蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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悪妃の妙案、怜花宮怪談!

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廃墟のような怜花宮に、わずかに芽吹き始めた緑があった。
小さな畑には、野菜の苗が整然と並び、茗渓の努力の跡がそこかしこに見える。

「ふふん、これで食料問題は解決よ!冷宮だって、やりよう次第じゃ快適に生きられるんだから!」

額の汗をぬぐいながら、茗渓は鼻歌まじりに畝を整えた。
日陰からその様子を眺めていた黒猫の怜綾は、尻尾をゆらりと動かしながらため息をついた。

(…こいつ、本当に妃なのか?)

泥まみれの手で鍬を振るう茗渓の姿は、どう見ても農婦そのもの。
猫とはいえ元・皇子である怜綾にとって、その姿はあまりにも場違いだった。

(普通、こういう女は衣装棚の前から動かないものだろう……いや、それ以前に冷宮に入ったことを嘆くのが常なのに……)

彼は呆れながらも、なぜか目が離せなかった。
とにかく妙に生命力が強い。それが気に障るのに、なぜか気になる。

だが、その平和な日々は突然終わりを告げた。

「え、なにこれ!ほんとに畑?雑草じゃないの?」
「きっとあの悪妃が勝手に作ったんでしょう?冷宮で畑なんて!」

――後宮の妃たちが、噂を聞きつけて怜花宮へとやってきたのだ。

「やめてよ!勝手に踏み荒らさないで!」

茗渓の叫びも虚しく、畑は無残に踏み荒らされてしまった。

夕暮れの空の下、泥にまみれた苗を見つめて、茗渓は唇を噛んだ。

「…………っ!」

その目には悔しさと怒りの色が浮かんでいる。

「はああああ!?なにこれ!?ちょっと、あんまりじゃない……!」

怜綾は彼女の背を見つめながら、軽く首をかしげた。

(……泣くと思ったのに。違うのか)

だが、次の瞬間――

「……いいわ。だったら、こっちにも考えがあるってもんよ」

その目が妖しく光る。現代で培った創意工夫の精神、そしてドラマ好きとしての演出魂が、ここで火を吹くのだった。

「この怜花宮……昔、女の霊がさまよっているって噂があったのよね。なら――やってやろうじゃない!」

茗渓の瞳がギラリと光った。
その様子に、怜綾は背筋に一抹の不安を覚える。

(……嫌な予感がする)

夜、怜綾の予感は見事に的中する。

その晩、茗渓は白い布を引っ張り出し、顔に粉を塗り、ぼさぼさの髪を逆立て、鏡を見ながら満足げに笑った。

「完璧。怖がらせてやるわよ、後宮のゴシップ隊たち!」

(待て、やめろ……っ、さすがにそれは阿呆だ……!)

猫の姿の怜綾が慌てて布を剥ごうと飛びかかるも、茗渓はくるりとかわす。

「だーめ!これは怜花宮の名誉を守るための作戦なんだから!」

(名誉ってなんだ……っ!そんなのより、常識を守れ!)

だが茗渓は聞く耳を持たず、そのまま屋根の上へと忍び足で移動していった。

(……こいつは何をしているんだ? 本当に阿呆なのか?)

屋根の上で白装束をなびかせながら徘徊する茗渓を、怜綾は下から見上げて思わず唸った。

(だが……)

怜綾の目が細められる。

(……不思議だな。心のどこかで、こいつの“異常な生命力”に……救われている気がする)

数日後には、妃たちの間でこんな噂が広がっていた。

「怜花宮には、処刑された女の霊がいるんですって……!」
「やっぱり悪妃は祟られてるのよ!」
「近づかない方がいいわよ!絶対に!」

こうして、誰一人として怜花宮には近づかなくなった。

「ふふふ……作戦、大成功!」

白装束を脱ぎながら、茗渓は勝ち誇ったように笑った。
傍らの怜綾は、ため息をつきながらも――

(…馬鹿げている……だが、あの畑を守るためにここまでするとはな)

と、どこか感心したような声で唸った。

暑さの残るある午後、茗渓はふと思い立って、怜花宮の外へと足を延ばしていた。
門を出て、人気の少ない廊下を抜けると、広い中庭の裏手へと出る。
冷宮に入れられて以来、こうして後宮の奥を歩くことはなかった。

「うわ、やっぱり広いわね……でも、陰気くさっ」

薄暗い建物の影を歩きながら、茗渓はふと耳を澄ませた。

――かすかなすすり泣き。

「……誰か、いるの?」

茗渓は音のする方へと足を向けた。
すると、曲がり角の先――
古びた塀の陰に、ひとりの少女が跪いていた。

着物の裾は泥にまみれ、細い肩は震え、顔は伏せられている。
長時間その姿勢を強いられていたのだろう。両膝は真っ赤に腫れ、腕にも擦り傷があった。

「ちょ、ちょっと! 大丈夫!?」

駆け寄った茗渓が声をかけると、少女は驚いたように顔を上げた。
まだ十四、五だろうか。怯えた瞳には涙の跡がくっきりと残っている。

「……わ、私……ごめんなさい……どうか、お許しを……」

「何を謝ってるのよ!? あなた、誰にやられたの?」

「……趙妃様の……簪を……落として、壊してしまって……」

絞り出すような声で告げた彼女の名は、翠鸞(すいらん)という。
趙妃付きの下働きとして仕えていたが、その日、趙妃の愛用していた翡翠の簪を誤って落とし、欠けさせてしまったという。

「それでずっとここで……? 誰にも助けてもらえなかったの?」

「……はい。終わるまで、動くな、と……」

翠鸞はもう、立ち上がる力すら残っていないようだった。
その手は土にまみれ、頬には誰かに打たれたような赤い跡。

「ふざけんなっての……!」

茗渓の目に怒りの光が宿った。

「さ、行くわよ。こんなとこで朽ち果ててる場合じゃないでしょ!」

「え……? で、でも……わたし……」

「冷宮暮らしは案外、自由で楽しいわよ? 怜花宮、案内してあげる」

そう言って、茗渓は迷わず翠鸞の肩を支えた。
少女の身体は驚くほど軽く、怯えた心まで透けて見えるようだった。

遠くの廊下の陰から、その様子をじっと見つめる影があった。
黒猫――否、人の言葉を理解する存在。

怜綾である。

(また、拾ってきたのか。あの女は……)

彼は屋根の上から、茗渓が少女の手を引いていく姿を眺めていた。
怒りを隠そうともしない茗渓の背中は、どこか眩しかった。

(普通なら、見て見ぬふりをする。いや、むしろ自分の立場を守るために遠ざけるものだ……)

その行動は、怜綾にとっても“異質”だった。
同時に、心の奥に微かなざわめきが残った。

(あんな女を……利用できるのか? それとも……)

風が吹き抜ける怜花宮。
今、そこにもう一人、小さな命が救い上げられようとしていた。

まだ陽も昇りきらぬ頃。
怜花宮の薄明かりの中で、少女はゆっくりと目を開けた。

――柔らかい寝床。
――傷にあてがわれた布。
――静かな空気。

翠鸞はゆっくりと身を起こし、周囲を見回す。

「ここは……」

「おはよう、よく眠れた?」

ふいに聞こえた優しい声。
振り返ると、淡い色の衣を纏った茗渓がにこやかに立っていた。

その瞬間、翠鸞の身体がびくりと震える。

「……貴女は……まさか……怜花宮の……“悪妃”様……」

声がかすれた。怯えたように身を引く翠鸞。

茗渓は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに小さく笑った。

「あー、それね。やっぱりそう噂されてるのね、私」

「……ごめんなさい、ごめんなさい……無礼を……っ」

「待って待って、そんなに謝らないで。ほら、傷が開くわよ」

茗渓はすっと翠鸞の手に触れた。冷たくこわばっていた手が、ゆっくりと温もりを取り戻していく。

「貴女は……どうして……私なんかに……」

「“私なんか”なんて言わないで。傷だらけで倒れてたあなたを、放っておけるほど私は冷たくないの」

茗渓の指が丁寧に包帯を巻き直す。
その仕草は、まるで小さな命を慈しむようだった。

翠鸞の瞳に、わずかな揺らぎが生まれる。

「……噂で聞いていたのとは……違う……」

「悪妃って言われてるのは知ってる。でも、ほんとの私は……ただの“お節介な変な女”よ?」

冗談めかして笑う茗渓に、翠鸞は小さく笑い返しそうになった。
だが、その表情はすぐに曇る。

「……でも、私は戻らなければ……あのままいなくなったと知れたら、趙妃様は――」
「なぜ、あんな暴力を振るうような人の元に戻ろうとするの? 逃げたっていいじゃない」

言葉に、翠鸞は小さく首を振った。

「……私には……妹がいます。まだ七つの子。母も、床に伏せたまま……私が仕えることで、わずかでも薬代が手に入るんです……」

その言葉に、茗渓の胸が締めつけられる。
どんなに理不尽でも、彼女には彼女の“帰るべき場所”がある。
それを、簡単に「逃げなさい」とは言えない――。

「……そう。……あなた、えらいね」

ぽつりと呟いた茗渓は、そっと翠鸞の手を握った。

「でもね。もし、もしも……どうしても辛くなって、息もできないような日が来たら、そのときは」

茗渓はにっこりと笑って、こう言った。

「――ここに帰っておいで。怜花宮は、そういう人のためにあるのかもしれないから」

翠鸞の目に、また涙が浮かんだ。
それは、悔しさでも悲しみでもない。

ひとときだけでも、自分が“誰かに守られた”という記憶が心に灯ったから。
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