍び込んだ何者かとひそかに接触しているようです。捜索にあたらせている最中に、閣下のお声が掛かったもので」

 ニコルはかぶりを振ろうとして、ためらった。
 とりあえず無罪放免の身とは言え、チェシー・エルドレイ・サリスヴァールは敵国人だ。亡命が正式に許可され、配属が決定するまでは、牢獄塔から出るのを禁じられている。その監視の目をかいくぐって抜け出したということは、つまり――ザフエルの言うとおり、脱走と見なされても仕方がないのだ。

「やはりあの男、ゾディアックの」
「そんなはずありません」

 ニコルは思わず声を高くして反論する。見返すザフエルの乾いた眼は、まるでニコルの心の奥深くまであばきたてるかのようだった。

 ザフエルはゆっくりと視線をはずし、きびすを返す。

 汚れひとつなく磨き上げられた黒いブーツの下で、ぎりぎり聞こえるか聞こえないかのかすかな音を立てて、枯れ葉が踏みつぶされる。それほど静かだった。怖ろしいほどに。

 ニコルは静寂に耐えきれず、ザフエルへと駆け寄った。
「僕も一緒に探します。もしそうなら、まだこの近くにいるはずです」

「危険です」
 ザフエルが冷めた声で押しとどめる。ニコルはくちびるを噛んだ。
「僕は彼を信じてます。見れば分かります。彼はそういう人間じゃない」

「閣下」
 斬って棄てるかのような声。ニコルは背筋に鋼鉄の刃を押し当てられたように感じた。ザフエルを見上げる。

 ザフエルの視線は庭の奥へ、生い茂る灌木へと向けられたまま、そらされもしない。
 ふいに、風が鳴った。裏庭の林を大きく揺すぶる。

「ぁっ」

 気まぐれなつむじ風が、麦わら帽子を弾き飛ばした。とっさに頭を押さえるものの、突然のことに手を伸ばしてもまるで間に合わない。
 帽子は林に紛れ込み、あっという間に見えなくなった。

「僕の帽子!」
 追いかけようとしたニコルの手を、ザフエルが思いも寄らぬ強い力で掴んだ。引き戻される。

「信じる信じないは閣下のご自由です。しかしここは戦場だ。一瞬の隙が命取りになる」

 ザフエルの手甲に嵌め込まれた漆黒のルーン、《破壊のハガラズ》が、ぎらりとしたゆらめきを帯びて不穏に光り出す。
「もし、そこに付け込まれたら」

 ニコルは、わずかに顔をゆがめた。
「ザフエルさん。痛いです。放して下さい」

「いいえ」
 ザフエルは掴む手の力を緩めない。それどころか、折れんばかりにねじ伏せる。突きつけられた言葉はあまりにも冷徹だった。

「チェシー・エルドレイ・サリスヴァール一人と、第五師団四万五千人。閣下は、どちらの命を選ぶおつもりですか……?」
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