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十話
しおりを挟む丹前から茶色のジャケットに着替えると、車を出した。
「ああ、記憶喪失の?退院されましたよ、昨日」
中年の看護婦が対応した。
「で、名前は?」
「それは言えませんが、知り合いだという女性が来られて、名前と住所が分かったんです」
「女性?」
「ええ。三十前後で、野球帽を被ってました」
……虹子のことだ。やはり、老人と顔見知りだったんだ。
「その老人の住所は?」
「それも言えません。守秘義務がありますので」
看護婦からはこれ以上の情報収集は望めないと判断した俺は、巡査の西山から情報を得ることにした。
駐在所に行くと、西山は暇そうに頬杖をついて、窓の外の紅葉を眺めていた。
「あ、先生」
目が合った途端、腰を上げた。格好の暇潰しになる俺の訪問を、西山は歓迎した。
「散歩ですか?」
急いで戸口にやって来た。
「ええ。原稿用紙を買いに」
「穏やかな天気で、気持ちいいですからね」
「確かに。ところで、先日の記憶喪失の老人ですが」
「ああ。名前と住所が分かって、東京に帰られました」
「えっ?見舞いに行こうと思ってたのに」
「え?どうして」
「新聞を読んでるうちに、もしかして、私に会いに来る途中で、事故に遭ったのではないかと思って」
俺は話を作った。
「へぇー。どんな関係ですか?どうぞ、座ってください」
興味津々と西山が食らい付いてきた。
「あれは、今年の二月下旬。親戚に不幸があって、中野まで行った時のこと。その寒空にホームレス風の男が道に倒れてて。皆は知らん顔で通り過ぎていたが、私は放っておけず声を掛けた」
『どうしました?』
『この数日、何も食べてません。もはや歩くことも……』
私は財布にあった千円札を二枚出すと、
『少ないですけど』
そう言って、男の手に握らせた。
『ありがとうございます。このお礼は必ず。せめて、お名前を』
『クレナイコウです』
「ペンネームを教えた。仮に、“紅虹”が作家の名前だと知っていたなら、著書の解説なり、あとがきを読めば、本名の〈小杉謙太郎〉を知ることは可能だ。……もしかして、その男ではないかと思って」
「……なるほど」
作り話とも知らず、ホームレスに対する俺の親切な行為に感動すると、西山は駐在日誌を捲った。
西山から、老人の名前と住所を聞き出した俺は、次の休日、大輝と東京に行った。
大輝を、目につく喫茶店に置くと、老人の住まいに赴いた。
その安アパートの一階の奥のドアに、〈萩野〉の表札があった。
ノックをすると、訪問者の名前も聞かないでドアが開いた。
白髪頭の、痩せた男が、馬のような目を向けていた。
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