BORDER LINE

橘 薫

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耽溺

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 夜の街を、バイクで駆け抜ける。わたしは将也さんの腰にギュっとつかまった。
 もう後には引けない。戻ることはできないのだ。

 将也さんの住むアパートは三階建てで、かなり古そうだった。バイクを駐車場に停めると、将也さんは無言でわたしの手を引いた。

 将也さんの部屋は、一階奥の角部屋だった。
 ドアを閉めた途端に背中から抱きしめられた。焦るように唇を求められる。焦りすぎて歯がぶつかった。
 靴を脱ぐ暇もないまま抱き上げられ、ベッドの上に寝かされた。将也さんはわたしの上に覆い被さると、「いいのか?」と聞いてきた。

 見つめ返して、頷いた。
 今度はゆっくりと重なる唇。優しく食みあい、軽く吸い、突き、口蓋を舌でなぶり合う……甘い。
 首筋に、鎖骨にいくつものキスの雨が降る。将也さんの唇が、わたしの体のラインをなぞる。
 将也さんは、あの日以上に貪欲で、優しかった。

 焦らされ、甘くとろかされ、囁きがわたしを導く。素肌が密着する。まるで、溶け合って一つになりたがっているかのように。

 与えられない苦しさに声にならない声を上げると、それを待っていたかのように、体の中心に将也さんの体が割り入ってくる。
 将也さんの律動は自分勝手ではなくて、一つ一つをわたしに確認する。

 気持ちいい?
 どこがいい?
 どうされたい?
 言って? 全部叶えてやる
 七海が気持ちよくなるなら、何でもする
 恥ずかしくない
 オレには何でも言って
 七海のためなら、何でもする……

 言われる言葉の数々は、吐息交じりで切ない。言葉の端からこぼれる将也さんの愛情。わたしは与えられるすべてを真摯に受け止めた。

 奥に伝わる振動は、ときに深く、ときに浅い。早いリズムで掻き回されたかと思うとゆったりと踊らされ、何度もピークを迎えた。

 声はやがて嗄れ、将也さんの律動も闇に溶けていく。もつれ合うようにベッドに沈み込み、互いの唇を求めあいながら、ゆっくりと、ゆったりと……夜に、包まれた。
 どこまでも夜が続けばいい。そうしたらずっと、将也さんを感じていられる。将也さんに愛される喜びだけを感じられる……。

 少しずつ空が白み始める。窓から入る朝の日差しが、一条の線となって室内に差し込む。その線に目を射抜かれ、わたしは目を覚ました。

 横に、将也さんが眠っていた。健やかな寝息と、伸びた無精髭。瞼の腫れがまだ痛々しい。
 じわりと愛しさがこみ上げた。怖くてぶっきらぼうで、優しくて愛情深い。このあどけない寝顔が、将也さんの本質のような気がした。

「……ん」
 目を閉じたまま、将也さんの手がわたしを探す。肌に触れると、安心したように抱きこまれた。
「おはよ」
 寝ぼけながらの、低い声。耳心地が良くてまた目を閉じてしまう。
「起きてる?」
「起きてます」
「ん」
 額に将也さんの息がかかる。唇が額に触れた。

 将也さんの腕の中で、わたしは幸せすぎて死にそうだった。でも、その反面、将吾さんへの後ろめたさや、罪悪感もこみ上げてくる。
 将吾さんを裏切ることに対して、腹をくくったつもりだった。それなのに朝が来ればまた、その決意は揺らぐ。

「七海、こっち向いて」
 優しく顎を摘む指は、わたしの体を固定するには充分だ。
「もう一回、いい?」
 かすかに頷いたのを将也さんは見逃さなかった。

 触れれば溢れる豊かさ。こんなに合う人がいる、という事実。指で、舌で自分の素をむき出しにされていく快楽。
 エレガントなのに野生を感じさせる腰の動き。必ずわたしの状態を確認する気遣い。言葉、態度、体で示される「愛されている」充足感。

 将也さんの愛し方はまるで音楽だ、とわたしは思う。ギターを奏でるように体を奏で、爪弾いて鳴らされる。
 きっと、どうすればわたしの体が良く鳴るのかを、直感的に知っているのだろう。
 時折将也さんがあげる、耐えきれない吐息と微かな声。重なり合う二人の声が儚くて切なくて、わたしは涙を堪えるのに必死だった。

 次に目が覚めたのは昼下がりだった。日差しの中、うつらうつらとしながら天井を見る。耳の奥に残るギターのコード。微かに聞こえるハミングに、ゆっくりと頭を回す。

 窓の近くの椅子に腰掛けて、将也さんがギターを弾いていた。
 日差しを受けて光る金髪。集中しているその様子は、新しいおもちゃに夢中な子どものようにも見えた。
 指の動きをぼんやりと眺めながら、将也さん自身が音楽だ、とわたしは思う。

 わたしが起きたことに気づいたのか、将也さんはギターを弾くのをやめて傍らに置いた。
「おはよ」
「おはようございます」
「ま、昼だけどな」
 明るい日の中で見つめ合うのは照れくさく、後ろめたかった。昼の光の中では、何もかもが暴かれてしまう。

「腹、減ってるよな。外、行こう」
「あ、はい」
 定食屋に向かう間も、差し向かいで座り、食事をする間も、特に何を話すわけでもない。ただ、空いた胃袋を一杯にする。将也さんが咀嚼する口の動きを見ながら、これから先を思って不安がひたひたと寄せるのを感じていた。

 部屋に戻るとまた、どちらからともなく肌を触れ合わせる。
 何かを話すわけでもないのに、名前を呼ばれ、請われる。愛し、味わう互いの体には、飽きることがない。
 こんな風にただずっと、愛し合えればいいのに。
 生きること、生活すること。日常の瑣末なことや食べる、飲む、排泄する……それらが全部、疎ましい。

 将也さんの部屋で、将也さんの肩に頭をもたせかけ、将也さんの好きな音楽を聴きながら、全身を薄い不安が覆っていく。
 来週には将吾さんがドイツから帰ってくる。将吾さんが帰ってきたら、どうしたらいいのか。

「七海ちゃん、オレ、今月末からヨーロッパ行くんだけどさ」
「聞きました、将吾さんから」
「そっか。それで、オレさ、戻ってきたらもう……バンドは、やらない」
「……え? え?」
 バンドをやらない、というのはどういうことか。ただ、バンドでのライブをやらないというだけで、音楽は続けるのだろうか。

「あの日、なんで急にライブやることになったかっていうとさ、知り合いがフィンランドのクリエイターチーム呼ぶから、ライブやれってお膳立てしてくれたんだ。
 で、ライブ見たその人たちがオレの曲気に入ってくれて、一緒にやらないかって誘ってくれた」
「凄いですね」
「うん。まぁ、今はネットで打ち合わせしながら作れるんだけど、一度スタジオや制作環境を見て欲しいって言われてさ。それでちょっと、行くことにした」
「はい」
「で、その、帰ってきたらさ」

 将也さんは、その先を言い淀んだ。少し口を開けてはキュッと口を閉じるのを何度か繰り返し、結局は何も発さないまま、沈黙した。

「あの」
 わたしは、勇気を振り絞ってあのことを聞くことにした。もう、聞かずにはいられなかったのだ。
「カオルさん、ライブに来てましたか」
 あの日、将吾さんはカオルさんが将也さんのライブを見にきていた、と言った。将也さんは気づいただろうか。カオルさんをステージから見つけたのだろうか。

「なんで知ってんの」
 その返事は、わたしにとっては衝撃だった。カオルさんが来ていたことを、当然のように知っていた。満員のライブハウスで弟を見つけられなくても、彼女を見つけられたということが、どんな意味を持つかくらい、わたしはすぐに察した。

 わたしは、震える声を懸命に抑えながら言った。
「あの日、将吾さんは朝までカオルさんと飲んでたって言ったから、ライブを見に来てたんだろうなって思って」
「そっか」
 将也さんの手がわたしの肩に回る。わたしはそれを受け入れていいのかわからず、硬直したままだった。

「フィンランドのチームに声をかけて、ライブのブッキングをしろって言ってくれたの、カオルなんだよ。
 あいつの旦那、アメリカ人の理学療法士でさ、世界中のミュージシャンが施術を受けに来るくらい凄腕らしい」
「カオルさんとは、ずっと連絡、取ってたんですか」
「いや」
 将也さんの手が肩から離れた。ギシ、とベッドが軋み、立ち上がる。冷蔵庫から冷えたビールを二本取り出すと、プルトップを開け、渡してくれた。

「ちょっと、飲もうか。飲めなかったらいいけど」
「いえ、頂きます」
 冷えた缶ビールに口をつける。ほろ苦い味は、今のわたしの気持ちそのままだ。

「年明けてからだったかな。急に連絡が来てさ。オレの音楽に興味持ってるクリエイターがいる。彼らは仕事で二月に日本にいるはずだから、ライブをブッキングしろってさ」
「強引なんですね」
「カオルはそういうところ、あるから」
「あの、将也さん……」

 将也さんに山ほど聞きたいことがある。
 どうしてカオルさんと別れたのか。将吾さんとカオルさんを取り合ったのは本当なのか。弟の彼女だとわかっていて、どうしてカオルさんを好きになったのか。

「カオルのこと、気になる?」
 わたしはこくん、とうなずいた。
「将吾さんと、カオルさんを取り合ったと聞きました」
「将吾がそう言った?」
「はい」
「そっか」

 将也さんはビールを呷った。喉仏がごくり、と動く。将也さんはビールの缶を置くと、わたしに向き合った。
「七海ちゃんには全部、知ってほしいと思ってる。だから、話してもいいか」
「はい」

 わたしは覚悟を決めた。自ら望んで、聞きたいと言ったのだ。そして、将也さんはその気持ちに応えようとしてくれている。将也さんの気持ちを確認するには、すべてを聞かなければいけないとわたしは思った。
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