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1巻
1-2
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「英雄だった人間が世界に呪いをかけたんだもの。私がいくら人に好かれようとしたって無駄よね。いつか呪いをかけられるかもしれないと思われているんだから」
この事実を知って、私は人から嫌われることを受け入れてしまった。世界を呪うつもりなどまったくないが、人々からそう思われるのも仕方がない。
「クローディア……それは王たちにも非があるよ。英雄と闇の精霊王だけが悪いのではない。神話の中にもそう書かれているだろう。君が嫌われるのはおかしいよ」
兄が眉間に皺を寄せて言う。
「そうだとしても、みんなが私を忌み嫌っているのは事実よ。世界を滅ぼしかけた闇使いより、世界を救った光使いのほうが好かれるのは当然だわ」
英雄の呪いによって世界は滅びるしかないのだと誰もが思っていた時、救いをもたらした女性がいたのだ。その人は、金色の髪に蒼天の色の瞳を持つ女性で、光の精霊王の加護を受けていた。
滅びかけた世界は、この美しい光使いによって救われ、英雄の国は新たにレイシアと名付けられた。
「クローディア……」
「それはそうと、用が済んだならもういいかしら。本の続きを読みたいの」
私が話を切り上げようとすると、兄は慌てたように口を開いた。
「じ、実は君を誘いに来たんだ。午後から母上と邸の外へ散歩に出かける予定なんだけど……もしよかったら君も、その……一緒にどうかな?」
「邸の外へ……? 公爵夫人は、最近はだいぶお加減がいいようね」
私は父のことを公爵、母のことを公爵夫人と呼んでいる。
闇の精霊王の加護持ちである私を産んだことで、母は心身ともに参ってしまっていた。私を産んでからというもの、一日のほとんどをベッドで過ごすような生活が続いている。
授乳期間が終わってからはほとんど会っていなかったが、元気になっているのなら何よりだ。
「そうなんだ。最近は徐々に体力を取り戻しつつあってね。少し外出する程度なら問題はないって医者も言ってるよ」
兄は嬉しそうに語る。
私だって、母と分かり合いたいという気持ちはある。だが、私が同行したら、母はまた体調を崩すかもしれない。そう思って、兄の誘いを断ることにした。
「私は遠慮するわ。二人で楽しんできて」
「……そうか」
兄はそれだけ言うと、肩を落として私の部屋から出ていった。
彼と入れ替わるようにして、専属侍女が冷たいタオルと氷水を持ってきてくれる。私を必死に手当てする彼女の手は震えていた。
私付きの侍女は、みんな私のことを怖がるので長続きしない。
私が闇の精霊王の加護持ちであることについて、辞めていく侍女たちは固く口止めされているため、世間では様々な憶測が飛び交っている。私が侍女をいびり倒しているとか、侍女を人体実験に使っているとか。
この専属侍女は、まだ私付きになって一週間も経っていない。けれどこの様子では、彼女もじきに辞めてしまうだろう。
「もう下がっていいわ。そのタオルだけちょうだい」
手を冷やすくらいなら自分でできる。そう思った私は専属侍女に言った。
すると彼女はほっとしたように頷いて、そそくさと部屋を出ていった。
その様子を眺めながら、私はふーっと深く溜息をつく。
これまで、一体何人の侍女が辞めていっただろう? あまりに頻繁に侍女が入れ替わるので、もう数えるのをやめてしまった。
そろそろこの状況をなんとかしなくては。
私は椅子に深く座り直して、ある考えをまとめ始めた。
数日後。私の予想通り、専属侍女は辞職を申し出て邸から出ていった。
その知らせを聞いてすぐ、私は父であるアラウディー・レイツィア公爵の執務室へ向かう。
ノックをして執務室に入ると、父と執事のジョルダンが驚いたように目を丸くした。
「クローディア、珍しいな」
確かに、呼ばれてもいないのに私が父の執務室に来るのは珍しいことだ。驚くのも無理はない。
「公爵、もう私に専属侍女はいりません」
私が単刀直入に言うと、父は悲しさと安堵が入り混じったような複雑な顔をした。
父が新しい侍女を見つけてきても、どうせ怖がって辞めてしまうに違いない。だったら、無理に専属侍女を持つ必要はないだろう。
バッドエンドを回避したい私としては、これ以上自分の評判を落としたくないし、おかしな噂が広まるのも避けたい。
自分のことは自分でできるし、これがみんなにとって一番いい選択だ。
「……そうか。なら、お前の世話はジョルダンに――」
「いいえ、ジョルダンにはジョルダンの仕事があります」
父の言葉を遮ると、彼は怪訝そうに問い返してきた。
「では誰が……」
すると、珍しくジェラルドが私以外の人にも見えるように姿を現した。
「当然俺だろ」
ジェラルドの姿を見て畏怖を覚えたのか、父とジョルダンの顔が強張る。
すると父を守るように、美しい青年が姿を現した。草原のような色をした髪に黄金の瞳、肩で切りそろえられた髪。
姿を見るのは初めてだが、父に加護を与えた風の精霊王ロマーリオだろう。
精霊たちは自分の好みの魂を持つ人間に、気まぐれに加護を与える。それ自体はとても珍しいというわけではないのだが、精霊王から加護をもらえることはまずないと言っていい。
ただ、ロマーリオは特別で、父の前にも何度かレイツィア公爵家の人間に加護を与えたことがある。
彼はレイツィア公爵家の人間を気に入っているらしい。
この世界では精霊だけでなく、人にも属性があって、同じ属性の精霊とは良好な関係を築きやすい。レイツィア公爵家の人間には風属性の者が多く、兄も風の魔法を使う。
属性は遺伝することが多いので、基本的には両親のどちらかと同じ属性しか使えない。ただ、稀に親と違う属性を持っていたり、複数の属性を持っていたりすることもある。また、光と闇の属性は遺伝しないので、ちょっとレアな存在だ。
ロマーリオはジェラルドを警戒しているらしく、顔に不快の色を浮かべている。
それを見たジェラルドは、ははっと笑った。
「そう警戒するな。取って食いはしない」
「どうだか」
ロマーリオの声は硬い。けれどジェラルドは気にしたふうもなく、視線を父に向けた。
「クローディアの面倒は俺が見る。他の人間はもう寄越すな」
「し、しかし……」
父は躊躇うように言った。ただでさえ人に関わろうとしない私を精霊に任せては、人間社会からますます隔絶させてしまうと心配しているのだろう。
だが、ジェラルドはもっと現実的な問題を指摘した。
「お前が寄越す人間は、クローディアに害をなす者ばかりだ。これ以上、俺のクローディアを傷付けられてはたまらない」
今まで私の専属になった侍女は、私の姿を見た途端に失神したり、怯えて仕事にならなかったりしていた。先日のように、怪我をさせられることも珍しくない。
そして、決して表には出さないが、そんな彼女たちの態度に困っている自分が確かにいる。ジェラルドはそれを気にしてくれているのだろう。
予想外の展開ではあるが、新しい侍女が来なくなるなら、ジェラルドに世話してもらっても構わない。
私がそんなことを思っていると、ロマーリオが嫌そうな顔をしながら口を開いた。
「私もジェラルドに賛成です。アラウディー」
「ロマーリオ……」
父は困ったように眉を下げて彼のほうを見る。
「精霊は主が傷付くことをよしとしません。それはあなたも知っているでしょう。ジェラルドの機嫌が悪くなる一方であることは、みんなが感じ取っています。この状況が続いていいとは、私には思えません」
ロマーリオの言葉に、父は納得したのだろう。静かに頷いて、ジェラルドのほうを見た。
「分かった。ではジェラルド殿、お願いします」
「貴様に言われるまでもない」
そう言って、ジェラルドは姿を消した。ロマーリオもそれを見届けて姿を消す。
「クローディア、何か困ったことがあれば言いなさい」
父は気遣うような言葉を投げかけてくれるが、私と目を合わせようとはしない。彼もまた、私のことを恐れている者の一人だった。
「お気遣い痛み入ります」
「家族だからね」
父はそう言って疲れたように笑った。
◆◆◆
私の名前はアラウディー。レイツィア公爵家の現当主だ。
今しがた娘が出ていった扉をぼうっと見つめながら、私は深い溜息をついた。
――どうしてこうなってしまったのか……
彼女が生まれた時のことは、今でもよく覚えている。
生まれてきた子供は、黒い髪に黒い瞳をしていて、肌は褐色だった。それはまぎれもなく闇の精霊王の加護を持っている証拠。
使用人はその容姿を見て絶句し、妻は悲鳴を上げて失神した。息子のリアムは戸惑いを隠せず、私と自分の妹を交互に見ていた。
娘は赤ん坊だというのにあまり泣かなかった。それどころか生まれたばかりの彼女からは、周囲の様子をつぶさに観察しているような視線を感じた。
そんなことを思い出していると、傍らに控えていたジョルダンが、静かに口を開いた。
「旦那様、もう少しお嬢様とお話しする機会を持たれてはいかがです?」
「……もう何を話せばいいかすら分からないのだよ。クローディアは、私の前で笑ってくれない。だいたい父と思っているのかどうかも分からない。いつも『公爵』としか呼んでくれないからな」
娘は自分の立場をわきまえているのか、人と距離をとっている。私の前にも必要最低限しか顔を見せず、部屋にいることが多かった。
嫌われてはいないと思う。でも、好かれてもいない気がする。その証拠に、娘は一度も私に笑顔を見せたことがない。
けれど以前、娘を心配してこっそり様子を見に行くと、彼女は笑っていた。闇の精霊王と話していたのだろう。それはとてもささやかな笑顔だったが、私の前では決して見せない顔だった。
「お嬢様が笑わない原因は、分かっておいでなのでしょう」
「私が仕事ばかりであまり構ってやれないから……」
「他には?」
「……闇の精霊王に対する忌避の心が、どうしても捨てきれない。それを見透かされているのだろう」
そう答えながら、娘の誕生を報告しに王宮へ行った時、王妃からかけられた言葉を思い出す。
『闇の精霊王の加護持ちであることと、生まれてきた子供の性格にはなんの関係もありません。彼女がどういう人間になるかは周囲の大人や環境によって決まります』
ズクリと胸に刃物が突き刺さるような痛みを感じる。あれから六年が経っても、私はいまだに娘の存在を受け入れられずにいた。
「理由は他にもあるでしょう」
「他……?」
「あなたは、お嬢様に笑顔を見せてほしいのですよね?」
「ああ」
「では、逆にあなた自身はどうなのですか?」
質問の意味が分からずに首を傾げると、彼の口から溜息が漏れた。
「お嬢様の前であなたが笑ったところを、私は見たことがありません」
「そ、それは……」
ジョルダンの言わんとすることが分かり、私は口ごもる。
「奥様やお坊ちゃまの前では自然に笑っておいでなのですから、できないわけではないはずです。けれどお嬢様の前では、あなたはいつも仏頂面をされています。そんな相手に、どうして心が開けますか」
「うっ」
もっともだ。返す言葉もない。
闇の精霊王の加護持ちだから、なんだって言うんだ。
娘を前にするたび、いつもそうやって己を叱咤してきた。けれど体はそう簡単に言うことを聞いてくれない。
「どんな子であろうと、私たち夫婦の愛すべき娘だ。私は息子も娘も、同じように愛しているよ」
そう、力のない声で言う。ジョルダンはそんな私を見て、また深い溜息をついた。
娘が生まれたことは喜ばしいことだ。でも私は、生まれたての彼女を見た時、心の底から喜ぶことができなかった。そんな自分が嫌になる。
「念のため申し上げておきますが、専属侍女が次々辞めてしまうことについても、お嬢様に非はありませんからね。あの方は、侍女に淹れたての紅茶をかけられても、叱責すらなさいませんでした」
「何? 紅茶をかけられたのか? や、火傷をしたのか?」
「はい。数日前のことです。お嬢様からは、大事には至らなかったと聞いています。けれどこういうことは、今回が初めてではありません。お嬢様が、もう侍女はいらないとおっしゃったのもよく分かります」
娘の侍女は長続きしない。新しい侍女を雇おうにも、クローディアのことを他言しない人間を見極めなければならないので、毎回私も探すのに苦労していた。
王宮の騎士団長を務めている私は、それなりに忙しくしており、このことばかりに時間を取ってはいられない。
だから、侍女はもういらないと娘に言われた時、私は正直なところ安堵した。彼女の真っ黒な目に見つめられると、そんな弱い心を見透かされているようで居心地が悪くなり、思わず目を逸らしてしまったのだ。
それと同時に、彼女に決別を宣言されたような気分になって、少し悲しくもなった。
本当に最低な父親だ。
「いわれなき中傷からお嬢様の心を守るのは、あなたがた親の役目です。王妃様にもそう言われたのでしょう? 本当にお嬢様を愛しているとおっしゃるのなら、もう少しご自分の行いを省みられるのがよろしいかと」
ジョルダンの言うことは正しい。これではどちらが主なのか分かったものじゃない。
彼はそれだけ言うと、一礼して執務室から出ていった。
一人になった私は、引き出しから建国神話の書かれた本を取り出す。
闇の精霊王の力は驚くほど強大だ。先ほどジェラルドに対面しただけで、私は身がすくむほどのプレッシャーを感じた。
そんな彼を使役できる娘の存在が知れ渡れば、その力を利用しようとする者や、危険視して排除しようとする者が現れるだろう。
だから私は国王夫妻と相談して、ある程度の年齢になるまで、彼女が闇の精霊王の加護持ちであることを隠すことにした。それはあの子を守るためだった。
確かに娘のことを考えてしたはずなのに、今やこの家の中さえ、彼女にとって安全に過ごせる場所ではなくなっている。
けれど、私にもどうしようもなかったのだ。
娘がその気になれば、世界を滅ぼすことも可能なのかもしれない。そう思うと、どうしても彼女を前に身構えてしまう。
私は本をぱらぱらとめくりながら、溜息をついた。
◆◆◆
父と話してから数週間。侍女がいない生活にも慣れ、快適な日々を送っていた。そんなある日、私は用があって父の執務室を訪ねた。
部屋の前につくと、「クローディアは見世物じゃない!」と叫ぶ父の声が聞こえてくる。
私は扉の前に立ち止まり、何事かと耳を澄ました。
父は執事のジョルダンと話をしているようだ。どうやら私にお茶会への招待状が届いているらしい。
貴族の子息や令嬢は、六歳ぐらいになるとお茶会に出席するようになる。そこで同じ年頃の子供たちと顔合わせするのだ。
親たちはそこで子供たちの様子を見ながら、将来の伴侶候補を選んだり、大人同士のコネクションを築いたりする。
貴族とは一見華やかだけど、結構大変なのだ。
私も六歳になったので、そういうお茶会への誘いが来ているのだろう。
父の声に耳を澄ましていると、さらに話が聞こえてくる。
私は闇の精霊王の加護持ちだということを隠すため、家族以外の人と顔を合わせたことがない。だから私は、レイツィア公爵家の掌中の珠と呼ばれているという。
侍女が次々と替わっていくので悪い噂も流れているが、実は人の心を惑わすほど美しい令嬢なのではないかという人もいるらしい。
それらの噂が広まった結果、私を一目見たいと言う貴族があとを絶たず、六歳を過ぎた今、招待状が殺到しているという。
掌中の珠とは、なんとも皮肉な呼び名だ。私は自嘲の笑みを浮かべた。
もし私が本当にお茶会に出たら、きっと会場は阿鼻叫喚の巷と化すだろう。せっかくだが、誘いはすべて断るしかない。
私はそう結論付けて、とりあえず執務室の扉をノックしてみる。
すると父の声がやみ、扉が開いた。開けてくれたのはジョルダンだ。
「クローディア、どうかしたか?」
執務室に入った私に、父がそう言った。彼は精一杯笑みを浮かべようとしているが、やはり顔は引きつっている。
私は構わず用件を口にした。
「一つお願いがありまして」
「お、お願い? クローディアが、私に?」
「ええ」
私の初めてのおねだりだ。父だけでなく、ジョルダンすらも驚いて目を丸くしている。
「な、なんだ、そのお願いとは?」
「勉強を教えてくれる先生をつけていただきたいのです」
私の言葉がよほど意外だったのか、父はさらに目を丸くして固まってしまった。
それとは対照的に、ジョルダンは納得したようで、穏やかな笑みを浮かべている。
小説では、クローディアは誰からも避けられていたため、家庭教師もついていなかった。そのせいで、学力は平民と同じか、それ以下だったのだ。
学校に入った時点では文字すら読めず、貴族令嬢としてのマナーもなっていなかった。
だからクローディアは余計に貴族社会で孤立するのだ。
それはつまり、教養さえ身につければ、少なくとも社交界で恥をかかずにすむということでもある。これでも身分は公爵令嬢だし、もしかしたら一人ぐらいは友達ができるかもしれない。
そう思って自分でできる限りの勉強はしていたのだが、最近は独学で知識を身につけることに限界を感じ始めていた。
「お嬢様は勉強熱心でいらっしゃいますね。いつも図書室にこもって何やら難しい書物をご覧になっていますし」
どうやらジョルダンには隠れて勉強していたことがバレていたようだ。さすがは公爵家の執事。侮れない。
「お嬢様、僭越ながら勉強は私が見ましょう。独学で基礎は身につけていらっしゃるようですから、お嬢様の実力に合わせてご指導いたします」
思わぬ申し出に、今度は私が驚く番だった。
「それは嬉しいけれど、あなただって仕事があるでしょ」
「大丈夫ですよ。仕事の合間にお教えするので。いかがでしょう、旦那様」
ジョルダンがそう言うと、父は眉間に皺を寄せて考える。
「……そうだな。ではジョルダン、頼む」
「かしこまりました」
とんとん拍子に話が進んでいく。これは私にとっていい話だ。よく考えれば家庭教師を雇ったところで、侍女と同じようにすぐ辞めてしまうだろう。ならばここはありがたくジョルダンの申し出を受けるのがいいと思えた。
私はジョルダンのほうを向き、頭を下げる。
「ジョルダン、よろしくお願いします」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
ジョルダンはにっこり笑った。その様子を見ていた父が、私たちの間に割り込むように話しかけてくる。
「ところでクローディア。勉強はジョルダンに教わるとして、マナーのほうはどうだ?」
マナーは母親が教えるのが普通だ。
だが、小説のクローディアと同様に、私は母との交流がない。当然ながら、マナーを教えてもらったこともない。とはいえ人前に出た時に恥をかきたくはないので、邸のみんなの所作を盗み見て覚えるようにしていた。いわゆる『見て学べ』というやつだ。
「公爵夫人から教わったことはないですが……一通りはできると思います」
私がそう答えると、父は怪訝そうな顔をした。当然だ。どこに人の所作を盗み見てマナーを学ぶ令嬢がいるのだ。父はそんなこと想像もしていないだろう。
「一度、イサナに見てもらいなさい。彼女には私から話をしておこう」
イサナとは母の名だ。体調はよくなってきているというが、私に会っても大丈夫なのだろうか。少し心配になるものの、自分に正しいマナーが身についているかどうかは気になる。
「分かりました。よろしくお願いします」
私はそう言って父にも頭を下げ、執務室をあとにした。
その数日後。私はマナーを教えてもらうために、母と食事をすることになった。
だが、母はやはり私が怖いのだろう。向かいに座っても目を合わせようとしないし、顔も青ざめている。
「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
私が話しかけると、母はビクッと体を震わせた。
「え、ええ」
母はかろうじて答えているような状態だ。カトラリーに伸ばした手は、小刻みに震えていた。
「では、は……始めましょうか。えっと……ま、まず……」
「一から教えていただく必要はありません。私が食事をするのを見て、おかしなところがあれば指摘してください」
「え?」
母は驚いて目を丸くする。
私は母の返事を待たず、運ばれてきた料理を無言で食べ始めた。
食事をしている間、母からは一度も指摘されなかった。すべての食器が片付けられると、彼女は感心したように口を開く。
「す、すごいのね。教えることがないぐらい完璧だわ」
心からの賛辞だと分かり、ちょっと嬉しくなる。
それから一週間ほどかけて食事の時以外のマナーも見てもらったが、どれも問題なかった。
自分のマナーが社交界で通用するレベルに達していると分かって、私は心底安堵した。
母のマナー講座(といっても教わることはほとんどなかったのだけど)が一通り終わったあと、私は父の執務室へ呼び出された。呼び出しなんて珍しいと思いながら執務室に入ると、唐突に質問された。
「マナーの勉強はどうだ? イサナからはもう終わったと聞いたのだが……」
「はい。特に問題なく終わりました。公爵夫人からは何も教えることがないとお墨付きをもらっています」
「ほ、本当に? まだ始めて一週間ほどしか経っていないだろう?」
父は目を丸くして言う。
「もともと基礎はできていたので、教わることはほとんどありませんでした」
「そ、そうか」
聞きたいことはこれだけだろうか。それならばもう失礼しようと思っていると、父はまた口を開いた。
「イサナと……何か話をしたのか?」
「マナーの話をしましたわ」
何を今さら聞くのだろうか。私が怪訝な顔をしながら短く答えると、父は慌てて首を横に振った。
「あ、いや、そうではなくて……それ以外のことで何か……」
「私語は慎むべきかと思ったので、特には」
母は私のことを恐れている。下手に心労をかければ体調に影響するのだから、不必要に話しかけるのはよくないだろう。そもそも、マナーを見てもらえるだけで十分ありがたいことだ。
そう考えて、私は本当に必要なこと以外は何も話さなかった。
「そ、そうか。確かに授業中に私語はいかんな。いい心がけだ……」
父はそう言いながらも、残念そうな顔をしてこちらを見つめてくる。
「他にも何か?」
「あ~、いや、なんでもない」
執事のジョルダンがもの言いたげな視線を父に向けていたが、父はそれ以上何も言わない。
「そうですか。それでは失礼します」
私のほうからは特に話すこともなかったので、そう言って父の執務室をあとにした。
この事実を知って、私は人から嫌われることを受け入れてしまった。世界を呪うつもりなどまったくないが、人々からそう思われるのも仕方がない。
「クローディア……それは王たちにも非があるよ。英雄と闇の精霊王だけが悪いのではない。神話の中にもそう書かれているだろう。君が嫌われるのはおかしいよ」
兄が眉間に皺を寄せて言う。
「そうだとしても、みんなが私を忌み嫌っているのは事実よ。世界を滅ぼしかけた闇使いより、世界を救った光使いのほうが好かれるのは当然だわ」
英雄の呪いによって世界は滅びるしかないのだと誰もが思っていた時、救いをもたらした女性がいたのだ。その人は、金色の髪に蒼天の色の瞳を持つ女性で、光の精霊王の加護を受けていた。
滅びかけた世界は、この美しい光使いによって救われ、英雄の国は新たにレイシアと名付けられた。
「クローディア……」
「それはそうと、用が済んだならもういいかしら。本の続きを読みたいの」
私が話を切り上げようとすると、兄は慌てたように口を開いた。
「じ、実は君を誘いに来たんだ。午後から母上と邸の外へ散歩に出かける予定なんだけど……もしよかったら君も、その……一緒にどうかな?」
「邸の外へ……? 公爵夫人は、最近はだいぶお加減がいいようね」
私は父のことを公爵、母のことを公爵夫人と呼んでいる。
闇の精霊王の加護持ちである私を産んだことで、母は心身ともに参ってしまっていた。私を産んでからというもの、一日のほとんどをベッドで過ごすような生活が続いている。
授乳期間が終わってからはほとんど会っていなかったが、元気になっているのなら何よりだ。
「そうなんだ。最近は徐々に体力を取り戻しつつあってね。少し外出する程度なら問題はないって医者も言ってるよ」
兄は嬉しそうに語る。
私だって、母と分かり合いたいという気持ちはある。だが、私が同行したら、母はまた体調を崩すかもしれない。そう思って、兄の誘いを断ることにした。
「私は遠慮するわ。二人で楽しんできて」
「……そうか」
兄はそれだけ言うと、肩を落として私の部屋から出ていった。
彼と入れ替わるようにして、専属侍女が冷たいタオルと氷水を持ってきてくれる。私を必死に手当てする彼女の手は震えていた。
私付きの侍女は、みんな私のことを怖がるので長続きしない。
私が闇の精霊王の加護持ちであることについて、辞めていく侍女たちは固く口止めされているため、世間では様々な憶測が飛び交っている。私が侍女をいびり倒しているとか、侍女を人体実験に使っているとか。
この専属侍女は、まだ私付きになって一週間も経っていない。けれどこの様子では、彼女もじきに辞めてしまうだろう。
「もう下がっていいわ。そのタオルだけちょうだい」
手を冷やすくらいなら自分でできる。そう思った私は専属侍女に言った。
すると彼女はほっとしたように頷いて、そそくさと部屋を出ていった。
その様子を眺めながら、私はふーっと深く溜息をつく。
これまで、一体何人の侍女が辞めていっただろう? あまりに頻繁に侍女が入れ替わるので、もう数えるのをやめてしまった。
そろそろこの状況をなんとかしなくては。
私は椅子に深く座り直して、ある考えをまとめ始めた。
数日後。私の予想通り、専属侍女は辞職を申し出て邸から出ていった。
その知らせを聞いてすぐ、私は父であるアラウディー・レイツィア公爵の執務室へ向かう。
ノックをして執務室に入ると、父と執事のジョルダンが驚いたように目を丸くした。
「クローディア、珍しいな」
確かに、呼ばれてもいないのに私が父の執務室に来るのは珍しいことだ。驚くのも無理はない。
「公爵、もう私に専属侍女はいりません」
私が単刀直入に言うと、父は悲しさと安堵が入り混じったような複雑な顔をした。
父が新しい侍女を見つけてきても、どうせ怖がって辞めてしまうに違いない。だったら、無理に専属侍女を持つ必要はないだろう。
バッドエンドを回避したい私としては、これ以上自分の評判を落としたくないし、おかしな噂が広まるのも避けたい。
自分のことは自分でできるし、これがみんなにとって一番いい選択だ。
「……そうか。なら、お前の世話はジョルダンに――」
「いいえ、ジョルダンにはジョルダンの仕事があります」
父の言葉を遮ると、彼は怪訝そうに問い返してきた。
「では誰が……」
すると、珍しくジェラルドが私以外の人にも見えるように姿を現した。
「当然俺だろ」
ジェラルドの姿を見て畏怖を覚えたのか、父とジョルダンの顔が強張る。
すると父を守るように、美しい青年が姿を現した。草原のような色をした髪に黄金の瞳、肩で切りそろえられた髪。
姿を見るのは初めてだが、父に加護を与えた風の精霊王ロマーリオだろう。
精霊たちは自分の好みの魂を持つ人間に、気まぐれに加護を与える。それ自体はとても珍しいというわけではないのだが、精霊王から加護をもらえることはまずないと言っていい。
ただ、ロマーリオは特別で、父の前にも何度かレイツィア公爵家の人間に加護を与えたことがある。
彼はレイツィア公爵家の人間を気に入っているらしい。
この世界では精霊だけでなく、人にも属性があって、同じ属性の精霊とは良好な関係を築きやすい。レイツィア公爵家の人間には風属性の者が多く、兄も風の魔法を使う。
属性は遺伝することが多いので、基本的には両親のどちらかと同じ属性しか使えない。ただ、稀に親と違う属性を持っていたり、複数の属性を持っていたりすることもある。また、光と闇の属性は遺伝しないので、ちょっとレアな存在だ。
ロマーリオはジェラルドを警戒しているらしく、顔に不快の色を浮かべている。
それを見たジェラルドは、ははっと笑った。
「そう警戒するな。取って食いはしない」
「どうだか」
ロマーリオの声は硬い。けれどジェラルドは気にしたふうもなく、視線を父に向けた。
「クローディアの面倒は俺が見る。他の人間はもう寄越すな」
「し、しかし……」
父は躊躇うように言った。ただでさえ人に関わろうとしない私を精霊に任せては、人間社会からますます隔絶させてしまうと心配しているのだろう。
だが、ジェラルドはもっと現実的な問題を指摘した。
「お前が寄越す人間は、クローディアに害をなす者ばかりだ。これ以上、俺のクローディアを傷付けられてはたまらない」
今まで私の専属になった侍女は、私の姿を見た途端に失神したり、怯えて仕事にならなかったりしていた。先日のように、怪我をさせられることも珍しくない。
そして、決して表には出さないが、そんな彼女たちの態度に困っている自分が確かにいる。ジェラルドはそれを気にしてくれているのだろう。
予想外の展開ではあるが、新しい侍女が来なくなるなら、ジェラルドに世話してもらっても構わない。
私がそんなことを思っていると、ロマーリオが嫌そうな顔をしながら口を開いた。
「私もジェラルドに賛成です。アラウディー」
「ロマーリオ……」
父は困ったように眉を下げて彼のほうを見る。
「精霊は主が傷付くことをよしとしません。それはあなたも知っているでしょう。ジェラルドの機嫌が悪くなる一方であることは、みんなが感じ取っています。この状況が続いていいとは、私には思えません」
ロマーリオの言葉に、父は納得したのだろう。静かに頷いて、ジェラルドのほうを見た。
「分かった。ではジェラルド殿、お願いします」
「貴様に言われるまでもない」
そう言って、ジェラルドは姿を消した。ロマーリオもそれを見届けて姿を消す。
「クローディア、何か困ったことがあれば言いなさい」
父は気遣うような言葉を投げかけてくれるが、私と目を合わせようとはしない。彼もまた、私のことを恐れている者の一人だった。
「お気遣い痛み入ります」
「家族だからね」
父はそう言って疲れたように笑った。
◆◆◆
私の名前はアラウディー。レイツィア公爵家の現当主だ。
今しがた娘が出ていった扉をぼうっと見つめながら、私は深い溜息をついた。
――どうしてこうなってしまったのか……
彼女が生まれた時のことは、今でもよく覚えている。
生まれてきた子供は、黒い髪に黒い瞳をしていて、肌は褐色だった。それはまぎれもなく闇の精霊王の加護を持っている証拠。
使用人はその容姿を見て絶句し、妻は悲鳴を上げて失神した。息子のリアムは戸惑いを隠せず、私と自分の妹を交互に見ていた。
娘は赤ん坊だというのにあまり泣かなかった。それどころか生まれたばかりの彼女からは、周囲の様子をつぶさに観察しているような視線を感じた。
そんなことを思い出していると、傍らに控えていたジョルダンが、静かに口を開いた。
「旦那様、もう少しお嬢様とお話しする機会を持たれてはいかがです?」
「……もう何を話せばいいかすら分からないのだよ。クローディアは、私の前で笑ってくれない。だいたい父と思っているのかどうかも分からない。いつも『公爵』としか呼んでくれないからな」
娘は自分の立場をわきまえているのか、人と距離をとっている。私の前にも必要最低限しか顔を見せず、部屋にいることが多かった。
嫌われてはいないと思う。でも、好かれてもいない気がする。その証拠に、娘は一度も私に笑顔を見せたことがない。
けれど以前、娘を心配してこっそり様子を見に行くと、彼女は笑っていた。闇の精霊王と話していたのだろう。それはとてもささやかな笑顔だったが、私の前では決して見せない顔だった。
「お嬢様が笑わない原因は、分かっておいでなのでしょう」
「私が仕事ばかりであまり構ってやれないから……」
「他には?」
「……闇の精霊王に対する忌避の心が、どうしても捨てきれない。それを見透かされているのだろう」
そう答えながら、娘の誕生を報告しに王宮へ行った時、王妃からかけられた言葉を思い出す。
『闇の精霊王の加護持ちであることと、生まれてきた子供の性格にはなんの関係もありません。彼女がどういう人間になるかは周囲の大人や環境によって決まります』
ズクリと胸に刃物が突き刺さるような痛みを感じる。あれから六年が経っても、私はいまだに娘の存在を受け入れられずにいた。
「理由は他にもあるでしょう」
「他……?」
「あなたは、お嬢様に笑顔を見せてほしいのですよね?」
「ああ」
「では、逆にあなた自身はどうなのですか?」
質問の意味が分からずに首を傾げると、彼の口から溜息が漏れた。
「お嬢様の前であなたが笑ったところを、私は見たことがありません」
「そ、それは……」
ジョルダンの言わんとすることが分かり、私は口ごもる。
「奥様やお坊ちゃまの前では自然に笑っておいでなのですから、できないわけではないはずです。けれどお嬢様の前では、あなたはいつも仏頂面をされています。そんな相手に、どうして心が開けますか」
「うっ」
もっともだ。返す言葉もない。
闇の精霊王の加護持ちだから、なんだって言うんだ。
娘を前にするたび、いつもそうやって己を叱咤してきた。けれど体はそう簡単に言うことを聞いてくれない。
「どんな子であろうと、私たち夫婦の愛すべき娘だ。私は息子も娘も、同じように愛しているよ」
そう、力のない声で言う。ジョルダンはそんな私を見て、また深い溜息をついた。
娘が生まれたことは喜ばしいことだ。でも私は、生まれたての彼女を見た時、心の底から喜ぶことができなかった。そんな自分が嫌になる。
「念のため申し上げておきますが、専属侍女が次々辞めてしまうことについても、お嬢様に非はありませんからね。あの方は、侍女に淹れたての紅茶をかけられても、叱責すらなさいませんでした」
「何? 紅茶をかけられたのか? や、火傷をしたのか?」
「はい。数日前のことです。お嬢様からは、大事には至らなかったと聞いています。けれどこういうことは、今回が初めてではありません。お嬢様が、もう侍女はいらないとおっしゃったのもよく分かります」
娘の侍女は長続きしない。新しい侍女を雇おうにも、クローディアのことを他言しない人間を見極めなければならないので、毎回私も探すのに苦労していた。
王宮の騎士団長を務めている私は、それなりに忙しくしており、このことばかりに時間を取ってはいられない。
だから、侍女はもういらないと娘に言われた時、私は正直なところ安堵した。彼女の真っ黒な目に見つめられると、そんな弱い心を見透かされているようで居心地が悪くなり、思わず目を逸らしてしまったのだ。
それと同時に、彼女に決別を宣言されたような気分になって、少し悲しくもなった。
本当に最低な父親だ。
「いわれなき中傷からお嬢様の心を守るのは、あなたがた親の役目です。王妃様にもそう言われたのでしょう? 本当にお嬢様を愛しているとおっしゃるのなら、もう少しご自分の行いを省みられるのがよろしいかと」
ジョルダンの言うことは正しい。これではどちらが主なのか分かったものじゃない。
彼はそれだけ言うと、一礼して執務室から出ていった。
一人になった私は、引き出しから建国神話の書かれた本を取り出す。
闇の精霊王の力は驚くほど強大だ。先ほどジェラルドに対面しただけで、私は身がすくむほどのプレッシャーを感じた。
そんな彼を使役できる娘の存在が知れ渡れば、その力を利用しようとする者や、危険視して排除しようとする者が現れるだろう。
だから私は国王夫妻と相談して、ある程度の年齢になるまで、彼女が闇の精霊王の加護持ちであることを隠すことにした。それはあの子を守るためだった。
確かに娘のことを考えてしたはずなのに、今やこの家の中さえ、彼女にとって安全に過ごせる場所ではなくなっている。
けれど、私にもどうしようもなかったのだ。
娘がその気になれば、世界を滅ぼすことも可能なのかもしれない。そう思うと、どうしても彼女を前に身構えてしまう。
私は本をぱらぱらとめくりながら、溜息をついた。
◆◆◆
父と話してから数週間。侍女がいない生活にも慣れ、快適な日々を送っていた。そんなある日、私は用があって父の執務室を訪ねた。
部屋の前につくと、「クローディアは見世物じゃない!」と叫ぶ父の声が聞こえてくる。
私は扉の前に立ち止まり、何事かと耳を澄ました。
父は執事のジョルダンと話をしているようだ。どうやら私にお茶会への招待状が届いているらしい。
貴族の子息や令嬢は、六歳ぐらいになるとお茶会に出席するようになる。そこで同じ年頃の子供たちと顔合わせするのだ。
親たちはそこで子供たちの様子を見ながら、将来の伴侶候補を選んだり、大人同士のコネクションを築いたりする。
貴族とは一見華やかだけど、結構大変なのだ。
私も六歳になったので、そういうお茶会への誘いが来ているのだろう。
父の声に耳を澄ましていると、さらに話が聞こえてくる。
私は闇の精霊王の加護持ちだということを隠すため、家族以外の人と顔を合わせたことがない。だから私は、レイツィア公爵家の掌中の珠と呼ばれているという。
侍女が次々と替わっていくので悪い噂も流れているが、実は人の心を惑わすほど美しい令嬢なのではないかという人もいるらしい。
それらの噂が広まった結果、私を一目見たいと言う貴族があとを絶たず、六歳を過ぎた今、招待状が殺到しているという。
掌中の珠とは、なんとも皮肉な呼び名だ。私は自嘲の笑みを浮かべた。
もし私が本当にお茶会に出たら、きっと会場は阿鼻叫喚の巷と化すだろう。せっかくだが、誘いはすべて断るしかない。
私はそう結論付けて、とりあえず執務室の扉をノックしてみる。
すると父の声がやみ、扉が開いた。開けてくれたのはジョルダンだ。
「クローディア、どうかしたか?」
執務室に入った私に、父がそう言った。彼は精一杯笑みを浮かべようとしているが、やはり顔は引きつっている。
私は構わず用件を口にした。
「一つお願いがありまして」
「お、お願い? クローディアが、私に?」
「ええ」
私の初めてのおねだりだ。父だけでなく、ジョルダンすらも驚いて目を丸くしている。
「な、なんだ、そのお願いとは?」
「勉強を教えてくれる先生をつけていただきたいのです」
私の言葉がよほど意外だったのか、父はさらに目を丸くして固まってしまった。
それとは対照的に、ジョルダンは納得したようで、穏やかな笑みを浮かべている。
小説では、クローディアは誰からも避けられていたため、家庭教師もついていなかった。そのせいで、学力は平民と同じか、それ以下だったのだ。
学校に入った時点では文字すら読めず、貴族令嬢としてのマナーもなっていなかった。
だからクローディアは余計に貴族社会で孤立するのだ。
それはつまり、教養さえ身につければ、少なくとも社交界で恥をかかずにすむということでもある。これでも身分は公爵令嬢だし、もしかしたら一人ぐらいは友達ができるかもしれない。
そう思って自分でできる限りの勉強はしていたのだが、最近は独学で知識を身につけることに限界を感じ始めていた。
「お嬢様は勉強熱心でいらっしゃいますね。いつも図書室にこもって何やら難しい書物をご覧になっていますし」
どうやらジョルダンには隠れて勉強していたことがバレていたようだ。さすがは公爵家の執事。侮れない。
「お嬢様、僭越ながら勉強は私が見ましょう。独学で基礎は身につけていらっしゃるようですから、お嬢様の実力に合わせてご指導いたします」
思わぬ申し出に、今度は私が驚く番だった。
「それは嬉しいけれど、あなただって仕事があるでしょ」
「大丈夫ですよ。仕事の合間にお教えするので。いかがでしょう、旦那様」
ジョルダンがそう言うと、父は眉間に皺を寄せて考える。
「……そうだな。ではジョルダン、頼む」
「かしこまりました」
とんとん拍子に話が進んでいく。これは私にとっていい話だ。よく考えれば家庭教師を雇ったところで、侍女と同じようにすぐ辞めてしまうだろう。ならばここはありがたくジョルダンの申し出を受けるのがいいと思えた。
私はジョルダンのほうを向き、頭を下げる。
「ジョルダン、よろしくお願いします」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
ジョルダンはにっこり笑った。その様子を見ていた父が、私たちの間に割り込むように話しかけてくる。
「ところでクローディア。勉強はジョルダンに教わるとして、マナーのほうはどうだ?」
マナーは母親が教えるのが普通だ。
だが、小説のクローディアと同様に、私は母との交流がない。当然ながら、マナーを教えてもらったこともない。とはいえ人前に出た時に恥をかきたくはないので、邸のみんなの所作を盗み見て覚えるようにしていた。いわゆる『見て学べ』というやつだ。
「公爵夫人から教わったことはないですが……一通りはできると思います」
私がそう答えると、父は怪訝そうな顔をした。当然だ。どこに人の所作を盗み見てマナーを学ぶ令嬢がいるのだ。父はそんなこと想像もしていないだろう。
「一度、イサナに見てもらいなさい。彼女には私から話をしておこう」
イサナとは母の名だ。体調はよくなってきているというが、私に会っても大丈夫なのだろうか。少し心配になるものの、自分に正しいマナーが身についているかどうかは気になる。
「分かりました。よろしくお願いします」
私はそう言って父にも頭を下げ、執務室をあとにした。
その数日後。私はマナーを教えてもらうために、母と食事をすることになった。
だが、母はやはり私が怖いのだろう。向かいに座っても目を合わせようとしないし、顔も青ざめている。
「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
私が話しかけると、母はビクッと体を震わせた。
「え、ええ」
母はかろうじて答えているような状態だ。カトラリーに伸ばした手は、小刻みに震えていた。
「では、は……始めましょうか。えっと……ま、まず……」
「一から教えていただく必要はありません。私が食事をするのを見て、おかしなところがあれば指摘してください」
「え?」
母は驚いて目を丸くする。
私は母の返事を待たず、運ばれてきた料理を無言で食べ始めた。
食事をしている間、母からは一度も指摘されなかった。すべての食器が片付けられると、彼女は感心したように口を開く。
「す、すごいのね。教えることがないぐらい完璧だわ」
心からの賛辞だと分かり、ちょっと嬉しくなる。
それから一週間ほどかけて食事の時以外のマナーも見てもらったが、どれも問題なかった。
自分のマナーが社交界で通用するレベルに達していると分かって、私は心底安堵した。
母のマナー講座(といっても教わることはほとんどなかったのだけど)が一通り終わったあと、私は父の執務室へ呼び出された。呼び出しなんて珍しいと思いながら執務室に入ると、唐突に質問された。
「マナーの勉強はどうだ? イサナからはもう終わったと聞いたのだが……」
「はい。特に問題なく終わりました。公爵夫人からは何も教えることがないとお墨付きをもらっています」
「ほ、本当に? まだ始めて一週間ほどしか経っていないだろう?」
父は目を丸くして言う。
「もともと基礎はできていたので、教わることはほとんどありませんでした」
「そ、そうか」
聞きたいことはこれだけだろうか。それならばもう失礼しようと思っていると、父はまた口を開いた。
「イサナと……何か話をしたのか?」
「マナーの話をしましたわ」
何を今さら聞くのだろうか。私が怪訝な顔をしながら短く答えると、父は慌てて首を横に振った。
「あ、いや、そうではなくて……それ以外のことで何か……」
「私語は慎むべきかと思ったので、特には」
母は私のことを恐れている。下手に心労をかければ体調に影響するのだから、不必要に話しかけるのはよくないだろう。そもそも、マナーを見てもらえるだけで十分ありがたいことだ。
そう考えて、私は本当に必要なこと以外は何も話さなかった。
「そ、そうか。確かに授業中に私語はいかんな。いい心がけだ……」
父はそう言いながらも、残念そうな顔をしてこちらを見つめてくる。
「他にも何か?」
「あ~、いや、なんでもない」
執事のジョルダンがもの言いたげな視線を父に向けていたが、父はそれ以上何も言わない。
「そうですか。それでは失礼します」
私のほうからは特に話すこともなかったので、そう言って父の執務室をあとにした。
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