1 / 2
生への帰還
しおりを挟む
三嶋亮は、埠頭のいちばん先で立ち止まった。
柵はない。ざらついたコンクリートの縁が、そのまま海と空の境目になっている。瀬戸内の水面は静かで、薄い光をゆっくり返していた。潮の匂いは強すぎず、胸の奥に小さく塩を置いていく。
ここは、ふたりの場所だった。
結婚記念日のたびに夕日を見に来て、帰り道に少しだけ話す。それだけの行事が、長い年月をきちんとつないでくれた。
だが昨年の春で途切れた。香織がいなくなったからだ。末期の肺癌――元医師の自分が最もよく知っていたはずの病名と経過。分かっていても、心はいつも遅れてやって来た。
香織を見送って一年。
世界は少しずつ薄くなった。新聞の行を指で追っても見失い、夜の灯は輪郭をなくし、人の顔は少し離れると誰だか分からない。病名の候補はいくつも聞いたが、名を知っても慰めにはならない。見えにくくなっているのは目だけではない。生きる意味もまた、ぼやけていった。
今日は、終わらせるつもりで来た。
コンクリートの縁に手を置き、足を半歩だけ前へ出す。波が寄せては返し、靴底にぬめりが残る。呼吸を整えると、胸の空洞が潮の匂いで少しだけ満たされた。遠くで金具が鳴り、釣り人の気配が消える。風が一段強くなる。
その流れが、頬の産毛を逆立たせて通り過ぎた。
ただの風だ――そう思った。けれど一瞬だけ、その動きが「誰かに呼ばれた気配」に変わる。音はない。ただ、胸の奥がかすかに反応した。
顔を上げる。
五メートルほど先、埠頭の端の手前に、ひとりの女が立っていた。
青いカーディガン。
肩のあたりで光を拾う髪。
穏やかで、すこしだけ寂しげな微笑み。
――香織。
息が止まる。
これは視覚のいたずらだ、と頭では分かっている。目が拾いきれない欠けを、脳が記憶で埋めることがある。そう説明してきたのは、他ならぬ自分だ。
それでも、その姿はあまりに鮮やかだった。周囲の景色よりも、彼女の輪郭のほうがはっきりしている。世界が遠のき、香織だけが現実として残った。
亮は無意識に前へ出た。砂利がはぜ、膝が少し痛む。
けれど距離は縮まらない。五メートルは、見えない壁のように動かない。こちらが歩けば、向こうも同じだけ離れていく。立ち止まれば、向こうもまた止まる。
「……香織」
声に出したつもりはない。唇だけが動いた。彼女はなにも言わない。ただ、風の中であの微笑みだけが保たれている。
波が砕け、光がちらつく。
次の瞬間、香織の姿は薄い霞になって、波の上に溶けていった。
何も残らない。足跡も、気配も、音も。
亮はその場にしゃがみ込み、手のひらで縁の冷たさを確かめる。
――幻だ。
そう思うほうが現実的だ。けれど、幻であってもかまわない。幻でなければ、もう二度と会えないのだから。
日が落ちて、海の色がゆっくりと群青に変わる。対岸の島影に灯が点り、港の鳩が帰る。背中で町が暮れていく気配だけが静かに広がった。
亮は立ち上がり、海のほうへ小さく会釈をした。お別れの礼ではない。ここから一歩だけ離れるための、ぎこちない挨拶だ。
五メートル。
動かなかった距離が、胸の内側でゆっくりと形になる。
いつか縮むのか、決して縮まないのか、いまは分からない。ただ、今日の自分はここまでだ。
風がまた頬を撫でた。潮の匂いは、少しだけ甘くなる。
亮は縁から身を離れ、埠頭のコンクリートを確かめるようにゆっくりと歩き出した。振り返らない。振り返らなくても、今日ここにあったものの位置は、もう身体が覚えている。
波が呼吸するように満ち引きし、夜がその上に静かに降りていく。
青いカーディガンの色だけが、しばらく胸の内側に残っていた。
―― 五メートル、それが今日の生の長さだった。
柵はない。ざらついたコンクリートの縁が、そのまま海と空の境目になっている。瀬戸内の水面は静かで、薄い光をゆっくり返していた。潮の匂いは強すぎず、胸の奥に小さく塩を置いていく。
ここは、ふたりの場所だった。
結婚記念日のたびに夕日を見に来て、帰り道に少しだけ話す。それだけの行事が、長い年月をきちんとつないでくれた。
だが昨年の春で途切れた。香織がいなくなったからだ。末期の肺癌――元医師の自分が最もよく知っていたはずの病名と経過。分かっていても、心はいつも遅れてやって来た。
香織を見送って一年。
世界は少しずつ薄くなった。新聞の行を指で追っても見失い、夜の灯は輪郭をなくし、人の顔は少し離れると誰だか分からない。病名の候補はいくつも聞いたが、名を知っても慰めにはならない。見えにくくなっているのは目だけではない。生きる意味もまた、ぼやけていった。
今日は、終わらせるつもりで来た。
コンクリートの縁に手を置き、足を半歩だけ前へ出す。波が寄せては返し、靴底にぬめりが残る。呼吸を整えると、胸の空洞が潮の匂いで少しだけ満たされた。遠くで金具が鳴り、釣り人の気配が消える。風が一段強くなる。
その流れが、頬の産毛を逆立たせて通り過ぎた。
ただの風だ――そう思った。けれど一瞬だけ、その動きが「誰かに呼ばれた気配」に変わる。音はない。ただ、胸の奥がかすかに反応した。
顔を上げる。
五メートルほど先、埠頭の端の手前に、ひとりの女が立っていた。
青いカーディガン。
肩のあたりで光を拾う髪。
穏やかで、すこしだけ寂しげな微笑み。
――香織。
息が止まる。
これは視覚のいたずらだ、と頭では分かっている。目が拾いきれない欠けを、脳が記憶で埋めることがある。そう説明してきたのは、他ならぬ自分だ。
それでも、その姿はあまりに鮮やかだった。周囲の景色よりも、彼女の輪郭のほうがはっきりしている。世界が遠のき、香織だけが現実として残った。
亮は無意識に前へ出た。砂利がはぜ、膝が少し痛む。
けれど距離は縮まらない。五メートルは、見えない壁のように動かない。こちらが歩けば、向こうも同じだけ離れていく。立ち止まれば、向こうもまた止まる。
「……香織」
声に出したつもりはない。唇だけが動いた。彼女はなにも言わない。ただ、風の中であの微笑みだけが保たれている。
波が砕け、光がちらつく。
次の瞬間、香織の姿は薄い霞になって、波の上に溶けていった。
何も残らない。足跡も、気配も、音も。
亮はその場にしゃがみ込み、手のひらで縁の冷たさを確かめる。
――幻だ。
そう思うほうが現実的だ。けれど、幻であってもかまわない。幻でなければ、もう二度と会えないのだから。
日が落ちて、海の色がゆっくりと群青に変わる。対岸の島影に灯が点り、港の鳩が帰る。背中で町が暮れていく気配だけが静かに広がった。
亮は立ち上がり、海のほうへ小さく会釈をした。お別れの礼ではない。ここから一歩だけ離れるための、ぎこちない挨拶だ。
五メートル。
動かなかった距離が、胸の内側でゆっくりと形になる。
いつか縮むのか、決して縮まないのか、いまは分からない。ただ、今日の自分はここまでだ。
風がまた頬を撫でた。潮の匂いは、少しだけ甘くなる。
亮は縁から身を離れ、埠頭のコンクリートを確かめるようにゆっくりと歩き出した。振り返らない。振り返らなくても、今日ここにあったものの位置は、もう身体が覚えている。
波が呼吸するように満ち引きし、夜がその上に静かに降りていく。
青いカーディガンの色だけが、しばらく胸の内側に残っていた。
―― 五メートル、それが今日の生の長さだった。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる