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しおりを挟む静かに廊下を歩くと、ドアの前で立ち止まった。部屋からは話し声すらなかった。重苦しい空気の中、ノックをすると、
「入れ」
短い返事があった。その、冷ややかな行弘の言い方は、親に叱られる時の子供の気持ちにさせた。
ドアを開けると、横顔を向けた行弘の背中と、ビールを飲み干す高志の仕草が同時に見えた。座る場所に迷っていると、“ここに座れ”と言わんばかりに、行弘が腕を引っ張った。行弘の横に正座したものの、適当な言葉が見付からなかった順子は黙って、どっちかが口を開くのを待っていた。
「……ご主人に君とのことを話したから」
口火を切ったのは高志のほうだった。
「……ええ、聞きました」
順子は俯いたままで小さく返事をした。
「で、君の気持ちはどうなんだ」
自分のグラスに注ぎながら、高志が直球を投げた。煙草を燻らしている行弘の顔が僅かに順子のほうに動いた。
「……この人について行きます」
順子は高志を見ずに、行弘の横顔を見詰めていた。
「……そうか。……そう言えばこんなシーンが昔もあったな?俺がお前の男のとこに話し合いに行った時だ。あの時、お前は今のように、“この人と一緒に暮らします”そう言った。俺は諦めて、“……そうか、幸せにな”そう言って別れたよな?なのに何だと?その男とはすぐに別れただと?あの時、俺の気持ちがどんなだったか分かるか?あー?お前はそうやって俺の気持ちをずたずたにしてきたんだ」
「だから、そんな私のことは忘れてって言ってるじゃない」
高志を睨んだ。
「俺の子を堕ろした女を忘れろと言うのか」
途端、煙草を口にしようとした行弘の手が止まった。
「やめてーっ!」
順子は耳を塞いだ。
「病院のベッドで、“堕ろしたくない”って、泣きながら譫言を言ってたお前を忘れろと言うのか?」
「そうよ。お陰で二度と子供が産めない体になったわ」
「えっ?」
高志が目を丸くした。
「私だってできれば産みたかった。でも、定職に就いてないあなたと結婚して子供を育てる自信はなかった。不安だった。……結婚を諦め、人生を諦め、死のうとした私をこの人が助けてくれて、生きる喜びを与えてくれた。少しぐらい幸せになっちゃいけないの?」
気持ちが高ぶった順子は、嗚咽を漏らした。
「……すまなかった。……すいません、一人にしてくれませんか」
懸命に笑い顔を作った高志が行弘を見た。
「……ええ」
行弘は煙草を消すと、涙を拭っている順子の腕を掴んだ。高志を見ると、神妙な面持ちで目を伏せていた。
「……たか――」
高志に声をかけようとした順子の腕を行弘が引っ張った。――
「……ごめんなさい。……子供が産めないこと言わないで」
ポットの湯を急須に注ぎながら、行弘に謝った。
「そんなことは気にしなくていいさ。子がなくても十分幸せなんだから」
「……あなた」
行弘のその言葉に、順子は救われた思いだった。
「それより、増田さんのことが心配だな」
「……ええ」
順子も同感だった。高志は喜怒哀楽を表に出すタイプではない。その高志が、見ているのが辛くなるほどに落ち込んでいた。
(……高志、ごめんなさい。こんな薄情な女は忘れて、今の奥さんとの生活を守って。お願い)
順子は心の中で祈った。
翌朝、食事に下りてきた高志は、昨夜のことが嘘のように、いつもの穏やかな表情をしていた。
「お早うございます。あ、奥さん。昨夜は失礼しました」
何かを払拭したかのように、高志は明朗闊達だった。
「あ、いいえ」
急いで、冷蔵庫から麦茶を出した。
「ご主人、申し訳ないですね、悪酔いしてしまって」
「気にしないでください。呑めば誰だってそうです。私なんかしょっちゅうですよ。ハハハ……」
行弘が言葉を選んでいた。
「朝食を済ませたら帰りますので」
その言葉に行弘と順子は目を合わせた。
食堂のテレビを観ながら食事を済ませた高志は、慌ただしく腰を上げた。
「どうも、ごちそうさまです」
そう言って二階に上がった。
行弘と順子に会話はなかった。互いの気持ちは、その表情で察知できた。
『お前のこと諦めて帰るみたいだな』
『ええ、そうみたいね』
『このまま帰していいのか?後悔しないか?』
『ええ。私はあなたの妻ですもの、あなたについて行くわ』
そんな無言劇の台詞を交わしていた。
ボストンバッグを提げて下りてきた高志は、車で送ると言う行弘に、
「ぶらぶら歩きたいので」
そう言って断ると、順子が揃えた靴を履いた。
「……幸せにな」
高志が瞬きのない目を向けた。
「……ええ。あなたも」
順子も目を合わせた。高志は行弘に頭を下げると、背を向けた。
「そこまで送ってくる」
行弘は、厨房のテーブルに置いた煙草を取ってくると急いで後を追った。先を行く高志の背中が寂しそうだった。
……ごめんね、高志。順子は心で詫びながら、橋を渡って楢の梢に二人の姿が消えるまで、食堂の窓から見送っていた。――
コーヒーを飲みながら、食堂で編み物の続きをしていた。ふと、掛け時計に目をやると、一時間が過ぎていた。窓を覗いたが、若葉がそよ風に揺れているだけだった。
……どこまで送ってるの?急に不安が過った順子は、急いで腰を上げた。
行弘がお気に入りの、山並みが眺望できる崖の所まで行ったが、二人の姿はなかった。
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