秘密のアルバイト

春日井駿

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 織姫の唇から紡がれた言葉は、蜂蜜のように甘く、それでいて刃物のように冷たかった。美由紀は何も答えられない。ただ、床に崩れ落ち、愛生によって手当を受けている萌美の姿から目が離せなかった。
 白い肌に刻まれた無数の赤い線。ところどころ皮がめくれ、血が滲んでいる。萌美はもう声も出さず、ただ静かに、小さな肩を震わせていた。愛生は消毒液の染みた脱脂綿で傷口を丁寧に拭い、軟膏を塗り、包帯を巻いていく。その手際はあまりにも慣れていて、この惨劇が日常の一部であることを雄弁に物語っていた。
「返事は?」
 織姫の声が、今度はすぐ耳元で囁かれた。いつの間にか、彼女は美由紀のすぐ隣に立っていた。美由紀の全身が恐怖で硬直し、息が詰まる。
「は……はい……」
 やっとのことで絞り出した声は、自分のものではないようにか細く震えていた。
「そう。それなら良かった」
 織姫は満足そうに頷くと、ふと表情を曇らせた。その変化はあまりに唐突で、美由紀の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「でも、残念なこともあるのよ」
 彼女はゆっくりと美由紀の顔を覗き込んだ。その瞳には、先程までのサディスティックな愉悦とは違う、冷たい怒りの色が宿っていた。
「昨夜のことよ、美由紀。貴女、途中で気絶してしまったでしょう?おかげで、私の予定が最後まで遂行できなかったわ」
 糾弾するような口調だった。まるで、美由紀が意図的に予定を妨害したとでも言うように。
「覚えてる?あの後、貴女にはもっと素晴らしい体験をさせてあげるつもりだったのに。貴女が意識を失ってしまったせいで、全てが台無しになったのよ」
 思い出すだけで腹が立つ、とでも言いたげに、織姫は細い指でこめかみを押さえた。その仕草一つで、部屋の空気がさらに重く、冷たくなるのが分かった。
「この湧き上がってくる怒りを、どうにかして収めないと気が済まないわ。……そうね、美由紀。貴女にも、少しだけ協力してもらいましょうか」
 織姫は再び美由紀の前に屈み込むと、その顔を間近で見つめた。甘い香水の匂いが、美由紀の鼻腔をくすぐる。それは昨夜の屈辱的な記憶と結びつき、吐き気を催させた。
「ほんの少し、痛みを覚えてもらうだけよ。私のこの怒りを鎮めるためにね。いくつか選択肢をあげましょう。貴女が自分で選ぶのよ」
 自分で選ぶ。その言葉に、わずかな希望を見出そうとした美由紀の心を、続く織姫の言葉が粉々に打ち砕いた。
「一つ目は、さっきの萌美と同じ、鞭打ち。もちろん、萌美よりは回数を減らしてあげるわ。二つ目は、お灸。熱いお灸を、貴女の身体の好きな場所に据えてあげる。三つ目は……そうね、この場で排便なさい。愛生と萌美、そして私の目の前でね。四つ目は、玩具を使って、貴女のその……初心な場所を弄ばれること。私が満足するまでよ。そして最後は、瀉血」
 織姫は一つ一つ、言葉を区切って、言い聞かせるように告げた。その内容はあまりに常軌を逸しており、美由紀は自分の耳を疑った。鞭打ち。お灸。排便。性的な玩具。瀉血。どれもが、想像するだけで全身の血の気が引くような、おぞましい選択肢だった。
「さあ、どれがいい?選びなさい」
 織姫は微笑んでいた。その笑みは、獲物を追い詰めた捕食者のそれだった。拒むことは許されない。ここで「嫌だ」と言えば、選択肢のどれよりも酷い運命が待っていることを、美由紀は直感的に悟っていた。母親の手術費用のためだと、自分に言い聞かせる。耐えるしかない。耐えて、この地獄を生き延びて、お金を手に入れるのだ。
 美由紀は必死に頭を回転させた。思考が恐怖で麻痺しそうになるのを、奥歯を強く噛みしめて堪える。
 まず、鞭打ち。これは絶対に嫌だ。先程の萌美の姿が目に焼き付いている。あの鋭い痛み、肌が裂ける感覚、そして残される醜い傷跡。何よりも、あの屈辱的な光景を自分自身が演じることなど、耐えられるはずがなかった。
 次に、お灸。どれほどの熱さで、どれほどの苦痛が伴うのか、全く想像がつかない。だが、火傷の痛みは鞭とはまた違う、持続的で陰湿な苦しみを与えるだろう。未知への恐怖が、この選択肢を遠ざけさせた。
 そして、排便と性的なこと。これは言語道断だった。人前で、ましてや屈辱的な形で生理現象を晒すことなど、死んだ方がましだ。性的なことに対する嫌悪感は、美由紀の根幹を成す部分だった。男性嫌いである以前に、性そのものへの強い拒絶感がある。それを玩具とはいえ、他人に弄ばれるなど、魂が汚されるような行為に思えた。選択肢として考えることすら、おぞましかった。
 残されたのは、最後の「瀉血」だけだった。
「……しゃけつ、とは……何ですか?」
 震える声で、美由紀は尋ねた。その言葉の意味を、彼女は知らなかった。医学用語のようにも聞こえるが、織姫の口から出た以上、まともなものであるはずがない。得体のしれないものへの恐怖はあったが、他の四つの選択肢がもたらす具体的な恐怖と屈辱に比べれば、まだましではないかという、藁にもすがるような思いがあった。
 美由紀の問いに、織姫は少し意外そうな顔をしたが、すぐに愉悦の色を瞳に浮かべた。
「ああ、知らないのね。元々は、体内の悪い血を抜いて病気を治療する古い医療行為のことよ」
 織姫は教えるように言った。その口調はまるで優しい教師のようだったが、美由紀は一言も聞き漏らすまいと神経を集中させた。
「でも、ここで言う瀉血は、もっと単純なこと。難しく考える必要はないわ」
 織姫はふっと笑みを漏らし、注釈を付け加えた。
「要するに、貴女の身体を少しだけ傷つけて、血を流させるだけのことよ」
 傷つけて、血を流させる。
 その言葉は直接的で、暴力的で、恐ろしかった。しかし、他の選択肢に比べれば、まだ……まだマシかもしれない、と美由紀は思った。
 鞭のように全身を打ちのめされるわけではない。お灸のように焼かれるわけでもない。そして何より、排便や性的な玩具のように、人間の尊厳を根こそぎ奪われるものではない。痛みはあるだろう。血を流す恐怖もある。だが、それはあくまで物理的な損傷だ。心の、魂の領域までは侵されないのではないか。そう、信じたかった。
 これは、選択肢の中で唯一、自分の尊厳を、ほんの僅かでも守れる可能性のあるものかもしれない。
 美由紀は固く目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、病室で眠る母親の顔。あんなにも優しく、自分を育ててくれた母。あの人を救うためなら、どんな痛みにも耐えられるはずだ。そう自分に言い聞かせた。
 ゆっくりと目を開ける。目の前には、美由紀の決断を待つ織姫の顔があった。その瞳は、好奇心と期待に満ちて爛々と輝いている。
 美由紀は、乾ききった唇を舌で湿らせた。そして、最後の力を振り絞るように、か細く、しかしはっきりとした声で、その言葉を口にした。
「……瀉血……で、お願いします」


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