海にほどける影
瀬戸内の小さな漁港。結婚記念日のたびに夕日を見た埠頭で、元医師の三嶋亮は亡き妻・香織の姿を“見て”しまう――いつも五メートル先に、音も匂いも持たない青いカーディガンの影。視力が急速に衰えるなか、欠けた視界が像を補って生む幻視(シャルル・ボネ症候群)と、喪失の痛みが静かに重なっていく。
仏間の線香、ガラスに映る反射、雨の日に増える幾何の模様。亮は「触れればほどける」像を正面から見張らず、半歩外した視線で見守る術を覚える。やがて山間の温泉宿「雪の花」を訪ね、女将・春野雅代から香織が残した小箱を受け取る。中には「次の春、またいっしょに」と添えられた譜面と手紙。そこに記された言葉――“澪(みお)”=帰るための浅瀬――が、亮の時間を少しずつ呼吸し直させる。
物語は、埠頭・仏間・宿の庭へと行き来しながら、五メートルの距離が四、三、二、一――と静かに縮む過程を描く。亮は場所に記憶を結ぶため、白い小石を埠頭に「持ち運ばずに置く」。世界の輪郭が薄れ、香織だけが相対的に鮮明になるほど、罪悪感は言葉へとほどけ、日々の所作は祈りになる。
『海にほどける影』は、視覚だけに残された微かな炎で「生き直す」物語。海と山、光と影のあいだで、見えるかどうかではなく“在るかどうか”で距離を測り直す。読後、胸に残るのは、誰にでもひそむ浅瀬=澪がたしかにあるという、静かな確信である。
仏間の線香、ガラスに映る反射、雨の日に増える幾何の模様。亮は「触れればほどける」像を正面から見張らず、半歩外した視線で見守る術を覚える。やがて山間の温泉宿「雪の花」を訪ね、女将・春野雅代から香織が残した小箱を受け取る。中には「次の春、またいっしょに」と添えられた譜面と手紙。そこに記された言葉――“澪(みお)”=帰るための浅瀬――が、亮の時間を少しずつ呼吸し直させる。
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