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番外編
夫婦から家族へ 4 ※R18(簡易保険)
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◇
亮一の妹の久実は母親である朝子と対等にものを言い合っていた。それが無理などない自然体だと知った時は衝撃だった。自分と母親との関係と、あまりにも違った。
可南子が亮一の実家に行くのは居心地が良いからだ。朝子に屈託なく可愛がられるうちに育っていったものは、羨望ともいえるかもしれない。学生時代から母親が周りと違うのは気づいていたが、どう違うのかまでは考えなかった。
朝子の母親の在り方を知るほど、自分の母親の従わせようとする言動がわかるようになった。弟の浩二はこれに反発していたのだ。
手紙の事を亮一に伝えるのが苦しく恥ずかしい。だが、母親の口から伝わるのは最も避けたい。複雑にした感情は手足の枷となって行動を鈍く重くする。
夜中、横で亮一が寝ているのを確認して、可南子はベッドから抜け出す。寒さを凌ぐショールを肩に掛けて、使っていない部屋に入ると、隠している手紙をバッグの中から取り出した。寝床で温まっていた手が冷えていく中、手紙を開く。開封した時は一度しか目を通せなかった手紙を、何度も読み返す。何か良い解釈ができないか、食い入るように読んだ。
……何か、何でも良いの。
顔が色を失っていくのは寒い部屋のせいだ。そう自分に言い聞かせて、可南子は白い顔で肩を落としたまま手紙から顔を上げる。スリッパを履いていても足から冷えが身体に入ってきていた。
手紙を封筒にしまいながら、ぼんやりと、亮一に話すなら楽しい日がいいと思った。週末の節分パーティの帰りはどうだろうか。そんな事を考えながら、リビングに戻って自分の通勤用のバッグの中に手紙を入れた。
すっかり冷えた身体で寝室に戻りベッドに横になると亮一に抱き寄せられる。熱い腕に背中から抱きしめられ、同時に訪れた安堵と焦りは身体を固くする。
「もう寝ろ」
静かな声なのに優しさと強さがある。可南子は切なくなった。相談して楽になりたい気持ちに突き動かされて話すには自分の中ではまだ重い。可南子は「起こしてごめんなさい」と言って目を瞑る。だが、手紙の文字が頭の中をぐるぐる回って、また目を薄く開けてしまった。どこにも、自分が明るくなれる要素の無い手紙だった。真夜中に居心地の悪さをただ反芻しただけで、得るものは無かった。
ふいに、亮一の手が腰を回って寝間着から下着の中に侵入した。驚き振り向こうとした可南子の頭は、亮一の顎の下にすっぽりと収まる。
「あの、手が」
「頭が冴えてるから寝れないんだ。イけば、寝れるだろ」
柔らかな繁みの中、まだ潤わない蜜唇を撫でる指は温かい。敏感な粒をゆっくり擦られるとすぐに滑りが良くなり、指先で転がされると身体にじわじわと悦が広がっていく。
「ねぇ、どうしたの」
「前から言ってるが、俺は優しくない。可南子にだけだ」
蜜を塗り広げていた指が二本、蜜口から挿入されると可南子の口から声が漏れる。蜜襞の柔らな壁が指を咥えこみ奥へ誘っている。蜜が纏わりついた亮一の指は、細かく早い動きで内壁を擦った。確実に悦楽を呼び起こす動きに可南子の顔が悦楽に火照りだす。冷えていたのが嘘のように、身体が熱くなっていく。
「あっ、亮一さん、まって」
「イケよ。どんどん濡れてきて……ヒクついてる」
「言わないで……あっ」
奥まで届く長い指が恍惚を呼び起こし頭の中の思考を溶かしていく。手の平が膨らんだ蕾を潰す度に腰がビクビクと痙攣した。亮一から与えられる身体の悦びに震え、どこまでも甘い痺れに身体を委ねる。
「好きだ、可南子。別れるなんて間違っても言うな」
「あっ、んっ……」
大きな愉楽の力は波となって可南子の身体を呑みこみ、いつでも初めてみるような光を見せてくる。知らずに身体に力が入り、解き放つ準備に呼吸が短くなる。汗が滲んで、脚は亮一の指を奥まで受け入れられるように自然と開いていた。
「い、イッ……もうっ」
絶頂で見た閃光の後の忘我は睡魔を連れてやってきた。蕩けてぐったりとした可南子の身体から亮一は指を抜く。頭から離れない手紙が、さらさらと溶けていくような気がした。
身体を包み込むように亮一の腕に強く抱きしめられた。息苦しさを感じながらも弛緩した身体は眠りに従順で瞼が重い。
「かな、俺には可南子だけだ。可南子がいなくなったら、俺は……」
亮一の霞むような声は、震えている気がした。
……話します、土曜日に。
可南子は口を動かした。だが、それは寝息に消えていく。
◇
翌々日、緑山との飲みから帰ってきた亮一を、起きていた可南子は玄関まで迎えに行く。午前零時に近かったせいか亮一は可南子の顔を見て溜息を付くとにべもなく言い放った。
「みどりなりに考えてる。自分で結論を出すことで、他人が口を挟む事じゃない」
冷たい。そんな非難の目を向けた可南子に、亮一はまた溜息をついて、可南子の髪を乱すように頭をぐしゃぐしゃ、と撫でた。
「覚悟の問題だよ、奥さん。真面目に考えてるんだが、空回りではあるな。誰かさんみたいだ」
最近、嫌味が激しい。眉を顰めながら、可南子はコート越しに亮一の腕を両手で掴むと抗議するように引っ張った。亮一は難なく可南子の腕を払うと細い肩を抱き寄せて、そのまま暖房の聞いたリビングへと足を進める。
「もう寝ろ。遅い」
「ねぇ、緑山さんは」
「……寝、ろ」
コートを脱いでネクタイを緩めつつ、言葉を区切りながら言った亮一の表情は硬くて冷たかった。見上げた亮一の横顔が疲れているように見えた。それに気付かなかった可南子は胸を締め付けられながら唇を引き結ぶ。
最近、自分のことばかりになっている。視線を落として黙って寝室に足を向けると、亮一はソファに腰かけて可南子に座るように目くばせしてきた。躊躇った後、人一人分ほど空けてそっと座ると、亮一は眉根を寄せながら腰を浮かせ、その間を詰めて座りなおした。身体が密着して熱くなる。
「別れるも、別れないも、本人たち次第だ」
「……」
「できることなんて限られてる。あまり首を突っ込むな。まずは、自分の事を考えろ」
しごく真っ当なことを厳しめな口調で言われて、鼓動が早まった。頭ではわかっている。可南子は頷かずに立ち上がった。
早苗は食欲が無いらしく、会社で泣くことは無くなったがここ数日で痩せた。可南子は居ても立っても居られず、ゼリー状の栄養機能食品や早苗の好きなお菓子を机まで持って行った。早苗にありがとう、と受け取られたそれは可南子が帰る時まで机の上にあった。いつもなら1時間以内に無くなるものだ。
何もできないのはわかっている。だが、そんな姿を見てもなお、何もしないこともできない。
「寝ます」
「……かな」
亮一に手首を掴まれたが、腕を自分の胸の方へ引き、その手を解く。亮一の顔は見られなかった。
「寝ます……」
亮一に相談するべきは友人の事じゃない、可南子自身のことだ。亮一が言いたいことは痛いほどにわかった。その夜も寝ながら亮一は苦しくなるほど抱き締めてきた。可南子が身じろぎすればさらに引き寄せられる。起きているのかと思えば寝ていて、可南子は亮一をとても不安にさせていると、身をもってわかる。
◇
次の日、体調を崩したらしく早苗は会社を休んだ。ゆっくり休んでね、と可南子はメールを打つ。
経理に伝票を持っていき、綺麗に片付いた早苗のいない机を見る。早苗は癖のある経理チームメンバーの中にあって明るく相談しやすいので頼りにされていた。今日は経理から華やかさが消えたような印象を受けた。
伝票を提出して自席に戻ると、パソコンの画面に新規メールを知らせるダイアロボックスが表示されていた。開こうとしてマウスを持つ手を止めた。小さく溜息を付きながら、机に肘をついて手の平で顔を覆う。早苗にはよく助けてもらっていた。反対に自分は何か役に立てたことがあったか思い出せない。亮一にも心配をさせたままだ。自責と無力感が可南子の心を蝕んで、それを隠すための笑顔が自然と顔に浮かんだ。
昼も食事を取る気になれず、仕事の資料を整理しているとスマートフォンがメールを知らせた。亮一の名前が表示されて心臓がどくん、と打つ。朝はぎこちなくも悪い雰囲気ではなかった。
『今日は仕事で泊まりになる。明日、広信の所で』
血の気が引いた。他の女の人、という母親の書いた文字が胸を突き刺した。ありえないとわかるのに心臓が痛い。
亮一の背中は大きいのに、時折、とても遠い。考えても無駄な事は考えないという亮一は眩しいくらいに正しい。考えて立ち止まってしまう自分が愚かに見える。そして、それを変えられない自分が歯痒い。
『わかりました。お疲れ様です』
気持ちが沈む事が重なると、うまく行かない事が多くなる。
メールを送ると、後ろから自分の名を呼ぶ声が聞こえた。経理の人だ。経理はフロアの端の方なのだが、わざわざこちらまで来たらしい。高い声で伝票をヒラヒラさせながらやってくる。真っ赤な口紅を差した唇の口角がぐっと上がっている。
「志波さん、伝票間違ってるけど、らしくないじゃん。こんな間違いをする人だっけ? ほら、ここと、ここ、間違ってる。ね、間違ってるでしょ?」
伝票はシステムを使って入出力する。間違った伝票は訂正後に出力しなおさなければならない。机の上に置かれた受理されない伝票には、訂正箇所に蛍光ペンでグルグルと丸が付けられていた。ジェルネイルで桃色に彩られた爪が、こつん、とさらにその場所を差す。
「助かります。ありがとうございます」
「ほら、間違うのすっごい珍しいから、つい、来ちゃったー。今日は外出してないみたいだったし」
「訂正して持っていきます」
「お昼休みにごめんねぇ。いたからつい。昼が終わってからでいいよー」
昼休みが終わって持ってい来い、ということか。可南子は曖昧に微笑しながら伝票を受け取った。
「早苗も休んでて忙しいの。ただでさえ忙しいのにねー」
胸の下で腕を組んで、ちらり、と可南子に向けられた視線は好奇心の塊だった。可南子は心の中で冷静になる。早苗は元気が無い理由を飼っていた犬が死んだと話している。様子を見て女の勘でも働いたのか、可南子の口から何か事情を聞き出したいのだと感じた。
話すと思われているのなら心外だ。可南子は何重にも丸を書かれた伝票の訂正箇所に目を落とした後、マウスを動かして届いたメールを開く。
「冬ですし具合が悪い時は、無理をしないのが一番ですよね」
反論を許さない静かな口調に、相手が尻込みしたのがわかった。人の悲しみも苦しみも、ただの興味本位で聞くものじゃない。
「昼休みが終わったら持っていきます」
絡まった糸を解くのには時間がかかる。自分がどこで手こずるかなんて、起こってみないとわからない。
……こういうの、大嫌い。
外聞を気にして『一般常識』に当てはまるように指図されるのも、興味本位で人の事を話すように仕向けられるのも。そして何よりも、強く言えば言いなりになると思われている事が嫌だった。
……本当に、嫌だ。
母親の手紙に初めて怒りが沸いた。
可南子は急に空腹を感じて自分の胃の辺りを押さえた。スマートフォンで時間を確認するとまだ三十分は時間があった。これなら、コンビニに行っておにぎりを買ってくる余裕はある。可南子は財布を手に持つと立ち上がった。
亮一の妹の久実は母親である朝子と対等にものを言い合っていた。それが無理などない自然体だと知った時は衝撃だった。自分と母親との関係と、あまりにも違った。
可南子が亮一の実家に行くのは居心地が良いからだ。朝子に屈託なく可愛がられるうちに育っていったものは、羨望ともいえるかもしれない。学生時代から母親が周りと違うのは気づいていたが、どう違うのかまでは考えなかった。
朝子の母親の在り方を知るほど、自分の母親の従わせようとする言動がわかるようになった。弟の浩二はこれに反発していたのだ。
手紙の事を亮一に伝えるのが苦しく恥ずかしい。だが、母親の口から伝わるのは最も避けたい。複雑にした感情は手足の枷となって行動を鈍く重くする。
夜中、横で亮一が寝ているのを確認して、可南子はベッドから抜け出す。寒さを凌ぐショールを肩に掛けて、使っていない部屋に入ると、隠している手紙をバッグの中から取り出した。寝床で温まっていた手が冷えていく中、手紙を開く。開封した時は一度しか目を通せなかった手紙を、何度も読み返す。何か良い解釈ができないか、食い入るように読んだ。
……何か、何でも良いの。
顔が色を失っていくのは寒い部屋のせいだ。そう自分に言い聞かせて、可南子は白い顔で肩を落としたまま手紙から顔を上げる。スリッパを履いていても足から冷えが身体に入ってきていた。
手紙を封筒にしまいながら、ぼんやりと、亮一に話すなら楽しい日がいいと思った。週末の節分パーティの帰りはどうだろうか。そんな事を考えながら、リビングに戻って自分の通勤用のバッグの中に手紙を入れた。
すっかり冷えた身体で寝室に戻りベッドに横になると亮一に抱き寄せられる。熱い腕に背中から抱きしめられ、同時に訪れた安堵と焦りは身体を固くする。
「もう寝ろ」
静かな声なのに優しさと強さがある。可南子は切なくなった。相談して楽になりたい気持ちに突き動かされて話すには自分の中ではまだ重い。可南子は「起こしてごめんなさい」と言って目を瞑る。だが、手紙の文字が頭の中をぐるぐる回って、また目を薄く開けてしまった。どこにも、自分が明るくなれる要素の無い手紙だった。真夜中に居心地の悪さをただ反芻しただけで、得るものは無かった。
ふいに、亮一の手が腰を回って寝間着から下着の中に侵入した。驚き振り向こうとした可南子の頭は、亮一の顎の下にすっぽりと収まる。
「あの、手が」
「頭が冴えてるから寝れないんだ。イけば、寝れるだろ」
柔らかな繁みの中、まだ潤わない蜜唇を撫でる指は温かい。敏感な粒をゆっくり擦られるとすぐに滑りが良くなり、指先で転がされると身体にじわじわと悦が広がっていく。
「ねぇ、どうしたの」
「前から言ってるが、俺は優しくない。可南子にだけだ」
蜜を塗り広げていた指が二本、蜜口から挿入されると可南子の口から声が漏れる。蜜襞の柔らな壁が指を咥えこみ奥へ誘っている。蜜が纏わりついた亮一の指は、細かく早い動きで内壁を擦った。確実に悦楽を呼び起こす動きに可南子の顔が悦楽に火照りだす。冷えていたのが嘘のように、身体が熱くなっていく。
「あっ、亮一さん、まって」
「イケよ。どんどん濡れてきて……ヒクついてる」
「言わないで……あっ」
奥まで届く長い指が恍惚を呼び起こし頭の中の思考を溶かしていく。手の平が膨らんだ蕾を潰す度に腰がビクビクと痙攣した。亮一から与えられる身体の悦びに震え、どこまでも甘い痺れに身体を委ねる。
「好きだ、可南子。別れるなんて間違っても言うな」
「あっ、んっ……」
大きな愉楽の力は波となって可南子の身体を呑みこみ、いつでも初めてみるような光を見せてくる。知らずに身体に力が入り、解き放つ準備に呼吸が短くなる。汗が滲んで、脚は亮一の指を奥まで受け入れられるように自然と開いていた。
「い、イッ……もうっ」
絶頂で見た閃光の後の忘我は睡魔を連れてやってきた。蕩けてぐったりとした可南子の身体から亮一は指を抜く。頭から離れない手紙が、さらさらと溶けていくような気がした。
身体を包み込むように亮一の腕に強く抱きしめられた。息苦しさを感じながらも弛緩した身体は眠りに従順で瞼が重い。
「かな、俺には可南子だけだ。可南子がいなくなったら、俺は……」
亮一の霞むような声は、震えている気がした。
……話します、土曜日に。
可南子は口を動かした。だが、それは寝息に消えていく。
◇
翌々日、緑山との飲みから帰ってきた亮一を、起きていた可南子は玄関まで迎えに行く。午前零時に近かったせいか亮一は可南子の顔を見て溜息を付くとにべもなく言い放った。
「みどりなりに考えてる。自分で結論を出すことで、他人が口を挟む事じゃない」
冷たい。そんな非難の目を向けた可南子に、亮一はまた溜息をついて、可南子の髪を乱すように頭をぐしゃぐしゃ、と撫でた。
「覚悟の問題だよ、奥さん。真面目に考えてるんだが、空回りではあるな。誰かさんみたいだ」
最近、嫌味が激しい。眉を顰めながら、可南子はコート越しに亮一の腕を両手で掴むと抗議するように引っ張った。亮一は難なく可南子の腕を払うと細い肩を抱き寄せて、そのまま暖房の聞いたリビングへと足を進める。
「もう寝ろ。遅い」
「ねぇ、緑山さんは」
「……寝、ろ」
コートを脱いでネクタイを緩めつつ、言葉を区切りながら言った亮一の表情は硬くて冷たかった。見上げた亮一の横顔が疲れているように見えた。それに気付かなかった可南子は胸を締め付けられながら唇を引き結ぶ。
最近、自分のことばかりになっている。視線を落として黙って寝室に足を向けると、亮一はソファに腰かけて可南子に座るように目くばせしてきた。躊躇った後、人一人分ほど空けてそっと座ると、亮一は眉根を寄せながら腰を浮かせ、その間を詰めて座りなおした。身体が密着して熱くなる。
「別れるも、別れないも、本人たち次第だ」
「……」
「できることなんて限られてる。あまり首を突っ込むな。まずは、自分の事を考えろ」
しごく真っ当なことを厳しめな口調で言われて、鼓動が早まった。頭ではわかっている。可南子は頷かずに立ち上がった。
早苗は食欲が無いらしく、会社で泣くことは無くなったがここ数日で痩せた。可南子は居ても立っても居られず、ゼリー状の栄養機能食品や早苗の好きなお菓子を机まで持って行った。早苗にありがとう、と受け取られたそれは可南子が帰る時まで机の上にあった。いつもなら1時間以内に無くなるものだ。
何もできないのはわかっている。だが、そんな姿を見てもなお、何もしないこともできない。
「寝ます」
「……かな」
亮一に手首を掴まれたが、腕を自分の胸の方へ引き、その手を解く。亮一の顔は見られなかった。
「寝ます……」
亮一に相談するべきは友人の事じゃない、可南子自身のことだ。亮一が言いたいことは痛いほどにわかった。その夜も寝ながら亮一は苦しくなるほど抱き締めてきた。可南子が身じろぎすればさらに引き寄せられる。起きているのかと思えば寝ていて、可南子は亮一をとても不安にさせていると、身をもってわかる。
◇
次の日、体調を崩したらしく早苗は会社を休んだ。ゆっくり休んでね、と可南子はメールを打つ。
経理に伝票を持っていき、綺麗に片付いた早苗のいない机を見る。早苗は癖のある経理チームメンバーの中にあって明るく相談しやすいので頼りにされていた。今日は経理から華やかさが消えたような印象を受けた。
伝票を提出して自席に戻ると、パソコンの画面に新規メールを知らせるダイアロボックスが表示されていた。開こうとしてマウスを持つ手を止めた。小さく溜息を付きながら、机に肘をついて手の平で顔を覆う。早苗にはよく助けてもらっていた。反対に自分は何か役に立てたことがあったか思い出せない。亮一にも心配をさせたままだ。自責と無力感が可南子の心を蝕んで、それを隠すための笑顔が自然と顔に浮かんだ。
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『わかりました。お疲れ様です』
気持ちが沈む事が重なると、うまく行かない事が多くなる。
メールを送ると、後ろから自分の名を呼ぶ声が聞こえた。経理の人だ。経理はフロアの端の方なのだが、わざわざこちらまで来たらしい。高い声で伝票をヒラヒラさせながらやってくる。真っ赤な口紅を差した唇の口角がぐっと上がっている。
「志波さん、伝票間違ってるけど、らしくないじゃん。こんな間違いをする人だっけ? ほら、ここと、ここ、間違ってる。ね、間違ってるでしょ?」
伝票はシステムを使って入出力する。間違った伝票は訂正後に出力しなおさなければならない。机の上に置かれた受理されない伝票には、訂正箇所に蛍光ペンでグルグルと丸が付けられていた。ジェルネイルで桃色に彩られた爪が、こつん、とさらにその場所を差す。
「助かります。ありがとうございます」
「ほら、間違うのすっごい珍しいから、つい、来ちゃったー。今日は外出してないみたいだったし」
「訂正して持っていきます」
「お昼休みにごめんねぇ。いたからつい。昼が終わってからでいいよー」
昼休みが終わって持ってい来い、ということか。可南子は曖昧に微笑しながら伝票を受け取った。
「早苗も休んでて忙しいの。ただでさえ忙しいのにねー」
胸の下で腕を組んで、ちらり、と可南子に向けられた視線は好奇心の塊だった。可南子は心の中で冷静になる。早苗は元気が無い理由を飼っていた犬が死んだと話している。様子を見て女の勘でも働いたのか、可南子の口から何か事情を聞き出したいのだと感じた。
話すと思われているのなら心外だ。可南子は何重にも丸を書かれた伝票の訂正箇所に目を落とした後、マウスを動かして届いたメールを開く。
「冬ですし具合が悪い時は、無理をしないのが一番ですよね」
反論を許さない静かな口調に、相手が尻込みしたのがわかった。人の悲しみも苦しみも、ただの興味本位で聞くものじゃない。
「昼休みが終わったら持っていきます」
絡まった糸を解くのには時間がかかる。自分がどこで手こずるかなんて、起こってみないとわからない。
……こういうの、大嫌い。
外聞を気にして『一般常識』に当てはまるように指図されるのも、興味本位で人の事を話すように仕向けられるのも。そして何よりも、強く言えば言いなりになると思われている事が嫌だった。
……本当に、嫌だ。
母親の手紙に初めて怒りが沸いた。
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