蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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影輪露

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瓶の中で淡く揺れていた液体が、怜綾の喉を流れた瞬間――
影輪露は、静かにその力を解き放った。

空気が震える。
かすかな風が室内を巡り、体を包み込む。
淡く、金色の光が差す。月光のようにやさしく、けれど確かに眩しい輝き。

「……!」

茗渓が思わず息を呑む。

黒き毛並みが淡く揺らぎ、溶けるように光の中で変化していく。
四肢が伸び、骨格が形を変え、柔らかな髪が背を撫でるように現れる。

やがてそこに立っていたのは――
かつて宮中に名を馳せた、美しき皇子・怜綾。

金の双眸が、静かに光を映し返している。

その姿を、茗渓はただ見つめていた。
震える手で、そっと用意していた包みを取り出す。

「……これ」

茗渓は柔らかく微笑みながら、白い衣を怜綾に差し出した。

「もし……貴方が人の姿に戻れた時に、渡そうと思ってたの」

その衣は、雪のように白く、縁には繊細な金の刺繍が施されていた。
どこか神聖さすら宿すようなその装束は、まるで――

「この色、離れの庭に咲く芍薬に、少し似てるでしょ?」

怜綾は一瞬驚いたように瞳を見開き、そして静かにその衣を受け取った。

(……茗渓は、ずっと……)

怜綾が白衣に袖を通すと、その清冽な佇まいが一層引き立った。
ただ、それはまだ未完成の姿。
茗渓はそっと近づくと、腰紐を手に取り、怜綾の背後に回った。

「……手、後ろに回して。少しだけ前屈みになってくれる?」

怜綾は、彼女の声に素直に従う。
背中越しに感じる茗渓の気配が、ほんのりと熱を帯びていた。

茗渓は紐を通し、左右の端をきゅ、と握った。

「じゃあ、結ぶわね……」

その瞬間だった――
布を締めるため、茗渓が前へと身を寄せた。

ふわりと柔らかな香りが鼻先を掠める。
その香りと一緒に、茗渓の胸元が、怜綾の背にそっと触れた。

「……っ」

怜綾の心臓が、一瞬で跳ねた。

(な…んだ。これ……)

普段なら気にならないはずの距離。
けれど今は、人の姿。温もりも、香りも、やけに鮮明に感じてしまう。

茗渓は気づいていないのか、あるいは気にしていのか、静かに結び目を作る手を止めなかった。

「……ごめんね、ちょっと……近かったかも」

結び終えた紐を整えながら、ふっと息を吐くように茗渓がつぶやく。

「べ、別に……」

怜綾の声がわずかに上ずる。

(……落ち着け。こんなことで動揺するなんて)

けれど背中に残ったぬくもりが、なかなか消えてくれない。

茗渓は紐の端を整えたあと、そっと手を離すと、怜綾の正面に回って微笑んだ。

「……うん。やっぱり似合うわ。すごく」

その笑顔に、怜綾は何とも言えない気持ちになる。

(……どうして、こんなときに)

胸の奥に灯った感情は、もはや“戸惑い”ではなかった。
それは、明確に“意識”だった。

けれど今は、それを言葉にする時ではない。
だから怜綾は、ほんのわずかに視線を逸らしながら、苦笑いを浮かべた。

「……支度、ありがとう」

茗渓は微笑んだまま、小さく頷いた。

そして、そっと彼の後ろに回り、手に櫛を取った。

「じっとしてて。……今、整えるから」

白く細い指先が、怜綾の黒髪に優しく触れる。
艶やかな髪が櫛を滑る音だけが、静けさの中に響いた。
茗渓は丁寧に、皇子にふさわしい髪型へと仕上げていく。

最後の髪紐を結び終えたとき、彼女はほんの少し声を弾ませた。

「……これで完璧よ!」

だがその瞬間、堪えていたものが零れ落ちた。

「っ……」

目元から一筋、涙が頬を伝って流れた。
それは声にはならない、言葉にもできない想いの滲みだった。

怜綾はふと向き直り、そっとその涙を指先で拭った。
まるで、それが崩れてしまわぬように。

「……大丈夫だ」

声は低く、けれど何よりもあたたかかった。

「俺が死ぬわけではない。必ずここに帰ってくる」

そう言って、怜綾は茗渓の両肩にそっと手を置いた。

「この場所が……俺の唯一の居場所だから」

その言葉に、茗渓の瞳が大きく潤んだ。

このとき、ふたりの間に交わされたのは「約束」ではなかった。
それは、信頼でもなく、誓いでもなく――
ただ、互いが「生きてここで再び会う」ことを心から望んだ、祈りそのものだった。

陽の光が高く昇り、白衣を纏った怜綾の背を照らしていた。
本殿の前、堂々と立つその姿は、もう“猫”ではない。
怜綾という名を持つ、一人の人間だった。

茗渓はその背に向かって静かに言った。

「……ここから先には、私は行けないわ。だけど
…怜花宮で、あなたの帰りを待ってる。」

怜綾は振り返り、太陽の光を受けて金の瞳を細めた。

「ああ、約束だ。必ず戻る。」

そう言って、まっすぐに扉の先へと歩を進める。
茗渓は、陽の光の中でその姿を見送りながら、胸の奥で小さく祈った。

(どうか、あなたが人として戻ってこられますように――)
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