『まあ！偶然ですわ！』 ―鈍感殿下と恋する令嬢―

第4章・クラリッサの内面

夜、ローゼンベルク家の自室。
大きな鏡の前で、クラリッサはドレスの裾を整えながら、ひとり呟いていた。

「……今日も“偶然”って言ってしまったわ」

胸の奥がきゅっと痛む。
本当は――偶然なんかじゃない。
わざと本の背表紙を選ぶふりをして、彼の机の正面に立つ。
廊下の影からタイミングを見計らい、彼が扉を出る瞬間を狙う。
まるで小さな泥棒みたいに。

「でも……だって、わたくしから『好き』とは言えませんもの」

幼いころから、何度も耳にした言葉がある。
「愛の言葉は、殿方から告げるもの」
「淑女は、待っているもの」

だから、口に出そうになるたび、喉の奥で言葉がつかえる。
“好き”なんて、どうしても言えない。

――でも、好きなのだ。
たとえ世界中に否定されても、胸の奥の熱は消えない。

だからせめて「偶然」を装って、そばにいようとする。
たとえ彼が気づかなくても、ただ隣に座れれば、それで。

「……あの方は、迷惑していないかしら」

ふと浮かぶ不安に、瞳が潤む。
けれど同時に、彼が自分の差し出したお弁当を食べてくれた日の笑顔が蘇る。

ほんの少しでいい。
一緒に過ごす時間が増えていけば――きっと「偶然」が「必然」に変わる。

クラリッサは小さく微笑み、ドレスの裾をふわりと広げた。

「明日も、偶然を信じますわ」

そう言って、鏡の中の自分に小さなウィンクを送った。