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1巻
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1
自分の機嫌は自分で取る。
極論かもしれないけれど、社会人四年目にしてそれを悟れたことは幸運だった。
入浴後、髪の毛を乾かし終わった近内菜々美は、ブラシで髪を梳きながら、手元にあるスマートフォンで時間を確認する。
二十二時、至福の時間の始まりだと頬を緩ませた。
床に落ちた髪を素早く掃除し、電気を消してベッドに潜り込む。暗がりの中で見るスマートフォン画面からの光が眩しい。――そんなのは、ちっぽけなこと。
「今日もお世話になります!」
イヤホンをして、画面を左に四回スライドし、アプリアイコンが一つしかない画面を出す。他人に万が一にも見られないための自衛の策だ。
このスライドが儀式のようなものになっていて、気分を高揚させてくれる。目当てのアイコンをタッチして、『褒め褒めボイス』アプリを起動させた。
イケボイスがひたすら自分を褒めてくれる、至高の時間をくれるアプリだ。
しかも同じ空間にいるような音響効果を表現する、バイノーラル録音で配信されている。低い美声に耳元で囁かれる感じが、もうとんでもなく、いい。
このアプリを知ったとき、こんな寂しいことで自分を慰めているのはどこの誰だと思った。
興味本位でダウンロードして、聞いて、すぐにわかる。
きっと、世の中には、自分みたいな女が多いのだ。
その『どこの誰』になるのに、一時間もかからなかった。今やヘビーユーザーだ。
今日一日を思い返しながら、欲しいセリフを購入済の『イケボイス一覧』から探す。今一番聞きたい言葉を選べるのがこのアプリの魅力だ。
選択して再生をタップする。
低くて、力強くて、優しい、イケボイスの吐息が聞こえると、無意識にイヤホンを耳穴にしっかりと押し込んだ。
『姫』
心を溶かす声に、菜々美は目をぎゅっと瞑る。
『今日も一日お疲れ様でした。……少し、お疲れのように見えます。明日はお休みをしてもいいのではありませんか』
「飲み会が……。滅多に来ない部長が参加するから行かなければいけないの。良識ある社会人として参加せざるをえない飲み会……休めない……」
アプリの自動音声相手に返事をしてしまった。
休めるものなら休みたい。混んでいない美容室でゆったりと髪を切りたいし、歯医者にも行きたい。カフェでゆっくりと読みかけの本を読みながら、美味しいコーヒーをじっくり味わって飲みたい。
疲れた身体に鞭打って働くこの身が空しくなるときはある。
脱・社畜を叫び仕事を辞める友人はいるけれど、自分は雇われて稼ぐタイプで、会社という組織には感謝をしていた。
そして現実的な話、有給休暇届を出していないから休めない。
朝一番に上司に風邪だと嘘をつくのも面倒だし、なんといっても忙しい日々が続いていた。明日休んだらそのしわ寄せが一気に押し寄せてくる。
イケボイスに入り込みきれない自分を悔やみつつ、次のセリフを待つ。
『フゥ……。いつも姫は頑張り過ぎですね』
心に触れられて、目の奥がじわりと熱くなった。
『でも、そうやって、やるべきことから逃げない姫の凛とした後ろ姿は、誇り高く、美しいです』
月曜日からの笑顔を貼り付け続けた毎日がばっと脳裏を通り過ぎて、目からはらりと涙が零れる。
『明日はとびきり美味しいコーヒーをお淹れしましょう。姫は一人ではありません。私はいつも見守っておりますから。でも、どうか、無理だけはおやめくださいね』
イケボイスはそこで終わった。
無機質な、不特定多数に配信された、作りこまれたシナリオとはいえ台本を読んだだけのボイスにここまで癒される。
菜々美は合掌した。
「声優さんと技術の進歩に感謝」
いつのまにか涙は乾いている。
菜々美は身を起こして、新しいイケボイスを探し始めた。サンプルボタンの横には金額が表示されていて、セリフが長ければそれだけ高い。
ホストにお金を使う女の人の気持ちは、きっとこれなんだろう。イケボイスのために働いている気がしなくもないが、それもまた人生だ。
「あ、なんかこれいいかも」
いくつかサンプルを聞いた後、ピンときたものを買う。こういうときにあまり迷わないのが自分のよいところだ。
『私はいつも見守っておりますから』
イケボイスの優しいセリフを頭の中でリピートして、胸にじわじわと温かいものが広がるのを感じる。
会社の人には、実は『守られたい』願望のある女だなんて死んでも知られたくない。
自分を守るのは自分だ。けれど、妄想の中でくらい、守られることに浸りたいじゃないか。
イケボイスの子守唄効果はすごい。
せっかくダウンロードしたイケボイスを聞く前に、菜々美は眠りに落ちていた。
見渡しても人ひとりいない、がらんとした二十時のオフィス。
菜々美は会社のホームページに載っているイケオジ社長の笑顔の写真を、頬杖をついてぼんやりと眺めていた。
今日は滅多に飲み会に参加しない部長、鬼原隆康が参加する懇親会がある。菜々美も出席する予定で、飲み会代も支払い済だ。開始は十九時。だが菜々美はまだ一人、オフィスにいる。
目頭を押さえながら、椅子に背中をもたせかけた。
今日は女子社員の化粧が念入りで、お洒落をしてる人も多かった。そう思い出しながら、頭を横にゆっくりと倒し肩を揉んだ。
彼女たちは、部長、鬼原隆康、独身、三十二歳、イケメン、高身長、筋肉質――を狙って、民族大移動のごとく、オフィスから居酒屋へと消えてしまった。
「あ、お金もあるのか」
そこは重要だろうな、と呟きながら菜々美は椅子に座り直して、表計算ソフトを画面に出し、デスク上の見積書に目を落とした。
天に二物も三物も与えられた部長とは違い、菜々美は、面倒だという理由だけで染めない黒い髪と、大きめな目が特徴なだけ。日本人女性の平均身長で、細身な方。ある程度、整った顔で産んでもらったおかげで、化粧と服装は社会人らしさと清潔感第一というスタイルで乗り切ることができている。
基本インドアな自分には、華々しい部長は崇拝の対象だ。そうは言っても、崇拝もしたことはないのだけれど。
この株式会社キハラハードに席を置き、鬼原、という名字を聞けば、まず連想するのは代表取締役社長だ。
同じ名字を持つ人間が部長としてやってくる。そんな人事の話が広がったのは四年前、すぐに縁故だと噂になった。
菜々美はまだ新入社員の頃だったが、本当に社長の甥だとわかると、社内がかなりざわついたのを覚えている。
この株式会社キハラハードは現社長が若かりし頃に興し、ハードウェア分野で成功を収めた大企業だ。時代の流れで今ではソフトウェアやウェブ関係も手広く手掛けている。
そんな会社に鬼原隆康は、二十八歳で部長としてやってきた。上でどんな話し合いがなされたかは知らない。
けれど、昭和生まれの頭の固い取締役も多いし、かなり荒れたのではないのかと今なら想像できる。
鬼原隆康が入社してきても、菜々美は仕事を覚えるのに精一杯で、噂話に花を咲かせる時間もなかった。
それでも、様子見だった社内の彼の評価が、いい方向に変わったのはすぐに気づいた。
隆康が指揮を執ったゲームのアプリ開発事業が非常に伸びたのだ。
よくよく聞けば、彼は海外の大学在学中にベンチャー企業を立ち上げていたらしい。それをうまく軌道に乗せたのを知った社長が、その手腕を手に入れるべく引き抜いたようだ。
どれもこれも噂で、何が本当かは菜々美は知らないし、そんなに興味もない。
ただ、当然彼は憧れの的で、空席の彼女・妻の座を狙う女子が大勢いるのは知っている。
菜々美は見積書に記載されている今年入社の新入社員『舛井萌咲』の名前を爪でコツコツと弾く。
この見積書を作った萌咲もその一人だ。
菜々美がいるのは、取引先にソフトを売り、ハードなどを一括でリース提供をして保守契約を担当する課になる。
契約の更新時に、変更点があるかどうかなどを確認する。変更点があった場合はもちろん、取引先に新しい見積書を見せなければならない。
その見積書のおかしな数字に気づいたのが菜々美の運の尽きだった。
『でも、もう飲み会に行かなくちゃいけないんで』
どうしようかと悩み抜いてから、やんわりと萌咲に型番と数字の間違いを指摘したときにそう言われた。
今日は金曜日だ。月曜日に課長に確認をしてもらい、火曜日の朝から取引先に持っていく書類が間違っている。
それをわかっていて飲み会に行くのはいい。ならば、土日に出勤をするのだろうか、と聞いてみた。
『え。休日は休みます。月曜日に課長に確認してもらいまーす。もし課長も気づかなかったら、間違っていないってことですよね』
てへ、と笑っていたが、悪い冗談だと聞き流す。
月曜日に上司に最終確認をしてもらう前に、穴が開くほどに見直すべきではないだろうか。
『課長、私には優しいから直してくれると思います。それに、私たちが残業するのってよくないですよね』
残業ゼロを目標として掲げてはいるが、時期によってはなかなか減らない現実もある。
これは最近残業続きの菜々美への嫌みだろう。
でも、本当の問題はそこじゃなかった。このままでは問題が起こると知っていて何もせずに休日には突入できない自分の性格なのだ。
萌咲の仕事の面倒を見るのは、菜々美の仕事ではない。
ただ、この取引先はつい最近まで自分が担当していたから気になった。契約更新の見積もりについて、前担当者である自分に萌咲はまったく質問に来なかったのだ。
もっと早くにこちらから声を掛けるべきだったと後悔しても遅い。
取引先の担当者はとてもいい人で、新人でまだ余裕のない自分をいろんな雑談で和ませてくれたり、仕事を教えてくれたり、本当にお世話になったのだ。
「はぁ……」
溜息を吐きながら、料金改定前のソフトやハードの金額が並んだ見積書を眺める。
萌咲は少し鼻にかかった甘ったるい声で「これ、お願いできますかぁ」とよく言っている。それが男心をくすぐるようだ。
あれを聞く度、新入社員だった自分を思い返す。
なんでも自分でこなそうと頑張っていたのは、間違いだったのだろうかと、つい考えてしまうのだ。
この見積書の雛形は菜々美が持っていて、それを使えば三時間もあれば終わる。けれど、本人にさせるのが一番だ。それが正しい、手を出すべきじゃない。
そう思ったから、気を使って内密に課長に報告をした。
返ってきたのは『正しい見積もりを作っておいて』というお願い。
「飲み会代……で、新しい褒め褒めボイスが、五つはお買い上げできるのに」
ああ、と菜々美は髪をひとつに留めていたバレッタを外し、鎖骨までの長さの髪を解いた。母親譲りの特に何もしなくても艶のある髪には感謝だ。
それを束ねることで、オンとオフを切り替えている。
菜々美は机に腕をつき、頭を抱えて髪をかき上げた。
歓送迎会以外は基本的に行かないのだから、懇親会という飲み会に参加しなくても問題はない。今回も、たまには顔を出すかと少し気が向いただけで、どうしても行きたいわけではなかった。
けれど、理不尽さが悲しい。
もうこれはイケボイスを買うためだけに働いていると考えるしかない。
「あ……」
はた、と菜々美は顔を上げた。昨夜、買ったボイスを聞いていない。くるりと身体を反転させて、周りを見渡す。
自分のいるデスクラインの上にだけついている蛍光灯。がらんとしたオフィス。光のない向こうの暗闇から何かが這い出て来そうなシチュエーション。
菜々美はごくり、と生唾を呑み込んだ。
――誰もいない。
理不尽の対価として、少しくらいいいはずだ。
菜々美はバッグからイヤホンを取り出すと、スマートフォンに差し込み、素早くアプリを起動させた。
『姫』
低くて心に染み入る声が耳から流れ込んできた瞬間、大きな目に生気が戻り、菜々美は見積書を確認し始める。
『今日もお仕事、お疲れ様でございます。いつも仕事に対する姿勢、素晴らしいですね。私はそんな姫をお慕いしております』
固くなっていた表情が柔らかく溶けた。きっと頬はピンク色に染まっている。
声に導かれるように蜂蜜由来のリップを塗ると唇がふっくらとした。ささくれていた心にやる気が蘇ってくる。
我ながら現金だと思うが、残業を頑張ろうという気になった。
そして残業代でボイスを買う。
キッ、と眼光を鋭くし、菜々美は仕事のスピードを上げた。
見積書の間違いやすい箇所はだいたい目を付けていた。ハードやソフトの料金改定後の一覧は社内のファイルから取り出せばいい。
一年前の契約の更新なので、料金と税金を計算し直す。表計算ソフトに計算式を入力すれば間違いのない数字が出る。それをコピペして……
やることはいつもと変わらない。間違いのないように細心の注意を払って、淡々とこなすだけだ。
『……姫は頑張りすぎですね。ほら、肩が強張っていますよ』
「うん、痛いくらい……」
声に吐息が交じり体温を感じるほど、イケボイスが心に近づいてくる。このバイノーラル録音の素晴らしいところは、すぐそばにいてくれると感じさせてくれるところだ。
イケボイスに癒されながら、ハードとソフトの型番を確認し、金額をコピーしてソフトに貼り付けていく。
『姫がお許しくださるなら、肩をお揉み致します。……許可を頂けるのですね』
「いや、もうほんとにお願いしたいです」
アプリに返事をしてしまうほど、肩凝りはひどい。
マッサージに行ったところで解消されないし、担当者にひどい肩凝りのお墨付きをもらって帰ってくるだけだ。
『姫、失礼します』
「お願いします」
せめて気分だけでも味わおう。
肩から力を抜いて声に身を委ねたとき、誰かの指先が自分の肩に遠慮がちに触れた。
「ひっ!」
灯りの消えたオフィスの暗がりが、菜々美の脳裏に蘇る。
ぼうっと生気のない警備員が白い制服を着て近づき……想像が膨らんで、菜々美はびくぅっと身体を震わせて立ち上がった。
耳からイヤホンが取れて、スマホに繋がったままデスクからぶらさがる。デスクにイヤホンがぶつかる無機質な音が耳に届いて、イケボイスの世界に入り込んでいたことに気づいた。
「……そこまで驚くか」
「は……え、あ、え?」
苦笑いを抑え切れない、そんな表情で、鬼原隆康が菜々美の横に立っていた。
夜だというのに疲れた様子がまったくない、マンガから出てきたようなイケメン部長だ。
「残業?」
パソコンの画面を覗き込まれて、デスクの上に置いていたスマホを慌てて取り上げる。イヤホンを手繰り寄せて、涼しい顔をした。
スマホ画面にはイケボイス声主のイメージイラストが表示されているのだから、死んでも見られるわけにはいかない。
「ぶ、部長は、なぜここに」
「会議の後に、社長に呼び出されて、この時間」
イヤホンをして残業をしていたのを、よりによって部長に見つかったという焦りよりも、イケボイスが漏れているのではないかと気が気でない。
「なに、見積もり?」
隆康は真剣な目でデスクの上の見積もりと、画面の見積もりを見比べ始めた。
涼しげで知的な目元、すっと通った鼻筋、少し下唇に厚みがあって張りのある唇。間近で見ていると、本当にきれいな顔立ちだなと思った。
隆康と話した機会は数えるほどしかない。覚えてもいないような、とりとめもない会話。彼は近寄りがたく、住む世界が違う人だ。
こんな人気者と二人きりの状況を目撃されれば、確実に誰かに恨まれる。
何よりも、アプリを終了させたい。菜々美はそれとなく隆康を誘導した。
「……飲み会、行かれないんですか」
「行くけど、それを言うなら近内さんもだろう。行かないのか」
「見積もりを終わらせてから」
「この会社の担当、舛井さんに変わった覚えがある」
デスクの上の見積書を閉じ、表紙を確認し、「ほら」と隆康が視線で言ってくる。柔らかく茶色がかった髪が、彼の額で揺れた。
本物のイケメンだ、と見惚れかけて、はっとする。
隆康はこうやって無意識なのか意識してなのか、女子社員を籠絡しているのだ。まったくもって、罪深い。
菜々美は心に何重もの壁を張り巡らせつつ、飲み会へ誘導を続けた。
「素晴らしいです。全て把握していらっしゃるんですね。で、飲み会……」
飲み会の勧めを無視して、隆康は顔を顰めた。
「数字が違うな」
「ええっと、はい、そうです。課長には伝えたのですが、訂正を託されたので、残業になりました。どうぞ部長は飲み会へ行かれてください」
アプリのイケボイスは隆康の耳には届いていないらしい。ほっとしながらも、菜々美はアプリを終了したくてうずうずしてしまう。
部長と喋っているのに、スマホを扱うのはよくない。だが、段々と菜々美に落ち着きがなくなってくる。
「で、イヤホンで音楽を聴きながら、残業」
注意するような口調ながらも険はない。が、部長から指摘をされて開き直れるほどの強さは菜々美にはない。
「すみません……」
俯いたまま、手の中に握り込んだスマホ画面の、アプリの停止ボタンを親指でそっとタッチした。
一瞬だけ、ちらりと隆康を上目遣いに盗み見る。呆れられているかと思いきや、興味深そうな表情を浮かべて、菜々美を見下ろしていた。
「近内さん、感じが違う」
「以後、社内でイヤホンはやめます」
金曜日の夜に他人の仕事の尻を拭う残業をしているのだ。
少しくらいはハメを外して、イケボイスに褒められながら残業したくもなる。
モヤモヤを抑えつつも、社会人として頭を下げた。
「いや……、『雰囲気』の話」
隆康は顎を手で撫でながら、肩を竦める。
「もっと、こう、近寄りがたい感じだろ、いつも」
「はぁ。髪、ですかね」
確かに菜々美は社内でプライベートの話はしないし、飲み会の常連というわけでもない。いつもと違うのは、解いている髪くらいだろう。
そもそも近寄りがたいのは隆康の方だと思う。飲み会に滅多に参加しないという共通項はあるが、彼は社内の地位、イケメン度ともにかなり上。
「飲み会、皆さん部長を待ってますよ」
よく掴めない会話を続けるのも息苦しく、ちらりと壁にかかっている時計で時間を確かめる。二十時ちょっと過ぎ、まだ飲み会には間に合うはずだ。
「音楽を聴いていたんじゃなくて、彼氏と電話してたのか」
「彼氏はいません」
「へぇ。――これはセクハラだな、悪かった」
ハラスメントの規定が厳しくなり、プライベートを聞くことも難しい昨今だ。だが、今はそんな風潮もありがたい。
隆康はあまり信用していない、といった顔でまた見積書に目を落とした。どうやら彼の中では、菜々美には彼氏がいて、その彼と喋っていたということになったらしい。ということはおそらく、独り言を聞かれていたのだろう。
よほど大きな独り言を言っていたのかと思うと、恥ずかしい。
だが、アプリの存在を知られるよりはマシ。
菜々美は誤解を受けたままにしようと決めた。
おそらくまだ飲み会に行っていない部下を気にしたのだろうが、残業になったから彼氏に迎えを頼む電話をしていたとでも思っていてくれれば、隆康も飲み会に向かってくれるだろう。一人でほっとしていると、隆康は椅子を隣のデスクから持ってきた。
「手伝う」
「えええ……」
すごく嫌そうな表情と声が出て、菜々美は手で口を押さえる。驚いたように目を見開いた隆康は、すぐに笑い出した。
「早く終われば、彼氏と会えるだろう」
「はぁ」
彼氏なんてものはいないが、早く終われば、褒め褒めボイスがたくさん聞ける。ぐらり、と菜々美の心が揺れた。
「二人でやった方がミスも減る」
やり直しで作った見積書をさらに間違えれば……。萌咲の勝ち誇ったような顔がありありと想像できて、菜々美はげんなりとした。
「……飲み会はどうするんですか。皆さん、お待ちだと思います」
「部下が飲み会に参加できなくなる、そんなマネジメントをしているのは、部長である俺だ」
にやり、と浮かべた隆康の悪戯っぽい笑みにどきりとする。
「つまり、俺の責任なんだよ」
萌咲は隆康が来るからと言って飲み会に行った。逆恨み的にいえば、今の状況は隆康が元凶だ。その元凶が責任を取ると言っている。
意識が高い上司だと感動はするが、これを萌咲が知ったらどうなるだろうか。
部長が手伝ってくれるなら自分で見積書をやり直したのにと、恥も外聞もなく言いそうだ。そして、自分が責められることも想定できる。
どうにもこうにも、萌咲とは仲良くなれそうにない。
菜々美が返事をしないでいると、隆康は椅子に座って見積書に本格的に目を通し始めた。
「後輩に引き継いだ仕事が気になった。取引先に失礼がないか確認をしたかった。そこでミスを見つけ、担当と直属の上司に報告をした。だが、なぜかその仕事を任せられた。そんなところだろう。近内さんはちゃんと仕事をしている。俺はやるべきことをやっている人間は助けると決めている。それだけだ」
菜々美の胸がとくん、と高鳴った。
これは、遠回しに褒められてはいないだろうか。心臓がどきどきとうるさく鳴り始める。
隆康の声は低く、心の奥底まで響いてくる。イケメンの安定の重低音ボイスが生で聞けているという現実に、菜々美の心は前のめりになった。
彼の隣の椅子に菜々美はゆっくりと腰を下ろす。もっとそばで聞きたいという欲に負けて、ストレートに聞いた。
「……褒めて、くださってます?」
「褒める?」
隆康は困ったように、眉根を寄せた。
「ちゃんとやっている、というのが、それに当たるのなら」
「……ありがとうございます」
期待していなかった生の褒め言葉。内心では空高く舞い上がっていて、それを表に出さないようにするために、表情を引き締めた。
「手伝っていただけると、助かります」
俄然、仕事をする気になる。
部下の士気を上げるのが上手な、なんていい上司なのだろう。
自分の機嫌は自分で取る。
極論かもしれないけれど、社会人四年目にしてそれを悟れたことは幸運だった。
入浴後、髪の毛を乾かし終わった近内菜々美は、ブラシで髪を梳きながら、手元にあるスマートフォンで時間を確認する。
二十二時、至福の時間の始まりだと頬を緩ませた。
床に落ちた髪を素早く掃除し、電気を消してベッドに潜り込む。暗がりの中で見るスマートフォン画面からの光が眩しい。――そんなのは、ちっぽけなこと。
「今日もお世話になります!」
イヤホンをして、画面を左に四回スライドし、アプリアイコンが一つしかない画面を出す。他人に万が一にも見られないための自衛の策だ。
このスライドが儀式のようなものになっていて、気分を高揚させてくれる。目当てのアイコンをタッチして、『褒め褒めボイス』アプリを起動させた。
イケボイスがひたすら自分を褒めてくれる、至高の時間をくれるアプリだ。
しかも同じ空間にいるような音響効果を表現する、バイノーラル録音で配信されている。低い美声に耳元で囁かれる感じが、もうとんでもなく、いい。
このアプリを知ったとき、こんな寂しいことで自分を慰めているのはどこの誰だと思った。
興味本位でダウンロードして、聞いて、すぐにわかる。
きっと、世の中には、自分みたいな女が多いのだ。
その『どこの誰』になるのに、一時間もかからなかった。今やヘビーユーザーだ。
今日一日を思い返しながら、欲しいセリフを購入済の『イケボイス一覧』から探す。今一番聞きたい言葉を選べるのがこのアプリの魅力だ。
選択して再生をタップする。
低くて、力強くて、優しい、イケボイスの吐息が聞こえると、無意識にイヤホンを耳穴にしっかりと押し込んだ。
『姫』
心を溶かす声に、菜々美は目をぎゅっと瞑る。
『今日も一日お疲れ様でした。……少し、お疲れのように見えます。明日はお休みをしてもいいのではありませんか』
「飲み会が……。滅多に来ない部長が参加するから行かなければいけないの。良識ある社会人として参加せざるをえない飲み会……休めない……」
アプリの自動音声相手に返事をしてしまった。
休めるものなら休みたい。混んでいない美容室でゆったりと髪を切りたいし、歯医者にも行きたい。カフェでゆっくりと読みかけの本を読みながら、美味しいコーヒーをじっくり味わって飲みたい。
疲れた身体に鞭打って働くこの身が空しくなるときはある。
脱・社畜を叫び仕事を辞める友人はいるけれど、自分は雇われて稼ぐタイプで、会社という組織には感謝をしていた。
そして現実的な話、有給休暇届を出していないから休めない。
朝一番に上司に風邪だと嘘をつくのも面倒だし、なんといっても忙しい日々が続いていた。明日休んだらそのしわ寄せが一気に押し寄せてくる。
イケボイスに入り込みきれない自分を悔やみつつ、次のセリフを待つ。
『フゥ……。いつも姫は頑張り過ぎですね』
心に触れられて、目の奥がじわりと熱くなった。
『でも、そうやって、やるべきことから逃げない姫の凛とした後ろ姿は、誇り高く、美しいです』
月曜日からの笑顔を貼り付け続けた毎日がばっと脳裏を通り過ぎて、目からはらりと涙が零れる。
『明日はとびきり美味しいコーヒーをお淹れしましょう。姫は一人ではありません。私はいつも見守っておりますから。でも、どうか、無理だけはおやめくださいね』
イケボイスはそこで終わった。
無機質な、不特定多数に配信された、作りこまれたシナリオとはいえ台本を読んだだけのボイスにここまで癒される。
菜々美は合掌した。
「声優さんと技術の進歩に感謝」
いつのまにか涙は乾いている。
菜々美は身を起こして、新しいイケボイスを探し始めた。サンプルボタンの横には金額が表示されていて、セリフが長ければそれだけ高い。
ホストにお金を使う女の人の気持ちは、きっとこれなんだろう。イケボイスのために働いている気がしなくもないが、それもまた人生だ。
「あ、なんかこれいいかも」
いくつかサンプルを聞いた後、ピンときたものを買う。こういうときにあまり迷わないのが自分のよいところだ。
『私はいつも見守っておりますから』
イケボイスの優しいセリフを頭の中でリピートして、胸にじわじわと温かいものが広がるのを感じる。
会社の人には、実は『守られたい』願望のある女だなんて死んでも知られたくない。
自分を守るのは自分だ。けれど、妄想の中でくらい、守られることに浸りたいじゃないか。
イケボイスの子守唄効果はすごい。
せっかくダウンロードしたイケボイスを聞く前に、菜々美は眠りに落ちていた。
見渡しても人ひとりいない、がらんとした二十時のオフィス。
菜々美は会社のホームページに載っているイケオジ社長の笑顔の写真を、頬杖をついてぼんやりと眺めていた。
今日は滅多に飲み会に参加しない部長、鬼原隆康が参加する懇親会がある。菜々美も出席する予定で、飲み会代も支払い済だ。開始は十九時。だが菜々美はまだ一人、オフィスにいる。
目頭を押さえながら、椅子に背中をもたせかけた。
今日は女子社員の化粧が念入りで、お洒落をしてる人も多かった。そう思い出しながら、頭を横にゆっくりと倒し肩を揉んだ。
彼女たちは、部長、鬼原隆康、独身、三十二歳、イケメン、高身長、筋肉質――を狙って、民族大移動のごとく、オフィスから居酒屋へと消えてしまった。
「あ、お金もあるのか」
そこは重要だろうな、と呟きながら菜々美は椅子に座り直して、表計算ソフトを画面に出し、デスク上の見積書に目を落とした。
天に二物も三物も与えられた部長とは違い、菜々美は、面倒だという理由だけで染めない黒い髪と、大きめな目が特徴なだけ。日本人女性の平均身長で、細身な方。ある程度、整った顔で産んでもらったおかげで、化粧と服装は社会人らしさと清潔感第一というスタイルで乗り切ることができている。
基本インドアな自分には、華々しい部長は崇拝の対象だ。そうは言っても、崇拝もしたことはないのだけれど。
この株式会社キハラハードに席を置き、鬼原、という名字を聞けば、まず連想するのは代表取締役社長だ。
同じ名字を持つ人間が部長としてやってくる。そんな人事の話が広がったのは四年前、すぐに縁故だと噂になった。
菜々美はまだ新入社員の頃だったが、本当に社長の甥だとわかると、社内がかなりざわついたのを覚えている。
この株式会社キハラハードは現社長が若かりし頃に興し、ハードウェア分野で成功を収めた大企業だ。時代の流れで今ではソフトウェアやウェブ関係も手広く手掛けている。
そんな会社に鬼原隆康は、二十八歳で部長としてやってきた。上でどんな話し合いがなされたかは知らない。
けれど、昭和生まれの頭の固い取締役も多いし、かなり荒れたのではないのかと今なら想像できる。
鬼原隆康が入社してきても、菜々美は仕事を覚えるのに精一杯で、噂話に花を咲かせる時間もなかった。
それでも、様子見だった社内の彼の評価が、いい方向に変わったのはすぐに気づいた。
隆康が指揮を執ったゲームのアプリ開発事業が非常に伸びたのだ。
よくよく聞けば、彼は海外の大学在学中にベンチャー企業を立ち上げていたらしい。それをうまく軌道に乗せたのを知った社長が、その手腕を手に入れるべく引き抜いたようだ。
どれもこれも噂で、何が本当かは菜々美は知らないし、そんなに興味もない。
ただ、当然彼は憧れの的で、空席の彼女・妻の座を狙う女子が大勢いるのは知っている。
菜々美は見積書に記載されている今年入社の新入社員『舛井萌咲』の名前を爪でコツコツと弾く。
この見積書を作った萌咲もその一人だ。
菜々美がいるのは、取引先にソフトを売り、ハードなどを一括でリース提供をして保守契約を担当する課になる。
契約の更新時に、変更点があるかどうかなどを確認する。変更点があった場合はもちろん、取引先に新しい見積書を見せなければならない。
その見積書のおかしな数字に気づいたのが菜々美の運の尽きだった。
『でも、もう飲み会に行かなくちゃいけないんで』
どうしようかと悩み抜いてから、やんわりと萌咲に型番と数字の間違いを指摘したときにそう言われた。
今日は金曜日だ。月曜日に課長に確認をしてもらい、火曜日の朝から取引先に持っていく書類が間違っている。
それをわかっていて飲み会に行くのはいい。ならば、土日に出勤をするのだろうか、と聞いてみた。
『え。休日は休みます。月曜日に課長に確認してもらいまーす。もし課長も気づかなかったら、間違っていないってことですよね』
てへ、と笑っていたが、悪い冗談だと聞き流す。
月曜日に上司に最終確認をしてもらう前に、穴が開くほどに見直すべきではないだろうか。
『課長、私には優しいから直してくれると思います。それに、私たちが残業するのってよくないですよね』
残業ゼロを目標として掲げてはいるが、時期によってはなかなか減らない現実もある。
これは最近残業続きの菜々美への嫌みだろう。
でも、本当の問題はそこじゃなかった。このままでは問題が起こると知っていて何もせずに休日には突入できない自分の性格なのだ。
萌咲の仕事の面倒を見るのは、菜々美の仕事ではない。
ただ、この取引先はつい最近まで自分が担当していたから気になった。契約更新の見積もりについて、前担当者である自分に萌咲はまったく質問に来なかったのだ。
もっと早くにこちらから声を掛けるべきだったと後悔しても遅い。
取引先の担当者はとてもいい人で、新人でまだ余裕のない自分をいろんな雑談で和ませてくれたり、仕事を教えてくれたり、本当にお世話になったのだ。
「はぁ……」
溜息を吐きながら、料金改定前のソフトやハードの金額が並んだ見積書を眺める。
萌咲は少し鼻にかかった甘ったるい声で「これ、お願いできますかぁ」とよく言っている。それが男心をくすぐるようだ。
あれを聞く度、新入社員だった自分を思い返す。
なんでも自分でこなそうと頑張っていたのは、間違いだったのだろうかと、つい考えてしまうのだ。
この見積書の雛形は菜々美が持っていて、それを使えば三時間もあれば終わる。けれど、本人にさせるのが一番だ。それが正しい、手を出すべきじゃない。
そう思ったから、気を使って内密に課長に報告をした。
返ってきたのは『正しい見積もりを作っておいて』というお願い。
「飲み会代……で、新しい褒め褒めボイスが、五つはお買い上げできるのに」
ああ、と菜々美は髪をひとつに留めていたバレッタを外し、鎖骨までの長さの髪を解いた。母親譲りの特に何もしなくても艶のある髪には感謝だ。
それを束ねることで、オンとオフを切り替えている。
菜々美は机に腕をつき、頭を抱えて髪をかき上げた。
歓送迎会以外は基本的に行かないのだから、懇親会という飲み会に参加しなくても問題はない。今回も、たまには顔を出すかと少し気が向いただけで、どうしても行きたいわけではなかった。
けれど、理不尽さが悲しい。
もうこれはイケボイスを買うためだけに働いていると考えるしかない。
「あ……」
はた、と菜々美は顔を上げた。昨夜、買ったボイスを聞いていない。くるりと身体を反転させて、周りを見渡す。
自分のいるデスクラインの上にだけついている蛍光灯。がらんとしたオフィス。光のない向こうの暗闇から何かが這い出て来そうなシチュエーション。
菜々美はごくり、と生唾を呑み込んだ。
――誰もいない。
理不尽の対価として、少しくらいいいはずだ。
菜々美はバッグからイヤホンを取り出すと、スマートフォンに差し込み、素早くアプリを起動させた。
『姫』
低くて心に染み入る声が耳から流れ込んできた瞬間、大きな目に生気が戻り、菜々美は見積書を確認し始める。
『今日もお仕事、お疲れ様でございます。いつも仕事に対する姿勢、素晴らしいですね。私はそんな姫をお慕いしております』
固くなっていた表情が柔らかく溶けた。きっと頬はピンク色に染まっている。
声に導かれるように蜂蜜由来のリップを塗ると唇がふっくらとした。ささくれていた心にやる気が蘇ってくる。
我ながら現金だと思うが、残業を頑張ろうという気になった。
そして残業代でボイスを買う。
キッ、と眼光を鋭くし、菜々美は仕事のスピードを上げた。
見積書の間違いやすい箇所はだいたい目を付けていた。ハードやソフトの料金改定後の一覧は社内のファイルから取り出せばいい。
一年前の契約の更新なので、料金と税金を計算し直す。表計算ソフトに計算式を入力すれば間違いのない数字が出る。それをコピペして……
やることはいつもと変わらない。間違いのないように細心の注意を払って、淡々とこなすだけだ。
『……姫は頑張りすぎですね。ほら、肩が強張っていますよ』
「うん、痛いくらい……」
声に吐息が交じり体温を感じるほど、イケボイスが心に近づいてくる。このバイノーラル録音の素晴らしいところは、すぐそばにいてくれると感じさせてくれるところだ。
イケボイスに癒されながら、ハードとソフトの型番を確認し、金額をコピーしてソフトに貼り付けていく。
『姫がお許しくださるなら、肩をお揉み致します。……許可を頂けるのですね』
「いや、もうほんとにお願いしたいです」
アプリに返事をしてしまうほど、肩凝りはひどい。
マッサージに行ったところで解消されないし、担当者にひどい肩凝りのお墨付きをもらって帰ってくるだけだ。
『姫、失礼します』
「お願いします」
せめて気分だけでも味わおう。
肩から力を抜いて声に身を委ねたとき、誰かの指先が自分の肩に遠慮がちに触れた。
「ひっ!」
灯りの消えたオフィスの暗がりが、菜々美の脳裏に蘇る。
ぼうっと生気のない警備員が白い制服を着て近づき……想像が膨らんで、菜々美はびくぅっと身体を震わせて立ち上がった。
耳からイヤホンが取れて、スマホに繋がったままデスクからぶらさがる。デスクにイヤホンがぶつかる無機質な音が耳に届いて、イケボイスの世界に入り込んでいたことに気づいた。
「……そこまで驚くか」
「は……え、あ、え?」
苦笑いを抑え切れない、そんな表情で、鬼原隆康が菜々美の横に立っていた。
夜だというのに疲れた様子がまったくない、マンガから出てきたようなイケメン部長だ。
「残業?」
パソコンの画面を覗き込まれて、デスクの上に置いていたスマホを慌てて取り上げる。イヤホンを手繰り寄せて、涼しい顔をした。
スマホ画面にはイケボイス声主のイメージイラストが表示されているのだから、死んでも見られるわけにはいかない。
「ぶ、部長は、なぜここに」
「会議の後に、社長に呼び出されて、この時間」
イヤホンをして残業をしていたのを、よりによって部長に見つかったという焦りよりも、イケボイスが漏れているのではないかと気が気でない。
「なに、見積もり?」
隆康は真剣な目でデスクの上の見積もりと、画面の見積もりを見比べ始めた。
涼しげで知的な目元、すっと通った鼻筋、少し下唇に厚みがあって張りのある唇。間近で見ていると、本当にきれいな顔立ちだなと思った。
隆康と話した機会は数えるほどしかない。覚えてもいないような、とりとめもない会話。彼は近寄りがたく、住む世界が違う人だ。
こんな人気者と二人きりの状況を目撃されれば、確実に誰かに恨まれる。
何よりも、アプリを終了させたい。菜々美はそれとなく隆康を誘導した。
「……飲み会、行かれないんですか」
「行くけど、それを言うなら近内さんもだろう。行かないのか」
「見積もりを終わらせてから」
「この会社の担当、舛井さんに変わった覚えがある」
デスクの上の見積書を閉じ、表紙を確認し、「ほら」と隆康が視線で言ってくる。柔らかく茶色がかった髪が、彼の額で揺れた。
本物のイケメンだ、と見惚れかけて、はっとする。
隆康はこうやって無意識なのか意識してなのか、女子社員を籠絡しているのだ。まったくもって、罪深い。
菜々美は心に何重もの壁を張り巡らせつつ、飲み会へ誘導を続けた。
「素晴らしいです。全て把握していらっしゃるんですね。で、飲み会……」
飲み会の勧めを無視して、隆康は顔を顰めた。
「数字が違うな」
「ええっと、はい、そうです。課長には伝えたのですが、訂正を託されたので、残業になりました。どうぞ部長は飲み会へ行かれてください」
アプリのイケボイスは隆康の耳には届いていないらしい。ほっとしながらも、菜々美はアプリを終了したくてうずうずしてしまう。
部長と喋っているのに、スマホを扱うのはよくない。だが、段々と菜々美に落ち着きがなくなってくる。
「で、イヤホンで音楽を聴きながら、残業」
注意するような口調ながらも険はない。が、部長から指摘をされて開き直れるほどの強さは菜々美にはない。
「すみません……」
俯いたまま、手の中に握り込んだスマホ画面の、アプリの停止ボタンを親指でそっとタッチした。
一瞬だけ、ちらりと隆康を上目遣いに盗み見る。呆れられているかと思いきや、興味深そうな表情を浮かべて、菜々美を見下ろしていた。
「近内さん、感じが違う」
「以後、社内でイヤホンはやめます」
金曜日の夜に他人の仕事の尻を拭う残業をしているのだ。
少しくらいはハメを外して、イケボイスに褒められながら残業したくもなる。
モヤモヤを抑えつつも、社会人として頭を下げた。
「いや……、『雰囲気』の話」
隆康は顎を手で撫でながら、肩を竦める。
「もっと、こう、近寄りがたい感じだろ、いつも」
「はぁ。髪、ですかね」
確かに菜々美は社内でプライベートの話はしないし、飲み会の常連というわけでもない。いつもと違うのは、解いている髪くらいだろう。
そもそも近寄りがたいのは隆康の方だと思う。飲み会に滅多に参加しないという共通項はあるが、彼は社内の地位、イケメン度ともにかなり上。
「飲み会、皆さん部長を待ってますよ」
よく掴めない会話を続けるのも息苦しく、ちらりと壁にかかっている時計で時間を確かめる。二十時ちょっと過ぎ、まだ飲み会には間に合うはずだ。
「音楽を聴いていたんじゃなくて、彼氏と電話してたのか」
「彼氏はいません」
「へぇ。――これはセクハラだな、悪かった」
ハラスメントの規定が厳しくなり、プライベートを聞くことも難しい昨今だ。だが、今はそんな風潮もありがたい。
隆康はあまり信用していない、といった顔でまた見積書に目を落とした。どうやら彼の中では、菜々美には彼氏がいて、その彼と喋っていたということになったらしい。ということはおそらく、独り言を聞かれていたのだろう。
よほど大きな独り言を言っていたのかと思うと、恥ずかしい。
だが、アプリの存在を知られるよりはマシ。
菜々美は誤解を受けたままにしようと決めた。
おそらくまだ飲み会に行っていない部下を気にしたのだろうが、残業になったから彼氏に迎えを頼む電話をしていたとでも思っていてくれれば、隆康も飲み会に向かってくれるだろう。一人でほっとしていると、隆康は椅子を隣のデスクから持ってきた。
「手伝う」
「えええ……」
すごく嫌そうな表情と声が出て、菜々美は手で口を押さえる。驚いたように目を見開いた隆康は、すぐに笑い出した。
「早く終われば、彼氏と会えるだろう」
「はぁ」
彼氏なんてものはいないが、早く終われば、褒め褒めボイスがたくさん聞ける。ぐらり、と菜々美の心が揺れた。
「二人でやった方がミスも減る」
やり直しで作った見積書をさらに間違えれば……。萌咲の勝ち誇ったような顔がありありと想像できて、菜々美はげんなりとした。
「……飲み会はどうするんですか。皆さん、お待ちだと思います」
「部下が飲み会に参加できなくなる、そんなマネジメントをしているのは、部長である俺だ」
にやり、と浮かべた隆康の悪戯っぽい笑みにどきりとする。
「つまり、俺の責任なんだよ」
萌咲は隆康が来るからと言って飲み会に行った。逆恨み的にいえば、今の状況は隆康が元凶だ。その元凶が責任を取ると言っている。
意識が高い上司だと感動はするが、これを萌咲が知ったらどうなるだろうか。
部長が手伝ってくれるなら自分で見積書をやり直したのにと、恥も外聞もなく言いそうだ。そして、自分が責められることも想定できる。
どうにもこうにも、萌咲とは仲良くなれそうにない。
菜々美が返事をしないでいると、隆康は椅子に座って見積書に本格的に目を通し始めた。
「後輩に引き継いだ仕事が気になった。取引先に失礼がないか確認をしたかった。そこでミスを見つけ、担当と直属の上司に報告をした。だが、なぜかその仕事を任せられた。そんなところだろう。近内さんはちゃんと仕事をしている。俺はやるべきことをやっている人間は助けると決めている。それだけだ」
菜々美の胸がとくん、と高鳴った。
これは、遠回しに褒められてはいないだろうか。心臓がどきどきとうるさく鳴り始める。
隆康の声は低く、心の奥底まで響いてくる。イケメンの安定の重低音ボイスが生で聞けているという現実に、菜々美の心は前のめりになった。
彼の隣の椅子に菜々美はゆっくりと腰を下ろす。もっとそばで聞きたいという欲に負けて、ストレートに聞いた。
「……褒めて、くださってます?」
「褒める?」
隆康は困ったように、眉根を寄せた。
「ちゃんとやっている、というのが、それに当たるのなら」
「……ありがとうございます」
期待していなかった生の褒め言葉。内心では空高く舞い上がっていて、それを表に出さないようにするために、表情を引き締めた。
「手伝っていただけると、助かります」
俄然、仕事をする気になる。
部下の士気を上げるのが上手な、なんていい上司なのだろう。
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