5 / 5
5
しおりを挟む「いい人で良かった」
傍らで横たわる澄が佐野のことを言った。
「ああ。女将さんが紹介してくれた人だ、信じて下駄を預けよう」
「……ええ」
――その頃、川上組の舎弟は良治の行方を追っていた。そして、〈酒処 勝〉にも追っ手はやって来た。
「女将。良治を見なんだか」
「よしさんかい? 最近見てないが、どうかしたかい」
「逃げやがった。本当に知らんのか」
「知らないよ。よしさんの子守りじゃあるまいし、なんで私が知ってんだい。なんなら、家中捜しておくれよ」
「……見たら知らせてくれ」
「ああ、分かったよ。ったく、どこに行っちまったんだろね。人騒がせな」
香は迷惑そうな顔をすると、板場越しに止まり木の客に酌をした。――
目を覚ました澄が憚りへ行こうと襖を開けると、座卓に味噌汁の匂いがする膳が向かい合っていた。澄から思わず笑みが溢れた。
平らげた膳を廊下に置いて暫くすると、佐野がやって来た。そして、佐野の計らいで、住居と屋台を提供してもらうことになった。
「――香さんからの頼みだ、中途半端なことはできねぇ。私と香さんとは三十年来の付き合いだ。香さんは、私の親友の嫁さんだった。あいつも短い命だったな……。あいつを亡くした地に住むのは辛いと言って、東京を離れた。あんな地の果てまで行っちまって……。とにかく、あんた達も惚れ合ってここまで逃げてきたんだ。命を粗末にしちゃいけねぇ。屋台なら、二人で食べていくには十分だ。良治さん。澄さんを泣かせちゃいけねぇよ」
その言葉に、良治は口を真一文字に結ぶと、力強く頷いた。澄も感謝の気持ちを込めて頭を下げた。――その日から、二人は借家住まいをすると、翌日からは屋台を引いた。香に教えてもらった澄のおでんはなかなか旨かった。
一方、〈酒処 勝〉には毎日のように川上組の舎弟が良治を捜しに来ていた。そんなある日、組長の金井が現れた。
「女将。何度もすまんが、良治からなんか連絡はねぇか」
「連絡があったらこっちから知らせるって、何回言ったら分かるんだい」
「あんたを信じん訳じゃねぇが、事が事だけにな。仁義に反する事は放っとけんからな。あの野郎、俺の顔に泥を塗りやがって」
憎々しい顔をした。
「組長さん。何があったか、私ゃ知らんが、良治さんはやくざには合わないよ。あの人には心があるからな」
「……どういう意味や!」
「言葉通りですよ」
「何っ! 聞き捨てならんな。心や? こっちが下手に出とったらいい気になりやがって。ほの心とやらがあるんなら、仁義を通すべきじゃねぇのか!」
「仁義だと? いいかい、組長。仁義とは義理人情、そして道徳だ。お前さんに何がある? 人情もなけりゃ、道徳もありゃしない。あるのは単に義理だけじゃないか。そんなあんたに誰がついて行くもんかね。ついて行くのは、他にめしの食い方を知らない外道だけだ」
「なんやとこらっ! 表に出やがらんかい! 」
「嫌なこった。お客さんが居るんだ、表で油を売る暇はないよ」
二人の客は止まり木の隅で小さくなっていた。
「いいか、組長。先代の組長、川上友一とは、“姐さん”“ともさん”と呼び合った仲だ。あの人には人情があった。今の義理だけの川上組にしたのは、お前さんじゃないか。いいか、よく見ろ」
香は胸元を大きく広げると、緋牡丹の刺青を見せた。金井や客らが目を丸くした。
「私が誰の女房だったか知らないわけじゃないだろ? 関東でその名を知られた鹿島健吉の女房だ」
胸元を隠した。
「てめぇら下っ端なんざ屁とも思っちゃいないよ。先代の川上友一の名を汚すような真似をするなら、知り合いを呼んで組を潰すこともできるんだ。そうしたくないから、見て見ぬ振りをしてきたんじゃないか。少しは人の気持ちも分かっておくれよ。えー、二代目」
「……」
金井は悔しそうに歯軋りをすると、拳を握った。
「分かってくれたかい。分かったら、一杯呑んでいけや」
「いや、結構や。邪魔したな。おい、行くぞ」
香を睨み付けていた二人の舎弟が金井の後を追った。
「女将さん。大丈夫け」
客の一人が心配そうな顔をした。
「なぁに、私に手出しはしないさ。そこまで莫迦じゃあるまい」
衿元を整えながら、香は長大息を漏らした。
金井の怒りは収まっていなかった。その腹いせに、良治の行方を手広く捜させた。――
人通りの多い絶好の場所を任されたのもあるが、二人の引く屋台は繁盛した。
「おう、亭主。かみさん、飛び切りの別嬪じゃねぇか。あんたも幸せもんだぜ」
客の一人が、がんもどきを頬張りながら良治を冷やかした。
「へぇ。お陰さんで、幸せもんです」
「あんたったら……」
澄が頬を紅くした。
「ハハハ……。お熱いこった。これがほんとのごちそうさまだ。勘定」
別の客がそう言って腰を上げた。
「ありがとうございます」
澄が愛想よく勘定した。
――それは、雪の降る夜だった。客が途切れたついでに、澄は近所の井戸に水を汲みに行った。良治は桶で皿を洗っていた。
「捜したぜ、良治」
聞き覚えのある声に振り向くと、川上組の子分が三人立っていた。あっと思った良治は、短刀を出そうと慌てて懐に手を入れたが、間に合わなかった。
「死ねっ!」
三腰の短刀が疾風のように良治に向かった。
「うっ……」
一瞬にして雪を赤く染めた。――
遊びに寄った佐野組の舎弟が、変わり果てた良治を見付け、急いで佐野に知らせに戻った。
井戸から戻った澄は、真っ赤に染まった雪に倒れている良治をを見て、
「あんたっ!」
叫ぶと、桶から手を離して駆け寄った。
「あんた! あんた!」
良治の体を何度も揺すった。だが、良治が応えることはなかった。澄は良治の手から短刀を取ると、
「……女将さん。私、この人に命を懸けたんです。……命を」
そう呟いて、自分の胸を思い切り刺した。
「うっ、うー……」
澄は良治に重なるように倒れた。粉雪が二人の上に降り積もっていた。
駆け付けた佐野は、その光景を目の当たりにして、
「遅かったか……」
自分を責めるかのように肩を落とした。
日本海も雪だった。店を閉めようと、香が洗い物をしていると、戸が開いた。急いで顔を上げると、笑みを浮かべた良治と澄が立っていた。
「元気だったか? よく来たな!」
出迎えようと板場を出た途端、二人の姿は消えていた。そして、戸も閉まったままだった。
……幻覚を見たのだろうか。香は狐につままれたような顔をすると、外に出てみた。だが、二人の姿はどこにもなかった。香はハッとすると、
「……会いに来てくれたんだね」
そう呟いて、音もなく降り注ぐ雪を見上げた。――
完
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる