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橘 薫

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小さな嘘

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 三が日が過ぎると、将吾さんは慌ただしく海外出張に行った。今回の出張は一週間。海外で行われるゲームショーの視察だ。

 わたしは一人きりの部屋で、将吾さんとのこれからについて何度となく考えていた。
 このまま将吾さんと結婚して仕事を辞め、いつか子どもができる。そんな、ぼんやりとした未来図がある。
 家庭に入り、将吾さんの身の回りの世話をする。好きな人の為に尽くすのは喜びのはずだ。でも、それは本当に自分が心から望んだことだろうか。将吾さんがそうしてくれと言ったから、そうしようとしているのではないだろうか。

 ふと思い出すのは、将也さんに言われた「プロだろ?」の言葉だった。声優の夢はとっくに諦めたけれども、どうしてもその言葉を反すうしてしまうのだ。

 叶わない夢を持ち続けるのは正直、心が疲れる。才能がない、運がない……諦める理由はたくさんある。ずるずると夢を引き伸ばすことに疲れたのも、理由の一つだった。

 将吾さんはそんなわたしを求めてくれた。優しくて頭が良くて、仕事熱心なところにとても惹かれた。
 その気持ちに今でも嘘はない。けれども、何かが引っかかって、素直に結婚に向けての行動ができないのだ。

 日曜の午後、わたしは出張から帰ってくる将吾さんを迎えに羽田空港にいた。
 出口から出てきた将吾さんを見つけ、大きく手を振ると将吾さんはすぐに気がついて手を振り返してくれた。

「おかえりなさい」
「ただいま」
 手をつないで駐車場に向かっていると「高瀬さん?」と背中から声をかけられた。振り向くと、町谷くんが立っていた。

「町谷くん、どうしてここに」
「姉貴の見送り。姉貴、さっきの便でハワイに帰ったんだ」
 町谷くんの目がすっと将吾さんを見る。

「この前はちゃんとご挨拶できなくてすみません。改めまして、高瀬さんの同僚の町谷と言います」
 わたしは焦った。この前、と町谷くんが言っている相手は、将也さんのことだ。わたしが酔いすぎて町谷くんにマンションまで送ってもらったとき、ドアの前に将也さんがいて、町谷くんは将也さんを将吾さんと勘違いし、それを訂正しないままだったのだ。

「えっと、この前って、いつの話でしたっけ」
「ちょうど一ヶ月くらい前ですね。酔っ払った高瀬さんを家まで送ったとき、ドアの前で待ってらっしゃいましたよね、覚えてませんか」
 将吾さんは訳が分からない、という顔でわたしを見た。

「あの、町谷くん」
 わたしは、あれは将吾さんではなく、将吾さんの双子の兄、将也さんだと町谷くんに説明をしておけばよかったと後悔した。

「ああ、そうでしたね。すみません、うっかりお名前とお顔が一致しなかったものですから。町谷さん、お時間あるようでしたらちょっとお茶でもいかがですか」
「ほんとですか? 柳島さんとは一度お話ししてみたかったのでぜひ!」

 わたしは息が止まりそうになった。将吾さんはどういうつもりで町谷くんをお茶に誘ったのか。
 二人は意気投合したのか、わたしを置いて先に行ってしまった。
 将吾さんが振り返り「七海、早く」と急かす。二人の後について歩きながら、わたしは気が気ではなかった。

 空港内のカフェはそれほど混んでいず、わたしたちは窓側の四人掛けの席に座った。注文を取りに来た店員に飲み物を頼むと、将吾さんと町谷くんは改めて自己紹介を交わした。

「高瀬さんが結婚する方ってどんな方なのか知りたかったので、今日は誘っていただき嬉しいです」
「そうですか、なんかいろいろチェックされそうで怖いなぁ」
「いえいえ、素敵な方で安心しました。雑誌のインタビューなどもときどき拝読してます」
「ありがとうございます。
 また見ることがありましたら読んでいただけると嬉しいです。
 ところで、七海は会社ではいかがですか? 皆さんに迷惑をかけてないといいんですが」
「心配無用です。細かいところまで気を向けて動いてくれるので、僕らも助かってます」
「そうですか。七海はあまり自己主張をしないんですが、気配りがありますので」

 二人の会話を聞きながら、わたしは居心地の悪さを感じていた。
 今のところ、将吾さんも町谷くんもあの夜のことには触れていない。でも、このまま話題に上らない保証はない。わたしは何も聞き漏らすまいと、二人の会話に耳を澄ました。

「海外出張は頻繁なんですか」
「そうですね、今回はLAのゲームショウに自分の関わっているゲームが出展したので行ってきました。
 ゲームショーは世界各国で開催されるので、行ける範囲で行きたいとは思ってますね」
「へぇ、じゃあこの前の海外出張のときもそれですか」
「まぁ、そうですね」
「あの日、高瀬さんが心配で送ってっただけなんですが、改めてあの後、誤解されてないかずっと気になってたんで」
「ああ」

 将吾さんの手が、コーヒーカップを持つ。ふ、と息を吹きかけて冷まし、ごくりと飲む。

「誤解とか気にしないでください。七海のことも会社の方のことも、信頼してますので」
「そう言っていただけると気持ちが楽になりますね」
「会社の飲み会とかは、結構多いんですか」
「年末年始は多いですね。高瀬さん、普段は飲み会とかあまり参加しないんですけど、あの日は悪酔いしちゃったみたいで。ね?」

 突然振られてわたしはびくっとした。
「あ、うん。ちょっと、ね」
 テーブルの下で、将吾さんの手がわたしの手を握ってきた。痛くはないけれども強い握力に、何故か不安を感じた。

「町谷さんはどんな仕事をされてるんですか」
「僕は高瀬さんと同じ経理部です。柳島さんみたいにクリエイティブな仕事ではないので、渡される仕事をこなすだけなんですよ」
 会話をしながらも、将吾さんの指は変わらずわたしの手をきゅっと強めに掴んだり、緩めたりしていた。

「七海」
「え? あ、ごめん、なに?」
「今、町谷さんが七海に聞いたの、聞いてなかった?」
「ごめんなさい。ちょっと、ぼんやりしちゃって」
「町谷さん、七海にいつ頃仕事辞めるつもりか、って聞いたんだよ」
「あ……、えっと、まだはっきり決めてないから」
「オレとしては早く家庭に入ってほしいんですけどね。オレが忙しいこともあって、なかなか入籍日や結婚式のことを決められなくて」
「四月は新年度でバタバタするから、それが落ち着いて夏くらいかなって思ってはいるけど、まだ部長にも話してないし、わたしが勝手に思ってるだけだから」
「じゃ、それまでに入籍しないとだね」

 将吾さんが微笑む。その笑みになぜか居心地の悪さを感じて、わたしは目を伏せた。

「じゃ、僕はそろそろ失礼します。出張帰りでお疲れのところをありがとうございました」
 町谷くんは立ち上がり、財布を取り出した。それを将吾さんがすっと制する。

「七海の会社の方と話せてよかったです。また機会があれば話しましょう」
「ありがとうございます、嬉しいです。高瀬さん、いいかな」
「将吾さんさえよければ、私は別に」
「オレは構わないので、良かったらこちらにご連絡ください」

 将吾さんは町谷くんに名刺を渡した。町谷くんはそれを受け取ると頭を下げ、わたしに「また明日会社で」と言って去っていった。

「七海、オレ達も行こうか」
「うん」
 歩き始めた将吾さんの手が、わたしの手をきつく握った。いつもとは違う力強さに不安がもたげる。将吾さんは正面を向いたまま、言った。

「七海、オレに何か隠してることないか」
 心臓が大きくどくん、と鳴った。将吾さんが振り向く。真正面から見つめられ、わたしは反射的に目を逸らした。
「何もないなら、それでいいんだ」
 将吾さんの声は優しい。その優しさを素直に受け取れない、後ろめたさを感じている自分に、ほとほと嫌気がさした。

 家に着くまでの間も、わたしが夕飯の支度をし、二人で食卓についても、将吾さんは当たり障りのない会話しかしなかった。
 このまま何も聞かれなければいいのに、と思う。でも、将吾さんは問題を見逃す人間ではない。解決すべきことはきちんと、迅速に対応して解決するタイプの人間だ。

「ご馳走様。七海の飯、最高」
「ありがと。いつものご飯だけどね」
「それがいいんだよ。毎日飽きずに食えて、健康とかもちゃんと考えてくれてるし、愛が込もってるから」

 将吾さんはわたしを抱き寄せると、軽く頬にキスをした。そのタイミングで将吾さんのスマートフォンが鳴る。

「ちょっと待ってて」
 将吾さんがスマートフォンを持って廊下に出たので、わたしは食べ終えた食器や箸の片付けを始めた。

 しばらくすると将吾さんがリビングに戻ってきながら言った。
「七海、これから兄貴来るんだけどいいかな」
「これから?」
「金を工面してくれって頼まれてさ。バイクで来るらしいから、すぐだと思う」
「お金ってどういうこと? 貸すの?」
「ライブのブッキングが急遽決まったらしい。先払いなんだけど、今手元にないから貸してくれって。あ、ちょい待って」

 また将吾さんのスマートフォンが鳴った。話しながらノートパソコンを取り出して開いている。どうやら今度は仕事の電話らしい。
 将吾さんはわたしを手招きすると、鞄から財布を出して渡してきた。将吾さんは送話口を手で塞いで、小声で告げた。

「兄貴きたらこれ渡して、必要な金抜いてもらって」
 そう言うと将吾さんはまた電話に戻り、ノートパソコンのキーボードを器用に叩きながら会話をしている。わたしはその様子に、長くかかりそうだな、と思った。

 将也さんと顔を合わせなければならないのが、気が重くて仕方ない。忘れて、と言われたキスや、カオルさんのことを聞いたときの将也さんの反応が甦る。いやいや、と頭を振り、お金を渡すだけだから、と自分を納得させた。

 インターホンが鳴った。将吾さんはまだ仕事の電話をしている。わたしはのろのろとインターホンに出た。

「はい」
「オレ。開けて」
 ロックを外して数分後、玄関ドアのインターホンが鳴った。将吾さんのお財布を持って玄関に小走りし、ドアを開ける。

「……よぉ。将吾、いる?」
「将吾さんは今、手が離せないんです。ことづかってますので、この中から必要な分出してください」

 財布を渡すと、将也さんはきゅっと眉間にしわを寄せた。しばらく受け取ったままの姿で固まっていたが、やがて財布を開けて中から何枚かの札を引き抜いて財布を返してきた。
「来月、目黒のライブハウスでやるから見に来いって、将吾に伝えてくれる?」
「わかりました」
「じゃあ」

 将也さんがドアを開けて出て行こうとしたときに、電話を終えたのか将吾さんが来て声をかけた。
「兄貴」
「ああ、将吾。悪いな、助かったよ」
「気にするな」
「チケットさばけたら金、すぐ返す」
「わかった」

 わたしは二人の会話を邪魔しないように、将也さんに会釈してその場を離れようとした。
「七海、ここにいて」
 将吾さんの手が、優しくわたしの腕をつかんで引き止めた。

「兄貴さ、七海の会社の人に会っただろ」
「……なんでそんなこと、聞くんだよ」
「今日、空港で七海の会社の人に会った。この前は挨拶できなくてって自己紹介してくれたんだけどさ、オレはその人に会った覚えがないんだよな」
「……」
「その人、年末に酔った七海を家まで送ってくれたらしいんだけどさ、ドアの前にオレがいたってよ。オレはそのとき、出張で日本にいなかったはずなんだけど」

 わたしは思わず将也さんの顔を見た。でも、将也さんはいつものように少し不機嫌そうな顔をしていて、その表情からは感情が読めなかった。

「なんでオレのフリした?」
 将吾さんの声には怒りが含まれている気がして、わたしは将也さんがなんと返事するのか不安で、いたたまれなかった。

「ごめん」
 将也さんはあっさりと謝った。

「あの日、スーツを借りに来た。けどスマホは忘れるし、七海ちゃんかお前が帰ってくるのを待とうと思ってドアの前にいたら、七海ちゃんを会社のヤツが送ってきた。それだけだよ」
「オレのフリをした理由はあるのか」
「いや、会社のヤツが勝手に勘違いしただけだ。七海ちゃん、悪酔いしてて気持ち悪そうだったし、いちいち説明するのもめんどくせぇと思ってさ。スーツ借りてすぐ帰ったよ。悪かった」

 将吾さんは納得しかねるような顔をしていたけれども、一呼吸息を置くと言った。
「わかった。じゃあ、意図的にオレになりすました、ってことじゃないんだな」
「ああ」

 将吾さんは一応納得したらしく、わたしはホッとした。
「邪魔して悪かった。もう行くよ」
 将也さんが踵を返す。その背中に将吾さんが言った。

「兄貴、オレ、これから七海を抱くから」
 その言葉にわたしは頬が一気に赤く染まるのをかんじた。将也さんは振り向きもせずただ右手を上げ、エレベーターホールに歩いて行った。

 将吾さんはドアを閉めると鍵を掛けた。
「将吾さん、なんでわざわざ将也さんに」
 どうして宣言したのか。何を牽制したかったのか。
 もしかして将吾さんは、わたしが将也さんとキスしたことを知っているのでは、と疑ったものの、すぐにそれを否定した。
 見ていた人は誰もいない。家族はみんな寝静まっていたのだから。

「ベッド行こ」
 将吾さんはわたしの問いには応えず、わたしの背を軽く押した。
「将吾さん……あの、ご、めんなさい」
「なんで謝んの」
「言わなかった、から」

 ベッドに腰掛けさせられ、目線にかがみ込んだ将吾さんと見つめ合う。
「言うほどのことじゃないって思ったから、言わなかったんだろ」
 わたしは思わず頷いた。

 将吾さんの腕がわたしを抱き込む。背中と腰に回された腕の筋肉と、男らしさに胸がぎゅっと痛む。

「オレ、結構嫉妬するし、独占欲も強い。みっともないからあまり見せないようにしてたけどね。だから、兄貴と二人きりにならないでほしい」
 いつも冷静で優しい将吾さんの、こんな一面を見たのは初めてだった。

「わたし、将也さん苦手だもの。二人きりになることなんてないよ」
「ほんとに?」
「うん。将吾さんと将也さん、双子だけどぜんぜん違う。将吾さんは優しいけど、将也さんは……」

 その先の言葉を言うことを躊躇った。比較して将吾さんを褒めて、それで良いのだろうか。

「そっか」
 わたしのためらいに気づかない将吾さんが、嬉しそうに微笑む。
 将吾さんの指に髪を梳かれ、わたしは目を閉じて将吾さんの胸にそっと耳を押し当てた。心臓の音がとくん、とくんといっているのが聞こえる。

「おいで」
 ベッドに座った将吾さんの膝の上に座らされる。愛してる、と耳元で囁く少し掠れた声……将也さんの声と、同じようで同じじゃない。

 将吾さんの唇がわたしの唇に触れた。北海道の実家で将也さんに「七海ちゃん」と呼ばれたきのことを思い出してしまう。それと同時に、あのときのキスも。

 あれは愛からのキスじゃない。ただのアクシデントだ。酔っ払って、ただ……キスしただけだ。

 そのまま将吾さんの唇を受けながら、わたしは頭の中から、将也さんのことを懸命に追い出した。
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