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皇子の帰還
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陽光の差し込む本殿。
重々しい空気の中、諸臣が並ぶ玉座の前に、一人の青年が静かに進み出た。
白い衣には金糸が織り込まれ、凛とした佇まいに人々が息を呑む。
その顔――漆黒の髪に金の瞳。忘れもしない、かつての第三皇子・怜綾。
「まさか……」
「怜綾様……?」
ざわめきが、抑えた声で広がる。
だが、玉座に座す皇帝・怜瑾はただ静かに、弟の姿を見据えていた。
その隣、麗妃の表情もまた動じず、けれどその瞳には揺れがあった。
怜綾はゆっくりと膝をつき、深く頭を垂れる。
「……陛下。麗妃さま。ご無礼をお許しください」
その声は深く、落ち着いていた。
「私が姿を消していたのは、“人として生きる資格”を問うための時でありました。
誰にも会わず、名も捨て、静かに己の内を見つめておりました」
重なるように、沈黙が広がる。
怜綾は顔を上げ、その瞳を真正面に向けて告げた。
「今、こうして戻ったのは――その答えを得たからです」
「……答え、とは?」
皇帝の低い問いに、怜綾は静かに頷く。
「私は、まだ何も失われてなどいなかった。
名を奪われ、姿を変えられても……私が“私”であることは、誰にも否定できない。
――だから私は、再び立ち上がりたい。
この命が、母様の無念を晴らすために。
そして何より、己の心に恥じぬために」
怜綾の言葉に、臣下たちが驚いたように顔を見合わせる。
だが、麗妃は静かに微笑んでいた。皇帝もまた、その口元をかすかに引き締める。
「……怜綾、お前の目は……あの頃とは違うな」
「はい。私は……もう、誰かの影ではなく、己の意思で歩む覚悟を持ちました」
その言葉の奥に、茗渓の存在があった。
あの柔らかな眼差しと、まっすぐな声が、怜綾の背を今も押している。
皇帝は一瞬だけ目を閉じると、やがて口を開いた。
「――よかろう。お前が何を見て、何を得たのか。
それをこの後宮にて、証してみせよ」
「御意」
怜綾は再び深く頭を垂れた。
かつての怜綾ではない。
呪われた皇子でも、猫の姿の妖でもなく――
己の名を背負い、まっすぐに立つ、ひとりの“人”として。
白衣が揺れる。
その背に、何か新しい風が、確かに吹いていた。
本殿の奥、重く張りつめた静寂の中に、怜綾はひとり進み出た。
白衣の裾が畳をわずかに擦り、陽光が差し込む天窓から、その姿を金色に染めていた。
玉座に座す皇帝・怜瑾は、弟の姿を見つめる眼差しに微かな揺らぎを宿し、
その傍らに控える麗妃は、何も言わず、ただ静かに怜綾を迎えた。
「怜綾――」
怜瑾が、名を呼ぶ。怜綾は深く一礼し、やがて口を開いた。
「……兄上、そして麗妃様。今日、こうして再びお目通り叶いましたこと、心より感謝申し上げます」
声は澄んでいた。だが、どこか震えるような芯の強さが宿っていた。
「俺が姿を消していた理由……それはすべて、俺の中にある“呪い”のためでした」
二人の目が、微かに揺れる。
「十年前、俺は“雨魘(うえん)”という陰陽師により、呪いをかけられました。
――“愛隠の呪(あいいんのじゅ)”と呼ばれるものです。
その力により、俺は……人の姿を失い、猫の姿に変わってしまいました」
息を呑むような沈黙が、場を包む。
「当時、母――怜妃が謀反の罪に問われ、冷宮へ落とされたことも……すべては、仕組まれていたものでした。
母上は……冤罪だったのです」
麗妃の手が、そっと胸元を押さえる。皇帝・怜瑾の眉が、深く寄せられた。
「すべてを失いました。名も、姿も、声も、誰にも知られることなく……
このまま忘れ去られて、静かに消えていくのだと、そう思っておりました」
その目が、わずかに潤む。けれど、怜綾は微笑んだ。
「――ですが。出逢ってしまったのです。茗渓いえ、蘭妃様に」
麗妃の瞳が、優しく揺れる。
「彼女と出会い、共に過ごすうちに、私は変わりました。
人に戻りたいと思いました。生きていたい、もう一度、怜綾として――ここに立ちたいと、心から願ったのです」
怜綾は、そっと胸元の懐から小さな瓶を取り出した。
「今、私は“影輪露(えいりんろ)”という丹薬の力により、一時的に人の姿を得ています。
完全に呪いが解けたわけではありません」
しばし沈黙。そして怜綾は、深く頭を下げた。
「ですが、私は……必ず、この呪いを解いてみせます。
そして、“怜綾”として――再び、この後宮に、正式に戻ってまいります」
その声はまっすぐで、強かった。
「……兄上。どうか、この命が尽きるまでに、母の冤罪を晴らす機会を、私にお与えください」
怜瑾は、弟を見つめた。
かつて可愛がっていた、あの気高く、美しい弟が、今、ここにいる――
苦しみを越え、それでもまっすぐに生きようとする姿に、迷いはなかった。
「……怜綾。そなたの話を、信じよう」
皇帝の言葉に、怜綾はそっと目を伏せ、唇を噛んだ。
傍らの麗妃は、涙をひとつ、落とした。
それは安堵の涙か、それとも過去に抗えなかった悔しさか――
どちらであれ、確かに今、過去と現在が繋がり始めていた。
白昼の本殿に姿を現した“怜綾”――
白き衣に金の光を纏い、堂々とした足取りで玉座に進み出る姿は、かつての皇子の面影そのものだった。
それを目にした瞬間、高妃の手元にあった扇が、音を立てて折れた。
(あり得ぬ……なぜ、あやつが人の姿で……!?)
高妃は怒りと困惑を噛み殺しながら、すぐさま密使を通じて、芳燭殿奥の密室へと足を運ぶ。
室内には、すでに黒衣の男――雨魘(うえん)が待っていた。
「……高妃様、お呼びでしょうか」
しかし、次の瞬間には。
「――どういうことだ!!」
高妃の怒声が、室内を裂いた。
燭台の炎が揺れ、雨魘の背筋に冷たい汗が這い降りる。
「なぜ、“あやつ”が本殿に現れたのだ!?なぜ人の姿を取っている!?」
「……おそらくは、影輪露を服用したのでしょう。あれは一時的に呪いを押さえ込み、人の姿を取り戻す薬です。」
「――貴様が呪いをかけたのではなかったのか? “愛隠の呪”は、誰にも解けぬと豪語していたな?」
高妃の鋭い視線が、雨魘の胸元を刺す。
「わ、我が術は未だ解けてはおりませぬ……影輪露の力で一時的に姿を取り戻しているにすぎませぬ。しかし、永くは持たぬはず。いずれまた……」
「言い訳は聞いておらぬ!」
扇の柄が床に叩きつけられた。
紅い唇が怒りに震え、目元には冷ややかな光が灯る。
「“消せ”と命じたはずだ。あやつの姿が世に知られれば、我が計はすべて水泡と化す!」
「申し訳……申し訳ありませぬ……」
額を床に擦りつける雨魘。だが、高妃はその姿に目もくれず、なおも激しい怒気を吐き出した。
「ですが、完全に解呪されたわけではありません。“あやつ”はいまだ、“愛隠の呪”に囚われております」
高妃の目が、鋭く光る。
「……ならば、なぜ現れた?」
「高妃様。あの呪いを完全に解くには、“あやつ”が真に愛した者と口づけを交わさねばなりません」
「口づけ……?」
「はい。そして――その“相手”は、明らかです。“怜綾が心から想う者”……それは、怜花宮に住む蘭茗渓。ただ1人です。」
その名が出た瞬間、高妃の眉がわずかに跳ね上がった。
「……蘭茗渓。蘭妃か」
雨魘は頷き、静かに続ける。
「もし、あやつが彼女との絆を果たしてしまえば、呪いは解けてしまいます。
ならば――その娘を殺してしまえば、呪いは永遠に解けぬまま、あやつの存在はやがて“消滅”する」
沈黙。
そして、しばらくして――
「……面白い」
高妃は唇をゆがめた。
紅の口元に浮かぶその笑みは、どこまでも冷ややかで、禍々しい。
「“殺す”方が早くて、確実。怜綾が絶望し、呪いの中で朽ち果てるさまは……さぞ愉快であろうな」
扇をゆっくりと拾い上げながら、高妃は命じた。
「――準備をしろ。あの娘を、攫うのだ」
「はっ」
「この手で、すべてを終わらせてやる。十年もの時を費やしたのだ……今さら、逃がしてたまるものか」
炎がゆらめき、芳燭殿の帳の奥で、不吉な策謀が動き出す。
それは、愛の証に立ちはだかる――冷たい刃のような罠であった。
重々しい空気の中、諸臣が並ぶ玉座の前に、一人の青年が静かに進み出た。
白い衣には金糸が織り込まれ、凛とした佇まいに人々が息を呑む。
その顔――漆黒の髪に金の瞳。忘れもしない、かつての第三皇子・怜綾。
「まさか……」
「怜綾様……?」
ざわめきが、抑えた声で広がる。
だが、玉座に座す皇帝・怜瑾はただ静かに、弟の姿を見据えていた。
その隣、麗妃の表情もまた動じず、けれどその瞳には揺れがあった。
怜綾はゆっくりと膝をつき、深く頭を垂れる。
「……陛下。麗妃さま。ご無礼をお許しください」
その声は深く、落ち着いていた。
「私が姿を消していたのは、“人として生きる資格”を問うための時でありました。
誰にも会わず、名も捨て、静かに己の内を見つめておりました」
重なるように、沈黙が広がる。
怜綾は顔を上げ、その瞳を真正面に向けて告げた。
「今、こうして戻ったのは――その答えを得たからです」
「……答え、とは?」
皇帝の低い問いに、怜綾は静かに頷く。
「私は、まだ何も失われてなどいなかった。
名を奪われ、姿を変えられても……私が“私”であることは、誰にも否定できない。
――だから私は、再び立ち上がりたい。
この命が、母様の無念を晴らすために。
そして何より、己の心に恥じぬために」
怜綾の言葉に、臣下たちが驚いたように顔を見合わせる。
だが、麗妃は静かに微笑んでいた。皇帝もまた、その口元をかすかに引き締める。
「……怜綾、お前の目は……あの頃とは違うな」
「はい。私は……もう、誰かの影ではなく、己の意思で歩む覚悟を持ちました」
その言葉の奥に、茗渓の存在があった。
あの柔らかな眼差しと、まっすぐな声が、怜綾の背を今も押している。
皇帝は一瞬だけ目を閉じると、やがて口を開いた。
「――よかろう。お前が何を見て、何を得たのか。
それをこの後宮にて、証してみせよ」
「御意」
怜綾は再び深く頭を垂れた。
かつての怜綾ではない。
呪われた皇子でも、猫の姿の妖でもなく――
己の名を背負い、まっすぐに立つ、ひとりの“人”として。
白衣が揺れる。
その背に、何か新しい風が、確かに吹いていた。
本殿の奥、重く張りつめた静寂の中に、怜綾はひとり進み出た。
白衣の裾が畳をわずかに擦り、陽光が差し込む天窓から、その姿を金色に染めていた。
玉座に座す皇帝・怜瑾は、弟の姿を見つめる眼差しに微かな揺らぎを宿し、
その傍らに控える麗妃は、何も言わず、ただ静かに怜綾を迎えた。
「怜綾――」
怜瑾が、名を呼ぶ。怜綾は深く一礼し、やがて口を開いた。
「……兄上、そして麗妃様。今日、こうして再びお目通り叶いましたこと、心より感謝申し上げます」
声は澄んでいた。だが、どこか震えるような芯の強さが宿っていた。
「俺が姿を消していた理由……それはすべて、俺の中にある“呪い”のためでした」
二人の目が、微かに揺れる。
「十年前、俺は“雨魘(うえん)”という陰陽師により、呪いをかけられました。
――“愛隠の呪(あいいんのじゅ)”と呼ばれるものです。
その力により、俺は……人の姿を失い、猫の姿に変わってしまいました」
息を呑むような沈黙が、場を包む。
「当時、母――怜妃が謀反の罪に問われ、冷宮へ落とされたことも……すべては、仕組まれていたものでした。
母上は……冤罪だったのです」
麗妃の手が、そっと胸元を押さえる。皇帝・怜瑾の眉が、深く寄せられた。
「すべてを失いました。名も、姿も、声も、誰にも知られることなく……
このまま忘れ去られて、静かに消えていくのだと、そう思っておりました」
その目が、わずかに潤む。けれど、怜綾は微笑んだ。
「――ですが。出逢ってしまったのです。茗渓いえ、蘭妃様に」
麗妃の瞳が、優しく揺れる。
「彼女と出会い、共に過ごすうちに、私は変わりました。
人に戻りたいと思いました。生きていたい、もう一度、怜綾として――ここに立ちたいと、心から願ったのです」
怜綾は、そっと胸元の懐から小さな瓶を取り出した。
「今、私は“影輪露(えいりんろ)”という丹薬の力により、一時的に人の姿を得ています。
完全に呪いが解けたわけではありません」
しばし沈黙。そして怜綾は、深く頭を下げた。
「ですが、私は……必ず、この呪いを解いてみせます。
そして、“怜綾”として――再び、この後宮に、正式に戻ってまいります」
その声はまっすぐで、強かった。
「……兄上。どうか、この命が尽きるまでに、母の冤罪を晴らす機会を、私にお与えください」
怜瑾は、弟を見つめた。
かつて可愛がっていた、あの気高く、美しい弟が、今、ここにいる――
苦しみを越え、それでもまっすぐに生きようとする姿に、迷いはなかった。
「……怜綾。そなたの話を、信じよう」
皇帝の言葉に、怜綾はそっと目を伏せ、唇を噛んだ。
傍らの麗妃は、涙をひとつ、落とした。
それは安堵の涙か、それとも過去に抗えなかった悔しさか――
どちらであれ、確かに今、過去と現在が繋がり始めていた。
白昼の本殿に姿を現した“怜綾”――
白き衣に金の光を纏い、堂々とした足取りで玉座に進み出る姿は、かつての皇子の面影そのものだった。
それを目にした瞬間、高妃の手元にあった扇が、音を立てて折れた。
(あり得ぬ……なぜ、あやつが人の姿で……!?)
高妃は怒りと困惑を噛み殺しながら、すぐさま密使を通じて、芳燭殿奥の密室へと足を運ぶ。
室内には、すでに黒衣の男――雨魘(うえん)が待っていた。
「……高妃様、お呼びでしょうか」
しかし、次の瞬間には。
「――どういうことだ!!」
高妃の怒声が、室内を裂いた。
燭台の炎が揺れ、雨魘の背筋に冷たい汗が這い降りる。
「なぜ、“あやつ”が本殿に現れたのだ!?なぜ人の姿を取っている!?」
「……おそらくは、影輪露を服用したのでしょう。あれは一時的に呪いを押さえ込み、人の姿を取り戻す薬です。」
「――貴様が呪いをかけたのではなかったのか? “愛隠の呪”は、誰にも解けぬと豪語していたな?」
高妃の鋭い視線が、雨魘の胸元を刺す。
「わ、我が術は未だ解けてはおりませぬ……影輪露の力で一時的に姿を取り戻しているにすぎませぬ。しかし、永くは持たぬはず。いずれまた……」
「言い訳は聞いておらぬ!」
扇の柄が床に叩きつけられた。
紅い唇が怒りに震え、目元には冷ややかな光が灯る。
「“消せ”と命じたはずだ。あやつの姿が世に知られれば、我が計はすべて水泡と化す!」
「申し訳……申し訳ありませぬ……」
額を床に擦りつける雨魘。だが、高妃はその姿に目もくれず、なおも激しい怒気を吐き出した。
「ですが、完全に解呪されたわけではありません。“あやつ”はいまだ、“愛隠の呪”に囚われております」
高妃の目が、鋭く光る。
「……ならば、なぜ現れた?」
「高妃様。あの呪いを完全に解くには、“あやつ”が真に愛した者と口づけを交わさねばなりません」
「口づけ……?」
「はい。そして――その“相手”は、明らかです。“怜綾が心から想う者”……それは、怜花宮に住む蘭茗渓。ただ1人です。」
その名が出た瞬間、高妃の眉がわずかに跳ね上がった。
「……蘭茗渓。蘭妃か」
雨魘は頷き、静かに続ける。
「もし、あやつが彼女との絆を果たしてしまえば、呪いは解けてしまいます。
ならば――その娘を殺してしまえば、呪いは永遠に解けぬまま、あやつの存在はやがて“消滅”する」
沈黙。
そして、しばらくして――
「……面白い」
高妃は唇をゆがめた。
紅の口元に浮かぶその笑みは、どこまでも冷ややかで、禍々しい。
「“殺す”方が早くて、確実。怜綾が絶望し、呪いの中で朽ち果てるさまは……さぞ愉快であろうな」
扇をゆっくりと拾い上げながら、高妃は命じた。
「――準備をしろ。あの娘を、攫うのだ」
「はっ」
「この手で、すべてを終わらせてやる。十年もの時を費やしたのだ……今さら、逃がしてたまるものか」
炎がゆらめき、芳燭殿の帳の奥で、不吉な策謀が動き出す。
それは、愛の証に立ちはだかる――冷たい刃のような罠であった。
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