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橘 薫

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瓦解

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 新年度が始まると、入社式を終えた新入社員は、全員での研修後に各部署に配属になる。
 経理部には新人が二人配属されることになり、わたしが教育担当になった。通常業務の他に教育も担当となると、繁忙期は過ぎたけれどもまた毎日残業になるのは目に見えていた。

 将吾さんはろくに出張の準備もできないまま、ドイツに旅立った。二週間の予定だけれども、三週間に延びるかも、と言われた。

 あれ以来、将也さんから何の連絡もない。そのことに安心しつつ、空虚感が胸を満たす。
 本当は将也さんに連絡して、確認したいことがあった。
 ヨーロッパにはいつから、どのくらいの期間行くのか。カオルさんがライブに来ていたことに、気づいていたのかどうか。

 でも、将吾さんが出張でいないからといって、将也さんに連絡することはできない。わたしは仕事に没頭し、なんとか気持ちのバランスを取っていた。

 四月も半ばを過ぎた金曜、わたしは休日出勤を免れたことに安堵の息をつきながら、終電間際の電車に揺られていた。

 一週間分の疲れを引きずった足取りで、駅前の24時間営業のスーパーに向かい、おにぎり二つとプリンを買う。
 駅から家までの道が、遠い。タクシーを使おうかと大通りに目を向けたときに、反対側の通りで人が揉めているのが目に入った。

 道端に止められた真っ黒な大型バイク。長身の男性が、何人かの男性に暴行されているようで、周りの人たちはトラブルに巻き込まれるのを恐れてか、遠巻きにしている。

 警察を呼んだ方がいいかもしれない。わたしはスマートフォンを取り出した。そのとき、車道を通る車のライトが殴られていた男性を照らした。ブリーチした金髪が浮かび上がる。

 気がついたときには道路に飛び出していた。車の急ブレーキがあたりに響く。
「危ねえ! 気ぃつけろ!」
 飛び交う怒号に構わず走った。誰かが警察を呼んだのか、サイレンが聞こえた。それを合図にしたかのように、暴行していた数人の男性たちが散り散りに逃げた。

「将也さん!」
 人混みをかき分けて、声をかけた。
「七海、ちゃん?」
 へたり込んでいた将也さんが顔を上げる。腫れた瞼。血が滲んで鬱血している頬が痛そうで、わたしは思わず眉根を寄せた。

「救急車呼びましょうか」
 遠巻きに見ていた女性が声をかけてくれたけれども、将也さんは「大丈夫です」とよろよろと立ち上がった。

 その姿に人混みがばらけた。誰かが呼んだと思った警察は、別のところに向かったらしく、パトカーはこなかった。

「将也さん、手当てしないと」
「平気だ、このくらい何ともねぇ」
「何ともなくないです。血、出てるし」
 将也さんはわたしを無視してバイクにまたがった。ヘルメットを被るときに、痛そうに顔をしかめる。それを見て、わたしは反射的にハンドルに手を掛けた。

「七海ちゃん、どいて」
「嫌です」
 将也さんがハンドルの上のわたしの手をそっと掴んで外そうとした。わたしは力を込めてハンドルを握った。そして、勇気を出して、将也さんの目を正面から見返した。
「手当てします。家に来てください」

 言ってから悔やんだ。もう関わらない、会わない、話さない、と決めたのに、どうして言ってしまったのか。
 わたしは自分に言い聞かせた。将也さんの怪我を手当てするだけで、他にやましいことはない。手当てが終わったら帰ってもらう。それだけだ。

 エレベーターが5階に着くまでがもどかしい。将也さんは口を一文字にして階数表示を見ている。わたしには、視線をよこさない。
「どうぞ」
 鍵を開けて将也さんを招き入れる。将也さんは小さな声で「お邪魔します」と中に入り、ドクターマーチンを脱いだ。

 カチャカチャと金属の擦れ合う音に、あの日のことがフラッシュバックする。わたしは軽く頭を振って、記憶を外へと押しやった。

 ソファに座ってもらい、腫れているところを濡らしたタオルで冷やした。血を拭い、傷を消毒する。怪我は思ったほどひどくなく、痣以外は軽い擦り傷が多かった。瞼の腫れも、多分二、三日で落ち着くだろう。

「七海ちゃん」
 顔を上げたら、将也さんと目が合った。
「将吾から、何か言われたか」
「いえ、何も。将也さんこそ、何も話してないんですか」
「何もって」
「あの日のこと」
 言ってしまうと、恥ずかしいくらいに体がほてる。

 筋肉質な二の腕に抱きとめられ、ギターを爪弾くように、丁寧に服を脱がされた。舌の愛撫、唾液の味。とめどなく溢れる蜜。貫かれ、全身の細胞が快楽に喜悦し、震えが止まらなかったあの瞬間。甘くて苦い、背徳。

「七海ちゃん?」
 呼ばれて、我に返った。慌てて絆創膏や消毒液を片付け、立ち上がる。
「お茶、入れます。お茶飲んだら帰ってください」

 将也さんは、黙ってわたしを見た。見られている、というだけで、わたしは体の奥がきゅっとなるのを感じた。

「どうぞ」
 サイドテーブルにカップを置く。
「ありがとう」
 将也さんがカップを口に運ぶ。傷に沁みたのか、顔をしかめた。

「なんで殴られてたんですか」
「ユウって覚えてる? リコの、前の男。七海ちゃんを拉致した奴」
「はい」
「アイツにさ、たまたまあそこで会って、難癖をつけられて仲間を呼ばれた。アイツのパンチ、型は派手だけど全然ダメージねぇんだよ。けど、人だかりになっちまったから、ちょっと倒れるフリでもすれば終わるかなって思ってさ」

 わたしはそっと手を伸ばすと、瞼に触れた。腫れがひどい。
「まだ痛そうですよね。もう少し冷やしましょうか」
「いや、大丈夫。なぁ……七海ちゃん」

 名前を呼ばれると心臓が跳ねる。優しいしゃべり方に耳が敏感になる。
「この前は、ごめんな」
「え……、いえ」
「怖かったから、そばにいて欲しかっただけなんだろ? オレ、舞い上がっちゃって」
「……」
「七海ちゃん、オレ……」

 その先は、言わせなかった。考えるよりも先に、体が動いた。
 頭の片隅で誰かが繰り返す。まるで、呪詛のように。
 ウラギリモノ。
 カオルサント、オナジダ。
 ショウゴサンヲ、ウラギッタ……。

 好きとか愛しているとか、そういう感情がベースなのか。それともただ、体の欲なのか。
 わからないけれども、将也さんが欲しかった。将也さんに抱かれたかった。
 あの日のように何度となく貫かれ、一つになりたかった。自分の中の一番大切な部分で、将也さんを受け止め、感じたかった。

 しがみつくように抱きついたわたしの髪を、将也さんは優しく撫でつけ、ためらうようにぽつりと言った。
「オレんち、来る?」
 わたしは大きくうなずいた。
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