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1巻
1-3
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素直な感想を口にすると、笑みを浮かべた義信と目が合う。
「何でもは出来ないな」
謙虚な返事がおかしくて笑みを返すと、ぐっと距離が縮まった気がした。
浮つく心をもてあましながら、スープをテーブルに運び、次に大きな冷蔵庫を開ける。中はそれなりにものが入っているが整理整頓されていて、賞味期限切れのものなどは無さそうだ。
ドレッシングは三種類あったのでとりあえず全部持っていくと、捲り上げた袖口を直した義信がエプロンを外してテーブルについていた。
「社長さんがどのドレッシングが好きかわからなかったので、全部持ってきました」
「三種類もあったか」
義信は苦笑する。
「今度から自分がどれを好きかで選んでいいぞ。どれも不味くはないはずだ」
きょとん、と夏帆は義信の顔を見た。そして、今まで自分がどれを好きかよりも、父親に文句を言われないように選んでいた事に気付いて、はっとする。
「……あ、ありがとうございます」
どきん、と心臓が高鳴った。好きなものを選んでいいと言われただけなのに、嬉しくてたまらない。
「えっと、なら、どれも美味しそうだから、今日は全部少しずつ使わせて貰っていいですか」
「構わないが、皿の上で味が混ざるのは、見ている俺が無理だ……」
義信は立ち上がると、カウンター内から小さめの皿を三枚とって、差し出してくる。
「これを使ってくれ」
カウンター越しに、夏帆は皿を受け取った。
「そんなに混ざる程ドバドバかけないですよ。お皿を使ったら洗い物が増えるだけですし」
「いや、俺が気になる。皿は俺か食洗機が洗うから問題ない」
クールそうな義信が見せたこだわりに、呆れながらも親近感を覚えた。まだ緊張はしているけれど、警戒心はどんどん薄れていく。
これまでは毎日自分で用意してきた朝食が、何もしていないのに目の前に広がっているのは魔法みたいだ。朝食を作れなかった事は契約違反になるだろうか。夏帆は豪華な食事を見渡してから、おずおずと口を開く。
「社長さん。家事全般は私って、契約書に書かれていた気がします。さっそく破ってしまって、すいません」
頭を下げた夏帆に義信は言う。
「書いていたな。だが、俺が料理をしてはいけないとは書いていなかった」
少しは怒られるかもと身構えていた夏帆は肩透かしを食らった。
「……そう考えることも……、出来るんですね」
「子供にはわからないだろう」
子供扱いされて、胸がツキンと痛んだ。そうか、彼はきっと保護者のような気持ちで良くしてくれているのだ。
……わかるようになれば、ちょっとは女性として見て貰えるのだろうか。
そんな欲を抱いた自分に驚くと同時に、恥ずかしくなった。
その気持ちを誤魔化すように食事を始めた所、とても美味しくて目を丸くする。
「わぁ、スクランブルエッグ、凄く美味しいです。私、硬くなり過ぎたり反対にトロトロになり過ぎたりして、なかなかうまく出来ないから感動……。ブロッコリーの茹で方もすっごくちょうどいい……。社長さん、料理教室にでも通ったんですか」
「ブロッコリーの茹で時間を習いに料理教室に行く、それ、時間の使い方を間違ってないか」
「いや、そこがポイントではなくてですね。このスープの野菜も自分で切ったんですよね。凄いなぁ。でも、手間がかかりましたよね……」
「手伝ってくれそうな誰かはよく寝ていたからな」
「す、すいません! あ、でも、さっき、よく眠れたなら良かったって……!」
夏帆をからかってくる義信だが、決して嫌味には聞こえない。
会話を楽しんでいるうちに、食事をほぼ平らげてしまった。
夏帆の食べっぷりに微笑した義信がコーヒーを勧めてくれる。
「コーヒーはどうする」
「いただきます」
ぱあっと顔を輝かせた夏帆に、義信は安堵したような溜息を吐いた。
「食欲があって安心したよ」
こういう状況なら、普通は食が細くなるのかもしれない。けれど、夏帆の手には既に二切れ目のパンがあった。
「だって、美味しいから」
義信がコーヒーサーバーのコーヒーをマグカップに注いでくれる。ワイシャツの袖から覗いた手首は節張っていながらもしなやかで、こんなカロリーが高そうな朝食を取っているのに引き締まっている事を不思議にさえ思う。
「それだけ食べられるなら、ちゃんと話が出来そうだ」
義信の声に他人行儀な固さが戻って、夏帆の胃がぎゅっと締め付けられた。履き心地の良いスリッパ、美味しい食事に楽しい会話ですっかり気が緩んでいたが、ここが本当に安心出来る場所かどうかはまだわからないのだ。
顔を強張らせパンを皿に置いた夏帆の前に、義信はコーヒーが入ったマグカップを置く。
「俺は毎日仕事で遅くなるから待っている必要はない。先に寝てくれ。朝食は作るが、夕飯は頼む。そしてこれが生活費だ」
義信はソファの上の鞄から封筒を取り出した。テーブルの端に置かれたそれは見るからに厚みがある。
夏帆の体に力がぎゅっと籠もった。
「ごめんなさい、父の借金もあるし、受け取れません。それに出来ればアパートに戻りたいです。結婚をした事を誰にも言わない方がいいんですよね。だったら別々に暮らした方が良いと思うんです」
なんとかひとりでも暮らしていける。家計が苦しくなったら、幸い会社は副業が許されているから、夜にコンビニのレジ打ちか何かをすればいい。
まだアパートには家具がある。戻るなら早い方が良い――そんな気持ちはすぐに打ち砕かれた。
「あのアパートは昨夜引き払い、家具類はこちらで倉庫を借りて保管している。処分して良いもの、悪いものをおいおい教えて欲しい」
一晩でそんな事が出来るのだろうか。夏帆はアパートが既に空っぽという事実に、唖然として義信を見た。彼は伏目でコーヒーを飲んでいるだけなのに、絵になっている。
自分といえば冴えないスウェットの上下だ。正直、別世界の住人だとしか思えなかった。
「借金は父親が作ったものだ。自立心旺盛なのは結構だが、現実を見た上で、三年後、五年後、十年後の事を考えた方が良い。今はその時間だと思って有効に使うんだ」
あまりにも寛大な申し出に驚きつつ、夏帆はなんとか言葉を絞り出した。
「でも」
「仕事は辞めずに働き続けた方がいい。婚姻関係にあるのだから、この家で一緒に住み、生活する上での生活費は俺が出す。そういった事は全て契約書に書いてあった。サインをしてから文句を言うべきではない」
ぴしゃりと言われてしゅんと肩を落とした。義信が言っている事は正し過ぎて、冷たく感じる。近づいたと思ったらしっかりと壁を築かれ、得も言われぬ寂しさを感じながら、夏帆は大人しく返事をした。
「……わかりました。ありがとうございます」
「自分がどうしたいのか、どうありたいのかを考える時間だと思って欲しい」
……これは、結婚じゃない。保護だ。
現実を突きつけられた気がして、夏帆は唇を噛んだ。義信が新聞を開いて、部屋に沈黙が落ちる。
昨夜から今朝にかけての優しい時間は夢だったのだろうか。それとも、何か怒らせるような事を言っただろうか。
ぐるぐる考えつつ義信が読んでいる新聞の見出しを眺めていると、夏帆の目に涙が滲んだ。涙を堪えるためにコーヒーを口に運べば、香りが心を落ち着かせてくれる。
「今日も、雨ですか?」
沈黙が嫌で、夏帆は天気の話題を口にする。彼が天気予報にも目を通している様子だったので、聞いてみた。
「予報では昼から晴れるみたいだ」
義信は読んでいた新聞を折り畳んだ。天気予報の部分を上にして差し出され、夏帆はきょとんとする。するともう一度差し出されて、慌てて受け取った。
「あ、ありがとうございます」
さりげない気遣いに戸惑いながら天気の欄を見た所、雨の横に晴れマークがついていた。
「ほんとだ。昼から晴れるんですね」
「まだ寒い、濡れたら風邪を引くから暖かくしたほうがいい。そうだ、風呂の使い方を教えておく」
義信は話しかけても無視しないし、こうやって体の心配もしてくれる。けれど、近づくと離れてしまう。
「毎日ちゃんと入れよ」
にっと笑われて、夏帆は焦った。確かに昨日は入っていない。
「いつもは入っていますよ。昨日は入れなかっただけで」
義信は笑いながら残りのコーヒーを流し込んだ。
「風呂嫌いを疑っては……いない。今はな」
「やだ、疑ってるみたいな言い方じゃないですか。……もしかして私、やっぱり汗くさいですか」
夏帆は慌てて自分の腕を鼻の前に持って来て、においを嗅ぐ。スウェットからは昨日まで住んでいたアパートのにおいがした。これがくさいのだろうか。
義信は立ち上がって、悩む夏帆の横に来るなり、テーブルに手を置いて身をかがめた。
「……っ」
夏帆は息を呑んだ。義信の息がうなじにかかる。触れていないのに体温を感じて、心臓が跳ね上がった。
「良い匂いだ。問題ない」
まるで小動物の匂いを嗅ぐような気軽さ。こういったコミュニケーションに義信は慣れているのかもしれないけれど、夏帆は違う。
義信は体を起こすと、すぐにバスルームのある方に目を向けた。
「さ、こっちだ。浴びていくだろう」
夏帆は真っ赤になったうなじを手で押さえながら、ぎこちなく返事をする。
「浴びたい、です」
こうやって近づくのは普通の事なのだろうか。だとすれば、心臓がもたない。
夏帆は困り切った表情を浮かべて、バスルームへ向かう義信の後に続くため立ち上がった。
2
最近の天気予報はだいたい当たるなぁ、と出社後の夏帆は頬杖をついた。
地面や壁に打ち付ける雨音が、窓を閉めていても聞こえてくるようだ。こんな天気なのに昼から晴れると、義信が手渡してくれた新聞には書いてあった。
今朝、夏帆がシャワーを浴びて廊下に出ると、ちょうど義信が家を出る所だった。少しでも気を抜くと、その時の彼の後ろ姿が頭の中に蘇ってくる。
義信は靴を履くとガラリと雰囲気を変えた。そこには、妄想の世界にしか存在しないと思っていた、真っ直ぐに何かを成し遂げていく、実に男性的な人がいたのだ。
仕事に向かう彼の背中から漂う張り詰めた緊張感と迫力に、こちらまで気が引き締まった。
大きくて立派で頼りがいのある背中は、触れるにはあまりにも遠い。
夏帆は窓の外に目をやりながら、深い溜息を吐く。
「……久我!」
横から大きな声を出されてビクリと体を震わせた。顔を上げると、そこには営業部の小池久二がいた。はっと我に返った途端、電話のコール音やキーボードを打つ音が耳に入り、書類を手に忙しく動き回る人が視界に広がる。
「小池さん」
「なんか疲れてるみたいだけど、飲み過ぎた?」
そういえば昨日は小池の隣に座れたり、褒められたりと良い飲み会だった。
「あ、えっと、そうなんですよ。それはもう飲み過ぎちゃいまして」
酒に強い夏帆は滅多に酔わない。それを知りながら親し気な笑顔を向けてきた小池に話を合わせる。
「いつか久我が潰れる所を見てみたいな」
「樽のビールが必要ですね」
わざと神妙な顔をすると、笑った小池に気安く肩をポンッと叩かれた。
「次は樽で注文するよ。で、こっちの在庫と、発注の確認をお願いしたんだけど」
「あ、はい。豊丘通商の商品でいいですか?」
小池が手に持っている書類に載っている社名を見て、夏帆は商品管理ソフトを開く。
「そうそう、話が早くて助かる。商品はこのボールペン」
「あ、既に発注をかけていますね。納品予定は二週間後です」
「これ、ロットはいくつだっけ」
「各色千ですね」
そうやって対応しつつも、今日は仕事に身が入っていない気がした。ふとした瞬間に義信の事を考えてしまい集中力が続かない。
「で、初夜なんだけどさ」
「えっ」
夏帆は椅子から転がり落ちそうになる程驚いた。なぜ突然、小池が初夜などと言い出すのか、結婚がバレたのかと狼狽えていると、彼の方が目を丸くする。
「消化率、在庫の消化率だよ。五十%切ったら発注だったよね」
「しょ、消化率」
初夜と消化率、『しょ』しか合っていないのに聞き間違えた自分に愕然とした。まるで義信とそうなる事を望んでいるみたいだ。
結婚しているのだから、そういう事を考えてしまうのはしょうがないと懸命に自分をフォローしている間にも、小池が話しかけてくる。
「この発注で売り切り。次から新デザインでいくから……、どうした?」
小池に心配そうに覗き込まれて、顔が赤くなっているのだとわかった。
「何もないです。すいません。売り切りですね。了解しました」
こういった情報はソフト内の商品台帳の備考欄に打ち込んでおかなければならない。心臓がバクバクいっているせいか、メモを取る文字がぶれてしまう。
「本当に飲み過ぎたんじゃないのか」
少し顔を曇らせた小池に、夏帆は笑顔を作った。飲み会の後にあった事がうまく消化出来ていないだけだ。よく出社したものだと自分を褒めたい。
「飲み過ぎというより、疲れているのかもしれないです」
「具合が悪かったら早退したほうがいい」
「ありがとうございます。すいません、ぼうっとしてしまって。ボールペンの件は台帳を更新しておきますね」
仕事の話は終わったはずなのに小池は立ち去ってくれない。
「……悩み事があるなら、いつでも相談に乗るから言って」
小池の親切に夏帆の笑顔は引き攣った。営業部のエースに相談するなんて恐れ多い上に、女子社員の目が怖い。そして、何よりそんな気軽な内容ではないのだ。
「ありがとうございます。えーっと、昼夜問わず呼び出させていただきますね」
夏帆が冗談を口にしながら丁寧に頭を下げると、小池は笑いつつ夏帆の背中を書類でポンッと叩き、去っていった。
ほっと息を吐いたのを見計らったように、同僚の美雪が椅子のキャスターを滑らせて傍に寄ってくる。
美雪はドアから出ていく小池の背中を見て口を開いた。
「小池さん、夏帆狙いなのがミエミエだよね」
「お酒を飲む人はお酒を飲む人を重宝するだけだって、何度言えばわかるかな」
二十七歳の小池は皆の憧れ、いわばアイドルだ。彼が行くと言った飲み会は、女子社員の参加率が高い。しかし、その中に小池の酒量についていける人がいないだけだ。
「それだけじゃないように見えるけど」
「それだけだってば」
正直、今は小池どころではないため、気持ちの籠もらない返事になった。
美雪は緩くパーマをかけた毛先を指で弄りながら、小池が去ったドアをまだ見ている。
その横顔に、夏帆は見惚れた。
もし夏帆が美雪のような美人だったのなら、義信は昨晩、部屋に来たのではないか。夏帆にはどこか保護者のように振る舞って、女として見ていない様子だ。
お洒落に気遣ってこなかった事を、初めて悔いる。
電話が鳴ったのを機に、美雪は自分の席に戻った。
夏帆もパソコンの画面に向き直り、マウスを動かしてスクリーンセーバーを止める。
パスワードの入力を求められてキーボードに手を置いた時、ふと父親の事を思い出した。義信は大丈夫だと言っていたし、きっと無事に新しい職場で働いているはずだ。
でも、働かなくてもいいと考えていたような無邪気な笑顔が気になる。
……あの人は、娘を売ったのだろうか。
そんな思いがふっと浮かんだ瞬間、寒気を感じて腕を撫でた。
今日はとにかく早く寝て疲れを取ろう。
夏帆はキーボードをいつもより強めに叩き始めた。
夕食作りのために、夏帆は会社帰りに近所のスーパーへ寄った。無理は続かないのだからと、いつも使っていた庶民的な食材を買う事にする。
朝に渡されたお金は、部屋のチェストの中に移動させてそのままだった。
父親の借金を肩代わりして貰った上に、生活費全般の面倒をみて貰うなんて……と考えると、どうしても使えなかったのだ。
どう返すべきかと考えているうちに、マンションの前に着き、気後れしながらオートロック解除の番号を押した。
重厚な自動ドアが開く。目の前に広がった、住んでいたアパートとはまるで違うつくりに、緊張する。
広いエントランスには革張りのソファとテーブルが置いてあった。花が活けられた受付に人はいないが、光が反射する程磨かれた床にはゴミひとつ落ちていない。
ヒールのある靴で上るとカンカンと音がするアパートの鉄の階段が懐かしい。なんとか部屋番号を間違えずに玄関を開けた所で、疲れは最高潮に達した。
喉も少し痛い。義信は遅くなると言っていたし、夕食を作る前に風呂へ入る事にした。買ってきたものを冷蔵庫の中に入れてバスルームに向かい、苦笑する。
朝も見て驚いたのだけれど、全面ガラス張りなのだ。ボタンを押すとスモークが張られるが落ち着かず、慣れるまでに時間がかかりそうだった。
体と髪を洗って脚を伸ばせる程に大きな湯船へ浸かる。テレビもついていて、快適と認めざるを得ない。
珍しさからテレビを見ながら風呂に浸かっていると、あっという間に時間は過ぎていった。
湯を抜いて掃除をし、確認した所、一時間以上経っている。疲れが増していたものの、まだ夕食づくりという仕事が残っていた。
濡れた髪を拭きつつダイニングに戻ると、見知らぬ男が長い脚を投げ出してソファでくつろいでいた。
泥棒と叫ぶ事が出来なかったのは、彼があまりにこの部屋に馴染んでいたからだ。夏帆の気配に気付いた男が振り向き、人好きのする笑みを浮かべた。
「どうも、義信の大親友です」
茶髪の短髪、髭、眼鏡、義信の大親友だと名乗る長身の男前。疲れが何トンにもなって体に圧しかかってきた気がする。
昨夜は父親が連れていかれ、婚姻届を出し、住み慣れた家を引き払う事になった。今日はなんとか出社していつも通りに仕事をこなした。
そんな一日が終わったと思ったら、今度は謎の男前の登場だ。何でもありの展開に、夏帆は諦めの心境でふっと笑う。
「久我夏帆です」
「俺、真崎翔太。翔太って呼んでよ。夏帆、夕食はまだだよな」
当然のように下の名前で呼ばれて、夏帆は立ち尽くす。
「ほら、翔太って言ってみな」
「……真崎さん」
「しょ、う、た」
何度かこの攻防を繰り返して、翔太が決して折れないとわかった夏帆は観念した。
「翔太……さん」
「よく出来ましたー」
屈託のない笑顔を向けられるが、翔太が夏帆の存在に驚かないのはなぜだろう。
義信の交友関係を一切知らない夏帆は濡れた髪もそのままに翔太へ聞く。
「社長さんとお約束ですか」
「あいつ、夏帆に社長って呼ばせてんの?」
翔太は驚いた顔でソファから立ち上がった。身長は義信より少し低いくらいだろうか。それでも日本人男性の平均身長を大幅に上回っている。
背の高い人に見下ろされて、居心地が悪くなる。夏帆は一歩下がって距離を取った。
「私が社長さんって呼んでいるだけです」
「義信はそれに何も言わないんだ。へぇ」
翔太は腰に手をやって、夏帆をまじまじと見てくる。堂々と出来るような外見は持ち合わせておらず、さらに居心地が悪くなった。
一方の翔太は痩せ過ぎではない細身で姿勢が良い上に、顔立ちも整っていた。シャツとジーンズというシンプルな格好なのに洒落ている。二の腕などのさりげなく盛り上がった筋肉にも意識の高さを感じた。
そんな男前に、自分のパーツのひとつひとつを吟味されるのはいたたまれない。
「なぁ、夏帆から見て義信ってどう?」
「どうって……」
急に聞かれても、語れる程義信を知らない。
彼は、動揺していた夏帆を安心させようとしてくれたし、生活全般の面倒を見てくれる。ずっと一緒に暮らしてきた父親よりも頼れるのは確かだ。
「夏帆からしたらやっぱり怖い? 身長が高い上に筋肉もあるし、年上で態度もでかいだろう」
「怖くないです」
考えるよりも先に言葉が出た。義信は背が高くてがっしりしているが、近くにいても圧迫感を覚えないし、態度が大きいと感じた事もない。翔太がどうしてそんな事を聞いてくるのか疑問だ。
「で、結婚生活はどう」
ポカン、と翔太の顔を見つめた。今、結婚と言った気がするが、昼間みたいな聞き間違いなのだろうか。だって結婚の事は外部に漏らさないはずだ。
聞き返す事も出来ず夏帆が固まっていると、翔太は得意げに笑む。
「合鍵を持っている仲だし、知らないって不自然じゃない?」
翔太はソファに戻って自分の鞄から鍵を出すと、夏帆に向かって振った。それでも、翔太が結婚の事を知っているのは衝撃だ。
「え、いや、その、お、お茶でも飲みますか」
「何そのわかりやすい動揺。夏帆って面白いね」
契約内容を考えると、夏帆から結婚について何も喋る事は出来ない。
今すぐ部屋に逃げ込み、鍵をかけて引きこもりたいと泣きそうになっていたら、玄関のドアが開く音がした。
「お、ご主人様のお帰りだ」
翔太が破顔して玄関へ向かう。夏帆はやり過ごせた事にほっとしたが、すぐに強烈な不安に襲われた。翔太が知っているという事実を、義信にどう伝えたらいいのだろう。
夏帆がひとり冷汗を流していると、義信と翔太のふたりは仲良さそうにリビングへ入ってきた。義信におかえりなさい、と声をかけようとしてタイミングを逃す。翔太が義信の耳に唇を寄せて何か耳打ちしていたからだ。
翔太に穏やかな笑みを向ける義信に、酸欠になったような息苦しさを覚えた。胸をぎゅっと掴まれたみたいな、呼吸が乱れる不思議な痛み。
その事にたじろいでいると、夏帆は翔太に力強く肩を引き寄せられた。
「えっ」
突然過ぎて抵抗する間もなく、翔太の脇にぴたりと収まる。義信に抱き寄せられた時とは違って、全く落ち着かない。
「俺がふたりの結婚を知っている事は夏帆に話した。秘密が増えると、嘘に嘘を重ねる事になって面倒になるからさ。なあ義信」
「お前がひとりで決める事じゃないだろう」
「まぁね。でも、俺が決める事でもあるよね」
ふたりが会話に集中しているのを良い事に、夏帆は翔太の腕から逃げ出す。あっさりと夏帆を離した彼は特に気にした様子もない。
「お、逃げられた。夏帆、魚介は好きかな。ペスカトーレを作るつもりなんだけど」
夏帆が動いた事でふたりの会話が終わった。ちらりと義信を見ると、険しい表情をしている。あれだけ誰にも話さないよう言っていたのに、翔太に話した理由を聞ける雰囲気ではない。
考えてもわからない事は考えないに限る。夏帆は気持ちのベクトルをペスカトーレに向けた。
「ペスカトーレって……」
パスタだという事はわかるが、いまいちどんなものか思い出せない。翔太はキッチンに向かいながら得意気に喋り出す。
「魚介類とトマトソースのパスタだね。俺の得意料理でもある。あさりにムール貝、イカと海老も買ってきた」
翔太は上機嫌に冷蔵庫から食材を取り出し、立派な海老やイカをカウンターに並べる。
家計をずっと預かってきた夏帆にとって、魚介、とりわけ海老とあさりは高級品だった。ムール貝にいたってはどこに売っているかもわからない。
「夜ご飯を作るのは私の仕事なので、手伝わせて下さい」
「気にしなくていいよ」
人に甘える事に慣れていない夏帆は、さっそく手伝おうと腕捲りをする。
「髪を乾かすのが先だ」
「何でもは出来ないな」
謙虚な返事がおかしくて笑みを返すと、ぐっと距離が縮まった気がした。
浮つく心をもてあましながら、スープをテーブルに運び、次に大きな冷蔵庫を開ける。中はそれなりにものが入っているが整理整頓されていて、賞味期限切れのものなどは無さそうだ。
ドレッシングは三種類あったのでとりあえず全部持っていくと、捲り上げた袖口を直した義信がエプロンを外してテーブルについていた。
「社長さんがどのドレッシングが好きかわからなかったので、全部持ってきました」
「三種類もあったか」
義信は苦笑する。
「今度から自分がどれを好きかで選んでいいぞ。どれも不味くはないはずだ」
きょとん、と夏帆は義信の顔を見た。そして、今まで自分がどれを好きかよりも、父親に文句を言われないように選んでいた事に気付いて、はっとする。
「……あ、ありがとうございます」
どきん、と心臓が高鳴った。好きなものを選んでいいと言われただけなのに、嬉しくてたまらない。
「えっと、なら、どれも美味しそうだから、今日は全部少しずつ使わせて貰っていいですか」
「構わないが、皿の上で味が混ざるのは、見ている俺が無理だ……」
義信は立ち上がると、カウンター内から小さめの皿を三枚とって、差し出してくる。
「これを使ってくれ」
カウンター越しに、夏帆は皿を受け取った。
「そんなに混ざる程ドバドバかけないですよ。お皿を使ったら洗い物が増えるだけですし」
「いや、俺が気になる。皿は俺か食洗機が洗うから問題ない」
クールそうな義信が見せたこだわりに、呆れながらも親近感を覚えた。まだ緊張はしているけれど、警戒心はどんどん薄れていく。
これまでは毎日自分で用意してきた朝食が、何もしていないのに目の前に広がっているのは魔法みたいだ。朝食を作れなかった事は契約違反になるだろうか。夏帆は豪華な食事を見渡してから、おずおずと口を開く。
「社長さん。家事全般は私って、契約書に書かれていた気がします。さっそく破ってしまって、すいません」
頭を下げた夏帆に義信は言う。
「書いていたな。だが、俺が料理をしてはいけないとは書いていなかった」
少しは怒られるかもと身構えていた夏帆は肩透かしを食らった。
「……そう考えることも……、出来るんですね」
「子供にはわからないだろう」
子供扱いされて、胸がツキンと痛んだ。そうか、彼はきっと保護者のような気持ちで良くしてくれているのだ。
……わかるようになれば、ちょっとは女性として見て貰えるのだろうか。
そんな欲を抱いた自分に驚くと同時に、恥ずかしくなった。
その気持ちを誤魔化すように食事を始めた所、とても美味しくて目を丸くする。
「わぁ、スクランブルエッグ、凄く美味しいです。私、硬くなり過ぎたり反対にトロトロになり過ぎたりして、なかなかうまく出来ないから感動……。ブロッコリーの茹で方もすっごくちょうどいい……。社長さん、料理教室にでも通ったんですか」
「ブロッコリーの茹で時間を習いに料理教室に行く、それ、時間の使い方を間違ってないか」
「いや、そこがポイントではなくてですね。このスープの野菜も自分で切ったんですよね。凄いなぁ。でも、手間がかかりましたよね……」
「手伝ってくれそうな誰かはよく寝ていたからな」
「す、すいません! あ、でも、さっき、よく眠れたなら良かったって……!」
夏帆をからかってくる義信だが、決して嫌味には聞こえない。
会話を楽しんでいるうちに、食事をほぼ平らげてしまった。
夏帆の食べっぷりに微笑した義信がコーヒーを勧めてくれる。
「コーヒーはどうする」
「いただきます」
ぱあっと顔を輝かせた夏帆に、義信は安堵したような溜息を吐いた。
「食欲があって安心したよ」
こういう状況なら、普通は食が細くなるのかもしれない。けれど、夏帆の手には既に二切れ目のパンがあった。
「だって、美味しいから」
義信がコーヒーサーバーのコーヒーをマグカップに注いでくれる。ワイシャツの袖から覗いた手首は節張っていながらもしなやかで、こんなカロリーが高そうな朝食を取っているのに引き締まっている事を不思議にさえ思う。
「それだけ食べられるなら、ちゃんと話が出来そうだ」
義信の声に他人行儀な固さが戻って、夏帆の胃がぎゅっと締め付けられた。履き心地の良いスリッパ、美味しい食事に楽しい会話ですっかり気が緩んでいたが、ここが本当に安心出来る場所かどうかはまだわからないのだ。
顔を強張らせパンを皿に置いた夏帆の前に、義信はコーヒーが入ったマグカップを置く。
「俺は毎日仕事で遅くなるから待っている必要はない。先に寝てくれ。朝食は作るが、夕飯は頼む。そしてこれが生活費だ」
義信はソファの上の鞄から封筒を取り出した。テーブルの端に置かれたそれは見るからに厚みがある。
夏帆の体に力がぎゅっと籠もった。
「ごめんなさい、父の借金もあるし、受け取れません。それに出来ればアパートに戻りたいです。結婚をした事を誰にも言わない方がいいんですよね。だったら別々に暮らした方が良いと思うんです」
なんとかひとりでも暮らしていける。家計が苦しくなったら、幸い会社は副業が許されているから、夜にコンビニのレジ打ちか何かをすればいい。
まだアパートには家具がある。戻るなら早い方が良い――そんな気持ちはすぐに打ち砕かれた。
「あのアパートは昨夜引き払い、家具類はこちらで倉庫を借りて保管している。処分して良いもの、悪いものをおいおい教えて欲しい」
一晩でそんな事が出来るのだろうか。夏帆はアパートが既に空っぽという事実に、唖然として義信を見た。彼は伏目でコーヒーを飲んでいるだけなのに、絵になっている。
自分といえば冴えないスウェットの上下だ。正直、別世界の住人だとしか思えなかった。
「借金は父親が作ったものだ。自立心旺盛なのは結構だが、現実を見た上で、三年後、五年後、十年後の事を考えた方が良い。今はその時間だと思って有効に使うんだ」
あまりにも寛大な申し出に驚きつつ、夏帆はなんとか言葉を絞り出した。
「でも」
「仕事は辞めずに働き続けた方がいい。婚姻関係にあるのだから、この家で一緒に住み、生活する上での生活費は俺が出す。そういった事は全て契約書に書いてあった。サインをしてから文句を言うべきではない」
ぴしゃりと言われてしゅんと肩を落とした。義信が言っている事は正し過ぎて、冷たく感じる。近づいたと思ったらしっかりと壁を築かれ、得も言われぬ寂しさを感じながら、夏帆は大人しく返事をした。
「……わかりました。ありがとうございます」
「自分がどうしたいのか、どうありたいのかを考える時間だと思って欲しい」
……これは、結婚じゃない。保護だ。
現実を突きつけられた気がして、夏帆は唇を噛んだ。義信が新聞を開いて、部屋に沈黙が落ちる。
昨夜から今朝にかけての優しい時間は夢だったのだろうか。それとも、何か怒らせるような事を言っただろうか。
ぐるぐる考えつつ義信が読んでいる新聞の見出しを眺めていると、夏帆の目に涙が滲んだ。涙を堪えるためにコーヒーを口に運べば、香りが心を落ち着かせてくれる。
「今日も、雨ですか?」
沈黙が嫌で、夏帆は天気の話題を口にする。彼が天気予報にも目を通している様子だったので、聞いてみた。
「予報では昼から晴れるみたいだ」
義信は読んでいた新聞を折り畳んだ。天気予報の部分を上にして差し出され、夏帆はきょとんとする。するともう一度差し出されて、慌てて受け取った。
「あ、ありがとうございます」
さりげない気遣いに戸惑いながら天気の欄を見た所、雨の横に晴れマークがついていた。
「ほんとだ。昼から晴れるんですね」
「まだ寒い、濡れたら風邪を引くから暖かくしたほうがいい。そうだ、風呂の使い方を教えておく」
義信は話しかけても無視しないし、こうやって体の心配もしてくれる。けれど、近づくと離れてしまう。
「毎日ちゃんと入れよ」
にっと笑われて、夏帆は焦った。確かに昨日は入っていない。
「いつもは入っていますよ。昨日は入れなかっただけで」
義信は笑いながら残りのコーヒーを流し込んだ。
「風呂嫌いを疑っては……いない。今はな」
「やだ、疑ってるみたいな言い方じゃないですか。……もしかして私、やっぱり汗くさいですか」
夏帆は慌てて自分の腕を鼻の前に持って来て、においを嗅ぐ。スウェットからは昨日まで住んでいたアパートのにおいがした。これがくさいのだろうか。
義信は立ち上がって、悩む夏帆の横に来るなり、テーブルに手を置いて身をかがめた。
「……っ」
夏帆は息を呑んだ。義信の息がうなじにかかる。触れていないのに体温を感じて、心臓が跳ね上がった。
「良い匂いだ。問題ない」
まるで小動物の匂いを嗅ぐような気軽さ。こういったコミュニケーションに義信は慣れているのかもしれないけれど、夏帆は違う。
義信は体を起こすと、すぐにバスルームのある方に目を向けた。
「さ、こっちだ。浴びていくだろう」
夏帆は真っ赤になったうなじを手で押さえながら、ぎこちなく返事をする。
「浴びたい、です」
こうやって近づくのは普通の事なのだろうか。だとすれば、心臓がもたない。
夏帆は困り切った表情を浮かべて、バスルームへ向かう義信の後に続くため立ち上がった。
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最近の天気予報はだいたい当たるなぁ、と出社後の夏帆は頬杖をついた。
地面や壁に打ち付ける雨音が、窓を閉めていても聞こえてくるようだ。こんな天気なのに昼から晴れると、義信が手渡してくれた新聞には書いてあった。
今朝、夏帆がシャワーを浴びて廊下に出ると、ちょうど義信が家を出る所だった。少しでも気を抜くと、その時の彼の後ろ姿が頭の中に蘇ってくる。
義信は靴を履くとガラリと雰囲気を変えた。そこには、妄想の世界にしか存在しないと思っていた、真っ直ぐに何かを成し遂げていく、実に男性的な人がいたのだ。
仕事に向かう彼の背中から漂う張り詰めた緊張感と迫力に、こちらまで気が引き締まった。
大きくて立派で頼りがいのある背中は、触れるにはあまりにも遠い。
夏帆は窓の外に目をやりながら、深い溜息を吐く。
「……久我!」
横から大きな声を出されてビクリと体を震わせた。顔を上げると、そこには営業部の小池久二がいた。はっと我に返った途端、電話のコール音やキーボードを打つ音が耳に入り、書類を手に忙しく動き回る人が視界に広がる。
「小池さん」
「なんか疲れてるみたいだけど、飲み過ぎた?」
そういえば昨日は小池の隣に座れたり、褒められたりと良い飲み会だった。
「あ、えっと、そうなんですよ。それはもう飲み過ぎちゃいまして」
酒に強い夏帆は滅多に酔わない。それを知りながら親し気な笑顔を向けてきた小池に話を合わせる。
「いつか久我が潰れる所を見てみたいな」
「樽のビールが必要ですね」
わざと神妙な顔をすると、笑った小池に気安く肩をポンッと叩かれた。
「次は樽で注文するよ。で、こっちの在庫と、発注の確認をお願いしたんだけど」
「あ、はい。豊丘通商の商品でいいですか?」
小池が手に持っている書類に載っている社名を見て、夏帆は商品管理ソフトを開く。
「そうそう、話が早くて助かる。商品はこのボールペン」
「あ、既に発注をかけていますね。納品予定は二週間後です」
「これ、ロットはいくつだっけ」
「各色千ですね」
そうやって対応しつつも、今日は仕事に身が入っていない気がした。ふとした瞬間に義信の事を考えてしまい集中力が続かない。
「で、初夜なんだけどさ」
「えっ」
夏帆は椅子から転がり落ちそうになる程驚いた。なぜ突然、小池が初夜などと言い出すのか、結婚がバレたのかと狼狽えていると、彼の方が目を丸くする。
「消化率、在庫の消化率だよ。五十%切ったら発注だったよね」
「しょ、消化率」
初夜と消化率、『しょ』しか合っていないのに聞き間違えた自分に愕然とした。まるで義信とそうなる事を望んでいるみたいだ。
結婚しているのだから、そういう事を考えてしまうのはしょうがないと懸命に自分をフォローしている間にも、小池が話しかけてくる。
「この発注で売り切り。次から新デザインでいくから……、どうした?」
小池に心配そうに覗き込まれて、顔が赤くなっているのだとわかった。
「何もないです。すいません。売り切りですね。了解しました」
こういった情報はソフト内の商品台帳の備考欄に打ち込んでおかなければならない。心臓がバクバクいっているせいか、メモを取る文字がぶれてしまう。
「本当に飲み過ぎたんじゃないのか」
少し顔を曇らせた小池に、夏帆は笑顔を作った。飲み会の後にあった事がうまく消化出来ていないだけだ。よく出社したものだと自分を褒めたい。
「飲み過ぎというより、疲れているのかもしれないです」
「具合が悪かったら早退したほうがいい」
「ありがとうございます。すいません、ぼうっとしてしまって。ボールペンの件は台帳を更新しておきますね」
仕事の話は終わったはずなのに小池は立ち去ってくれない。
「……悩み事があるなら、いつでも相談に乗るから言って」
小池の親切に夏帆の笑顔は引き攣った。営業部のエースに相談するなんて恐れ多い上に、女子社員の目が怖い。そして、何よりそんな気軽な内容ではないのだ。
「ありがとうございます。えーっと、昼夜問わず呼び出させていただきますね」
夏帆が冗談を口にしながら丁寧に頭を下げると、小池は笑いつつ夏帆の背中を書類でポンッと叩き、去っていった。
ほっと息を吐いたのを見計らったように、同僚の美雪が椅子のキャスターを滑らせて傍に寄ってくる。
美雪はドアから出ていく小池の背中を見て口を開いた。
「小池さん、夏帆狙いなのがミエミエだよね」
「お酒を飲む人はお酒を飲む人を重宝するだけだって、何度言えばわかるかな」
二十七歳の小池は皆の憧れ、いわばアイドルだ。彼が行くと言った飲み会は、女子社員の参加率が高い。しかし、その中に小池の酒量についていける人がいないだけだ。
「それだけじゃないように見えるけど」
「それだけだってば」
正直、今は小池どころではないため、気持ちの籠もらない返事になった。
美雪は緩くパーマをかけた毛先を指で弄りながら、小池が去ったドアをまだ見ている。
その横顔に、夏帆は見惚れた。
もし夏帆が美雪のような美人だったのなら、義信は昨晩、部屋に来たのではないか。夏帆にはどこか保護者のように振る舞って、女として見ていない様子だ。
お洒落に気遣ってこなかった事を、初めて悔いる。
電話が鳴ったのを機に、美雪は自分の席に戻った。
夏帆もパソコンの画面に向き直り、マウスを動かしてスクリーンセーバーを止める。
パスワードの入力を求められてキーボードに手を置いた時、ふと父親の事を思い出した。義信は大丈夫だと言っていたし、きっと無事に新しい職場で働いているはずだ。
でも、働かなくてもいいと考えていたような無邪気な笑顔が気になる。
……あの人は、娘を売ったのだろうか。
そんな思いがふっと浮かんだ瞬間、寒気を感じて腕を撫でた。
今日はとにかく早く寝て疲れを取ろう。
夏帆はキーボードをいつもより強めに叩き始めた。
夕食作りのために、夏帆は会社帰りに近所のスーパーへ寄った。無理は続かないのだからと、いつも使っていた庶民的な食材を買う事にする。
朝に渡されたお金は、部屋のチェストの中に移動させてそのままだった。
父親の借金を肩代わりして貰った上に、生活費全般の面倒をみて貰うなんて……と考えると、どうしても使えなかったのだ。
どう返すべきかと考えているうちに、マンションの前に着き、気後れしながらオートロック解除の番号を押した。
重厚な自動ドアが開く。目の前に広がった、住んでいたアパートとはまるで違うつくりに、緊張する。
広いエントランスには革張りのソファとテーブルが置いてあった。花が活けられた受付に人はいないが、光が反射する程磨かれた床にはゴミひとつ落ちていない。
ヒールのある靴で上るとカンカンと音がするアパートの鉄の階段が懐かしい。なんとか部屋番号を間違えずに玄関を開けた所で、疲れは最高潮に達した。
喉も少し痛い。義信は遅くなると言っていたし、夕食を作る前に風呂へ入る事にした。買ってきたものを冷蔵庫の中に入れてバスルームに向かい、苦笑する。
朝も見て驚いたのだけれど、全面ガラス張りなのだ。ボタンを押すとスモークが張られるが落ち着かず、慣れるまでに時間がかかりそうだった。
体と髪を洗って脚を伸ばせる程に大きな湯船へ浸かる。テレビもついていて、快適と認めざるを得ない。
珍しさからテレビを見ながら風呂に浸かっていると、あっという間に時間は過ぎていった。
湯を抜いて掃除をし、確認した所、一時間以上経っている。疲れが増していたものの、まだ夕食づくりという仕事が残っていた。
濡れた髪を拭きつつダイニングに戻ると、見知らぬ男が長い脚を投げ出してソファでくつろいでいた。
泥棒と叫ぶ事が出来なかったのは、彼があまりにこの部屋に馴染んでいたからだ。夏帆の気配に気付いた男が振り向き、人好きのする笑みを浮かべた。
「どうも、義信の大親友です」
茶髪の短髪、髭、眼鏡、義信の大親友だと名乗る長身の男前。疲れが何トンにもなって体に圧しかかってきた気がする。
昨夜は父親が連れていかれ、婚姻届を出し、住み慣れた家を引き払う事になった。今日はなんとか出社していつも通りに仕事をこなした。
そんな一日が終わったと思ったら、今度は謎の男前の登場だ。何でもありの展開に、夏帆は諦めの心境でふっと笑う。
「久我夏帆です」
「俺、真崎翔太。翔太って呼んでよ。夏帆、夕食はまだだよな」
当然のように下の名前で呼ばれて、夏帆は立ち尽くす。
「ほら、翔太って言ってみな」
「……真崎さん」
「しょ、う、た」
何度かこの攻防を繰り返して、翔太が決して折れないとわかった夏帆は観念した。
「翔太……さん」
「よく出来ましたー」
屈託のない笑顔を向けられるが、翔太が夏帆の存在に驚かないのはなぜだろう。
義信の交友関係を一切知らない夏帆は濡れた髪もそのままに翔太へ聞く。
「社長さんとお約束ですか」
「あいつ、夏帆に社長って呼ばせてんの?」
翔太は驚いた顔でソファから立ち上がった。身長は義信より少し低いくらいだろうか。それでも日本人男性の平均身長を大幅に上回っている。
背の高い人に見下ろされて、居心地が悪くなる。夏帆は一歩下がって距離を取った。
「私が社長さんって呼んでいるだけです」
「義信はそれに何も言わないんだ。へぇ」
翔太は腰に手をやって、夏帆をまじまじと見てくる。堂々と出来るような外見は持ち合わせておらず、さらに居心地が悪くなった。
一方の翔太は痩せ過ぎではない細身で姿勢が良い上に、顔立ちも整っていた。シャツとジーンズというシンプルな格好なのに洒落ている。二の腕などのさりげなく盛り上がった筋肉にも意識の高さを感じた。
そんな男前に、自分のパーツのひとつひとつを吟味されるのはいたたまれない。
「なぁ、夏帆から見て義信ってどう?」
「どうって……」
急に聞かれても、語れる程義信を知らない。
彼は、動揺していた夏帆を安心させようとしてくれたし、生活全般の面倒を見てくれる。ずっと一緒に暮らしてきた父親よりも頼れるのは確かだ。
「夏帆からしたらやっぱり怖い? 身長が高い上に筋肉もあるし、年上で態度もでかいだろう」
「怖くないです」
考えるよりも先に言葉が出た。義信は背が高くてがっしりしているが、近くにいても圧迫感を覚えないし、態度が大きいと感じた事もない。翔太がどうしてそんな事を聞いてくるのか疑問だ。
「で、結婚生活はどう」
ポカン、と翔太の顔を見つめた。今、結婚と言った気がするが、昼間みたいな聞き間違いなのだろうか。だって結婚の事は外部に漏らさないはずだ。
聞き返す事も出来ず夏帆が固まっていると、翔太は得意げに笑む。
「合鍵を持っている仲だし、知らないって不自然じゃない?」
翔太はソファに戻って自分の鞄から鍵を出すと、夏帆に向かって振った。それでも、翔太が結婚の事を知っているのは衝撃だ。
「え、いや、その、お、お茶でも飲みますか」
「何そのわかりやすい動揺。夏帆って面白いね」
契約内容を考えると、夏帆から結婚について何も喋る事は出来ない。
今すぐ部屋に逃げ込み、鍵をかけて引きこもりたいと泣きそうになっていたら、玄関のドアが開く音がした。
「お、ご主人様のお帰りだ」
翔太が破顔して玄関へ向かう。夏帆はやり過ごせた事にほっとしたが、すぐに強烈な不安に襲われた。翔太が知っているという事実を、義信にどう伝えたらいいのだろう。
夏帆がひとり冷汗を流していると、義信と翔太のふたりは仲良さそうにリビングへ入ってきた。義信におかえりなさい、と声をかけようとしてタイミングを逃す。翔太が義信の耳に唇を寄せて何か耳打ちしていたからだ。
翔太に穏やかな笑みを向ける義信に、酸欠になったような息苦しさを覚えた。胸をぎゅっと掴まれたみたいな、呼吸が乱れる不思議な痛み。
その事にたじろいでいると、夏帆は翔太に力強く肩を引き寄せられた。
「えっ」
突然過ぎて抵抗する間もなく、翔太の脇にぴたりと収まる。義信に抱き寄せられた時とは違って、全く落ち着かない。
「俺がふたりの結婚を知っている事は夏帆に話した。秘密が増えると、嘘に嘘を重ねる事になって面倒になるからさ。なあ義信」
「お前がひとりで決める事じゃないだろう」
「まぁね。でも、俺が決める事でもあるよね」
ふたりが会話に集中しているのを良い事に、夏帆は翔太の腕から逃げ出す。あっさりと夏帆を離した彼は特に気にした様子もない。
「お、逃げられた。夏帆、魚介は好きかな。ペスカトーレを作るつもりなんだけど」
夏帆が動いた事でふたりの会話が終わった。ちらりと義信を見ると、険しい表情をしている。あれだけ誰にも話さないよう言っていたのに、翔太に話した理由を聞ける雰囲気ではない。
考えてもわからない事は考えないに限る。夏帆は気持ちのベクトルをペスカトーレに向けた。
「ペスカトーレって……」
パスタだという事はわかるが、いまいちどんなものか思い出せない。翔太はキッチンに向かいながら得意気に喋り出す。
「魚介類とトマトソースのパスタだね。俺の得意料理でもある。あさりにムール貝、イカと海老も買ってきた」
翔太は上機嫌に冷蔵庫から食材を取り出し、立派な海老やイカをカウンターに並べる。
家計をずっと預かってきた夏帆にとって、魚介、とりわけ海老とあさりは高級品だった。ムール貝にいたってはどこに売っているかもわからない。
「夜ご飯を作るのは私の仕事なので、手伝わせて下さい」
「気にしなくていいよ」
人に甘える事に慣れていない夏帆は、さっそく手伝おうと腕捲りをする。
「髪を乾かすのが先だ」
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