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湯女の片想い
しおりを挟む家に風呂がありながらも銭湯が好きだと言う人も少なくない。温泉旅館に行ったような開放感が味わえるからだろう。
サラリーマンの木村芳雄もその一人だった。帰宅するとすぐに、タオルや石鹸を入れた洗面器を片手に、近くにある銭湯に行った。夕食のこの時間帯は客が少ないのがメリットだ。
独身の芳雄は、一風呂浴びるとコンビニに立ち寄り、夕食の弁当を買って帰る。それが日課になっていた。
そんなある日。銭湯に行くと、客が一人も居なかった。ちょっと不気味だったが、たまたまだろうと思い、いつものように湯船に入った。
あ~、気持ちいい。やっぱ、でかい風呂はいいね~。……これで嫁さんでも居たら言うことないんだがなぁ。
芳雄は満悦至極の表情で、そんなことを思った。
――湯船から出て髪を洗っている時だった。背中に冷気を感じて振り返った。だが、誰も居ない。気のせいかと思ってシャンプーをすすいでいると、
「……しんのすけ様」
女の声が背後でした。びっくりして振り返ると、そこには、薄紅色の玉簪を挿した日本髪の若い女が微笑んでいた。
「ヒャッ」
芳雄は短い悲鳴と共に体をずらした。
「おときです。お久しぶりです」
「えっ?」
「あっちこっち捜しました。ここにいらっしゃったんですね。お会いできてよかったわ」
「し、知らないです。どなたですか?」
「うふっ。もうおふざけを。あなた様のお背中を流したおときです」
「……背中?」
「さあ、流させてください」
おときはそう言うと、タオルを手にした。
「さあ、後ろを向いて」
おときの柔らかい口調でその気になった芳雄は背中を向けた。おときは、浴衣の袖を捲るとタオルに石鹸を泡立てていた。
「あ~、やっと洗えた」
おときは嬉しそうにそう言いながら芳雄の背中を洗っていた。芳雄の方も、おときの上手な洗い方にうっとりだ。
どこのどなたさんか知らないが、親切に背中を洗ってもらって、悪い気はしない。
そんなことを思いながら、ふと鏡を見ると、芳雄は目を丸くした。おときの姿が映ってなかったのだ。
「エッ!」
咄嗟に振り向いたが、おときの影も形も無かった。
俺がうっとりしてる間に出ていっちまったのかな……。
そんなことを思っていると、客が入ってきた。名残惜しさを感じながら、芳雄は銭湯を出た。
……おときちゃんか。可愛かったなぁ。……ちょっと待てよ。江戸時代じゃあるまいし、日本髪で背中を流す女なんて居るはずがない。やっぱり目の錯覚かな?声が聞こえたのも幻聴かな?だが、背中を流してくれた感覚はちゃんとある。
芳雄はそんなことを思いながら、いつものようにコンビニで弁当を買うと帰宅した。
翌日、帰宅すると銭湯に急いだ。おときに会いたかったからだ。だが、他に客が居たせいか、おときには会えなかった。次の日も、次の日も、時間をずらしてみたが、客の居ない日はなく、結局、おときに会うことはできなかった。
おときに会えなくなって銭湯に行くのがつまらなくなった芳雄は、アパートのユニットバスを使うことにした。
髪を洗っている時だった。
「……しんのすけ様」
背後からおときの声がした。芳雄が咄嗟に振り返ると、そこには、あの時と同じおときの顔があった。
「……おときちゃん」
芳雄はあまりの嬉しさに、思わず笑みが溢れた。
「やっと、二人きりになれましたね」
そう言って、優しく微笑んだ。
やっぱり、他に客が居たから現れなかったんだ。
芳雄は納得すると、
「あ、はい」
と、喜びを表した。
「さあ、背中を流させてください」
おときはそう言うと、タオルを石鹸で泡立てた。芳雄はプラスチックのバスチェアに腰を下ろすと、満面の笑みを浮かべた。
「……こうやって、しんのすけ様の背中を流せて、幸せです」
おときがしみじみと言った。
「……おときちゃん」
芳雄は、その、しんのすけとやらに似ていて良かったと思った。
「……しんのすけ様、今夜、私を、……愛してくださいますか?」
「えっ?」
思わず、おときに振り向いた。おときは恥ずかしそうに俯いていた。
「……しんのすけ様が、……好きです」
おときはそう言って、頬を染めた。
「……おときちゃん」
翌朝、芳雄が目を覚ますと、おときの姿はなかった。
……やっぱり、夢だったのか。
肩を落とした芳雄が、ふと、枕元を見ると、薄紅色の玉簪が落ちていた。――
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