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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第10話 パティシエと恋と焦がしみかんのタルトと
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今日の調理場には淡い柑橘の香りが満ちていた。
結は、蜜柑の皮をすり下ろしながら眉を寄せる。
(……なんで私が、恋のスイーツなんて)
昼過ぎ、常連客の女性に頼まれたのだ。
「背中を押してくれるような甘さがほしくて」
と、頬を赤らめながら言われてしまった。
(恋の味なんて、分かんないよ……)
そう思いながら振り返ると、奏が無言でこちらを見ていた。
「ひっ……!?」
「集中してるのかと思って」
相変わらず読めない表情。
だけど、その目がどこか優しいと感じてしまう。
「……柑橘か」
「う、うん。ほら、甘酸っぱいのって青春っぽいから」
「へぇ」
短い返事。
だけど、続いた言葉が結の鼓動を乱した。
「甘いもんってさ。
作った人間の“心の温度”が一番強く出るんだよな。
お前の甘さは……綺麗な甘さだ」
「っ……!」
結は手元を狂わせ、蜜柑を床に落とした。
そのころ、フロントには妙な緊張があった。
京子と田町がドリンクを飲みながら、なぜか並んで座っている。
そこへ江藤が歩いてくる。
「なんか二人ともピリピリしてない?」
「別に」
「してないわ」
二人の返事が完全にハモった。
江藤は思わずため息をつく。
(……あの子、また男関係で巻き込まれてる?)
しかし、すぐに気づく。
この空気の原因は結のスイーツだ。
「恋のスイーツって、誰のために作ってんの?」
江藤の直球に、京子と田町の眉が跳ねる。
「まさか……奏さん?」
三人の言い合いは、支配人に「うるさーい!」と怒鳴られて終わった。
その夜。
結は、完成したタルトをそっと皿に置いた。
――焦がし蜜柑のキャラメルタルト。
キャラメルをほんの少し焦がし、
蜜柑の甘酸っぱい香りを閉じ込めた一品。
(恋なんて分からないけど……
この甘さとほろ苦さが、誰かを幸せにできますように)
彼女の祈りを乗せて、タルトは客の元へ運ばれた。
そして――数日後
「告白成功しました!! 彼、泣いちゃって……!」
常連客が涙目で抱きついてきた。
「え~おめでとう!!」
ホテル中が沸き立った。
後片付けをしていると、奏が隣に立った。
「……いいタルトだったな」
「ほんと?」
「ああ」
彼は少しだけ視線を逸らし、言葉を選ぶように続けた。
「……ああいう味、俺も誰かに作ってほしい」
「……えっ」
その“誰か”が誰なのか。
結は、答えを聞けないまま固まってしまった。
(……ずるいよ、奏さん)
ほんのり焦げた蜜柑の香りが、
まだ胸の奥で熱く揺れていた。
翌日のロビーには、どこか甘い匂いが残っていた。
昨日、結の「焦がし蜜柑のキャラメルタルト」が恋の告白を成功させたせいで、
ホテルの空気がどことなく浮かれているのだ。
フロントに立つ京子は、微妙にそわそわしていた。
タルトの評判はSNSで好評で、常連客からも話題にされる。
それが――少しだけ、胸に刺さる。
(……恋を後押しするスイーツ、かぁ)
そのとき、横から声がした。
「京子さん、なんか今日かわいいよ?」
「ぶっ!? な、なによ急に!」
江藤快。
女性の“心”を読む癖がある、ホテル自慢の元ホスト。
今日に限ってやけに距離が近い。
「やっぱ、昨日のタルトの影響?」
「な、なんでよ」
「焦がし蜜柑って、恋する子の匂いするじゃん?」
「し、知らないわよそんなの!」
京子はあわてて書類を整えるが、手が震えていた。
江藤がそれに気づかないわけがない。
「京子さん、昨日のタルト……誰に食わせたかった?」
「誰って……お客さんに決まってるでしょ」
「ほんと?」
江藤がぐっと覗き込む。
京子は心臓をバクバクさせた。
「この男は先日の告白からなんか調子に乗ってるような…」
そこへ、厨房から結が顔を出した。
「あ、京子さん……昨日のお礼を言いたくて!
タルト、みんな喜んでくれたみたいで……!」
「そ、そうね……よかったわね……!」
京子は笑顔を作る。
だが江藤は横目でジッと京子を観察している。
「結ちゃんさ」
「はい?」
「昨日のタルト、味で言うとどういう気持ち?」
「え? あれは……
“どストレートな想いを、ちょっと焦がして誤魔化してる味”です!」
「……ああ、それ京子さんぽいな」
「なんでよ!?!?」
京子は思わず声を上げた。
顔が真っ赤だ。
「いや、いい意味で。
素直になれないけどさ……甘いとこ、あるじゃん?」
京子は目をそらすしかなかった。
(もうやだ、この人のこういう言い方……
嫌いじゃないのがまた腹立つ)
その日の夜。
フロントの片付けをしていると、江藤が一人、カウンターにもたれていた。
「……京子さん。ひとつお願い、していい?」
「……なによ。変なお願いだったら殴るわよ」
「タルト。俺にも作ってよ」
「……え?」
「ほら、結ちゃんのやつすぐ売り切れたし。
俺も“恋の味”ってやつ、食べてみたいし」
「……っ……!」
京子の頬が熱くなる。
「私が、つくるの?」
「うん。京子さんの“甘さ”で食べたい」
江藤は軽い調子で言う。
けれど、その目だけが真剣だった。
京子は俯き、唇を噛んだ。
(この人は……
どこまで本気で、どこまで冗談なの?)
「……考えとくわ」
「じゃあ期待してる」
江藤は手を振って去っていく。
京子は胸を押さえた。
(焦がし蜜柑みたいに……
甘い気持ち、ちょっと焦がしすぎてるかもしれない……)
まだ熱い余韻が、ロビーの空気に残っていた。
第11話 「椅子壊しの巨人とチェスと鶏のクネルと」につづく
結は、蜜柑の皮をすり下ろしながら眉を寄せる。
(……なんで私が、恋のスイーツなんて)
昼過ぎ、常連客の女性に頼まれたのだ。
「背中を押してくれるような甘さがほしくて」
と、頬を赤らめながら言われてしまった。
(恋の味なんて、分かんないよ……)
そう思いながら振り返ると、奏が無言でこちらを見ていた。
「ひっ……!?」
「集中してるのかと思って」
相変わらず読めない表情。
だけど、その目がどこか優しいと感じてしまう。
「……柑橘か」
「う、うん。ほら、甘酸っぱいのって青春っぽいから」
「へぇ」
短い返事。
だけど、続いた言葉が結の鼓動を乱した。
「甘いもんってさ。
作った人間の“心の温度”が一番強く出るんだよな。
お前の甘さは……綺麗な甘さだ」
「っ……!」
結は手元を狂わせ、蜜柑を床に落とした。
そのころ、フロントには妙な緊張があった。
京子と田町がドリンクを飲みながら、なぜか並んで座っている。
そこへ江藤が歩いてくる。
「なんか二人ともピリピリしてない?」
「別に」
「してないわ」
二人の返事が完全にハモった。
江藤は思わずため息をつく。
(……あの子、また男関係で巻き込まれてる?)
しかし、すぐに気づく。
この空気の原因は結のスイーツだ。
「恋のスイーツって、誰のために作ってんの?」
江藤の直球に、京子と田町の眉が跳ねる。
「まさか……奏さん?」
三人の言い合いは、支配人に「うるさーい!」と怒鳴られて終わった。
その夜。
結は、完成したタルトをそっと皿に置いた。
――焦がし蜜柑のキャラメルタルト。
キャラメルをほんの少し焦がし、
蜜柑の甘酸っぱい香りを閉じ込めた一品。
(恋なんて分からないけど……
この甘さとほろ苦さが、誰かを幸せにできますように)
彼女の祈りを乗せて、タルトは客の元へ運ばれた。
そして――数日後
「告白成功しました!! 彼、泣いちゃって……!」
常連客が涙目で抱きついてきた。
「え~おめでとう!!」
ホテル中が沸き立った。
後片付けをしていると、奏が隣に立った。
「……いいタルトだったな」
「ほんと?」
「ああ」
彼は少しだけ視線を逸らし、言葉を選ぶように続けた。
「……ああいう味、俺も誰かに作ってほしい」
「……えっ」
その“誰か”が誰なのか。
結は、答えを聞けないまま固まってしまった。
(……ずるいよ、奏さん)
ほんのり焦げた蜜柑の香りが、
まだ胸の奥で熱く揺れていた。
翌日のロビーには、どこか甘い匂いが残っていた。
昨日、結の「焦がし蜜柑のキャラメルタルト」が恋の告白を成功させたせいで、
ホテルの空気がどことなく浮かれているのだ。
フロントに立つ京子は、微妙にそわそわしていた。
タルトの評判はSNSで好評で、常連客からも話題にされる。
それが――少しだけ、胸に刺さる。
(……恋を後押しするスイーツ、かぁ)
そのとき、横から声がした。
「京子さん、なんか今日かわいいよ?」
「ぶっ!? な、なによ急に!」
江藤快。
女性の“心”を読む癖がある、ホテル自慢の元ホスト。
今日に限ってやけに距離が近い。
「やっぱ、昨日のタルトの影響?」
「な、なんでよ」
「焦がし蜜柑って、恋する子の匂いするじゃん?」
「し、知らないわよそんなの!」
京子はあわてて書類を整えるが、手が震えていた。
江藤がそれに気づかないわけがない。
「京子さん、昨日のタルト……誰に食わせたかった?」
「誰って……お客さんに決まってるでしょ」
「ほんと?」
江藤がぐっと覗き込む。
京子は心臓をバクバクさせた。
「この男は先日の告白からなんか調子に乗ってるような…」
そこへ、厨房から結が顔を出した。
「あ、京子さん……昨日のお礼を言いたくて!
タルト、みんな喜んでくれたみたいで……!」
「そ、そうね……よかったわね……!」
京子は笑顔を作る。
だが江藤は横目でジッと京子を観察している。
「結ちゃんさ」
「はい?」
「昨日のタルト、味で言うとどういう気持ち?」
「え? あれは……
“どストレートな想いを、ちょっと焦がして誤魔化してる味”です!」
「……ああ、それ京子さんぽいな」
「なんでよ!?!?」
京子は思わず声を上げた。
顔が真っ赤だ。
「いや、いい意味で。
素直になれないけどさ……甘いとこ、あるじゃん?」
京子は目をそらすしかなかった。
(もうやだ、この人のこういう言い方……
嫌いじゃないのがまた腹立つ)
その日の夜。
フロントの片付けをしていると、江藤が一人、カウンターにもたれていた。
「……京子さん。ひとつお願い、していい?」
「……なによ。変なお願いだったら殴るわよ」
「タルト。俺にも作ってよ」
「……え?」
「ほら、結ちゃんのやつすぐ売り切れたし。
俺も“恋の味”ってやつ、食べてみたいし」
「……っ……!」
京子の頬が熱くなる。
「私が、つくるの?」
「うん。京子さんの“甘さ”で食べたい」
江藤は軽い調子で言う。
けれど、その目だけが真剣だった。
京子は俯き、唇を噛んだ。
(この人は……
どこまで本気で、どこまで冗談なの?)
「……考えとくわ」
「じゃあ期待してる」
江藤は手を振って去っていく。
京子は胸を押さえた。
(焦がし蜜柑みたいに……
甘い気持ち、ちょっと焦がしすぎてるかもしれない……)
まだ熱い余韻が、ロビーの空気に残っていた。
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