下駄

紫 李鳥

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 二ヶ月が過ぎた。杏子の容疑が強まった今、いよいよ、相棒の井川を手中に収める必要があった。

「……結婚しようと思ってる」

 山根が独言どくげんのように呟いた。

「えっ?……先生とですか?」

 ハンドルを回した井川が首も回した。

「……ああ」

「僕は大賛成です。あの人なら、デカ長とお似合いです」

 井川が自分のことのように喜んだ。

「……だが、犯人が捕まってない。……もし、アイツが犯人なら罪は償ってもらう」

 山根は真顔だった。

「……デカ長」

 井川は我が身の如くに憂える表情をした。

 ……よし。これで、犯人隠避はんにんいんぴの類いの疑惑は抱くまい。勧善懲悪の謳い文句の、“公”と、杏子との関係を素直に認める、“私”。この二つを明らかにすることによって、井川は杏子にも俺にも何一つ疑惑を抱かないはずだ。山根は井川を布石ふせきにするために、杏子の家に招いた。

 旨い手料理と酒、帰りの車代をやることによって、井川は山根に恩を着る格好になる。

「井川さんはお幾つになられるの?」

 顔を赤くしている井川に杏子が酌をした。

「二十八です」

「えっ、じゃ、午年うまどし?」

「そうです」

「じゃ、私と同じ干支えとだわ。一回り違うけど。ふふふ……。どう?美味しい?」

「ええ、とっても」

 井川は満足そうに太刀魚たちうおの煮付けに箸を付けていた。

「美味しい、って言ってもらうと作り甲斐がいがあるわ。誰かさんみたいに、旨いんだか、不味いんだか、はっきりしない人もいるもの」

 手酌をしている山根を横目にしながら杏子が嫌味を言った。

 井川と同じ立場だった刑事成り立ての頃を思い出していた山根には、杏子の話は耳に入っていなかった。――


 俺を相棒にしてくれた巡査部長の溝口はスポーツ刈りにサングラスをして、肩で風を切りながら闊歩かっぽするその格好は、まるで極道だった。

 溝口には、三味線の師匠をしている元芸者の乙音という愛人がいた。俺は溝口に連れられて何度か乙音宅でご馳走になった。そこで聴いた都都逸どどいつは絶品だった。俺は乙音の都都逸が聴きたくて、溝口から声が掛かるのを楽しみにしていた。

 そんな時、乙音が無理心中を図った。定時になっても出署しない溝口を不審に思った俺は、俺しか知らない乙音宅に急いだ。

 ――そこには、背中を血で染めて俯せに倒れている溝口と、首から血を流して壁に寄り掛かった乙音の姿があった。乙音の傍らには、血の付いた包丁と、俺宛の遺書があった。


〈溝口と別れたくなかった ただそれだけです 奥さんと別れてほしくて 私は嘘をつきました 子供ができたと 溝口は産んでもいいと言ってくれました 私は嬉しかった でも 嘘はすぐにバレました どうしてそんな小細工をしたのかと溝口は怒りました だから私は言いました 子供ができたら私と結婚してくれるかと思ってと すると溝口は言ったんです 女房とめかけは別だと その時 男の身勝手さを知りました お前とは別れる そう言って溝口が背を向けた瞬間 私は包丁を手にしていました そして 溝口の背中を刺しました 今 私の目の前には動かない溝口がいます 私もこれから溝口の跡を追います そして あの世で夫婦になります 溝口と別れたくなかった ただそれだけです
 山根さん ご迷惑をお掛けして申し訳ありません 溝口の名誉のために 私とのことは内密にお願いします
 山根様へ 乙音〉


 俺は、溝口の懐刀ふところがたなだった巡査長の舛添に打ち明けた。結果、溝口は殉職扱いにされた。

〈ベテラン刑事、強盗犯を追跡中に刺殺される!〉

 ――ふと気付くと、杏子と井川が何やら楽しげに喋っていた。

「おい、めしにしてくれ」

「あ、はい」

 山根から注文を受けた杏子は、井川との話に腰を折ると、大儀そうに自分の腰を上げた。

 井川がトイレに立とうとした時だった。

「へぇー、ドストエフスキーにカフカ、スタンダールにバルザックか……。文学が多いですね」

 と、居間の隅にある書棚のトルストイを手にした瞬間、

「駄目っ!」

 鮭茶漬けと香の物を運んできた杏子が大声を出した。吃驚した井川がポカ~ンと口を開けていた。

「……へそくりしてたの」

 井川の手から奪った単行本の一ページ目から一万円札を抜き取ると、杏子がばつの悪そうな顔をした。杏子のその行為を山根は見逃さなかった。山根がにらむと、杏子は涼しい顔で目を逸らした。
 
 ……井川は騙せても俺は騙されないぞ。


 井川が帰ると早速、棚の書物を片っ端からパラパラと捲った。すると、出るわ出るわ。山根の足下に舞い落ちた万札が約二百枚。――

「……やっぱり、お前か」

 山根は愕然がくぜんとすると言葉をくした。杏子を見ると、開き直ったように腕組みをして横を向いていた。
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