蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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黒猫は嫉妬を知らぬふり

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怜花宮に春の陽が傾き始めたころ、思いもよらぬ来訪があった。

「へえ、ここが噂の蘭妃が住んでいるという怜花宮ね。」

墨染の衣に身を包み、しなやかに歩み寄るその姿はまぎれもなく皇子。だが茗渓の脳裏には、“麗妃の寵愛絵巻”に描かれた姿がまざまざと蘇る。

(麗妃様を苦しめた張本人……あの後宮絵巻で悪妃・蘭妃に次ぐ、もう一人の黒幕――それが、この男……怜張)

しかも、物語では麗妃に執着し、報われぬ恋の末に邪な策を巡らせた男。
茗渓は心の中で全身に警戒を鳴らした。

「これは……第二皇子殿下、ようこそお越しくださいました」

深く一礼しながらも、その目は笑っていなかった。

怜張はにこやかに微笑みながら言った。

「そんなに堅くならなくていいよ。町で会ったときみたいに、怜張と呼んでくれて構わないのに」

「いえ、殿下のご身分を知らずにいたがゆえに、失礼な呼び方をしてしまいました。以後は慎ませていただきます」

怜張は肩を竦めた。

「そうか、残念だな。君の素朴な口ぶり、嫌いじゃなかったのに」

(そうやって、懐に入り込むのがこの人のやり方……)

茗渓は怜張の穏やかな笑みに、逆にぞっとした。

「それより、幽燈殿の方角をよく歩いていると聞いたけれど……何か、探し物でも?」

(きた……本題)

茗渓はあえて気づかないふりで微笑んだ。

「幽燈殿……? いえ、ただのお散歩ですわ。怜花宮の周りは静かで、風も気持ちよくて」

「そう……。でもね、幽燈殿は昔から“呪いの出入口”とも言われている場所でね。何か引かれていく人も、時折いるんだ」

「まあ、それは……不思議ですね」

「本当に、不思議なことだよ」

怜張の視線が一瞬、茗渓の髪をかすめ、指先に、唇に――ほんのわずかだが、確かに視線が滑った。

「……君のように、こんな後宮の片隅に咲いている花は、稀だからね」

「……え?」

「ただの散歩にしては、あまりに絵になると思わないかい?」

茗渓は一瞬、言葉に詰まった。

「――そのようなお言葉、恐れ多いです」

「恐れることなんてない。僕は、君にもっと自由でいてほしいとすら思っている」

その声は、妙に優しかった。
まるで本心のようでいて、計算めいてもいる。

(……なに、この感じ)

怜張の言葉は、どれもやわらかく、穏やかで――なのに、どこかひどく冷たい気がした。
絹の手袋の下に、鋭い刃を隠しているような。

(ただの好意? それとも……)

茗渓は自分の心の鼓動がわずかに早くなっているのを感じた。けれどそれは、ときめきではない。
違う――これは、警鐘だ。

(この人……やっぱり“絵巻”で見た通りの人)

思い出す。
"麗妃の寵愛絵巻"あの中で、怜張は――表向きは陽気で自由人。だが裏では麗妃を手に入れるために、あらゆる陰謀を巡らせていた。

(麗妃様を……苦しめた人)

それだけは、許せない。
それなのに、どうして……こんな風にやさしく笑えるの?

視線の端で、怜張が自分を見つめているのを感じる。
その眼差しに、まるで“値踏み”されているような感覚が、背筋を冷たく撫でた。

(……気をつけないと)



一方その頃――

怜花宮の屋根の上、瓦の影に一匹の黒猫が潜んでいた。

(……何の用だ、怜張)

漆黒の毛並みを風になびかせながら、怜綾はじっと下の様子を伺っていた。

(子どもの頃から、なぜか俺のことを目の敵にしてきた。顔を見るたびに蔑んで、母上の死の時も、笑っていたような……)

怒りとは違う。
もっと根の深い、感情。

怜綾の尻尾がゆるく揺れた。
その眼差しは鋭く、まるで屋根の上から刺すような視線を投げかけている。

(……やはり、あやつも幽燈殿を狙っている)

怜綾は目を細める。
その金の双眸は、地上で交わされる探り合いの火花を、一瞬たりとも見逃していなかった。

怜張が帰った後の怜花宮は、不思議なほど静かだった。
残された風の気配だけが、簾をふわりと揺らす。

茗渓は、広縁に腰を下ろしていた。
手には温い茶の入った杯。けれど、口をつける気になれない。

「……疲れた」

そう呟いた瞬間、背後で、障子がすうっと開く音がした。
ふと振り返れば、そこには黒猫の姿。――否、人の姿をした怜綾がいた。

どこか不機嫌そうな顔をしているのは、茗渓でもすぐにわかった。

「……見てたのね、全部」

「当然だ。……怜花宮にあいつが来るなんて、油断ならない」

「……まさか、張り込んでた?」

怜綾は否定しなかった。代わりに、やや睨むような目で茗渓を見た。

「……怜張に何を話した?」

「別に、たいしたことは。昔、街で会ったことがあるって、それだけよ」

「そんな男と“だけ”で済ませるな。あいつは……君に興味を持ってる」

「……え?」

「見ていて分かった。言葉の端々、仕草、視線。……あいつは、君に気がある」

茗渓は目を瞬いた。まさか、怜綾がそんなことを言い出すなんて。

「いや、でも……別にどうってことないわよ」

「君がどう思ってるかなんて問題じゃない。……とにかく、気をつけろ」

「そんなに……警戒するほどなの?」

「奴の腹の中には何が渦巻いてるか分からない。昔から、表面は柔らかくても、内側は冷たい奴だった」

その声には、苛立ちと焦燥、そして――かすかな焦りが滲んでいた。

「怜綾……もしかして、妬いてる?」

「は? はぁぁ!? なんで俺があんな奴に妬かないといけないんだ!」

「いや、だってその感じ、明らかに……」

「俺はな、ただ……! あんなやつに、何かされたら困るだけだ。気をつけろって言ってるんだ。……それだけだ」

「……怜綾」

茗渓はその横顔をじっと見つめた。
その不器用な言い方に、胸がじんと熱くなる。

「……うん。気をつける。怜綾が言うなら、ちゃんとね」

「……ふん」

ぶっきらぼうに鼻を鳴らした怜綾は、また猫の姿へと戻り、茗渓の膝の上にちょこんと乗った。

「何よ、結局いつもここに来るのね」

茗渓はそっと彼の頭を撫でながら、心の中で小さく呟いた。

(……ねえ、怜綾。あなたはきっと、自分の気持ちにもまだ気づいていないのね)

(でも、大丈夫。私がちゃんと、気づいているから)

怜花宮の夜風が、二人の間を優しく撫でていった。
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