蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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明かされた正体

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月が昇り、庭の池面に銀の光が揺れている。
怜花宮の奥座敷。障子の隙間から吹き込む夜風が、灯した行灯の火をわずかに揺らした。

その明かりの傍らで、茗渓はそっと膝をつき、向かい合う怜綾を見つめた。

彼は既に黒猫の姿を解き、人の姿をとっていた。
漆黒の髪が柔らかく肩にかかり、金の双眸が揺れる灯にきらりと光る。

「……今日、怜張が来たの」

茗渓が静かに切り出す。

怜綾の表情がわずかに強張った。

「あなたを探っていた。“この宮に住み着く猫を見てみたい”って言ってたけど、本音は違う。きっと刺客が返ってこなかった理由を探りに来たのよ」

「……なるほど」

怜綾の声が低く落ちる。
目を伏せた彼の指が、床の縁をそっとなぞる。

「私、誤魔化したわ。『猫は出て行った』って。でも、彼の目は鋭い。怜花宮を見張るように命じたはず」

「……ふん、らしいな。あの男は疑い深く、しつこい」

「だから、話しておかないといけないと思って」

茗渓は小さく息を吸った。灯の揺れる中で、真剣な眼差しを向ける。

「この先、何が起こるかわからない。でも……もし、あなたがまた姿を見られたら――今度こそ、高妃に“生きている”ことが知られるわ」

「それが怖いと?」

「怖いわよ! だって……!」

茗渓は口をつぐみ、視線を落とす。

「……あのとき、私がこけて膳を倒さなければ、麗妃様は危なかった。次は、あなたが狙われるかもしれない。今はまだ、黒猫と言う認識だけど、貴方が“怜綾”だと知られたら――」

「茗渓」

怜綾が、そっとその言葉を遮るように名を呼んだ。

「……俺のことを、そんなにも」

茗渓の声が震える。
それでも目を逸らさず、怜綾の目をまっすぐに見つめた。

「私は、あなたが好き。
あなたが何者であろうと、呪われていようと、
獣の姿でも、人の姿でも……ずっとあなたを見ていた。
あなたが、生きている。それだけで……私は――」

目元に溜めていた涙が、そっと頬を伝った。

「――愛してるのよ、怜綾」

ほんの一瞬、怜綾の金の瞳が揺れた。
けれど茗渓はそれに答えを求めなかった。
ただ、息を吸って、小さく微笑んだ。

「……でもね、今はそんな話じゃないわ」

彼女は言葉を噛みしめるように、優しく続ける。

「大事なのは、あなたがここに“生きている”こと。
それを、私が――必ず守りきることよ」

「だからお願い……一人で全部背負わないで。
私は、あなたのためにここにいるんだから」

その声は震えていなかった。
愛と覚悟を宿した、まっすぐな茗渓の想いが、今――怜綾の心に、確かに届いていた。

金の瞳が揺れる。
不意に重ねられた手の温もりが、火傷のように熱い。
でも、それ以上に――そのまっすぐな想いが、痛いほど眩しかった。

「……茗渓」

低く呼んだ声は、どこか掠れていた。

怜綾は、ゆっくりと視線を下ろす。重ねられた手を見つめながら、小さく息を吐いた。

「君の言葉は……嬉しい。嘘じゃないって、すぐにわかった」

茗渓の目が、そっと潤んだまま彼を見つめている。
その視線が、怜綾の胸を締めつける。

「でも……俺は、まだ“愛”というものが何なのか、よく分からないんだ」

静かに、それでも確かな声だった。

「母様は優しかった。けれど“愛している”なんて、言ってもらったことはなかった。
誰かを想うこと、誰かに心を向けること――それは“情”なのか、“憐れみ”なのか……。
俺の中で、その境界がずっと曖昧で……」

怜綾は唇を噛んだ。
自分でも、こんなふうに迷っていることがもどかしかった。

「君のことは、信じている。傍にいてくれると、心が安らぐ。守りたいとも思う。だけど……それが“愛”だと言い切れるほど、俺は自分に自信がないんだ」

――告白に、返事ができない。

そんな自分に、苛立ちすら覚える。
けれど、曖昧な言葉で茗渓の気持ちに応えるのは、何よりも失礼だと思った。

「……ごめん。すぐに答えられなくて」

そう言って、彼は茗渓の手をそっと両手で包み込んだ。

「でも、いつか……必ず、この想いの形を見つける。“愛隠の呪”が解けるほどに、心を通わせられたと――そう思える日が来たなら……」

怜綾は、茗渓の目をまっすぐに見つめた。

「そのときは、俺からも……答えを伝える」

沈黙の中で、茗渓は小さく笑った。
涙の跡が光に滲んで、月明かりの下で美しく輝いていた。

「……うん。それでいい。ありがとう、怜綾」

二人の間に、静かに風が吹いた。
触れ合う手のぬくもりが、確かにふたりの心を繋いでいた。

怜花宮の奥深く、忘れられた離れにひっそりと灯る明かり――

そこはかつて、怜綾の母・怜芽が過ごしていた書斎。
今は誰も訪れぬその離れに、怜綾は身を潜めるように暮らしていた。

「……ごめんね、怜綾。こんなこと、本当はしたくないの。……でも、あなたを守るためなの。どうか、分かって」

茗渓の声が耳に残っている。

(……分かっている。俺が姿を見せれば、茗渓^も危険になる)

それでも――

夜になると、身体の奥からせり上がるように、月を求める衝動が湧き上がる。
月光に照らされることでしか、自分の“生”を実感できないような、そんな感覚。

(ほんの、少しだけなら――)

怜綾はそっと障子を開けた。
庭の向こうに咲く白い芍薬が、静かに夜露に濡れている。

足を運んだのは、ほんの十数歩。
月の光が差す小径を、静かに一歩一歩、踏みしめる。

その時だった――

屋根の上、わずかに揺れた影。
闇に潜む瞳が、その姿を捉えていた。

夜の離れの庭に浮かび上がる、漆黒の髪と金の瞳。

その姿は、明らかに人の形をしていながら、どこか猫の面影を残していた。
しなやかで柔らかな動き、夜風にふわりと揺れる尻尾の影――

「……あれは……何だ……?」

怜花宮を見張っていた男は、身を潜めたまま目を凝らした。
しかし、どれだけ見つめても、それが“人間”なのか、判断がつかない。

(――まさか……妖怪……?)

人でも、猫でもない、得体の知れぬ存在。
それが、静かに月を仰ぎ、芍薬の花に触れる光景は、あまりに幻想的で――どこか“この世ならぬもの”に思えた。

怜綾はそれに気づかない。
夜の静けさに包まれながら、芍薬の花にそっと手を伸ばす。

(……どうして、こんなにも、月が恋しいのだろう)

だがその刹那、風が走った。
屋根の瓦が小さく鳴った。

怜綾の耳がぴくりと動く。気配を感じ、はっと顔を上げたその瞬間――
影はすでにその場を離れ、夜の闇へと走り去っていた。

知らず知らずのうちに、怜綾は“見られて”しまったのだ。

男はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていたが、はっと我に返ると急ぎ足で怜張のもとへと駆けた。

「……それで?」

怜張が目を細め、見張りの者を見下ろすように問いかける。

「はっ。……報告いたします。昨夜――怜花宮の奥、離れの庭に……奇妙な者が現れました」

「奇妙?」

「人のようで、猫のようでもありました。……まるで、半人半猫の妖怪のような……」

その言葉に、怜張の瞳がわずかに光を帯びる。

「妖怪、だと……?」

「はっ。姿をはっきりと見ました。漆黒の髪に猫耳、金の瞳……背には……尾のようなものが……」

怜張はゆっくりと椅子にもたれた。

「……ふむ」

(あの宮に“秘密”があるとすれば……やはり“あの猫”……)

あの日、茗渓が口にした“気まぐれな猫”という言葉が脳裏に蘇る。
まさかとは思っていた。だが――

(あれが本当に妖であれば……利用価値がある)

「……面白い。よし。もうしばらく様子を見ろ。決して気配を悟られるな」

「はっ!」

男が頭を下げて退出すると、怜張はひとり、唇の端を吊り上げて小さく笑った。

「……まさか、“怜花宮”に妖が棲むとはな。これは……母上も面白がるだろう」
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