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純粋な欲望
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ヒューゴは夜明け頃に焚き火を起こしたようで、おれは半覚醒の中まどろみながら、時折目覚めては、チェアで寛いでいるその姿を見ていた。
渓谷に細く降り注ぐ朝日の中にいるヒューゴは、怖いくらいに美しかった。
朝日に光る川の小波と、光の届かない暗い岩間の両方をそのまま身に纏うように鋭く暗く輝いている。水の精霊の化身だと言われても納得しそうなほど、人知を超えた魅力がある。まったく、どこにいても絵になる男だな。
いつまでも鑑賞していたいが、今は教会で宗教画を眺めているのではなく、河原でキャンプ中だ。日差しが強くなる前に起床せねば。
朝食は、昨夜のBBQで残しておいたステーキ肉を使ったホットサンドウィッチだった。
コーヒーはヒューゴがアルミのボトルに入れて、川の水で冷やしてくれていた。天然のアイスコーヒーだ。
「今日は何する?」
サンドウィッチを頬張るおれにヒューゴが尋ねてくる。肉とチーズの他に缶詰のベイクドビーンズが入っていて、それがなんとも言えないアウトドア風味を出している。
最高に美味い。
「ゴーグル買ってきたから、水の中で魚を見たい。予定はそれだけ」
「魚を獲ってみるのは?」
「釣具買ってきたの?」
「いや、手掴み。僕のやり方が日本の魚に通用するか試したい」
「面白そうだな」
「捕れたらお昼は魚を食べよう」
朝食を食べ終えたおれたちは河に入り、膝より低い水位でゴツゴツと岩が突き出た浅瀬へ、そーっと移動する。料理のできないおれにとっては、生の魚を触ることからもう初めてだ。
「あっ」
少し大きな声を出してしまい、ヒューゴにシーっと注意される。
ビャッと足元で素早く動くものが岩の下へ潜り込んだんだ。
「岩の下に手を入れて、魚に触れたら、腹側をそっと何度か撫でる。魚が動かなくなるから、そこを両手で掴む。やってみて」
魚の影が入り込んだ岩の下にゆっくり両手を入れて探る。手に、ぬるりとして張りがあるものが触る。ヒューゴに教わった通りに腹をくすぐるように撫でると、たしかに魚の動きが止まった。
いまだ!と両手で捕まえ、やみくもにヒューゴが持っていたバケツに投げ込むと、バチャリと音を立てた。
「すごいな透!1回で捕まえられるなんて!」
めずらしくはしゃいだ声で褒めてもらえて、おれはかなり得意気になった。ヒューゴの教え方が上手いんだろうけれど。
魚はちょっとした群れでいたらしく、2人で5匹の結果となった。最初の1匹以外、すべてヒューゴの収穫だが。
「ビギナーズラックだった」少し落胆して言うと、「魚が警戒し始めるから、難しくなるんだ」と慰めてくれる。
「イワナ?」
バケツの中を覗き込みながら当てずっぽうで尋ねる。斑点があり、日光で虹色に光るきれいな魚だ。おれが名前を知っている川魚は少なく、コイやアユではなさそうだから消去法だ。
「トラウトだってことしか分からない。サーモンと同種だ」
「絶対美味しいじゃん。ヨーロッパにもいるの?」
「いるよ。もう少し大きい同種がたくさん」
ソロキャンプは何度か経験があるが、いつも自転車がメインのため、ほぼ寝るだけの野宿だ。調理なんてバーナーでインスタントラーメン用の湯を沸かすのが精いっぱいで、獲ったものを食べるサバイバルのようなキャンプは憧れでしかなかった。
魚の捕り方や焚き火の起こし方は、これから毎年教わろう。料理もできるようになりたい。なんとなくだが、ヒューゴはおれにあれこれ教えることを楽しんでいる様子だし。
その後しばらく一人で水中探索を楽しんでから陸へ上がると、そろそろ調理が始まりそうだった。おれは冷えた身体を焚き火に当てる。
ヒューゴは魚を締め、サバイバルナイフでウロコをそぎ、頭と内臓を落としぶつ切りにしていく。見事な手際だ。
夏野菜と一緒にすべてダッチオーブンへ入れると、バターで炒めるようだ。
「てっきり串刺しにして焚き火で焼くのかと思った」
「それもいいけど、こっちの方がパンに合う」
なるほど。うっかり米を持って来ていないが、パンならバゲットもトーストもたくさんある。
「なー、ヒューゴ」
おれの間延びした呼びかけに、なんだ?と眉をあげる。
「おれ今、めちゃくちゃ楽しい」
「よかった。僕もだ」
ヒューゴはダッチオーブンをかき混ぜながら、おれに向かってほんわりと微笑みかけてくれた。。
店で飲むのも楽しい、家で過ごすのも楽しい、キャンプも楽しい。結局、ヒューゴがいればどこででも、おれは嬉しかったり楽しかったりするんだろう。
イワナのバター焼きは、自分で捕まえた魚だからというのは別にしても、キャンプ飯とは思えないほど絶品だった。カリカリに焼いたバゲットが添えられていて、皿さえ違えば、レストランで出されても納得だ。
「少し雲行きが怪しくなってきたな」
岩の上に腰掛け、足を流れる水につけながら食後のコーヒーを飲んでいると、ヒューゴがカップ片手に寄ってきた。
空を仰ぐと、灰色の雲が入道雲に混ざっている。心なしか風も強くなってきたようだ。
「どうする?もし大雨になるとタープが持たないかもしれない」
増水すれば水が濁って魚も見えなくなるだろうし、危険度も上がる。名残惜しいが、今回は1泊で切り上げるしかなさそうだ。
「次回は悪天候を想定したギアと、車中泊だな。秋にまた来よう、透の新車で」
手分けして後始末していると、ポツリと雨が肌に当たった。大急ぎで野営地を後にすると、ちょうど山を下ったあたりで雨脚は強くなった。
「引き上げてきて正解だったな」
フロントガラスに大粒の雨が打ち付けはじめ、あっという間に滝のようになった。「ついでに洗車ができる」とヒューゴが大雑把な性格を垣間見せる。
「現地で食材調達なんて考えもしなかったよ。すごく楽しかったし、美味しかった」
「それはなにより。僕も最高に楽しかった。いつかスウェーデンでキャンプしよう。もっと大きな魚もいるし、森で狩りもできる」
「いいなあ」
そんな約束していいのか、ヒューゴ。
おれは、日本語の『いつか』が使われる約束が苦手だ。なぜだか、その言葉を使うと実現しないような気になるから、できるだけ避けるようにしている。
「透の休暇さえ都合がつけばすぐにでも、なんだけどね。必ず行こう」
「来年の夏は10連休くらい取るよ」
日本のサラリーマンの場合、年間休日数は少なくないが、まとめて取れないのが問題だ。
「じゃ、来年の夏ね。どうせそれより長い休暇は、当分無いだろ」
ヒューゴが急にこっちを向いて宣言したかと思うと、信号待ちの一瞬で、おれのこめかみに口づける。彼から発せられた提案は決定だと感じた。『いつか』ではなく、『これから』の予定として、本心で有言実行してくれるという信頼。
「うん。行こう」
「透の来年の予定を貰ったところだが、次の予定はまず明日のホラー映画鑑賞だな。諒子のチョイスだから……」
「諒子さん、ゾンビ系好きだもんね」
そもそも夏に怪談やホラー映画を観るのは、ゾッとして涼を得るためだ。おれや諒子さんの好むB級ゾンビ映画には怖さを期待できないかもな。
「ケイには……諒子の彼氏には会ったことがある?」
「店でバイト中に少し。諒子さんを迎えに来た時かな。挨拶程度だけど」
「いいヤツだよ。仲良くなれると思う」
「おれらのことは、知ってるの?」
「うん。僕が日本にいる理由を話したことがあるから。……ね、会えなくても、初恋の思い出がある土地で暮らすなんて、いいと思わないか?僕のことだけど」
「案外ロマンチストなんだな」
「知らなかった?」
「全然」
「じゃあこれから思い知るがいい」
おれは吹き出してしまった。
「おまえのその低い声だと、まるでメフィストフェレスから言われてるようだよ」
ヒューゴはちらりとおれを見て、わざとらしくにっこりと悪魔的な笑顔を見せた。
「メフィストが何をする悪魔か知ってて言ってるのか?」
「知らない。悪魔の名前で唯一思いついただけ」
学生時代に課題で読んだっきりで内容は全く覚えていなかった。
「契約者に、地上で最高の快楽を与える代わりに魂を貰う」
「おれ、契約してねぇから」そう言い切ってみるが、「どうなんだろうね」とヒューゴは楽しそうに笑った。
しかし考えてみると、こいつが悪魔だろうがなんだろうが、望むものは何でも与えてもいいと思うほどには惚れている。
いや、望まれたい、と言った方が正確かな。
マンションに帰り着いたおれたちは、キャンプ遠具をすべて部屋へ持ち上がり、バルコニーでざっと洗った。雨はだいぶ落ち着き、洗い終えたギアを庇の下に立てかけておく。
ここのバルコニーは最上階だけあって広く、風通しも日当たりもとても良い。こんな使い勝手の場所なら後片付けの億劫度が半減する。明日の予報は晴れだから、朝から干せばきれいに乾くだろう。
ようやく温かいシャワーで川の汚れを落としていると、浴室のドア越しにヒューゴの影が動いていて、「アロエのジェルを出しておくから使って」と声が聞こえた。
日焼けを気遣ってくれているんだろう。おれは昔から陸上で真っ黒に焼けていたし、ケアなんてしたこともなかったが、やはり北欧人のヒューゴには必需品なんだろう。せっかくだから顔くらいには塗っておくか。
ボディソープを身体に擦り付けながら、さて、とおれは気合いを入れる。
昨夜のおれの発言は……開き直って言ったわけじゃないが、正直勇気は必要だった。
『抱いてくれ』だなんて。
この1年、少しずつ増えてきたスキンシップから感じ取ったものは、いつのまにかおれの体内で蓄積されていて、おれがヒューゴに何を求めているのか分からせてくれるのに十分だった。
1ヶ月ぶりに会えたあの夜、パントリーでヒューゴに抱きしめられた時の衝撃。
胸を、魂を貫かれるような……鋭く甘い痛み。
あの時に、すでに自分が何を望んでいるのか、分からされたんだと思う。
ヒューゴはおれの希望を静かに聞いてくれていたが、受け入れてくれたとは言え、終始、慎重な様子だった。
あいつがおれの身体をどうにかする気があるのか、本心はあまり読めない。
おれは——欲張りすぎているんだろうか。
時間も、思いやりも、おいしい料理もたくさん与えて貰っているのに、身体まで。
おれは、いつもより時間をかけてシャワーを終えた。
昨日の今日で起こり得ないだろうけど、それでもおれは期待する。
早く、心だけじゃなく、身体も貫いて欲しい。
渓谷に細く降り注ぐ朝日の中にいるヒューゴは、怖いくらいに美しかった。
朝日に光る川の小波と、光の届かない暗い岩間の両方をそのまま身に纏うように鋭く暗く輝いている。水の精霊の化身だと言われても納得しそうなほど、人知を超えた魅力がある。まったく、どこにいても絵になる男だな。
いつまでも鑑賞していたいが、今は教会で宗教画を眺めているのではなく、河原でキャンプ中だ。日差しが強くなる前に起床せねば。
朝食は、昨夜のBBQで残しておいたステーキ肉を使ったホットサンドウィッチだった。
コーヒーはヒューゴがアルミのボトルに入れて、川の水で冷やしてくれていた。天然のアイスコーヒーだ。
「今日は何する?」
サンドウィッチを頬張るおれにヒューゴが尋ねてくる。肉とチーズの他に缶詰のベイクドビーンズが入っていて、それがなんとも言えないアウトドア風味を出している。
最高に美味い。
「ゴーグル買ってきたから、水の中で魚を見たい。予定はそれだけ」
「魚を獲ってみるのは?」
「釣具買ってきたの?」
「いや、手掴み。僕のやり方が日本の魚に通用するか試したい」
「面白そうだな」
「捕れたらお昼は魚を食べよう」
朝食を食べ終えたおれたちは河に入り、膝より低い水位でゴツゴツと岩が突き出た浅瀬へ、そーっと移動する。料理のできないおれにとっては、生の魚を触ることからもう初めてだ。
「あっ」
少し大きな声を出してしまい、ヒューゴにシーっと注意される。
ビャッと足元で素早く動くものが岩の下へ潜り込んだんだ。
「岩の下に手を入れて、魚に触れたら、腹側をそっと何度か撫でる。魚が動かなくなるから、そこを両手で掴む。やってみて」
魚の影が入り込んだ岩の下にゆっくり両手を入れて探る。手に、ぬるりとして張りがあるものが触る。ヒューゴに教わった通りに腹をくすぐるように撫でると、たしかに魚の動きが止まった。
いまだ!と両手で捕まえ、やみくもにヒューゴが持っていたバケツに投げ込むと、バチャリと音を立てた。
「すごいな透!1回で捕まえられるなんて!」
めずらしくはしゃいだ声で褒めてもらえて、おれはかなり得意気になった。ヒューゴの教え方が上手いんだろうけれど。
魚はちょっとした群れでいたらしく、2人で5匹の結果となった。最初の1匹以外、すべてヒューゴの収穫だが。
「ビギナーズラックだった」少し落胆して言うと、「魚が警戒し始めるから、難しくなるんだ」と慰めてくれる。
「イワナ?」
バケツの中を覗き込みながら当てずっぽうで尋ねる。斑点があり、日光で虹色に光るきれいな魚だ。おれが名前を知っている川魚は少なく、コイやアユではなさそうだから消去法だ。
「トラウトだってことしか分からない。サーモンと同種だ」
「絶対美味しいじゃん。ヨーロッパにもいるの?」
「いるよ。もう少し大きい同種がたくさん」
ソロキャンプは何度か経験があるが、いつも自転車がメインのため、ほぼ寝るだけの野宿だ。調理なんてバーナーでインスタントラーメン用の湯を沸かすのが精いっぱいで、獲ったものを食べるサバイバルのようなキャンプは憧れでしかなかった。
魚の捕り方や焚き火の起こし方は、これから毎年教わろう。料理もできるようになりたい。なんとなくだが、ヒューゴはおれにあれこれ教えることを楽しんでいる様子だし。
その後しばらく一人で水中探索を楽しんでから陸へ上がると、そろそろ調理が始まりそうだった。おれは冷えた身体を焚き火に当てる。
ヒューゴは魚を締め、サバイバルナイフでウロコをそぎ、頭と内臓を落としぶつ切りにしていく。見事な手際だ。
夏野菜と一緒にすべてダッチオーブンへ入れると、バターで炒めるようだ。
「てっきり串刺しにして焚き火で焼くのかと思った」
「それもいいけど、こっちの方がパンに合う」
なるほど。うっかり米を持って来ていないが、パンならバゲットもトーストもたくさんある。
「なー、ヒューゴ」
おれの間延びした呼びかけに、なんだ?と眉をあげる。
「おれ今、めちゃくちゃ楽しい」
「よかった。僕もだ」
ヒューゴはダッチオーブンをかき混ぜながら、おれに向かってほんわりと微笑みかけてくれた。。
店で飲むのも楽しい、家で過ごすのも楽しい、キャンプも楽しい。結局、ヒューゴがいればどこででも、おれは嬉しかったり楽しかったりするんだろう。
イワナのバター焼きは、自分で捕まえた魚だからというのは別にしても、キャンプ飯とは思えないほど絶品だった。カリカリに焼いたバゲットが添えられていて、皿さえ違えば、レストランで出されても納得だ。
「少し雲行きが怪しくなってきたな」
岩の上に腰掛け、足を流れる水につけながら食後のコーヒーを飲んでいると、ヒューゴがカップ片手に寄ってきた。
空を仰ぐと、灰色の雲が入道雲に混ざっている。心なしか風も強くなってきたようだ。
「どうする?もし大雨になるとタープが持たないかもしれない」
増水すれば水が濁って魚も見えなくなるだろうし、危険度も上がる。名残惜しいが、今回は1泊で切り上げるしかなさそうだ。
「次回は悪天候を想定したギアと、車中泊だな。秋にまた来よう、透の新車で」
手分けして後始末していると、ポツリと雨が肌に当たった。大急ぎで野営地を後にすると、ちょうど山を下ったあたりで雨脚は強くなった。
「引き上げてきて正解だったな」
フロントガラスに大粒の雨が打ち付けはじめ、あっという間に滝のようになった。「ついでに洗車ができる」とヒューゴが大雑把な性格を垣間見せる。
「現地で食材調達なんて考えもしなかったよ。すごく楽しかったし、美味しかった」
「それはなにより。僕も最高に楽しかった。いつかスウェーデンでキャンプしよう。もっと大きな魚もいるし、森で狩りもできる」
「いいなあ」
そんな約束していいのか、ヒューゴ。
おれは、日本語の『いつか』が使われる約束が苦手だ。なぜだか、その言葉を使うと実現しないような気になるから、できるだけ避けるようにしている。
「透の休暇さえ都合がつけばすぐにでも、なんだけどね。必ず行こう」
「来年の夏は10連休くらい取るよ」
日本のサラリーマンの場合、年間休日数は少なくないが、まとめて取れないのが問題だ。
「じゃ、来年の夏ね。どうせそれより長い休暇は、当分無いだろ」
ヒューゴが急にこっちを向いて宣言したかと思うと、信号待ちの一瞬で、おれのこめかみに口づける。彼から発せられた提案は決定だと感じた。『いつか』ではなく、『これから』の予定として、本心で有言実行してくれるという信頼。
「うん。行こう」
「透の来年の予定を貰ったところだが、次の予定はまず明日のホラー映画鑑賞だな。諒子のチョイスだから……」
「諒子さん、ゾンビ系好きだもんね」
そもそも夏に怪談やホラー映画を観るのは、ゾッとして涼を得るためだ。おれや諒子さんの好むB級ゾンビ映画には怖さを期待できないかもな。
「ケイには……諒子の彼氏には会ったことがある?」
「店でバイト中に少し。諒子さんを迎えに来た時かな。挨拶程度だけど」
「いいヤツだよ。仲良くなれると思う」
「おれらのことは、知ってるの?」
「うん。僕が日本にいる理由を話したことがあるから。……ね、会えなくても、初恋の思い出がある土地で暮らすなんて、いいと思わないか?僕のことだけど」
「案外ロマンチストなんだな」
「知らなかった?」
「全然」
「じゃあこれから思い知るがいい」
おれは吹き出してしまった。
「おまえのその低い声だと、まるでメフィストフェレスから言われてるようだよ」
ヒューゴはちらりとおれを見て、わざとらしくにっこりと悪魔的な笑顔を見せた。
「メフィストが何をする悪魔か知ってて言ってるのか?」
「知らない。悪魔の名前で唯一思いついただけ」
学生時代に課題で読んだっきりで内容は全く覚えていなかった。
「契約者に、地上で最高の快楽を与える代わりに魂を貰う」
「おれ、契約してねぇから」そう言い切ってみるが、「どうなんだろうね」とヒューゴは楽しそうに笑った。
しかし考えてみると、こいつが悪魔だろうがなんだろうが、望むものは何でも与えてもいいと思うほどには惚れている。
いや、望まれたい、と言った方が正確かな。
マンションに帰り着いたおれたちは、キャンプ遠具をすべて部屋へ持ち上がり、バルコニーでざっと洗った。雨はだいぶ落ち着き、洗い終えたギアを庇の下に立てかけておく。
ここのバルコニーは最上階だけあって広く、風通しも日当たりもとても良い。こんな使い勝手の場所なら後片付けの億劫度が半減する。明日の予報は晴れだから、朝から干せばきれいに乾くだろう。
ようやく温かいシャワーで川の汚れを落としていると、浴室のドア越しにヒューゴの影が動いていて、「アロエのジェルを出しておくから使って」と声が聞こえた。
日焼けを気遣ってくれているんだろう。おれは昔から陸上で真っ黒に焼けていたし、ケアなんてしたこともなかったが、やはり北欧人のヒューゴには必需品なんだろう。せっかくだから顔くらいには塗っておくか。
ボディソープを身体に擦り付けながら、さて、とおれは気合いを入れる。
昨夜のおれの発言は……開き直って言ったわけじゃないが、正直勇気は必要だった。
『抱いてくれ』だなんて。
この1年、少しずつ増えてきたスキンシップから感じ取ったものは、いつのまにかおれの体内で蓄積されていて、おれがヒューゴに何を求めているのか分からせてくれるのに十分だった。
1ヶ月ぶりに会えたあの夜、パントリーでヒューゴに抱きしめられた時の衝撃。
胸を、魂を貫かれるような……鋭く甘い痛み。
あの時に、すでに自分が何を望んでいるのか、分からされたんだと思う。
ヒューゴはおれの希望を静かに聞いてくれていたが、受け入れてくれたとは言え、終始、慎重な様子だった。
あいつがおれの身体をどうにかする気があるのか、本心はあまり読めない。
おれは——欲張りすぎているんだろうか。
時間も、思いやりも、おいしい料理もたくさん与えて貰っているのに、身体まで。
おれは、いつもより時間をかけてシャワーを終えた。
昨日の今日で起こり得ないだろうけど、それでもおれは期待する。
早く、心だけじゃなく、身体も貫いて欲しい。
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