過去からの客

紫 李鳥

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 道端の山吹をでながらしばらく行くと、月山がっさんを眺望できる格好の場所まで来た。行弘は足を止めると、

「ここからの眺めが好きなんですよ」

 そう言って雑草の上に腰を下ろした。

「いやぁ、いい眺めですね」

 高志も納得すると、行弘のかたわらに腰を下ろした。

「でしょう?買い出しの帰りに、運転席からよく眺めるんですよ。……いい所に来て良かったなぁって」

「どこからいらしたんですか」

「出身は山形ですが、宿をるまではずっと東京です。いわゆる脱サラっていう奴です。前の女房と別れたのがきっかけで。独り身の気楽さもあって、脱サラという冒険ができたんだと思います」

 行弘はうまそうに煙草をんでいた。

「……じゃ、今の奥様とはこちらでお知り合いに?」

 高志は、胸に納めていた順子との経緯いきさつを無意識のうちに訊いていた。

「ええ。……あいつは自殺未遂の女です」

「えっ!」

 思いもしなかった言葉にびっくりすると、行弘の横顔を視た。

「……二年前です。山菜を採りに裏山に行くと、杉の木陰に倒れていました。コートが緑色だったら、たぶん気付かなかったでしょう。黒いコートだったのを感謝しました。

 傍らには睡眠薬の空き瓶がありましたが、幸いにも致死量ではなかったようです。体温を残したあいつの口に急いで指を突っ込むと、吐かせました。その日は泊まり客が居なかったので、おぶって宿に連れて帰ると、大量の水を飲ませて胃の洗浄をしました。……眠りから覚めたのか、客室からあいつの泣き声が一晩中してました」

 行弘は、短くなった煙草を砂利の中で揉み消した。

「……」

 高志は俯いていた。

「……増田さん」

「え?」

「あなた、順子のことを知ってますよね?」

 不意に顔を向けた行弘は、刺すような視線を放った。――



 順子は、帰りの遅い二人のことが気になっていた。……何事もなければいいが。はて、散歩に誘ったのはどっちだろう?……アッ!不吉な予感がした順子は、急いで腰を上げると、サンダルをつっかけた。――


 高志は山並みに顔を向けたままでいた。

「……やっぱり、そうか。あいつをどうしたいんですか」

「……もう一度やり直したい」

「冗談じゃない。私の妻ですよ」

「私にも妻が居る。そいつと別れる覚悟でここに来た」

「……あいつは俺の生き甲斐がいなんだ。別れるつもりは毛頭もうとうない。サラリーマンを辞め、人生をけてここに来たんです。思うように客が来てくれなくて、閉めようと思った時期もあった。

 そんな時、あいつが明かりをともしてくれたんだ。あいつと出会えて、俺は生きる喜びを知った。すべて、あいつのお陰なんですよ。あいつを手放す気はない」

 行弘が突然立ち上がった。殺気を感じた高志は慌てて腰を上げると、崖から遠ざかった。行弘は、山並みに顔を向けたままで、尻のほこりはたいた。

「あなたーっ!」

 順子の声に、二人は振り向いた。

「……この続きは今夜と言うことで」

 高志が提案した。

「……そうですね」

 行弘は仕方なく同意した。

「もう、遅いんだから。心配したじゃない」

 二人が無事だった安心感からか、順子はホッとすると、わざとらしく膨れっ面をしてみせた。

「何だよ、宿、空けちゃ駄目じゃないか」

 行弘が注意した。

「だって、遅いんだもの……」

 順子は子供のように口を尖らせた。

 俯き加減で後から来る高志の様子で、何かあったことが順子にも察知できた。


 宿に戻ると、高志は無言で二階に上がった。行弘も黙って部屋に入った。順子はすることもなく、厨房の隅に置いた編み物の続きをした。――暫くしてドアを開けると、行弘は布団に俯せになって読書をしていた。

「コーヒーでも飲む?」

「要らねぇ」

 無愛想な返事だったので、部屋を出ようとした。

「増田さん、お前とのこと喋ったから」

 抑揚のない言い方だった。

「……え?」

 予感は当たっていた。

「そのことで、今夜話し合うから」

「……どうしたらいいの?私」

 行弘の枕元に正座をした。

「何もしなくていい、下に居ろ」

 行弘が一瞥いちべつした。

「何を話すの?」

「何をって、お前のことに決まってるだろ。互いに譲らないんだから仕方ないさ」

「……」

「奥さんと別れる覚悟でお前に会いに来たらしいよ。……どういう付き合いだったんだ」

 行弘は栞を挟むと、文庫本を閉じた。

「……十九歳の時、二年ぐらい同棲してたの。彼、自由劇場の役者で、私と同じ店でバイトしてたの。それで付き合うようになって――」

「何で別れたんだ」

「……他に好きな人ができて、書き置きをして彼のアパートから出ていったの」

「……はー」

 行弘はため息をいた。

「……とにかく、今夜話し合うから」

 行弘は体の向きを変えると、天井に顔を向けた。


 その日は客の予約はなかった。夕飯ができると、部屋から出てきた行弘が二階に持っていった。

「最初はビールにしますか」

 座卓に料理を並べながら行弘が訊いた。

「そうですね。ビールにしましょう」

「今、持ってきますので」

 恋敵であることを認識した二人によそよそしさがあった。

「あ、奥さんも一緒にどうですか。彼女の気持ちも知りたいし」

 高志が不敵な笑みを浮かべた。

「……ですね。じゃ、呼んできますので」

 行弘は承諾するほかなかった。


 ビールを取りに下りた行弘は、

「お前も来るように言われた」

 そう言って深刻な顔をした。

 順子はぐちゃぐちゃに絡まった毛糸が胸に生じた思いだった。……修羅場しゅらばに関わりたくない。自分が原因の話し合いだというのに、そんな無責任な考えを浮かべた。
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