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しおりを挟むところが、次の朝を迎えても、高志が出頭したという報道はテレビにも新聞にもなかった。ここを出たのは昨日の朝だ。出頭したなら、朝刊なり、朝のトップニュースなりで報道するはずだ。順子の中に再び、暗雲が立ち込めた。
「……迷っているのかしら」
先刻帰って行った客の器を洗いながら、ぽつりと溢した。
「……いざとなったら躊躇するさ。まかり間違えれば犯人にされかねないんだから」
新聞を捲りながら、行弘が瞥見した。
「そうね。……今、どこに居るのかしら」
「はぁ……。もう一度戻ってきてくれないかな」
行弘は大きくため息を吐くと、新聞を畳んで客室の片付けに行った。
順子も行弘と同じ気持ちだった。だが、高志は二度とここには来ない。そんな漠然とした決まり事のようなものを感じた。すると突然、虚無感に襲われ、洗い物を途中にして蛇口を閉めた。部屋に入ると、卓袱台に頬杖をついて窓から覗くコブシを眺めた。コブシが風に揺れた時だった。ふと、高志との想い出が甦った。
「……結婚しないか」
「私、まだ若いもん、結婚なんかしたくないわ」
「……おふくろにお前のこと言ったら、会いたいって」
「イヤよ。結婚しないのに会う必要ないじゃない」
「分かったから。結婚しなくてもいいからおふくろに会ってくれ」
「なんでよ」
「俺達付き合ってんだから、紹介するぐらいいいだろ」
「……分かった」
高志は七人兄弟の末っ子で、長男とは親子ほどの歳の差があるそうだ。父子家庭で育った一人っ子の順子には、大家族というだけで違和感があった。結婚する気がない上に思慮がなかった順子は、老体でありながらわざわざ東京までやって来た高志の母親に、素っ気ない態度を取った。悪印象を与えたのが手に取るように分かるほど、母親は終始寡黙だった。
ホームから見送った時、窓から顔を向けた母親の目は、
「残念だけど、あなたを高志の嫁にはできません」
と言わんばかりの頑ななものを感じさせた。間もなく、新しい恋人ができた順子は、短い書き置きをして、高志のアパートから出て行った。
後に、高志は役者を諦めて故郷に帰ったことを風の便りに聞いた。
ね、どこに居るの?電話でいいから、せめて無事で居ることを知らせて。ね、高志っ!
心の叫びが高志に届くことを願いながら、順子は普段の生活に戻ることにした。
だが、普段の生活に戻ることはできなかった。翌朝、食事を終えて間もなく、予期せぬ来客があった。
「ごめんくださーい!」
女の声だった。
「はーい!」
急いで厨房から駆け付けると、玄関に居たのは、同年代のぽっちゃりした女だった。女は初対面とは思えない人懐こい笑顔を向けて、
「芦川さんの奥さんだが?」
山形訛りで訊いた。
「えぇ、そうですが」
「松田です。松田羽留子です」
「えっ!」
驚きのあまり言葉を失った順子は、瞬きのない目を羽留子に据えた。
……この人が、高志の奥さんだった羽留子さん。
「突然さ申す訳ね。ご主人いらっしゃいますか」
「あ、はい。どうぞお上がりください」
震える手でスリッパを出した。後ろめたさのようなものが順子を動揺させた。
「あなたーっ!」
行弘を呼ぶと、食堂に案内した。
「今、お茶を淹れますので」
そう言って、ストーブを点けた。
「は、羽留ちゃん!」
食堂に来た行弘が、羽留子を視て吃驚していた。
「久すぶりね」
「よく、来てくれたね。元気だった?」
「ん?まぁ。……知ってんべ?事件のごど」
羽留子が俯いた。
「え?……あぁ」
羽留子がどこまで知っているのか?それによっては言葉を選ばなくてはならない。行弘は隔靴掻痒としていた。
「いいのよ、みんな知ってっから」
羽留子はそう言って、笑顔を向けた。
「えっ?」
「こごがら帰ってすぐ打ぢ明げでくれだがら、みんな知ってるわ。奥さんとのごども」
「……そうか」
「羽留子さん、すみません」
順子は湯呑みを置くと頭を下げた。
「奥さん、謝んねでください。昔のごどじゃねか。……それに、もう松田どは離婚すてるす」
「……」
順子は行弘と目を合わせると、返す言葉を探した。
「ゆっくりできるんだろ?」
行弘が気を利かせた。
「ん?」
「今日はお客さんの予約もないし、良かったら泊まってってくれ。同窓会に出席できなかったお詫びだ」
「そうだわ。ぜひ、泊まってってください」
順子も、ゆっくり話がしたかった。
「どうも。んだげんと、遠慮すます。これがら野暮用もあるす」
「そんな。せめて、温泉だけでも入ってってください」
順子が引き留めた。
「折角んだげんと」
羽留子は一変して無表情になると、急いで腰を上げ、椅子の上に置いていたボストンバッグを開いた。
「これ、後で読んで」
そう言ってテーブルに置いたのは、厚みのある白い封筒だった。
「お二人さ会えでよいっけ」
羽留子はそう言って、笑顔にある悲しい目を向けた。
「……羽留ちゃん」
「……お気を付けて」
順子は他に言葉が見付からなかった。
小走りで橋を渡る羽留子の姿は、あっという間に小さくなり、楢の梢に消えた。
振り返った行弘は目を合わせると、食堂に戻り、白い封筒に手を伸ばした。――
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